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アルベルトはゆっくりと立ち上がると、琥珀色の瞳を鋭く光らせ、フェリクスを睨み据えた。
その一瞬見せた圧迫感は、およそ一介の騎士見習いのものとは思えないほど重く、恐ろしいものだった。フェリクスと思わず一歩後退りするほどに。
「フェリクス閣下。監査局の規定によれば、検分物に不審な点(すり替えの痕跡など)が発見された場合、被疑者は『24時間の再調査猶予』を申請する権利があります。……違いますか?」
「くっ……! なぜ警備の見習いが、そんな細かい法律を知っている!」
「見習いだからこそ、夜な夜ナ分厚い法典を暗記させられているのですよ」
アルベルトはフッと鼻で笑うと、私の隣に並んだ。
「ルチア様。この24時間で、あの赤粘土と、すり替えを行った運送業者の『本物の受領書』を見つけ出すのです。あなたなら、できますね?」
私はアルベルトの瞳を見た。
そこには、私に対する絶対の信頼と、闇を切り裂くような鋭い知性が宿っていた。
彼がなぜこれほどの知識を持ち、なぜ私を助けてくれるのかは分からない。けれど、今はこの差し伸べられた手を掴むしかないのだ。
「……ええ。できますわ」
私は前を向き、背筋をピンと伸ばしてフェリクスに告げた。
「フェリクス閣下。帝国監査法第百十二条に基づき、私は『24時間の再調査猶予』を申請します。明日午後三時、貴族院の小委員会室にて、本件の再検証を行っていただきましょう。その場で、私が『本物の真実』をお見せいたします」
「ぐっ……! 小娘が、往生際の悪い……!」
フェリクスは顔を歪ませ、忌々しそうに吐き捨てた。
「いいだろう! たった一日で何ができるというのだ! 明日午後三時、貴族院で恥をさらし、監獄へぶち込まれるがいい!」
フェリクスと兵士たちは、吐き捨てるように言い残し、嵐のように倉庫から去っていった。
静まり返った倉庫の中に、腐敗臭と、私たちの呼吸音だけが残された。
「アルベルト……あなた、一体何者なの?」
兵士たちの足音が完全に消えた後、私は耐えきれずに問いかけた。
「ただの騎士見習いが、なぜ監査局の法典に精通し、セヴェリーニ家の私設港の土の質まで知っているの?」
アルベルトは、困ったように頭をかいた。
「ああ……いやですね、ルチア様。騎士見習いというのは、帝都のあらゆる不審人物や裏ルートの警戒も仕事のうちなんですよ。私設港の件も、以前先輩に連れられて夜間巡回に行った時に、偶然見かけただけでして」
「偶然……? 嘘ね」
私は彼の琥珀色の目をじっと見つめた。
「あなたは、最初から私を助けるためにここへ来たんじゃないの?」
アルベルトは一瞬、言葉を詰まらせたが、すぐに柔らかい笑みを浮かべて私の問いをかわした。
「まあ、正体はどうでもいいではありませんか。それよりも、ルチア様。残り時間は23時間と少しです。明日、貴族院で奴らの鼻を明かしてやるための証拠を集めなければ、あなたが囚人になってしまいますよ?」
「……そうね。追及は後回しにするわ」
私は気持ちを切り替え、バルトロを立ち上がらせた。
それからの24時間は、まさに時間との戦いだった。
私とバルトロ、そして陰ながら手伝ってくれたアルベルトの三人は、夜を徹して帝都の裏側を駆け回った。
アルベルトが提示した「赤粘土」の情報を元に、セヴェリーニ伯爵家が利用している密輸専門の運送業者『黒鴉運送』の集荷場を特定。
そこで、アルベルトが(どのような手を使ったのかは決して教えてくれなかったが)見事に『黒鴉運送の裏出荷台帳』の写しを入手してくれたのだ。
そこには、恐ろしい事実が記されていた。
三日前、我が家の第八倉庫に搬入されたとされる備蓄肉は、最初から「南部密輸港で廃棄予定だった腐敗肉」であり、本物の備蓄肉はそのままセヴェリーニ家の私設倉庫へ運ばれていたという、露骨な「すり替え」の記録だった。
「これで……勝てるわ!」
翌日、午後二時五十分。
貴族院の小委員会室の重厚な扉の前に、私は立っていた。
不眠不休の調査により、私の目の下には隈ができ、体力的には限界に近かった。けれど、胸の中に燃え盛る炎は、昨日よりも遥かに強く、熱かった。
「ルチア様」
廊下の影に立っていたアルベルトが、静かに声をかけてきた。
今回は騎士見習いの制服ではなく、警備担当として儀礼用の剣を腰に差している。
「準備は整いましたか?」
「ええ、アルベルト。あなたの助けがなければ、ここまで辿り着けなかったわ。感謝するわ」
「礼には及びません。……さあ、行ってらっしゃいませ、我が男爵閣下。横暴な豚どもに、白百合のトゲを突き立てておやりなさい」
彼が不敵に微笑むのを見て、私はフッと緊張が解けるのを感じた。
私は頷き、貴族院の扉を押し開けた。
室内には、裁判官役を務める中立派の貴族数名と、セヴェリーニ伯爵の息がかかった貴族たち、そして自信満々の表情を浮かべたフェリクス男爵が座っていた。
傍聴席の奥には、セヴェリーニ伯爵家の嫡男であるジュリアン・セヴェリーニ子爵の姿もあった。彼は高みの見物を決め込むように、私を嘲笑うような視線で見下ろしている。
「これより、ヴァルディ男爵による帝国備蓄物資の背任・不法横領の嫌疑に関する審問を開始する!」
裁判長を務める老子爵が槌を叩いた。
「フェリクス男爵より提出された証拠によれば、第八倉庫にて大規模な備蓄肉の腐敗と横領の痕跡が発見されたとのこと。ヴァルディ男爵、弁明はあるか?」
「はい、裁判長閣下。弁明ではなく、完全なる事実の証明をさせていただきます」
私は堂々と前へ進み出ると、羊皮紙の束を裁判官たちの前に叩きつけた。
「フェリクス男爵が主張する腐敗肉は、我がヴァルディ家が管理を引き継ぐ前に、セヴェリーニ伯爵家配下の『黒鴉運送』によって意図的にすり替えられたものです! ここに、黒鴉運送の真実の出荷証明書と、現場の木箱から検出された南部私設港特有の『赤粘土』の鑑定結果を提出いたします!」
「な……なにぃ!?」
フェリクスがガタリと立ち上がり、顔を極限まで引きつらせた。
「ば、バカな! そのような証拠、どこで手に入れた!? 捏造だ! 捏造に決まっている!」
「捏造かどうかは、そこに記載されている運送責任者の署名と、帝都商業ギルドに保管されている印章を照合すれば一目瞭然ですわ、フェリクス閣下!」
私は一歩、フェリクスに向かって踏み出した。声を張り上げ、室内に響き渡らせる。
「さらに! 監査局の検分記録に記された不自然な『全財産譲渡による免責条項』! これは監査ではなく、我がヴァルディ家の財産と名誉を不当に強奪するための『脅迫』であります! 帝国の法を司る貴族院において、このような不法行為が許されて良いはずがありません!」
「ぐっ……! ぬううううっ……!」
フェリクスは言葉を失い、冷や汗を滝のように流しながらガタガタと震え出した。
傍聴席のジュリアン子爵の顔から笑みが消え、激しい屈辱と殺意に満ちた目で私を睨みつけている。
裁判官たちは提出された書類をくまなく改め、互いに顔を見合わせると、重々しく頷き合った。
「……証拠は極めて明白である。ヴァルディ男爵に対する横領の嫌疑は無効、不成立とする。また、フェリクス男爵の過剰かつ不適切な監査手続については、後日、監察委員会において追及を行うものとする!」
「カン!」と槌の音が響き渡った。
私の、最初の「勝利」だった。
審問が終わり、貴族院の建物から出てきた時、帝都の街は綺麗な夕焼けに染まっていた。
「くっそおおお! 覚えていろよ、ヴァルディの小娘がぁぁぁ!」
遠くで、フェリクスが監査局の役人たちに連行されていく情けない悲鳴が聞こえた。セヴェリーニ伯爵家にとっても、子分である監査官の一人を失い、計画を潰されたのは大きな痛手となったはずだ。
「やりましたね、ルチア様」
貴族院の石段の下で待っていたアルベルトが、夕日を背にして微笑んでいた。その姿は、まるで絵画のように美しく、神々しくすら見えた。
「ええ……。でも、これで彼らが諦めるわけがないわ。今度はもっと恐ろしい、直接的な手段で私を潰しに来るはずよ」
私は安堵と同時に、さらに重くのしかかる未来の恐怖を感じていた。
一度牙を剥いた以上、セヴェリーニ伯爵家との戦いは、どちらかが完全に滅びるまで終わらない。
「大丈夫ですよ」
アルベルトは私に歩み寄り、私の少し荒れた手にそっと自分の手を重ねた。
彼の温かい体温が、手袋越しに伝わってくる。
「彼らがどのような泥を投げつけてこようとも、私はあなたの側にいます。決して、あなたを一人にはさせない」
「アルベルト……」
なぜ、この青年はここまで私に優しくしてくれるのだろう。
単なる「正義感」や「気まぐれ」で、セヴェリーニ伯爵家という巨大な権力を相手に命を懸ける人間などいるはずがない。
彼の優しさの裏にある、本当の理由。そして、彼が隠している本当の顔。
(あなたは……一体、何者なの?)
私の胸の中で、彼に対する感謝と、ほのかな愛おしさ、そして深まる疑問が渦巻いていた。
「さあ、帰りましょう。バルトロ殿とミュリエル殿が、首を長くして待っておられますよ。今夜は、美味しくない温かいスープでも飲んで、ゆっくり休んでください」
「ふふ、『美味しくない』は余計よ。料理長のトニに怒られるわ」
私は久しぶりに、心の底から笑うことができた。
漆黒の闇が迫る帝都の中で。
私たちは手を取り合い、一歩ずつ、茨の道を進み始めていた。
その先に待ち受けるのが、さらなる苛烈な試練と、やがて明かされる衝撃の真実であることを、当時の私はまだ知る由もなかったのである。




