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貴族院での審問から数日。帝都監査局の役人・フェリクスが不正調査のために拘束されたという報せは、波紋のように貴族界の表面を揺らした。
しかし、巨大な巨木に刻まれた傷がすぐに全体を枯らすわけではないのと同じように、セヴェリーニ伯爵家の権威がそれだけで揺らぐことはなかった。むしろ、私の頭上を覆う影は、より濃厚で、より殺気立ったものへと変貌を遂げていた。
「ルチア様……このようなものが届きました。セヴェリーニ伯爵家からの、直々の招待状です」
老執事のバルトロが、まるで毒虫でも扱うかのような手つきで、銀のトレーに乗せられた羊皮紙を運んできた。
豪奢な金箔で縁取られ、セヴェリーニ伯爵家の家紋である「蛇と百合」の赤い蝋封が押されたそれは、来週催される「秋の観月夜会」への招待状だった。
帝都郊外の豪奢な別邸で開かれるその夜会は、社交界の権力者たちが一堂に会する一大行事だ。
両親が健在だった頃ですら、末席の招待状が届くかどうかという代物だった。それが、両親を失い、貴族院で伯爵家の手先を失脚させたばかりの私のもとに届く。
「……罠ね」
私は招待状の文面を見つめた。
そこには『先の監査における誤解を解き、亡きヴァルディ男爵夫婦の功績を称え、若き新当主の門出を祝うために』などと、白々しい言葉が並んでいた。
「お断りになりませ、ルチア様! 行けばどのような侮辱や嫌がらせを受けるか分かりません。最悪の場合、事故に見せかけて……」
バルトロが喉を鳴らし、震える声で哀願する。
「断れば、奴らはこう噂を流すわ。『ヴァルディ男爵は後ろ暗いところがあるから、社交界の公の場に出て来られないのだ』とね。それに……」
私は招待状をそっと閉じ、机の上に置いた。
「逃げ続ければ、私の正当性はただの『言い訳』に貶められる。彼らが公の場に私を引っ張り出そうというのなら、堂々と乗り込んで、彼らの面皮を剥ぎ取ってやるわ」
「ですが、衣装や馬車はどうなさるのです? 今の我が家には、あの豪華絢爛な夜会に立ち混じるほどの仕立てのドレスを新調する余裕など……」
「それなら、心配いらないわ」
私は立ち上がり、亡き母のクローゼットを開けた。
そこには、母が若い頃に着ていた、上質な絹で織られた深いエメラルドグリーンのドレスが眠っていた。流行の型からは外れているが、生地の持つ気品と縫製の確かさは、今でも色褪せていない。
「お母様のドレスをリメイクするのよ。流行の飾り立てたドレスではなく、ヴァルディ家の誇りを纏うの」
私は針と糸を手に取り、夜を徹してドレスの仕立て直しに取りかかった。
無駄なレースを削ぎ落とし、自分の身体のラインにぴったりと合うように仕立て直す。派手な宝石などなくても、胸元にひとつだけ、父が母に贈った小ぶりのエメラルドのブローチを留めれば十分だった。
自分を偽らない。誇りを捨てない。
それが、泥の中に立ち続ける私の、唯一の武器だった。
─
観月夜会の当日の夜。
セヴェリーニ伯爵家の別邸は、眩いばかりの魔導具の光に照らし出され、まるで地上に降りた星々の都のようだった。
会場に一歩足を踏み入れた瞬間、幾重にも重なる弦楽四重奏の調べと、紳士淑女たちの高笑いが耳を打った。
そして、私の姿が入口で告げられた瞬間――。
「ヴァルディ男爵閣下、ご入場」
周囲の喧噪が、潮が引き去るかのように一瞬で静まり返った。
何百という視線が一斉に私に注がれる。蔑み、好奇、冷笑、そして「哀れな獲物を見つめる猛獣」の目。
私は背筋をピンと伸ばし、顎を少しだけ上げて会場の絨毯を踏みしめた。
母のドレスは流行遅れかもしれないが、私の姿は誰よりも気高く、隙がなかった。周囲の貴族たちがヒソヒソと扇の影で囁き合う。
「まあ、よくもノコノコと……」
「監査局のフェリクス殿を失脚させた、恐ろしい小娘よ」
「ご覧なさいな、あの古いドレス。ヴァルディ家も、いよいよ破産寸前ということですわね」
嘲笑の嵐。けれど、私の心は驚くほど静かだった。
すでに貴族院で一度、彼らと刃を交えたのだ。今更、口先の侮辱などに怯むものか。
グラスを手に取ろうと配膳のテーブルへ向かった時、人込みを割って一人の青年が歩み寄ってきた。
セヴェリーニ伯爵家の嫡男、ジュリアン・セヴェリーニ子爵。
金髪を華麗にセットし、贅を尽くした紫のタキシードを纏った彼は、一見すれば甘い容姿の貴公子だったが、その瞳にはヘビのような粘着質な執念が宿っていた。
「やあ、ルチア殿。……失礼、ヴァルディ男爵とお呼びすべきだったかな。よくぞ我が家の招きに応じてくれた」
ジュリアンは下品な笑みを浮かべ、手に持ったワイングラスを私に差し出してきた。
「我が父も、先のフェリクス男爵の件については痛心しておられてね。我が家の名を騙って下級貴族を脅かしていたとは、蜥蜴の尾切りとはいえ、誠に申し訳ないことをした。和解の印に、この最高のヴィンテージワインを乾杯として受けてくれないか?」
会場中の貴族たちが、息を呑んで私たちのやり取りを見つめている。
彼らが私を試しているのは明白だった。このワインを受け取れば、セヴェリーニ家に従属したとみなされる。拒絶すれば、無礼を理由にその場で咎め立てられる。
(露骨で、嫌な手口……)
私は冷ややかな笑みを浮かべ、ジュリアンの差し出したグラスに手を伸ばした。
だが、そのグラスを指先で受け取ろうとした瞬間――。
サッと、私の脇を通り抜けた一人の給仕見習いが、わずかにバランスを崩してジュリアンの肘に接触した。
「あっ――! 失礼いたしました!」
ガチャン!
澄んだ音を立ててグラスが床に落ち、高級な赤ワインがジュリアンの上等なシルクの靴とズボンの裾を真っ赤に染め上げた。
「な、なんだ貴様はっ! 目がついているのか!?」
ジュリアンが悲鳴のような怒声を上げる。
「申し訳ございません! 申し訳ございません!」
平身低頭で謝罪するのは、黒い給仕服を着た青年だった。
短い黒髪に、どこかで見たことのある背格好。彼がさっと顔を上げた瞬間、私は息を呑んだ。
(アルベルト……!?)
髪色こそ魔導具か何かで黒く変えていたが、その澄んだ琥パープルがかった琥珀色の瞳は、間違いなくアルベルトのものだった。なぜ彼が、セヴェリーニ家の夜会に給仕として紛れ込んでいるのか。
アルベルトは手早く布を取り出すと、ジュリアンの足元を拭くフリをしながら、巧みな手つきで床に散らばったワインの破片を拾い集めた。
そして、ジュリアンには見えない角度で、私に向かって小さく目配せをした。
彼の視線の先――ジュリアンの服を濡らした赤ワインの液体が、床の絨毯の金属飾りに触れた瞬間、わずかに紫色の泡を吹いて変色していた。
(腐蝕毒……あるいは、強い神経毒……!?)
背筋に冷たい汗が吹き出した。
もし、あのワインを口にしていたら。あるいは指先に触れていたら。私はこの場で激しい体調不良を起こし、あるいは命を落とし、「酒に狂って倒れた愚かな女貴爵」として処分されていたかもしれないのだ。
「ええい、無礼者め! 叩き出せ!」
ジュリアンが怒り狂って叫ぶ。
「お待ちください、ジュリアン様」
私はすかさず割り込み、落ち着いた声を張った。
「給仕の不手際は災難でしたが、私のために注いでいただいた貴重なワインが失われたのは残念ですわ。……ですが、ジュリアン様。お召し物が大変なことになっておられます。まずは控え室でお着替えになられた方がよろしいのでは? このようなお姿で宴の主催者を務められるのは、セヴェリーニ伯爵家の矜持にかかわりますわ」
私の言葉に、周囲の貴族たちから「確かに」「あの汚れではみっともない」とヒソヒソ声が漏れ始めた。
和解の乾杯で私を毒殺(あるいは失神)させ、見せしめにするはずだったジュリアンは、自分が惨めな道化として退場せざるを得ない状況に追い込まれたのだ。
「くっ……! ヴァルディ男爵、貴様……!」
ジュリアンは顔を真っ赤にし、血管を浮かべて私を睨みつけたが、周囲の目を気にしてそれ以上の暴言を吐くこともできず、足早に会場を去っていった。
嵐が去った後。
アルベルトは他の給仕に混ざって手早く床を清掃すると、何事もなかったかのように私に一礼し、影へと消えていった。
私の胸の中で、激しい鼓動が打っていた。
彼の機転がなければ、私は今頃どうなっていたか分からない。
セヴェリーニ伯爵家は、もう「法的な嫌がらせ」や「圧力」の段階を終え、直接的な害意を持って私を殺しにきている。
この宴に、これ以上留まる意味はなかった。
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夜会を早々に辞退した私は、バルトロが待つ小さな手配馬車に乗り込み、帝都への帰り道を急いだ。
月明かりだけが頼りの、静かな郊外の森の道。
馬車の車輪が落ち葉を踏みしめる音が響く中、私は座席に深く身体を沈め、窓の外の闇を見つめていた。
「お疲れ様でございました、ルチア様。無事にお戻りになられて、本当に良かった……」
御者台のバルトロが、御者小窓から安堵の声をかけてくる。
「ええ。でも、彼らは本格的に私を消す気よ。バルトロ、明日から屋敷の警備を強化しなきゃ……」
言いかけた、その時だった。
ヒュン! という嫌な風切り音が響き、直後、馬車がガタリと大きく傾いた。
「うわあああっ!?」
バルトロの悲鳴と、馬の激しいいななき。
「バルトロ!?」
私は倒れそうになる体を必死で支えながら、窓から外を覗き込んだ。
馬車の前輪に、太い鉄製のフックが付いたロープが絡みついていた。街道の脇の木々から、黒い覆面を被った男たちが五人、ぬっと姿を現した。
手には、鈍く光る抜き身の長剣と、クロスボウ。
「降りてきてもらおうか、ヴァルディ男爵令嬢。……いや、死人には降りる手間もいらんか!」
刺客だ。
夜会での毒殺の手はずが狂ったため、予備として配置されていた刺客たちが、この暗い森の道で私を襲撃してきたのだ。
「ひ、ひいっ! た、助けてくれ!」
バルトロが刺客の一人に胸ぐらを掴まれ、地面に投げ飛ばされる。
「バルトロに手を出すな!」
私はドレスの裾を破り捨て、馬車から飛び降りた。父から教わった護身用の小さな短剣を構える。だが、訓練を受けた刺客相手に、私のような素人の短剣が通用しないことくらい分かっていた。




