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私――ルチア・ヴァルディが、セヴェリーニ伯爵家の家令であるエンリコを面と向かって追い返してから、二週間が経過していた。
その二週間の間に我がヴァルディ男爵家を襲ったのは、文字通り「兵糧責め」と呼ぶにふさわしい、徹底的かつ陰湿な圧力だった。
「お嬢様……いえ、ルチア様。本日、帝都中央市場の穀物商・オルシーニ店からも、今後の取引停止の申し入れが届きました。セヴェリーニ伯爵家の息がかかった商業ギルドから、我が家に品物を売れば相応の『対価』を払わせると脅されているようです」
朝の陽光が薄く差し込む書斎で、老執事のバルトロが、力なく数通の書状を机の上に並べた。彼の顔色は日に日に蒼白くなり、目の下には濃い隈が刻まれている。
「……そうですか。パン屋も、薪商も、今度は穀物商まで」
私は羽ペンを置き、両手で顔を覆いそうになるのを必死で耐えた。
私たちが帝都で生きていくための最低限の物資すら、通常の三倍、四倍という足もとを見た暴利を要求されるか、あるいは露骨に拒絶される。
それだけではない。我が家に代々仕えていた数人の下男や下女たちのもとにも、正体不明の男たちが現れ、不気味な金貨袋をちらつかせながら『ヴァルディ家を辞めれば倍の給料で引き取る。残れば……どのような不幸に見舞われるか保証しない』と脅迫まがいの引き抜き工作を行ったという。
結果として、我が家に残ったのは、先代から絶対の忠誠を誓うバルトロと、幼少期から私を姉のように慕ってくれているメイドのミュリエル、そして高齢の料理長・トニの三人だけになってしまった。
「ルチア様。もう邸宅の維持すら困難です。いっそ、帝都の屋敷を売り払い、極小の領地であるあの田舎村へお下がりになられては……。あそこならば、伯爵家の手もすぐには伸びますまい」
バルトロの提案は、彼なりに私の身を案じての苦肉の策なのだろう。
しかし、私は静かに首を横に振った。
「ダメよ、バルトロ。私たちが帝都を去れば、それこそあちらの思うツボわ。ヴァルディ家が管理してきた『第八倉庫』の権限は完全に奪われ、父が命懸けで守ろうとした帝国の資産は、セヴェリーニ伯爵家の私腹を肥やすための完璧な『打ち出の小槌』と化してしまう。……それに」
私は、父の遺品である真実の台帳にそっと手を置いた。
「引き下がれば、お父様とお母様の死は、ただの『不運な事故』として闇に葬られる。私は決して逃げない。泥の中に這いつくばってでも、この帝都で彼らの不正を見張り続けるわ」
「ルチア様……」
「大丈夫よ。買い出しなら、私が変装して平民街の露店へ行けばいいわ。いくら伯爵家でも、帝都すべての裏路地まで目を光らせることは不可能なのだから。……さあ、バルトロ。落ち込んでいる暇はないわ。今日の午後には、帝都監査局からの『定期検分』が入るはずよ」
私は立ち上がり、鏡に向かって自分の姿を映した。
華やかなドレスなど、もう何日も着ていない。いま着ているのは、乗馬用を改造した仕立ての古い、地味な深い緑色のウールドレスだ。髪も飾り気をなくし、きゅっと一つに束ねているだけ。
鏡の中の自分は、かつて夜会で「白百合」と持て囃された頃の可憐な令嬢ではなく、戦う覚悟を決めた一人の「当主」の顔をしていた。
帝都の東端、運河の濁った水がうねる倉庫街。
ここは、帝国全土から集められる巨大な物流の心臓部であり、同時に湿気とドブの臭いが充満する、華やかな帝都の「裏側」だった。
ヴァルディ家が任されている「第八倉庫」は、その中でも最も古く、木製の柱が腐食しかかっている劣悪な施設だ。セヴェリーニ伯爵家の嫌がらせにより、我が家は半月前、日当たりの良い第一・第二倉庫の管理権を強奪され、この吹きさらしの第八倉庫へと追いやられていたのだった。
「ふむ……。相変わらず、見るに耐えない惨状だな。このような薄暗い豚小屋で、帝国の貴重な備蓄品が正しく管理できているとは、とても思えんがね」
横柄な声を響かせて第八倉庫の薄暗い内部を歩いていたのは、帝都監査局の高級官吏・フェリクス男爵だった。
彼は鼻持ちならない笑みを浮かべ、高級なシルクのハンカチで鼻を覆いながら、積み上げられた木箱の群れを見上げている。その背後には、セヴェリーニ伯爵家の紋章を刺繍した服を着た私設兵士たちが、威圧するように立ち並んでいた。
「フェリクス閣下。我がヴァルディ家は、割り当てられた予算と人員の範囲内で、最善の管理を行っております。室内の湿度管理、害獣除けの薬草の散布、防黴処理……すべて規定の規則通りに記録し、実施しておりますわ」
私は台帳を抱え、冷ややかな声で答えた。
「くっくっく、威勢だけは一人前だな、お嬢ちゃん。……だがね、数字は嘘をつかないのだよ」
フェリクスはニヤリと嫌嫌な笑みを浮かべると、背後の兵士に合図を送った。
兵士たちは手にしたバールで、倉庫の最奥部に積み上げられていた「帝国陸軍用備蓄・塩漬け肉の木箱」の一つを、強引にこじ開けた。
バリッ、という乾いた木片の割れる音が響く。
箱の中身が露出した瞬間、倉庫内に鼻を刺すような、おぞましい腐臭が立ち込めた。
「な……っ!?」
私は思わず息を呑み、絶句した。
木箱の中に詰まっていたのは、塩漬けにされて保存されているはずの肉ではない。黒く変色し、ウジが湧き、ドロドロに腐敗した「ゴミの山」だった。
「これは……どういうことだ、ヴァルディ男爵!?」
フェリクスはハンカチ越しに甲高い声を上げ、私を激しく指差し指弾した。
「帝国軍の有事の際に配布されるべき重要備蓄肉が、これほど無残に腐敗しているとは! これはあからさまな管理不備……いや、それどころか! 本物の塩漬け肉を裏で売却し、代わりに腐った肉を詰め込んだ『横領』の疑いすらあるぞ!」
「そんなバカな……! 待ってください!」
私は駆け寄り、木箱の側面にある刻印と封印の蝋を凝視した。
「この箱は、三日前に第一倉庫から移送されてきたばかりのものです! 移送時の受領印には『異常なし』と記載されていました! 我が家が管理を引き継いでから、わずか三日でこれほど腐敗するはずがありません!」
「だまりなさい!」
フェリクスは私の言葉を力ずくで遮った。
「受領印など、お前が偽造したのかもしれんではないか! 事実として、いまお前が管轄する第八倉庫から、このおぞましい腐敗物が発見されたのだ! これは帝国法に対する重大な裏切りであり、背任罪に相当する!」
頭の中で、ガシャンと冷たい音が鳴り響いた。
(罠だ……!)
セヴェリーニ伯爵家は、私を「公のルール」で潰すと言った私の言葉を逆手に取り、公のルールを用いて私に「横領と過失の濡れ衣」を着せに来たのだ。
もしこの件が監査局から貴族院の裁定に掛けられれば、我がヴァルディ家は莫大な賠償金を課され、男爵位は剥奪、私は囚人として監獄にぶち込まれることになる。
「さあ、ヴァルディ男爵。言い訳はあるかな? なければ、今すぐにこの検分記録にサインをし、監査局へ同行してもらうが……」
フェリクスは下卑た笑みを浮かべ、私に羊皮紙を突きつけた。
その羊皮紙の最下部には、不自然なほど小さな文字で『ただし、セヴェリーニ伯爵家の裁量により、全財産の譲渡と引き換えに免責とする』という条項が書き添えられていた。
つまり、選択肢は二つ。
冤罪を受け入れて破滅するか、全財産と名誉をセヴェリーニ家に差し出して、完全な奴隷となるか。
悔しさに、唇から血が滲むほど噛み締めた。
周りの兵士たちが、じりじりと距離を詰めてくる。バルトロが青ざめた顔で私を庇おうと前に出たが、兵士の肘で突き飛ばされた。
「バルトロ……!」
私は崩れ落ちるバルトロを抱き止め、激しい怒りで体を震わせた。
味方は誰もいない。この薄暗い倉庫街で、私は完全に追い詰められていた。
その時――。
「――失礼。監査局の公式検分にしては、少々『手手順』が雑すぎるのではありませんか?」
倉庫の天井付近、高く積まれた貨物用コンテナの陰から、ひょいと一人の青年が跳び下りてきた。
「だ、誰だ貴様は! 監査の邪魔をするか!」
フェリクスが怒鳴りつける。
着地したのは、くすんだ青い髪を揺らし、質素な騎士見習いの制服を着た青年――アルベルトだった。
彼は身軽な動作でホコリを払い、不敵な笑みを浮かべながら、私とフェリクスの間へと割り込んできた。
「第三騎士団所属、警備見習いのアルベルトと申します。本日は倉庫街の巡回命令を受けておりましてね。あまりにも賑やかだったので、見学させていただいていたのですが……いやはや、酷いものですね」
「警備の見習いだと!? たかが下級の小僧が、監査局の仕事に口を挟むな! 下がれ!」
フェリクスが唾を飛ばして威嚇するが、アルベルトはどこ吹く風といった様子で、腐敗した木箱の前にしゃがみ込んだ。
そして、泥で汚れた指先で、木箱の裏側に付着していた「赤い土」を少量すくい取った。
「ルチア様」
アルベルトはフェリクスに背を向けたまま、私だけに聞こえるような低い声で囁いた。
「動揺してはダメだ。敵の仕掛けた罠には、必ず『雑な縫い目』がある。……この木箱の裏を見てごらん」
「え……?」
私は言われるがまま、彼が示す木箱の底部に視線を凝らした。
「帝都の第八倉庫の床は、水害を防ぐために石造りだ。だが、この箱の底に付着しているのは、赤粘土。……帝都周辺で赤粘土が存在するのは、セヴェリーニ伯爵家が所有する『南部密輸用私設港』の湿地帯だけだ」
アルベルトの言葉に、私の頭の中で電撃が走った。
「さらに」
アルベルトは素早い手つきで、木箱の側面に打ち込まれていた鉄釘の頭を指で弾いた。
「この釘の頭には、新しい油が塗られている。つまり、一度打ち込まれた釘を最近抜いて、中身をすり替えた後、もう一度打ち直されたということだ。封印の蝋も、表面だけはヴァルディ家の紋章に見えるが、土台の蝋の質が違う。……雑な工作だよ、まったく」
「お前たち! そこでコソコソ何を話している! さっさとその女を拘束しろ!」
焦りを募らせたフェリクスが、兵士たちに怒声を上げる。




