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『辺境育ちの天才発明魔導師 〜新しい魔法を作りたいだけなのに、なぜか世界が騒がしくなります〜』  作者: 夕凪 鏡介


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第8章「交易都市レーヴェンの影」

馬車が、レーヴェンの城門をくぐった。



「わあ……っ」


 アルマは馬車の窓に貼りつくと、また息を呑んだ。

 昨日のヴェルダンス城の前でと同じ声だった。

 けれど目に映っているものは、まったく違った。


 人。

 人。

 人。


 里の住人の十倍、いや百倍はいる。

 市場の通りは人と荷車で溢れ、売り子の声と馬蹄の音と子どもの笑い声が、層になって耳に届く。

 屋台からは焼けたパンと香辛料と果物の匂いが、入り混じって流れてくる。

 空は青く晴れていて、その下を色とりどりの旗がはためいていた。



「お父さん、お父さん。あれ、なんですか? あの、赤いの」


「……ヴェルダンス公の旗だ。市場の店は皆あれを掲げる決まりらしい」


 御者台のガレリスが短く答えた。

 彼にとっても、これだけの規模の街は若い頃に王都で見て以来だった。



「あ、それから、あれ、なんですか? あの、お店の前で煙が出てる」


「肉を焼いている」


「あれは?」


「果物を売る屋台だ。アルマ、一度に全部見ようとするな。目が回るぞ」


「はぁい」


 アルマは窓に貼りついたまま、こくこく頷いた。

 けれど目は相変わらず、市場のあらゆる方向へ忙しなく動いていた。


 馬車の後ろから馬で進むセオドアが、ふっと笑った。



「ガレリスさん。あの子の目は、僕が王都へ初めて出たときの自分の目と同じだ」


「ほう」


「ただし僕の方は人に酔って、最初の夜は宿で寝込みました」


「アルマは平気だな」


「ええ。むしろ足りない、という顔をしている」


 馬車の隣で寝そべったままのガルが低く唸った。



「ガフ」


 ──われは、人くさい。

 ──はやく、しずかな、ところへ、いきたい。



「ガル、ごめんね。あとで、ちゃんと、静かなとこに行こうね」


 アルマがガルの首をなでた。

 ガルはしょうがない、というように片目だけ細めた。


 馬車が中央広場の脇で止まった。

 先導役の公爵の家臣、リカルドが御者台に近づいてきた。



「ガレリス殿。ここから先は徒歩でお願いします。中央市場は馬車では通り抜けられません。宿は向こうの石造りの建物。一泊、二泊と、ご自由に」


「ああ。世話になる」


 リカルドは三十代の痩せた男だった。

 公爵が「目立たぬよう案内につけた」と紹介した家臣で、剣の腕は確かだが貴族の作法は知らないという不思議な役柄の男だった。



「アルマ嬢」


 リカルドが馬車を降りるアルマに声をかけた。



「市場は人攫いも出ます。お父上の手を決して離さぬように」


「はい!」


 アルマは元気よく頷き、すぐに父の手を握った。

 それから、もう片方の手でガルの首輪に手をかけた。



「ガル、こっちの手。お父さんと、ガルと、わたし。これで私、人攫いに攫われません」


 ガレリスが苦笑した。



「アルマ。ガルを連れて市場を歩く子どもを攫う奴がいたら、そいつはよっぽどの大馬鹿だ」


「えへへ」




 中央市場は、迷路だった。


 アルマは初めて目にする品々に、一つ一つ立ち止まり、目を丸くした。

 色とりどりの織物。

 ガラスの飾り。

 銀の食器。

 本の屋台。

 香水。

 アクセサリー。

 それから、見たこともない形の楽器。


 ハーミーネが、孫を見るような目でふっと笑った。



「アルマや。お主、目に入れるだけで満腹になりそうじゃのう」


「お婆ちゃん。私、お腹じゃなくて頭がいっぱいです。あとで、ぜんぶ忘れないようにノートに書きます」


「うむ。それは、よい習慣じゃ」


 一行がある一画に差しかかったときだった。

 アルマの足が止まった。


 薬屋の屋台だった。


 干した薬草が束ねて吊られ、瓶詰めの薬が棚に並んでいる。

 アルマの母アニエスの薬棚と、同じ匂いがした。

 けれど、その隣に立てられた木札を見て、アルマは首を傾げた。



「お父さん。あの、ここの薬、ちょっと高くないですか?」


「うむ?」


 ガレリスが木札を見た。

 それから眉を寄せた。



「ヴェロニカ草。お母さんのところでは銅貨二枚で量れる量だ。だがここは、銀貨一枚。──おかしいな」


 銀貨一枚は銅貨百枚に相当する。

 同じ量の薬草が、辺境の里の五十倍の値で売られている。



「お父さん。これ、間違いですか?」


「いや」


 ガレリスは屋台の店主を見た。

 中年の太った男だった。

 男は客の応対に追われる素振りで、こちらと目を合わせない。


 そのとき、屋台の前でひとりの老婆がしわだらけの手を伸ばして、ヴェロニカ草の小さな束を握っていた。



「お、お願いします、店主さん。これ、銅貨五十枚で譲っていただけませんか。孫が熱を出して」


「だめだ」


 店主が目も向けずに答えた。



「ギルドの規則だ。負けられん」


「店主さん。お願いです。残りは明日、必ず」


「ばあさん、買えねえなら、その手を放しな。後ろがつかえてる」


 老婆の指が震えながら、薬草の束を棚に戻した。

 それから頭を下げ、人混みのなかへ消えていった。


 アルマはその背中をずっと見ていた。



「お父さん」


「ああ」


「あのおばあちゃんのお孫さん、熱が出てるって言ってましたよね」


「ああ」


「銀貨一枚もない。だから薬が買えなくて、お孫さんに薬をあげられない。──そういう、ことですか?」


「そういう、ことだ」


 アルマはしばらく黙っていた。


 それから店主の屋台の木札を、もう一度見た。

 きれいな字で銀貨の数が書かれていた。

 きれいな字なのが、なんだか悲しかった。



「お父さん」


「ああ」


「薬って、自分で作れないんですか?」


 ガレリスが息を吐いた。



「アルマ。それは、いい質問だ。──だが、この街ではできないことになっている」


「どうしてですか?」


「商業ギルドが薬草の流通を握っているからだ。薬草を持ち込むのも、薬を作るのも、許可がいる。許可は簡単にはもらえない」


「許可が、いるんですか?」


「許可が、いる」


 アルマは首を傾げた。

 それから、もう一度傾げた。



「お父さん。許可って、誰が出すんですか?」


「商業ギルドだ」


「商業ギルドが薬を売って、商業ギルドが許可を出す。──それって、おかしくないですか?」


 ガレリスは答えなかった。


 その代わり、すぐ後ろにいたセオドアが低く笑った。

 笑い、というには苦みのほうが強かった。



「アルマちゃん。それは、おかしい。とても、おかしい。──そして、この街ではいちばん口にしてはいけないことだ」


「えっ」


「皆わかっています。わかっていて、口にしない。それが、ギルドの強さです」


 アルマはしばらく黙っていた。

 それから屋台の脇の薬草の束を、もう一度見つめた。


 ヴェロニカ草。

 母アニエスの庭で、いくらでも育つ草。

 ハーミーネ婆ちゃんが何度も教えてくれた草。

 アルマには、簡単な草だった。


 ──いくらでも、育つのに。

 ──簡単な草、なのに。

 ──買えない、人がいる。


 アルマの胸の、いちばん奥が、しん、と冷えた。

 それは初めての感覚だった。

 怒り、ではなかった。

 哀しみ、ともちがった。

 もっと根の深いところで、何かが動き始めた感覚だった。


 ガルがそれに気づいた。

 アルマの足元にすり寄って、太い首を押し当てた。



「ガフ」


 ──おまえ、なにか、かんがえはじめたな。



「うん。──まだ、わからないけど」


「ガフ」


 ──いつも、そう、だ。


 アルマはガルの首にしばらく顔をうずめた。

 それから顔を上げ、もう一度薬屋の木札を見た。

 きれいな字。

 銀貨一枚。


 ──私、なんとか、したい。


 それは口には出さなかった。

 けれどハーミーネが、その横顔を見ていた。

 老婆の目の奥で、四十年前の自分が宮廷で「魔法は創造するものじゃ」と声を上げた、あの日がよぎった。


 ──ああ。

 ──この子も、また。

 ──同じ、目を、している。




 中央市場を抜けると、街の様子が変わった。


 通りは細くなり、建物は低くなった。

 色とりどりの旗は消えた。

 屋台もない。

 人の数は変わらないのに、声がない。

 皆うつむき、足早にすれ違っていく。



「ガレリスさん」


 セオドアが低く囁いた。



「裏路地に入ります。気を引き締めてください」


「ああ」


 裏路地は、中央市場の華やかさが嘘のような場所だった。

 壁は煤けて黒い。

 窓は半分以上が板で塞がれている。

 地面には汚水が流れている。

 痩せた犬がごみの山を漁っていた。



「お父さん……」


 アルマがガレリスの手をぎゅっと握った。



「ああ。怖がらなくていい。──だが、よく見ておけ」


「はい」


 ガレリスは娘に世界を見せていた。

 豊かな市場の裏側にある世界を。


 そのとき、ふとアルマの目が止まった。


 煤けた壁の角で、女の子が一人しゃがんでいた。

 アルマと同じくらい、いや、少し上だろうか。

 八歳くらい。

 汚れた服。

 痩せた頬。

 けれど目だけはまっすぐで、強かった。


 少女は空の薬瓶を、両手で握りしめていた。



「ねえ、君」


 少女が通りすがりの大人を見上げて、声を絞り出した。



「君のお家に、ヴェロニカ草、余ってない? 少しでいいの。お母さん、熱が下がらなくて」


 大人は目を伏せて、足早に通り過ぎた。


 少女は次の大人にまた声をかけた。

 同じことをもう一度。

 誰も立ち止まらなかった。


 アルマの足が止まった。



「アルマ?」


「お父さん、待ってください」


 アルマはガレリスの手をするりと抜いた。

 そして少女の前まで歩いていった。


 少女が顔を上げた。



「あ、あの……」


「こんにちは」


 アルマはにこっと笑った。



「私、アルマです。あなた、お名前は?」


「テ、ティナ」


「ティナちゃん。お母さん、熱、出てるんですか」


「うん。三日、下がらない」


「お薬、ないの?」


「あった。──でも、もう、ない。お金が、もう、ない」


 ティナは空の薬瓶を見せた。

 瓶の底にほんのわずか、緑色の粉が残っていた。


 ガレリスとセオドアが追いついた。

 ハーミーネも後ろからゆっくりと近づいてきた。



「アルマや」


「お婆ちゃん」


 ハーミーネがしゃがんで、ティナと目線を合わせた。



「お主のお母は、どんな熱じゃ。咳は、あるかえ」


「咳は、少し」


「肌は、汗を、かいておるか」


「うん。すごく」


「うむ」


 ハーミーネが頷いた。



「アルマや。これは、お主の母が、よう治してきた、あの熱じゃ」


「ヴェロニカ草、四日分、ですか?」


「うむ」


 アルマは自分の腰の道具袋を覗いた。

 何も入っていない。

 薬草は里に置いてきた。

 当然だった。

 城に行くのに薬草など持ってこなかった。



「ティナちゃん。お家、どこ?」


「すぐそこ。──でも、ヴェロニカ草、ないと、治らないの」


「あるよ」


「え?」


 アルマの声に、ティナがぱちぱちと瞬きをした。



「ない、んじゃないんです。あるんです。──ここの市場にもいっぱいありました。お母さんのところでもたくさん育ってます」


「で、でも、銀貨が、ない」


「うん。だから私がなんとかします」


 アルマはガレリスを振り返った。



「お父さん。ティナちゃんのお母さんを、見に行ってもいいですか」


「ああ。だが、無理は」


「しません。お薬はお婆ちゃんの治癒で間に合わせます。それから明日、考えます」


「考えるって、何を」


 アルマはティナを見て、それから煤けた裏路地を見た。

 汚水。

 痩せた犬。

 空の薬瓶を握る、八歳の少女。



「ヴェロニカ草がここに、いっぱい、あるようにする方法をです」




 ティナの家は煤けた木造の長屋の、いちばん奥だった。


 入ってすぐの土間に、布で仕切られた寝床があり、薄い毛布の下で、女が苦しげに息をしていた。

 三十代だろうか。

 痩せている。

 ひたいに汗が浮いていた。



「ママ、お客さん、連れてきた」


 ティナが母の枕元にしゃがんだ。


 女は薄く目を開けた。



「……ティナ。お客さんなんて、お母さん、何も出せないよ」


「いいんだ、ママ。この人たち、お薬の人だから」


 アルマは女の傍らに膝をついた。

 それから両手を、女の額にそっとかざした。



「えっと、お婆ちゃん。ふつうの熱冷ましの治癒陣でいいですか」


「うむ。じゃが、それでは根本は治らぬ。後で、ヴェロニカ草を煎じる必要がある」


「はい」


 アルマは土間に、白チョークで小さな治癒陣を描いた。

 それから両手をその上にかざした。



「お母さん、楽になってください」


 ぱちん。


 緑色がかった優しい光が、女の額に降りた。

 女の肩の力がゆるんだ。

 汗のひかきが和らぎ、呼吸が深くなった。



「あ……。あ、楽になった」


「これは応急処置です。根本は薬草で。お婆ちゃんが煎じてくれます」


 ハーミーネがガレリスに目で頷いた。



「ガレリスや」


「ああ」


「中央市場まで戻って、儂の名で薬屋にヴェロニカ草を出させよ。代金は儂が払う。──ヴェルダンス公から滞在の入用にと預かった袋がある。それで足りる」


「了解した」


 ガレリスがすぐに踵を返した。


 ティナが信じられないという顔で母を見た。

 それからアルマを見た。



「お、お姉ちゃん。あ、あの。お金、私たち」


「うんとね、ティナちゃん」


 アルマはにこっと笑った。



「お金はいりません。──だって私、お薬の代金、もらう人じゃないので」


「で、でも」


「それから」


 アルマはふと立ち上がって、土間の隅を見た。

 そこには欠けた素焼きの鉢が、いくつか並んでいた。

 土が入っているだけの空っぽの植木鉢だった。



「ティナちゃんのお家、土、ありますね」


「あ、う、うん。前は、母さんがハーブを育ててた。けど、種ももう、なくて」


「土と日当たりがあるなら、十分です」


 アルマはその鉢を一つ覗き込んだ。



「明日、また来ます。──そのときはお母さんも立ち上がれるくらい元気になってますから。そしたらお母さんと、私と、ティナちゃんで、ちょっとしたお庭を作りましょう」


「お、お庭?」


「はい。ヴェロニカ草の、お庭です」


 アルマはそれを、当たり前のことのように言った。

 けれどその横で、ハーミーネがしわだらけの目を細めた。


 ──育てる、と、この子は、言うた。

 ──今日、決めた。

 ──四十年、儂が躊躇うておった、その一歩を、この子は、もう踏みつけておる。




 市場へ薬草を取りに戻る、その帰り道だった。


 ガレリスは足を止めた。

 旧倉庫街の隅の半ば崩れた小屋。

 その前で男がひとり、しゃがんで何かを煮ていた。



「すまん。少し、聞いていいか」


 男が顔を上げた。


 二十歳まではいかぬくらいの若者だった。

 痩せていて目の下にくまがあったが、目だけは明るかった。

 前掛けが緑色のしみで汚れている。

 ──薬草のしみだった。



「はい。なんでしょう」


「ヴェロニカ草を急ぎで、四日分。──だが市場の屋台は、銀貨一枚をふっかけてくる。あれは正規の値か」


 若者がしばらくガレリスを見た。



「あなたは、この街の人ではありませんね」


「いや。辺境から来た」


「ああ……」


 若者は息を吐いた。



「答えにくい質問です。あれはギルドの『公定価』です。違法ではありません。──ですが十年前まで、ヴェロニカ草は銅貨二枚でした」


「十年で、五十倍」


「五十倍になりました」


「誰が決めた」


「商業ギルドのドーラン・メルカディス。──ギルド長です」


 ガレリスの背後でハーミーネが低く息を吐いた。

 セオドアはその名を記憶に刻んだ。



「失礼。あなたは」


 若者は立ち上がって、軽く頭を下げた。



「ニコ・カンタリオ、と申します。ギルドの認可はもらえない薬師見習いです。──正確には薬師見習いだった、というべきかもしれません」


「いまは」


「いまは、ただこうして貧民街の人たちに、自分で煎じた茶を配っています。──薬と言うとギルド違反になるので、『茶』です」


 ニコは苦笑した。



「ですが、ヴェロニカ草の本物は、私の手には入りません。ギルドが流通を握っているので。私が配っているのは、ただの菩提樹の葉です。気休めにしかなりません」


 セオドアが、ニコの煮込んでいる鍋を覗いた。



「この鍋にヴェロニカ草が四日分入ったら、何人助かりますか」


「ヴェロニカ草、四日分? 一束で、五人は助けられます。私の鍋で薄めて煎じれば」


「では」


 セオドアがガレリスを見た。

 ガレリスが頷いた。



「あなたに頼みたい。ハーミーネ殿が払う代金で、ヴェロニカ草を二束買う。一束はティナという少女の母に。もう一束はあなたの鍋に。──それで何人、助かりますか」


 ニコの目がしばらく止まった。

 それからまばたきをして、ゆっくりと口を開いた。



「──六、七人は助かります。今夜の峠を」


「では、そうしましょう」


「あなた方は、いったい何者ですか」


「ただの辺境の村の人間です」


 セオドアが答えた。



「ただし辺境のなかで、たぶん、いちばんお節介な村の」


 ニコは笑った。

 それから、ふいに目を伏せた。



「ありがとうございます。──本当に。ですが、これは今夜だけです。明日にはまた同じことが起きます。──薬は毎日足りないので」


「ええ。それは、私たちもわかっています」


 セオドアが頷いた。



「ですから明日からの話は、また別にします。──ニコさん、明日の昼、もう一度ここにお訪ねしても、よろしいですか」


「明日……ですか」


「ええ。一緒に考えたいことがあります」


 ニコはしばらく迷うように、自分の鍋を見た。

 それから、視線を上げた。



「お待ちしています」




 その夕方。


 商業ギルドの本館は、市場の一等地に建っていた。

 白い石造りの三階建て。

 入り口の両脇に、武装した私兵が立っていた。


 その三階のいちばん奥の部屋。

 窓のない執務室で、ひとりの男が革張りの椅子に深くもたれていた。


 ドーラン・メルカディス。

 四十八歳。

 脂のついた頬。

 指には銀の指輪が四つ。

 机の上に、薬草の取引帳簿が開いていた。



「会頭」


 部下の若い男が扉から入ってきた。



「中央市場の第三番屋台より、報告です。今日、ヴェロニカ草を二束買いに来た客がいたそうです」


「二束。──金で?」


「銀貨、二枚で」


「それがどうした。普通の客じゃないか」


「辺境の身なりだったそうです。それから、銀の毛並みの大きな狼を連れていた、と」


 ドーランの指輪をつけた指が、机の上で止まった。



「狼?」


「はい」


「狼を、街中で?」


「はい」


 ドーランはしばらく沈黙した。

 それから口の端をわずかに引き上げた。



「──ヴェルダンス公の客、かもしれぬな」


「会頭」


「公爵閣下が辺境の小僧どもを、わざわざレーヴェンに招いた。何の用かは知らぬ。だが客を寄越したからには、何かしらの思惑がある。──薬草を二束買った、と言ったな」


「はい」


「貧民街に、配るためか」


「断定はできませんが、その方角に向かったと」


「ふん」


 ドーランはゆっくりと立ち上がった。

 窓のない部屋で、燭台の火が彼の顔の半分を橙色に染め、もう半分を影に沈めた。



「貧民街に銅貨を撒くような客なら、放っておけ。だが、もし──薬の流れに手を出すようなら」


「は」


「すぐに報告しろ。それから、見張りをつけろ。常時、二人。狼に気づかれぬよう、遠くから」


「了解、いたしました」


 部下が頭を下げて退室した。


 ドーランは執務室でひとりになった。

 彼はもう一度座り直すと、机の引き出しから小さな鍵を取り出した。

 鍵で別の引き出しを開ける。

 なかには革表紙の台帳が入っていた。

 表紙には何の文字もなかった。

 けれどページを開けば、貴族の名前と銀貨の額が几帳面に並んでいる。

 ──ギルドが「便宜」を払ってきた、王都の貴族の名簿だった。


 ドーランはその台帳をしばらく撫でた。

 それから独りごちた。



「辺境の客が、貧民街で薬を撒く。──小さな虫が迷い込んだだけだ」


 そう自分に言い聞かせるように。


 けれど、ドーランの胸のいちばん奥で、ほんのわずか、何かがざわついた。


 長年ギルドの会頭として巨万の富を築いてきた男の、勘だった。

 十年に一度、彼をぞくりとさせる、あの感覚。

 ──厄介な客が、来た。


 ドーランは燭台をふっと吹き消した。

 執務室は闇に沈んだ。




 その夜、宿の屋根裏。


 アルマは小さな机の前に座って、ノートを広げていた。

 一日で見たものを忘れる前に書き留めておく。

 母アニエスから教わった習慣だった。



「お婆ちゃんに教わった、ヴェロニカ草。お母さんの庭で、よく育つ。十枚で、熱、冷ます」


 アルマはつぶやきながら羽根ペンを走らせた。



「土と、日当たりと、水。それから、根が深いほうがいい。お婆ちゃんがそう言ってた」


 ノートの隅にアルマは、簡単な薬草の絵を描いた。

 ヴェロニカ草。

 葉が五枚。

 葉の縁が、ぎざぎざ。



「ティナちゃんの家、土の鉢がありました。日当たりも、まあまあ。──でも、種がない」


 アルマはペンを止めた。



「種がない、と、育てられない。──んじゃ、ない、はず」


 つぶやきは独り言になり、独り言は思考になった。



「育てるだけなら、種からじゃなくても、いい。お母さんが言ってた。葉から、根から、茎から、植物は増えていく。──だったら、ヴェロニカ草の葉が、一枚あれば」


 アルマは椅子の上で、足をぱたぱたさせた。

 考えるときのいつもの癖だった。



「葉、一枚。──じゃあ、その葉を、ぐん、と、大きくする魔法があったら」


 足が止まった。



「土の魔法は、土を耕す。治癒の魔法は、傷を塞ぐ。光の魔法は、明かりを灯す。──じゃあ、葉に、土と治癒と光を、ぜんぶ、かけたら、葉は、どうなる?」


 足元でガルが片目を開けた。



「ガル。植物って、土と水とお日さまで、大きくなるよね」


「ガフ」


 ──しっておる。



「お日さまは、光、でしょう。水は、たぶん、水の魔法でいい。土は、土の魔法。──治癒は、葉がちぎれても、元気になるように」


 アルマの目が輝き始めた。

 魔法の話をするときのいつもの目だ。



「光と、水と、土と、治癒、を、混ぜたら、葉、一枚から、ヴェロニカ草の、お庭、作れる、かも」


 ガルはしっぽをひとつ揺らした。



「ガフ」


 ──また、こんごう、まほうか。



「うん。たぶん、こんどは、四つも、混ぜなきゃ、いけない」


「ガフ」


 ──おばあちゃんに、まだ、はやいと、言われるぞ。



「うん。明日、お婆ちゃんに相談する。──怒られたら、ごめんなさい、する」


「ガフ」


 ──おまえは、いつも、そうだな。


 アルマはガルの背中にぽすん、ともたれかかった。

 ガルは迷惑そうに、けれど満更でもなさそうに片目を細めた。



「ねえ、ガル」


「ガフ」


「ティナちゃんの、お母さん、明日、起きてくれるかな」


「ガフ」


 ──おまえの、まほうが、おちなければ、おきる。



「うん。──私、明日、絶対、お庭、作る。ティナちゃんの、家に」


 アルマはノートに最後の一行を書き足した。


『ヴェロニカ草の、お庭。葉、一枚から。光、水、土、治癒。──名前はまだわからない』



「ガル。明日が、楽しみだね」


「ガフ」


 ──われも、だ。


 少女と銀の月狼は、屋根裏の小窓から夜の街を見下ろした。

 市場の灯りはもう消えていた。

 けれど、夜風のなかにガルはもう一度、あの淀んだ匂いを嗅ぎ取った。


 ただし、今度は、もっと近かった。


 ガルは低く唸った。

 けれど、アルマの寝顔を見て、唸るのをやめた。


 ──まだ、ことが、おきるのは、あした、いごう。

 ──こよいは、こいつを、ねむらせて、おく。


 銀の月狼は少女の傍らに、身を横たえた。


 そして、夜風のなかの淀んだ匂いの、もうひとつ向こうから漂ってくる、別の匂いを嗅ぎ分けた。


 それは、ヴェロニカ草が無数に育つ、未来の匂いだった。


 ──まだ、誰も知らない。

 明日、この少女が四つの系統を、混ぜようとすることを。

 ──そして、それを混ぜたとき、レーヴェンの薬の独占が、根っこから揺らぐ、ということを。

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