第10章「嫉妬は、嘘をつく」
朝、中央市場の角に、一枚の張り紙が貼られていた。
『警告。レーヴェンの民へ。
近頃、街に出回るヴェロニカ草の煎じ汁のなかに、ギルドの認可なき草が混入されている。これを摂取し、体調を崩した者が出ている。出所は、辺境より来たる、ある幼き娘と、その一行と、噂される。
すべての民は、無認可の煎じ汁を口にせぬよう、注意せよ。
ヴェルダンス領、商業ギルド本部』
文末には、ギルドの紋章と、ドーラン・メルカディスの署名があった。
張り紙の前を、人が、足を止めた。立ち止まり、目を凝らし、隣の者と囁き合った。
「体調を崩した者が出てる、って」
「ヴェロニカ草で?」
「いや、これはヴェロニカ草じゃないんだろう。混ぜ物だ、と書いてある」
「辺境の娘って、あの狼を連れた子のことか」
「たぶん」
囁きは、市場の通りを波のように、伝わっていった。
その同じ張り紙が、街の他の七箇所にも、夜のうちに貼り出されていた。
中央市場。旧倉庫街の入り口。井戸の脇。神殿前。役場前。──そして、ニコの小屋のすぐ向かいの壁にも。
街はよく晴れていた。けれど、空の青さに、似合わない冷たい空気が、人々のあいだを流れ始めていた。
その朝、貧民街の、ある長屋。
一人の母親が、台所で、昨日もらった煎じ汁を、温め直していた。子供の咳がまだ、少し残っていたからだ。彼女はふた口、息子にそれを、飲ませようとしていた。
戸を、ばん、と叩く音がした。
「邪魔するぜ」
声をかける、というには、乱暴すぎる低い声だった。母親が振り返る前に、戸が開いた。
入ってきたのは、二人の男だった。腰に短剣を差していた。胸元にギルドの銀の紋章が、留められていた。──私兵だった。
「な、なんですか」
「あんたんち、昨日、辺境の娘んとこから、煎じ汁、もらったらしいな」
「は、はい。──でも、それが、なにか」
「あれは、毒入りだ。回収する」
「えっ」
「ぐずぐずするな。ばあさんがすでにそれで寝込んだぜ」
私兵の一人が、母親の手から強引に土瓶を取り上げた。それから、その土瓶をひっくり返した。湯気の立つ茶色い液体が、土間に流れた。
「うちの子に飲ませるつもりだったのに」
「飲ませなくてよかったな。──それから、葉も出せ」
「葉?」
「裏に、薬草植えただろうが。あれだ。ぜんぶ引っこ抜いて出せ」
「で、でも、これは私のお庭で」
「ギルドの警告だ。無認可の薬草の流通は、ご法度なんだよ。──分からねえなら、衛兵を呼んでもいいんだぜ?」
母親の唇が、震えた。
「うちには、二日前、ばあさんが咳で寝た。お薬、買えなくて、苦しんでたんです。それを、アルマちゃんが」
「いいから、葉、出せ」
私兵は、母親の答えを待たなかった。長屋の裏へ回り、自分の手で土の鉢のヴェロニカ草を、引っこ抜き始めた。土が、こぼれた。根がちぎれた。葉が地面にばらまかれた。
「やめてください、やめてください」
「うるせえな」
私兵が、引き抜いた葉を麻袋に詰めた。それから、もう一人の私兵が戸口に、もう一枚張り紙を貼った。「警告。本家、ギルド検査対象」と書かれていた。
私兵は、母親に最後に低く言った。
「いいか、ばあさん。あの辺境の娘は、闇の魔女だ。葉一枚から薬草を生やす、なんてのは、神様の業じゃねえ。──悪魔の業だ」
そして、二人は出ていった。
長屋に、静けさが戻った。
母親は土間に座り込んだ。引き抜かれた土の鉢の土が、靴についた。それを見下ろした。それから、ふと、息子のほうを見た。息子は五歳だった。事の意味は、まだ、わからない。けれど、母親の顔を見て、息子は泣き始めた。
母親は、自分も泣きたかった。
けれど、泣くより先に、自分の腹の底から、別の、もっと熱い感情が湧き上がってくるのを感じた。
──怒り、だった。
「アルマちゃんは……」
母親は、つぶやいた。
「アルマちゃんは、悪魔なんかじゃ、ない」
息子の頭を、抱き寄せた。それから、土間の隅に転がっていた、ヴェロニカ草の葉を一枚だけ拾った。私兵が見落とした、一枚だった。
母親は自分の懐に、その葉を押し込んだ。
それはその日、レーヴェンの、何十軒の長屋で、同時に起きていた。私兵に葉を奪われた家のなかで、誰かが一枚だけ隠した。誰かが二枚、隠した。──ドーランは知らなかった。葉一枚から薬草が増えるということを。彼の私兵たちも知らなかった。彼らはただ、葉を根こそぎ奪うことだけが命令だった。
奪われた葉は、麻袋へ消えた。
けれど、隠された葉は、まだ、貧民街の懐の中に残っていた。
その日の昼。
ティナの母親が市場の薬屋の屋台の前で、立ち止まっていた。彼女はもう、立てるようになっていた。アルマの治癒のあと、ハーミーネの煎じ汁を二日続けた結果だった。
彼女は、薬屋の店主に声をかけた。
「あの、すみません。──昨日、私の家の裏で、ヴェロニカ草をいただきました。それを、近所の人たちにも分けて、煎じて、配りました」
店主が、ぎろりと目を上げた。
「で?」
「みんな、楽になりました。咳が止まった子、熱が下がった老人、立ち上がった、私のような者。──皆、感謝しています」
「そりゃ、よかったな」
「だから、その、あの、張り紙のこと、なんですが」
ティナの母親の声が、震えた。
「あれは、本当ですか? アルマちゃんの草が、毒だって」
「ギルドの署名だ。本当だろうよ」
「でも、私たち誰も体調崩してません」
「あんたらが気づいてないだけだ」
「そうではなくて」
ティナの母親は、一歩前に踏み出した。
「私は、その葉で命を救われました。それは嘘ではありません」
店主の周りで、買い物に来ていた市場の客たちが振り返った。
「あんた、貧民街の女かい」
別の、商人風の男がティナの母親に声をかけた。
「あんなとこの女が、ギルドに楯突くのか」
「楯突いているつもりはありません」
「ギルドの署名が信じられないってのは、楯突いてんのと同じだ」
「いいえ。ただ、私は本当のことを言ってます」
「ふん」
商人風の男は、唇を歪めた。
「闇の魔女にたぶらかされた、貧民の女が、何を本当のことなんてな」
「やめなさいよ」
別の女の声が、割って入った。八百屋の屋台の女主人だった。
「あんたの言いがかりのほうが、よっぽどひどいよ。この人、立てるようになった、っていま、自分で言ったじゃないか」
「だが、ギルドが」
「ギルドがどうした。私の姪の子も、昨日まで咳で苦しんでた。今朝は笑って、おかゆ食べてたよ。──毒で、笑って食えるかい?」
商人風の男は、一瞬、口をつぐんだ。
けれど、すぐにふん、と鼻を鳴らした。
「闇の力で一時的にいい気分にさせて、後で毒が回るんだ。ギルドがそう言ってる」
「あんたは見たのか? その『後で毒が回った』人を」
「いや、まだ見てはいない。だが、そう書いてある」
「ふん。書いてあるから本当だ、ってか」
八百屋の女が、肩をすくめた。それから、ティナの母親に声をかけた。
「あんた、気にしなくていい。──家には、まだ葉、残ってるかい?」
「あ、はい。一枚」
「持って、またおいで」
ティナの母親は、ぱっと顔を上げた。
「いいんですか?」
「私は、ヴェルダンス公の旗の店だ。──ギルドの旗じゃ、ない」
それは、レーヴェンの市場で、初めて誰かがはっきりと口にした宣言だった。
八百屋の屋台の後ろに、はためいていた赤い旗が、それを聞いていた。風が、その旗をふっと、はためかせた。
宿の屋根裏に、噂が伝わったのは、その昼過ぎだった。
リカルドが、宿に駆け込んできた。
「ガレリス殿、ハーミーネ殿。──失礼します」
「リカルド殿」
ガレリスが、立ち上がった。
「街中に、ギルドの張り紙が出ています。アルマ嬢の煎じ汁を、毒入りだと」
「──やはり、来たな」
「それから、貧民街では、私兵が家々を回り、葉を回収して回っています」
「回収」
「葉を根こそぎ引っこ抜いて、奪っています。家の前には、検査対象の張り紙を」
ハーミーネが、揺り椅子代わりの椅子で目を細めた。
「ドーランは、思ったより速いのう」
「速いですね」
セオドアが頷いた。
「読みやすい男ですが、決断は速い。──ガレリスさん、これは、思ったより悪い局面です」
「ああ」
その時、屋根裏の隅で、ノートを書いていたアルマが顔を上げた。
「あの、毒、ってなんですか」
「うむ」
ハーミーネが、ふっと笑った。
「アルマや。お主の作った煎じ汁が毒入りだと、街中で噂になっておる」
「えっ?」
アルマが、ぱちぱちと瞬きをした。
「私、毒、作ってないですよ?」
「うむ。知っとる」
「お婆ちゃんも、ニコさんも確認しました。ぜんぶヴェロニカ草です」
「うむ」
「ということは、噂が間違ってる、ということですよね?」
「うむ」
アルマはしばらく、首を傾げた。
「お父さん」
「ああ」
「噂って、間違ったまま広がることがあるんですか」
ガレリスが答えた。
「ある。──それも、誰かがわざと広げることもある」
「わざと?」
「ああ。アルマの煎じ汁を、信じてもらいたくない人がいる」
アルマはしばらく考えた。それから、当たり前のことのように答えた。
「お父さん。それって、その人、嘘をついてる、ってことですよね」
「ああ」
「どうして、嘘をつくんですか」
「アルマや」
ハーミーネが、口を開いた。
「人は、自分のいちばん大事なものを、奪われそうになると、嘘をつく」
「えっ」
「ドーランにとって、いちばん大事なものは、薬草の独り占めじゃ。それを、お主がお庭ひとつで、奪っておる」
「私、奪ったつもりはないんです」
「うむ。じゃが、奪われた側から見れば同じことじゃ。──いや、奪うつもりがない、ということは、いっそう怖い」
アルマは頷いた。それから、もう一度考えた。
「お婆ちゃん」
「うむ」
「ドーランさん、可哀想ですね」
屋根裏が、しん、となった。
ガレリスも、セオドアも、ハーミーネも、リカルドも、しばらく声を出さなかった。
アルマは、自分が何か変なことを言ったのか、と首を傾げた。
「私、変なこと言いました?」
「いや」
ハーミーネが、しわだらけの手で、孫娘のような少女の頭を撫でた。
「アルマや。お主はいつも、儂のいちばん見たくなかった世界の、いちばん見たかった姿を、見せてくれる」
「えっと、それって、いい意味?」
「うむ。いちばん、よい意味じゃ」
アルマは首を傾げたまま、にこっと笑った。
その日の午後、旧倉庫街。
ニコの小屋の戸が、外側からぼろぼろに壊されていた。鍋はひっくり返されていた。煎じ方を書いた紙の束は、土の上に散らばっていた。煎じ茶の瓶は、ことごとく割られていた。
セオドアがガレリスと一緒に、その光景を見ていた。
「ニコさんは」
「いない、です」
「無事、ですよね?」
セオドアの声が、低くなった。
そのとき、小屋の裏のごみの山の陰から、声がした。
「セオドアさん。──こちらです」
ニコが、しゃがんでいた。
顔の左半分が赤く腫れていた。唇のはしが切れていた。けれど、その目はいつもどおり、明るかった。
「ニコさん、これは」
「私兵が、五人、来ました。──ですが、私、走るのは得意ですので。鍋の前から、間に合って、逃げました」
セオドアは、ニコの傍らにしゃがんだ。
「腫れているのは」
「これは、転んだせいです。──走るのが得意なのと、こけないのは別なので」
ニコは、苦笑した。それから、息をひとつ吐いて、続けた。
「セオドアさん」
「はい」
「私兵たち、走りながら、私に叫んでいました。『お前は、闇の魔女の弟子だ』、と」
「弟子」
「それから、こうも言ってました。『あの婆さんは、四十年前、宮廷で魔物兵器を作ろうとして、追放された危険人物だ』、と」
セオドアの頬の筋肉が止まった。
「ハーミーネ殿のことを」
「はい。名指しで」
「──ドーランは、それをどこから」
「わかりません。ですが、ドーランが知っている、ということはギルドの誰かが、王都の誰かと繋がっている、ということです」
ニコは立ち上がった。腫れた頬を、手で軽く押さえた。
「これは、私の予想です。聞き流してください」
「言ってください」
「ドーランの背後に、王都の貴族がいる。それも、四十年前のハーミーネ殿の事件を知っている貴族が」
セオドアはしばらく、黙っていた。
それから、ゆっくりとニコに頷いた。
「ニコさん。──いま、あなたを安全な場所に移します。それから、ハーミーネ殿に、これを伝えます」
「私のことはいいです。──私、街にもう少し、いたい」
「危険です」
「だから、いたい、です」
ニコは、もう一度笑った。腫れた頬で。
「私、十年、菩提樹で配るだけだった人間です。──いま、配るべきものを、本当に配れるようになった。それを、私兵が来たくらいで、降りる気はありません」
セオドアはしばらく、ニコを見ていた。
それから、深く頷いた。
「では、街にはいる。──ただし、毎晩リカルド殿に無事を報告してください。リカルド殿は、公爵閣下の家臣です。──危なくなったら、彼がいつでも駆けつけます」
「わかりました」
ニコは、頷いた。それから、ふと、苦笑した。
「セオドアさん。──私、貴族の家臣に、見守ってもらえる人間になる日が来るとは、思いませんでした」
「私も、辺境の村人に、敬語を使う騎士になる日が来るとは、思いませんでした」
二人は同時にふっと、笑った。
そして、その日の夕方には、もう、貧民街の七割の家が、ガレリスとセオドアの動きを知っていた。誰が伝えたのか、誰にもわからなかった。けれど、長屋の窓の灯りが、ひとつ、また、ひとつと、灯ったように、噂は貧民街じゅうに広がっていた。
「辺境の人たちは、味方らしい」
「公爵閣下の家臣も」
「ドーランに対抗する気らしい」
「葉、隠してる人、いる?」
「いる」
「集める。家一軒に、ひと束ずつ。それを、ニコさんに預ける」
夜には、貧民街のいくつもの家の懐から、葉がまた、出てきた。
ハーミーネは、宿の屋根裏で、揺り椅子代わりの椅子に座って、暮れていく窓を見ていた。
ガレリスが、ニコから聞いた話を伝えた。
「ドーランの私兵が、あなたのことを『四十年前、宮廷で、魔物兵器を作ろうとして、追放された、危険人物だ』、と叫んだそうです」
ハーミーネはしばらく、答えなかった。
それから、ゆっくりと口を開いた。
「ガレリスや」
「ああ」
「儂の名は、四十年、誰も知らぬはず、だった」
「ええ」
「儂を宮廷から追放した、当時の連中は、儂を世間から消すために『追放』を使った。儂を悪人として、晒し者にはしなかった。なぜなら、晒し者にすれば、儂が何に反対していたかを、世間に説明せねば、ならぬからじゃ」
「魔物兵器化、ですね」
「うむ。──彼らは、それを隠したかった。だから、儂を追ったのではなく、消した」
「では、いまドーランがそれを口にする、ということは」
「うむ」
ハーミーネは、頷いた。
「ドーランの背後の、王都のある勢力は、もう隠す気を捨てた、ということじゃ。儂を『危険人物』として公に晒すことで、アルマを、その弟子として晒す。それで、アルマを潰す。──そういう覚悟じゃ」
「覚悟、ですか」
「うむ。彼らは、もう後戻りできぬところに来ておる」
ガレリスはしばらく、答えなかった。それから、低く息を吐いた。
「ハーミーネ殿。──俺は里長だ。あなたを守る」
「うむ」
「アルマだけでなく、あなたも、グリモワール村の家族の一人だ」
ハーミーネの皺だらけの目に、薄く、涙が滲んだ。彼女は、それを隠そうともしなかった。
「ガレリスや」
「ああ」
「儂は四十年、辺境にいて、こんな日が来ようとは、思わなかった」
「どんな日ですか」
「自分の名を、覚悟をもって口にしてくれる誰かがいる日のことじゃよ」
ガレリスは答えなかった。
答えなくていい、ということが、二人にはわかっていた。
足元で、ガルがハーミーネの足に、太い首をすり寄せた。月狼の銀の毛は、暮れる窓の光のなかで、ほのかに光っていた。
「ガフ」
──ばあさま。
──われも、ここに、おる。
「うむ。ガルや。お主が、おる」
ハーミーネは、しわだらけの手でガルの首を撫でた。
──そして、儂の四十年は、もう、儂ひとりの戦いでは、なくなった。
その夜。
ヴェルダンス城の最上階。窓のない公爵の執務室の机の上で、燭台がひとつゆれていた。
シャルル・ド・ヴェルダンス公爵は、机の上に三つの書類を並べていた。
一つは、レーヴェン市内で配られたギルドの張り紙の写し。
一つは、ティナの家を含む貧民街の家々で、私兵が葉を回収した、その家屋のリスト。
一つは、ドーラン・メルカディスが過去十年に、王都の貴族に贈った銀貨の額の、推定資料。
その三つを、公爵は長いあいだ見ていた。
それから、戸の影に控えていたリカルドに声をかけた。
「リカルド」
「は」
「ニコ・カンタリオの無事の報告は」
「先ほど入りました。腫れは軽傷。本人は街に留まる意志です」
「うむ。引き続き彼を守れ」
「は」
「それから」
公爵は、机の上の三つの書類のうち、いちばん下のドーランの贈与資料に指を置いた。
「これを王都に知られたくない勢力がある。──私と敵対する勢力じゃ」
「は」
「いま、その勢力は、辺境のグリモワール村の少女を危険視している。理由はおそらく、複合魔法の刻印を書き換える力、じゃ」
「閣下」
「うむ。私の見立てでは、その勢力はドーランに命じた。アルマ嬢を闇の魔女として、潰せ、と」
「では」
「では、こちらはその勢力が、ドーランにどう繋がっているかを、王都の私の腹心に調べさせる。──同時に、レーヴェン市内では、ドーランの私兵の動きをすべて、私の側で把握する」
「は」
「リカルド。──ドーランは明日、もう一手打ってくる。それはたぶん、神殿側からじゃ」
「神殿、ですか」
「うむ。アルマ嬢の力を、宗教的に危険なものとして宣言させる。教会のいつもの手じゃ」
リカルドは頷いた。
公爵は続けた。
「神殿に、こちらの信頼できる神官を二人、送り込め。──ドーランの口を、神殿が開く前に、神殿の別の口で塞ぐ」
「は」
「それから、明日の朝、ニコの小屋の前で、私の旗を掲げよ」
「公爵旗を、ですか」
「うむ。──小さくてよい。だが、見える形で掲げよ」
リカルドが、息をひとつ吐いた。
「閣下。──それは、ドーランへの宣戦布告になります」
「うむ」
「ドーランの背後の、王都の勢力は、それを見て、閣下を敵に認定するでしょう」
「うむ」
「閣下、それは本当によろしいので」
公爵はしばらく、答えなかった。
それから、口の端をわずかに上げた。
「リカルド。私は四十年、独立独歩の領主として、王都の腐敗に距離を置いてきた」
「ええ」
「だが、距離を置く、ということは、結局、傍観することだ。──ハーミーネ殿が声を上げてから、私は、その後ずっと、距離を置いて、傍観してきた、その、ひとつ目の結末が、いま、レーヴェンに出ている」
「閣下」
「四十年、私は何もしなかった。──だが、私の領地で、辺境の六歳の少女が、ただ薬草を配るだけのことに命を晒されるようになって、ようやく、私は覚悟がついた」
「は」
「私の、四十年遅れの覚悟じゃ」
公爵は、立ち上がった。窓のない部屋で、燭台が彼の顔の半分を橙色に染め、もう半分を影に沈めた。
それは、いつぞや、ドーランの執務室で、ドーラン自身の顔を染めたのと、同じ角度の光と影だった。
ただし、染められた二人の男の決意は、まったく違うものを見ていた。
「リカルド。──明日の朝、旗を掲げよ」
「は」
リカルドは、深く頭を下げて執務室を出た。
公爵は、ひとりになった。
彼は、もう一度、机の上の三つの書類を見た。
それから、ぽつりとつぶやいた。
「ハーミーネ殿」
そのつぶやきは、誰にも聞こえなかった。
「あなたは四十年前、ひとりで立った。──今度は、私が立つ番だ。少し、遅すぎた。──だが、まだ間に合うはずだ」
公爵は、燭台をふっと吹き消した。
執務室は、闇に沈んだ。
けれど、その闇のなかで、シャルル・ド・ヴェルダンス公爵の目だけが、暗闇に慣れて、ゆっくりと光を増していった。
──ドーラン・メルカディス。
──あなたが思っている、あなたの最大の敵は。
──辺境の六歳の女の子では、ない。
──四十年、傍観者でいたことを恥じている、私だ。
公爵の決意を、まだ誰も知らなかった。
ドーランも、知らない。
ハーミーネも、知らない。
アルマも、もちろん、知らない。
けれど、その夜、レーヴェンの街では、不思議なことが起きていた。
ヴェルダンス公爵の旗を、自分の店に掲げていた八百屋の女主人の店の戸口の前に、葉がひと束、置かれていた。誰が置いたのかわからない、ヴェロニカ草の葉、ひと束。
そして、その葉の上に、小さな、白い、紙が一枚置かれていた。
紙には、ただ一行書かれていた。
『明日も、薬をお願いします』
八百屋の女は、それを拾った。
そして、自分の店の奥にしまった。
そして、明日、ティナの母にそれを渡そう、と決めた。
街のいくつもの場所で、その夜、同じことが起きていた。
ドーランの私兵が奪った葉は、麻袋の中で数を増やせなかった。
けれど、隠された葉は、貧民街の懐の中で、明日への約束になっていた。
──まだ、誰も知らない。明日、街中に何が起きるのかを。
──ドーランの二の手と、公爵の最初の旗が、同時に上がるのを。
──そして、その同じ朝、貧民街の懐から、葉がいっせいに出てくるのを。




