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その日から、「うるさい」は「音楽」に変わった。
幼い頃、彼女が獣人の父と、人間の母と共に訪れたどこかの人間の街。
閑静な田舎、獣人の村で育った彼女にとって、人間の街は、見るものすべてが新鮮で、珍しくて――そして、「うるさ」かった。
食器がぶつかる音、ひそひそ話、馬車の音、歌声。
その全てが重なり合って、耳の中で混ざり合う。
宿の一室で、頭からブランケットを被っても、耳を塞いでも、どうしても聞こえてしまう。
父も母も、「すぐに慣れる」と言っていたが、彼女はすっかり人間の、そんな「音」に怯えてしまっていた。
抱きしめてくれた父と母の心音だけを聞くようにして、ようやく眠れるほどに。
そんな彼女が、ある朝、両親の温もりの中で目が覚めると、その耳が再び音を拾う。
またか――
と耳を塞ぎかけたその時、耳の奥を撫でたのは、透き通るような、穏やかで、それでいてどこか力強い「音」。
まるで幹の中を通り抜ける水の音のようなそれは、一つだけでなく、もう一つ、また一つ重なっていく。
彼女はいつのまにか手をおろしていた。
目を閉じると、音が、水が、溢れてくる。
――あふれ出る水、それがどこか暗い所を通っていくような低い音、それを導くように少し高い音が重なって、二つの音が響き合う。
静かに、もう一つの高い音が、その響きを空へと誘う。
三つの音が天空へと舞い上がるように昇っていくと、浮遊感さえ感じた。
それは青々とした空にいきわたると、その先から雫となって落ちていく――
「今のは……」
気づいたときにはその音は止んでいて、小鳥の囀りと共に、早朝の静かな人間たちの音が満ち始めていた。
耳に残るその「音」が、人間たちの音の中に染み込んで、しかし確かな一本の糸を張っている。
うるさかった音が、静かにその糸に寄り添って行く。
――いつの間にか。
人間の音は、彼女にとって「うるさい」ものではなくなっていた。
彼女はそれ以来ずっと、その「音」を探し続けている。
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彼女が触れると、それはにわかに生まれた。
空間を一瞬切り裂いたかと思うと、その裂け目から、波紋のように滲んでいく。
壁に並んだ工具や、スプルースの削り屑がそれを吸い込んで震え、その余韻をどこまでも運んでいった。
弦の音。
彼女には、その一音が、これまでとまるで違うように思えた。
エフ孔の中で、幾重にも重なりあって飛び出すと、空間に一本の細い線を通して、透き通る。
その力強さに一瞬頷くも、確信はない。
でも、これだ、と思えた。
透き通る音が消えていく余韻の中で、彼女の胸中だけは激しく息づいている。
完全に音が消えても、高らかになり続ける心音を聞きながら、彼女はただ目の前の弦を凝視していた。
「おめでとう」
その声に振り向けば、長い黒髪をかき上げながら、一人の女性が柔らかく微笑んでいた。
「え……?」
「エミエル、よくできました」
柔らかい笑みが急に不敵になると、女性はおもむろに棚から一本の瓶を取り出す。
「今日は宴会だ!」
「へっ? あ、あの、メリル先生、昨日も……」
「昨日のはただの晩酌だ、今日は、お前の合格祝いだからな!」
そう言って、黒髪の女性ーーメリルは、エミエルに茶目っ気ぽく片目を瞬かせて見せた。
「あ……」
合格。
その言葉が彼女の心音を、先ほどまでとは別の理由で、さらに高鳴らせた。
「えっ、合格……ですか?」
「そうだ、半獣人としては……いや、人間以外の種族では初めてかもしれんぞ?」
琥珀色がグラスを埋めた向こうで、メリルが目を細める。
その前で、エミエルの獣のような形をした耳が小刻みに震えていた。
「あ……ありがとうございます!」
エミエルが大きくお辞儀をすると、その瞳ににじみ出たものが一滴、床に落ちた。
そんな彼女の様子を満足気に見つめながら、メリルはグラスの琥珀色を優雅に口に運ぶ。
「ふふ、エミエルも飲む?」
「ふぇっ!? あの、あたし、まだ未成年……」
困惑する彼女に、メリルが不敵な笑みのまま近づいてくる。
「いいじゃないか、合格祝いだぞ? 気にしない気にしない」
ふっと酒の香りがエミエルを包んで、思わず顔をしかめる。
果実の甘さと酸味が鼻腔を直撃して、メリルの吐息だけでめまいを起こしそうになった。
ここへ来てもう一年が経つが、エミエルは未だに慣れる気がしない。
「あっ、えっと、あたし、報告に行ってきます!」
近づいてくるメリルから逃げるように後ずさる。もう一度深々とお辞儀をすると、逃げるように工房から駆け出した。
「あっ、エミエル? ……やれやれ、まあ、仕方ないか」
そういうメリルは、それでも柔らかい笑みを浮かべて、グラスを傾けた。
工房を出ると、彼女は大きく深呼吸をする。息を出し尽くしたところで、顔を上げて一歩を踏み出した。まるで大輪の花が咲いたような笑顔をこぼしたまま、彼女は歩き出す。
「……った……やったぁ!」
思わず口をついて出た言葉と同時に、彼女は飛び上がらんばかりの勢いで、いつの間にか走り出していた。肩より少し長い栗毛が風になびいて、ちらついていた雪が耳の柔毛に当たると、一瞬冷たさを感じる。でも、そんなのお構いなしだ。
合格。
その言葉が何度も胸を往来する。
そして、さっきの音――
何度も魂柱の位置を調整し、ようやくたどり着いたそれは、彼女がかつて聞いたあの『音』にどこか似ているようで、近づいているようで、それが何よりも嬉しくて。
そして、これから楽器職人メリルの弟子として、工房『プレセア』の正式な弟子として、あの音に近づいて行けるような、そんな気がしていた。
工房の静寂を背にした時、彼女の目に映るのは木々、それと調和するように並ぶ街並み。
石畳の|路≪みち≫は、そこかしこにある木々の根をいたわるように、緩やかな曲線を描いて続いている。石造りの重厚な建物の壁を、時折風に揺れた枝葉が優しくなでていた。
小さな橋を渡って、木立を抜けて、彼女の姿を見つけて手を振るパン屋のお姉さんに手を振り返す。
角を曲がるたびに、石壁が反射した音の断片が彼女の耳を打つと、それは一曲のワルツのように聞こえてきて、やがて彼女の石畳を打つ軽やかな靴の音は、弾むようなステップに変わっていき、リズムを刻んでいく。
市場の声や、船の音、木々の声を、遠くに見える大聖堂やコンサートホール、宮殿がリレーするみたいに響き合う。
まるで、街が一つのオーケストラを奏でるよう。
大聖堂の鐘の音が、彼女の合格を祝福するように鳴り響いた――




