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『辺境育ちの天才発明魔導師 〜新しい魔法を作りたいだけなのに、なぜか世界が騒がしくなります〜』  作者: 夕凪 鏡介


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第9章「草の魔法と、ギルドの焦り」

朝、宿の屋根裏。


アルマはノートを開いて、昨夜書いた最後の一行をハーミーネに見せていた。


『ヴェロニカ草の、お庭。葉、一枚から。光、水、土、治癒。──名前は、まだ、わからない』


ハーミーネは揺り椅子代わりの椅子で、それをしばらく見た。



「アルマや。お主、四つ混ぜるつもりか」


「はい。土と、水と、光と、治癒です」


「四つは、無理じゃ」


「えっ」


アルマがぱちぱちと瞬きをした。



「儂もお主の体も、四系統は保たぬ。三系統で儂が火を肩代わりして、ようやくお主が二系統を扱えた。──忘れたか、銀月の魔導書の夜を」


「忘れてないです」


「あの夜は命がけじゃった。今日は薬草を育てるだけ。──命を賭けるべき場面ではない」


アルマはしゅんと首を垂れた。それから、またノートを見つめた。



「お婆ちゃん。じゃあ、四つからどれを減らせばいいですか」


「お主が考えなさい」


「えっ」


「儂が答えを言うては、お主の発明ではなくなる」


ハーミーネはふっと笑った。



「考えなさい。植物が育つために、本当に必要なのはなんじゃ。お主の母の薬草園を思い出すがよい」


アルマはペンを置いて目を閉じた。


母アニエスの薬草園。土。日当たり。水やり。それから、母が毎朝薬草に声をかける。「おはよう」「今日も元気ね」と。


──水。

──水は、お母さんが、毎朝井戸から汲んでくる。

──でも、ヴェロニカ草は、雨の日にはお母さんが、水をあげない。

──雨が降れば、水は勝手に空から降ってくる。

──じゃあ、土がちゃんと湿ってさえいれば、植物は自分で水を集める?


アルマは目を開けた。



「お婆ちゃん」


「うむ」


「水、いりません」


「ほう」


「土の魔法が土をふかふかにして、水を含ませてくれたら、ヴェロニカ草は自分で水を吸い上げます。だから水の魔法はいらない。──土と、光と、治癒の三つでいいです」


ハーミーネの皺だらけの顔が、ぱっとほぐれた。



「うむ。ようたどり着いた」


「えへへ」


「アルマや。お主は、いつも引き算が上手じゃのう」


「引き算?」


「足すことは誰でもできる。じゃが、何が要らんかを見抜くのは、難しい。──炎癒のときも、お主は火の陣を細く描き直して引き算した」


「あ、そうですね。──覚えてないけど、たぶんそうかも」


「自分で引き算して、自分で忘れる。それが、お主のよいところじゃ」


ハーミーネはまたふっと笑った。


足元でガルが片目を開けた。



「ガフ」


──われも、いく。

──おてつだいする。



「ガル、ありがとう。──今日は、薬草のお庭作るんだよ」


「ガフ」


──しっておる。


アルマは新しいページに書き直した。


萌芽(ほうが)。葉、一枚から。土と、光と、治癒。三系統、複合』



「お婆ちゃん。名前、これでいいですか?」


「萌芽、か。──萌え出る芽。よい名じゃ」


「えへへ。それじゃ、行ってきます」


「うむ。儂も、後でティナの家へ行く。──じゃが、最初の発動はお主とガルでやってみるがよい」


「はい!」




ティナの家の裏庭。


それは「裏庭」と呼ぶには、あまりにも狭かった。長屋の裏に人ひとり分の幅で土が剥き出しになっている、それだけの土地だった。けれど日当たりは悪くなかった。午前の光がまっすぐに降りてくる。


ティナが家の中から駆け出してきた。



「アルマちゃん! ママ、今朝お粥食べたよ!」


「やった! よかった!」


「それでね、ママ立てるようになった!」


「うん、それはお婆ちゃんの治癒がよく効いたってことだね」


寝床から起き出したばかりの母親が、戸口に立っていた。痩せてはいるが、もう汗は引いていた。母親はアルマを見て深く頭を下げた。



「アルマさま。本当に、本当に、ありがとうございます」


「あ、さまはやめてください。アルマでいいです」


「は、はい」


「それで、お母さん。今日はこれからヴェロニカ草のお庭を作ります」


「お庭、ですか」


「はい。お家の裏にちょっと土がありますよね。あそこに植えます」


アルマは腰の道具袋から、昨日市場で買ってもらったヴェロニカ草の束のうち、葉を一枚だけちぎった。



「これが一枚。──これからお庭いっぱいにします」


ティナが目を見開いた。



「葉、一枚で?」


「一枚で」


「種、いらないの?」


「いらないんだ、たぶん」


アルマは当たり前のことのように答えた。それからガルを振り返った。



「ガル、見ててね。失敗したらごめんね」


「ガフ」


──しっぱい、せぬよう、いのる。


アルマは裏庭の剥き出しの土にしゃがんだ。腰の道具袋から白チョークを取り出す。



「えっと、土の陣。それから光の陣。それから治癒の陣」


三つの陣を土の上に同心円状に描いていく。土と治癒の交点、光と土の交点、光と治癒の交点。それぞれに軸ずらしの記号をちょこんと描く。──翠癒の応用だ、と、アルマの頭は自然にそう理解していた。けれど彼女はそれを誰にも説明しない。



「葉、一枚をここに」


陣の真ん中にヴェロニカ草の葉を置いた。



「えーと、土は葉の周りをふかふかにして。光は葉をお日さまの何倍も明るくして。治癒は葉がちぎれたもとの茎を思い出させる」


「アルマちゃん。それ、ぜんぶいっぺんにやるの?」


ティナが不安そうに聞いた。



「うん。──やってみないと、わかんない」


「だ、大丈夫?」


「たぶん」


アルマは両手を、三つの陣の交点にかざした。


ぱちんと手を叩いた。


──ばちっ。


三つの陣が火花を散らした。



「あれ」


アルマが首を傾げた。陣がちらちらと暴れている。土と治癒が押し合っているのが、アルマにはわかった。土は外へ広がろうとし、治癒は内へ集めようとする。方向が逆だった。



「ふむ」


アルマはいったん両手を引いた。それから、土の陣の外側の線を一本だけ消した。



「土はお庭ぜんぶに広がらなくていい。葉の根元だけで十分」


もう一度両手をかざす。


ぱちん。


今度は爆ぜなかった。三つの陣が馴染んでいくのが、アルマにはわかった。



「あ、いけそう」


ティナがぎゅっと母親の手を握った。母親も息を止めた。


裏庭の剥き出しの土から、淡い緑色の光がふわりと立ち上った。光は葉の周りを優しく包んだ。


ヴェロニカ草の葉、一枚。


その一枚の葉脈が、ぴくりと動いた。葉の縁のぎざぎざが少しだけ震えた。それから葉の付け根から、細い白い根がすうっと土へ伸びていった。


根は土の中で枝分かれをし、一本、二本、三本と増えていった。



「あ……っ」


ティナが声を漏らした。


葉の上に新しい葉が、もう一枚つき足した。続いて二枚目。三枚目。


茎がまっすぐ伸びていく。


最初の一枚の葉のすぐ脇に、もう一本の茎が生えた。次にその隣に。さらにその隣に。


土から次々とヴェロニカ草の若い苗が立ち上がっていった。



「うわぁ……」


ティナの母親が口を開けた。


裏庭の一坪にも満たない土地に、ヴェロニカ草が次々と芽を出し、葉を広げ、しっかりとした株に育っていった。それは種から生えてくる速さではなかった。普通なら何週間も何ヶ月もかかる成長を、目の前で数分のうちに繰り返した。


風が緑の若葉を揺らした。


葉の数が三十枚を超えた。五十枚を超えた。アルマは両手をかざしたまま目を閉じていた。



「えっと、お庭のこれくらいいっぱいでよさそう。──あと、すこし」


ぱちん。


最後にもう一度手を叩く。


光がふっと消えた。


裏庭はヴェロニカ草の小さな群生地に変わっていた。一坪の土地にぎっしりと薬草の若い株が立ち並んでいる。風に葉が揺れる。葉の縁のぎざぎざが午前の光をちらちらと反射していた。


裏庭の真ん中でアルマが立ち上がった。



「えっと、こんな感じでいいかな」


「アルマちゃん……」


ティナの声が震えていた。



「これ、ぜんぶお薬?」


「うん。乾かして煮出せば、ヴェロニカ草のお薬になる。ここの葉ぜんぶ合わせたら、たぶん五十人分はできる」


「五十人……」


ティナの母親が土間の戸口に座り込んだ。膝の力が抜けたのだ。彼女は両手を口に当てて声を絞り出した。



「あの、アルマさん。──これ、本当に、私たちが、もらって、いいんですか?」


「もちろんです」


アルマはにこっと笑った。



「お母さんもティナちゃんも、私がお庭作っていい、って言ってくれましたから。だから、これはお母さんのお庭です」


「私の、庭……」


「はい。お母さんが自分で葉を摘んで、自分でお薬にできます。──そうしたら、お薬、いつでもありますよ」


ティナの母親はしばらく答えなかった。


それからゆっくりと両手を地面につき、土に額をこすりつけた。



「ありがとう、ございます。──ありがとう、ございます。──ありがとう、ございます」


「あの、お母さん。地面、汚れちゃうから、顔上げてください」


アルマがおろおろと駆け寄った。



「アルマさんは、もしかして神様のお使いですか」


「あ、ちがいます。私、アルマです。お父さんと、お母さんの娘です。新しい魔法を作るのが好きな子です」


「……でも」


「ちがいますって。神様の子じゃないって、お父さんがいつも言ってます。──私、ガレリス・グリモワールと、アニエス・グリモワールの娘です」


その言い方があんまりまっすぐだったので、ティナの母親はつい、ふっと笑ってしまった。涙を流しながら笑った。


ガルが二人と一匹のそばに寄り添った。銀の月狼は地面に額をつけている女に、鼻先をそっと当てた。月狼の温かい鼻先の感触に、女はまた息を吐いた。


そのとき、ハーミーネが裏庭の入り口に立っていた。



「萌芽、か」


老婆はヴェロニカ草の群生地を見渡して、ぽつりとつぶやいた。



「四十年、儂が躊躇うておった、その一歩を、お主は半日で踏み越えた」


「お婆ちゃん。失敗しなくて、よかったです」


「うむ」


ハーミーネは笑った。それからもうひとつ、低く付け加えた。



「アルマや。これは街に出る」


「街に?」


「うむ。今日のうちに噂が出る。明日には商業ギルドが知る。──覚悟は、よいかえ」


アルマは首を傾げた。それから当たり前のことのように答えた。



「お婆ちゃん。私は、お薬を作りたかっただけです。商業ギルドのことは、お父さんが考えてくれます」


「うむ。──そう、じゃな」


ハーミーネはもう一度笑った。

そのまっすぐな返事こそが商業ギルドのいちばんの脅威であることを、まだアルマは知らなかった。




旧倉庫街のニコの小屋。


ガレリスとセオドアがヴェロニカ草のひと束を、ニコの前に置いた。



「ニコさん。──こいつを見てください」


ニコはその束を手に取った。葉の艶。茎のしっかりとした太さ。ヴェロニカ草の上物だった。



「これは……」


「アルマがたった今、育てたものです」


「育てた、ですか」


「葉、一枚から、半時で、五十株。これはその一部です」


ニコの手が止まった。


それから彼は長いあいだ何も言わなかった。鍋の前に座り直し、自分の手の中のヴェロニカ草をじっと見つめた。葉脈の一本一本を確かめるように見た。



「葉、一枚から、半時で……」


「ええ」


「魔法、ですか」


「魔法です。──ですが、これは薬草です。本物のヴェロニカ草です。お婆ちゃんが確認しました」


「確認しなくても、わかります。私はこれを見て、育てて、煎じることを、ずっとやってきました。──これは、本物です」


ニコの声が震えた。



「これが本物なら。──毎日足りない、と言っていた薬草が足りる、ということです」


「ええ」


「いや、足りるどころか、街中の貧民街のどの家でも自分で育てられる、ということです」


「ええ」


「ギルドの独占が、根っこから意味を失う、ということです」


「──そうなります」


ニコはヴェロニカ草を握りしめたまま、ガレリスを見た。それからセオドアを見た。



「あなた方は、本当に、ただの辺境の村の人間なんですか」


「ええ」


セオドアが頷いた。



「ただし、辺境のなかで、たぶんいちばんお節介な村の」


「……それは、もう伺いました」


ニコはふっと笑った。それから立ち上がった。



「鍋を貸してください。──いま煎じます。簡単な、簡単な煎じ方をです。誰でもできるように」


「お願いします」


「これは、私の十年の復讐です」


「復讐、ですか」


「私はギルドの認可を取れずに、数年、貧民街で菩提樹の葉を配ってきました。本物のヴェロニカ草を扱えなかった、ということです。──今日、初めて本物を煎じます」


ニコはもう笑っていなかった。

けれどその目には、はっきりとした強い光が宿っていた。


セオドアはその目を見ていた。そして心の中で、ひとつ確信した。


──ニコ・カンタリオ。

──この男は、商業ギルドがいちばん敵に回したくなかった男だ。

──煮え湯を飲まされてきた優しい男ほど、敵に回ると怖い。




その日の昼。


ティナの家の裏庭で、煎じたヴェロニカ草が簡素な土瓶に移されていた。ニコは煎じ方の手順を紙に書き、それを薬と一緒に貧民街の何軒もの家に配って回った。



「これ、ティナちゃんのおうちの裏庭で育った、薬草の煎じ汁です」


「アルマちゃんが育てたんだ。アルマちゃんって、新しい魔法を作る子」


「お代はいらないって。煎じ方も書いてあるから自分でできる」


「種、いる? いる人はティナの家に来てね。アルマちゃんが葉を分けてくれるって」


ティナは自分の家の裏庭から、ヴェロニカ草の葉を両手いっぱいに抱えて走り回った。喘ぎながらの走り方だった。けれどその顔は、彼女がここ何ヶ月も見せたことのない笑顔だった。



「ヴェロニカ草の葉、いる人ー!」


「俺んち、息子が、咳、出てる!」


「うちは、ばあちゃんが」


「うちも!」


ティナの両手から葉が次々と人々の手に渡っていった。葉はまた彼らの家の土の鉢へ植えられる。萌芽の魔法陣はもう、アルマがティナの母親に教えていた。



「お母さん。これを土に描いてください。それから葉を真ん中に置いてください」


「私が描いて、いいんですか」


「はい。お母さんが毎朝薬草に、おはようって言うなら、たぶんもっとよく育ちます」


「おはよう、って?」


「お母さん、いつもヴェロニカ草に、おはようって言いそうな顔してるので」


ティナの母親はまた声を出して笑った。

それからしっかりと頷いた。


──やります。

──毎朝、おはようって、言います。


ヴェロニカ草の葉と煎じ汁が、貧民街の何十軒の家に行き渡った。半日のあいだに咳が止まった子供がいた。熱が下がった老人がいた。三日ぶりに立ち上がった若い母親がいた。


通りをすれ違う人々が、ひそひそと囁いた。



「ティナの家のお嬢ちゃん。アルマちゃん、っていうらしい」


「辺境から来た、っていう話だ」


「狼を、連れている」


「葉、一枚から、お庭、作るんだと」


噂は貧民街の隅々まで、その日のうちに広がった。

そして、その噂は誰かによって、中央市場の商業ギルドへも伝わった。




その日の夕方。


中央市場を抜けながら、アルマとセオドアは宿への帰り道を歩いていた。ガルが二人の少し前で、鼻を低く地面に近づけて進んでいた。



「セオドアさん」


「はい」


「私、なんか後ろを見られてる気がします」


セオドアは足を止めなかった。けれど目だけで、視界の端を確認した。


通りの向かいの薬屋の屋台。その脇に男がひとり立っていた。商人風の身なり。けれど商人にしては視線の使い方が固い。彼はアルマたちを目で追っていた。


それだけではなかった。

通りのもう一本奥の角。建物の影に、また別の男が立っていた。腕を組んでいる。誰かを待っているふりで、誰も待っていない男の立ち方だった。



「ええ。──見られています」


「いつから、ですか」


「貧民街を出てからずっとです。二人組」


「どうしましょう」


「いまは何もしなくていいです。あちらも私たちに声をかけるつもりはない。観察です」


「観察」


「アルマちゃんが何をするのか。誰と会うのか。──それを見て誰かに報告します」


「商業ギルド、ですか」


「たぶん」


アルマはしばらく黙って歩いた。それからふと、ガルの背中を見てつぶやいた。



「セオドアさん」


「はい」


「私、別に、商業ギルドと戦うつもり、ないんです」


「ええ」


「ただ、ティナちゃんのお母さんが楽になればいいな、って思って。それから、ヴェロニカ草を買えないおばあちゃんがもう、いなくなればいいな、って思って。それだけなんです」


「ええ」


「でも、ギルドの人たちは、それを怒るんですか?」


セオドアはしばらく答えなかった。

それからゆっくりと答えた。



「アルマちゃん。あなたのそれだけが。──彼らにとっては、いちばん怖いんです」


「えっ」


「『戦う』なら対処できます。話し合いも取引もできる。けれどあなたは、ただ薬草を育てて配るだけなんです。彼らの商売の前提が根っこから消えていくのを、見ているだけです」


「うーん」


アルマは難しい顔をした。



「セオドアさん」


「はい」


「それは、ギルドの人たちが、お薬を独り占めしすぎたから、じゃないですか」


セオドアは思わず足を止めた。



「……ええ」


「うん。だったら私、悪くないですよね」


「悪くないです」


「えへへ。よかった」


アルマはにこっと笑って、また歩き出した。


セオドアはしばらくその背中を見送ってから、自分も歩き出した。歩きながら彼は心の中で、もう一度ドーラン・メルカディスという名を噛んだ。


──ドーラン会頭。

──あなたがいまいちばん怖がるべき相手は。

──戦士でも、騎士でも、軍隊でもない。

──ただ薬草を育てて配るだけの、六歳の女の子です。


ガルが二人の後ろから低く唸った。



「ガフ」


──にんげんの、においが、また、ふえた。



「うん、見張り、増えたんだね」


「ガフ」


──たいしたこと、ない。

──われ、ぜんいん、つぶせる。



「ガルはいつでも頼もしいです。でも今日はつぶさなくていいよ。お薬をちゃんと配ってもらわなきゃ」


「ガフ」


──ふん。

──おまえが、それでよいなら。


夕日がレーヴェンの街並みに長い影を落とした。中央市場の店が一軒、また一軒と店じまいを始めている。けれど、貧民街のほうの長屋にはいつもより温かい灯りが点々と灯っていた。


それは煎じたヴェロニカ草の、湯気の灯りだった。


──そして、その日のうちに商業ギルドの本館では、ドーラン・メルカディスが机を強く叩いた。

──と、それは後でニコがガレリスに伝えた話だった。──ニコの店のすぐ隣にギルドの私兵が立ち始めたのも、その日の夕方からだった。


アルマはそのことを知らなかった。


宿の屋根裏で彼女はすでに、新しいノートを開いていた。


『萌芽、成功。三系統、土と、光と、治癒。葉、一枚から、五十株。お庭ぜんぶで、薬、五十人分』


その下に、もうひとつ書き足した。


『次は、なに、を、作ろうかな』


足元でガルが、ふんと鼻を鳴らした。



「ガフ」


──おまえは、いつも、つぎ、ばかりだ。



「えへへ。だって、それがいちばん楽しいんだもん」


少女と銀の月狼は夜の街を見下ろした。


ヴェロニカ草の湯気の灯りは、もう五十軒を超えて貧民街じゅうに広がっていた。


そして、その温かい灯りの向こうの白い石造りの建物の三階で、ひとつ別の灯りが消えた。


ドーラン・メルカディスが燭台を吹き消したのだ。

──だが、今夜は闇のなかで彼は長いあいだ、椅子に座っていた。


それも、まだアルマは知らなかった。


──まだ、誰も知らない。明日、商業ギルドが最初の一手を打つことを。

──そして、その一手が彼らの最大の誤算になることを。

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