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『辺境育ちの天才発明魔導師 〜新しい魔法を作りたいだけなのに、なぜか世界が騒がしくなります〜』  作者: 夕凪 鏡介


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第12章「公爵の決意、辺境の便り」

朝、ヴェルダンス城の最上階。



公爵の私室は、執務室とは別の部屋だった。執務室が政治の計算の場ならば、私室は、領主がひとりの男として過ごす場だった。窓は南向き。陽の差し込む朝には、磨かれた床の木目が温かい色に見えた。


そこに、ハーミーネが案内された。


リカルドが彼女を、私室の戸口まで連れてきた。それから、深く頭を下げて立ち去った。


ハーミーネは、戸の前でしばらく立っていた。

──四十年ぶりに、ヴェルダンス家の私室に足を踏み入れる。

──そう、思った。

若い頃、宮廷にいた時分に、ヴェルダンス公の先代の私室に何度か、招かれたことがあった。先代は、ハーミーネの宮廷時代の若き理解者のひとりだった。──いま、自分は、その先代の息子の私室に招かれている。


戸が、内側から開いた。


シャルル・ド・ヴェルダンス公爵が、自分の手で戸を開けて、ハーミーネを迎えた。


「ハーミーネ殿。よく、来てくださった」


「うむ。お招き、ありがたく」


公爵はハーミーネを、窓辺の椅子に案内した。彼自身も、その向かいに座った。テーブルの上に、お茶が二つ。──ぬるめに淹れてあった。


「先代の淹れ方を、覚えていらっしゃるか」


公爵が、低く聞いた。


ハーミーネが、ふっと笑った。


「うむ。──お主のお父上は、儂のような口の固い客には、必ず、ぬるめに淹れてくださった。熱い茶を儂がすすって、口をぱっと開けてしまうのを、防ぐためじゃ、と」


「父はよく、笑いながらそう申しておりました」


公爵も、薄く笑った。それから、少し間を置いて続けた。


「ハーミーネ殿」


「うむ」


「私は四十年、貴殿と向き合うことを、避けてきました」


「うむ」


「今日、初めて、向き合います」


公爵は上着の内ポケットから、たたんだ密書を取り出した。それを、テーブルの上にハーミーネのほうへ滑らせた。


ハーミーネは、それをしばらく見ていた。

それから、皺だらけの指で、その密書を開いた。


『ハーミーネ・グリモワール殿。

四十年、ご無沙汰いたしました──』


ハーミーネの目が、その姓のところで止まった。


『ハーミーネ・グリモワール殿』


──姓を、書かれた。

──四十年、誰にも書かれなかった、儂の姓を、シャルルが書いた。


老婆はしばらく、それを見ていた。

それから、ゆっくりと、本文の続きを読んだ。


『私は四十年、貴殿の声を聞いていながら、ただ、距離を置いておりました。

それは、私の五代の家訓と、ヴェルダンス領主の責任と、王都の腐敗への私の判断、すべてを合計した計算の結果でした。

──ですが。

それは、ただの傍観だった、と、いまはわかっております。


貴殿のお弟子のアルマ嬢が、私の四十年の計算をひっくり返しました。

ひっくり返したつもりがなかったところが、彼女の

いちばんの強さでした。

──私はこれから、彼女が安心して、新しい魔法を作り続けられる、その背後を引き受けます。

それが、四十年遅れの私の答えです』


ハーミーネは、署名の「シャルル・ド・ヴェルダンス」を、長いあいだ見ていた。


それから、密書をゆっくりとたたんだ。

そして、両手でそれを、自分のローブの胸元に押し当てた。


「シャルル殿」


「は」


「儂は四十年、待っておった、とは申さぬ」


「ええ」


「四十年、待ってはいなかった。儂は辺境でアルマを育てて、ガレリスの家族に混ぜてもらって、ガルとお茶を飲み、それで十分、満ち足りておった」


「ええ」


「じゃが、今日、この一通の手紙をいただいて、儂は、自分が四十年、心のいちばん奥のところで、これを待っていたことを知った」


ハーミーネの皺だらけの目に、涙がひと筋、流れた。

彼女はそれをローブの袖で、軽く押さえた。


「お主に礼を言うべきか、迷うのう」


「礼をおっしゃる必要は、ありません」


公爵は低く答えた。


「これは、私の贖罪です。貴殿に礼を述べさせる贖罪は、贖罪ではありません」


「うむ」


ハーミーネは頷いた。それから、ふっと笑った。


「お主は相変わらず、知性的じゃのう。──先代と、そっくりじゃ」


「父もよく、貴殿にそう言われた、と申しておりました」


二人はしばらく、互いのお茶を、ぬるくすすった。

「ハーミーネ殿」


公爵が、次に口を開いた。


「ひとつ、お伺いしてもよろしいか」


「うむ」


「四十年前、貴殿が宮廷を追われた本当の理由は」


ハーミーネは、湯呑みをテーブルに戻した。

それから、ゆっくりと答えた。


「火と闇の複合魔法を、人殺しに使おうとした者たちがいた」


「ええ」


「儂はそれを拒んだ。彼らは儂を消そうとした。儂は彼らから逃げて、辺境に来た。──そこまでは、お主もご存じじゃろう」


「ええ」


「じゃが、ひとつ、お主が存じないことがある」


「は」


ハーミーネはしばらく、沈黙した。


「儂を消そうとした者たちのなかに、ひとり──お主のお父上のお知り合いがおった」


公爵の湯呑みを持つ手が、止まった。


「父の知り合い、ですか」


「うむ。──お主のお父上はその者の名を、晩年、儂に伝えてくださった。亡くなる、ほんの二年ほど前のことじゃ。儂は辺境にいた。お父上は密使を使って、儂に手紙を寄越された。その手紙のなかで、その者の名前を、初めて、儂に教えてくださった」


「父が……」


「うむ」


「その者の名は」


「いまは、申し上げぬ」


ハーミーネは、首を振った。


「儂がお主にそれを伝えるのは、お主がその者と戦う覚悟ができた、その日じゃ」


「貴殿は、私がまだ、その覚悟ができておらぬ、と思われるか」


「いいや。──覚悟はできておる、と思う。

じゃが、覚悟ができておる、と信じるのと、それを行動で始めるのは別じゃ」


「ええ」


「お主はもう、行動を始めた。じゃが、まだ、最初の一手しか打っておらぬ。最初の一手ですべての計算をひっくり返すのは、お主の命取りになる」


「ええ」


「だから、儂はお主にその者の名を、いまは申し上げぬ。──お主が二の手、三の手と打って、いずれ、その者と本当に戦う、その時に、儂はその者の名を、お主に申し上げる」


「うむ」


公爵は頷いた。それから、低く息を吐いた。


「ハーミーネ殿」


「うむ」


「私は貴殿に、頼みごとがもうひとつ、あります」


「申しなさい」


「アルマ嬢が、いつか、王都の闇に引きずり込まれる日が来るかもしれません。その日が来たとき、私は彼女を守ります。──ですが、私の計算にはひとつ、欠けがある」


「ほう」


「私は彼女の新しい魔法の理屈が、わかりません」


ハーミーネが、しわだらけの目を細めた。


「それがいる、と申されるか」


「ええ。彼女を守るには、彼女の魔法を理解する者が、私の側にいる必要があります。私にはそれができません」


「儂しかおらぬ、ということじゃな」


「ええ」


「儂はもう、長くはない」


「ええ。──ですから、貴殿のお命のあるうちに、貴殿のご知見をお預けいただきたい、と申しております」


ハーミーネは、しばらく黙っていた。


それから、ふっと笑った。


「シャルル殿。お主、四十年、計算をおやめにならぬようじゃのう」


「ええ。──ただし、四十年前とは、計算の方角がちがいます」


「うむ。──わかった」


ハーミーネは頷いた。


「儂の知見は、儂が死ぬ前に、お主ともうひとり──アルマの最初の王都の理解者である、セオドアどのにお預けする。──ガレリスは戦士じゃ。理屈の運搬はできぬ」


「セオドア殿は、私の側にお貸しいただけますか」


「お貸しする、というよりも、お主と儂とガレリスが彼を共有する、ということになろう。──彼はもう、一人の騎士ではなくなった」


「ええ」


公爵は頷いた。それから、自分のお茶をもう一口すすった。

お茶はもう、ぬるくはなかった。

冷めていた。

けれど、彼はそれを最後まで飲んだ。





宿の屋根裏。


アルマは、机の前でノートを書いていた。昨日のドーラン解任の出来事を、書き終わったところだった。


戸が、こん、と叩かれた。


「アルマ嬢、お手紙が参っております」


公爵の家臣、リカルドの声だった。


「えっ、お手紙? 私に?」


「はい。辺境の里、グリモワール村より」


「お母さんから!」


アルマは椅子からぱっと立ち上がった。戸を開けて、手紙の束を受け取った。封蝋に見覚えのある小さな星のような印が押されていた。──母アニエスが、薬草園の手入れに使う印章だった。


「ありがとうございます!」


アルマは戸を閉めて、机に戻った。それから、震える指で封を開けた。


『アルマちゃんへ。

お母さんです。

お父さんとアルマとお婆ちゃんとセオドアさんとガルが、ヴェルダンスへ出かけてから、もう十日が経ちました。


里は、変わりなく、平和です。

ルカは、もうすっかり元気になりました。お父さんが置いていった剣を、毎朝、振っています。胸の傷も、もう痛まないそうです。お父さんが帰ってきたら、ルカは、自分がもう剣を持っても大丈夫だ、と報告したいそうです。


里では、最近、不思議なことがありました。

あなたの作った炎癒の魔法、覚えていますか? あれの噂が隣の里に伝わって、隣の里の火傷の人が、わざわざ、うちを訪ねてきました。「アルマちゃんに、お礼を伝えてほしい」と。

お母さんは、その方に、アルマはいまヴェルダンスにいる、と伝えました。そうしたら、その方は、「ヴェルダンスの方なら、ちゃんとした人たちがお守りくださるはず」とおっしゃって、ほっとされていました。


辺境からは、ヴェルダンスは遠いところに見えますが、私たちのいる場所からも、あなたのいる場所からも、同じ月が見えます。

夜、寂しくなったら月を見てください。お母さんも、そっちの月を見ます。


ガルは、元気ですか? お父さんは、無理をなさっていませんか? お婆ちゃんは、お疲れになっていませんか? セオドアさんは、まだヴェロニカ草のお茶をお好きですか?


アルマちゃん。お母さんは、あなたが楽しい毎日を過ごしていることを、毎晩、祈っています。


それでは、また。

無理は、なさらないでね。


お母さんより。

アニエス』


アルマは、手紙を読み終わって、しばらく動かなかった。

それから、机に手紙を置いて、両手で顔を押さえた。


「ガル」


「ガフ」


「お母さん、私のこと、毎晩、祈ってくれてるんだって」


「ガフ」


──しっておる。

──おまえのお母上は、いつもそうしておられた。


「うん」


アルマはしばらく、手紙の上に顔を伏せていた。それから、ノートを引き寄せて、新しいページにペンを走らせた。


『お母さん、お父さん、お兄ちゃんへ。

こちらは、みんな、元気です。

ガルも、元気です。お婆ちゃんも、元気です。お父さんも、お元気です。セオドアさんも、お元気です。

昨日、ティナちゃんのお家の裏で、ヴェロニカ草のお庭を作りました。葉、一枚から、五十株。お母さん、できたよ。

ティナちゃんに、お母さんがおいしい薬草スープを作ってくれるって、伝えました。とても、喜んでいました。

新しい魔法を、たくさん作りました。萌芽、と、陽だまり、です。家に帰ったら、お母さんと、お父さんと、お兄ちゃんに、ぜんぶ見せます。

ヴェルダンスの月も、グリモワール村の月と、同じ銀色です。

それでは、また、お会いするまで。

アルマ』


書き終わって、アルマはノートを閉じた。

それから、ガルの銀の毛並みに、しばらく顔をうずめていた。


──早く、帰ろう。

──お母さんと、お兄ちゃんに会おう。


アルマはそれを、心の中で約束した。

その日の昼、レーヴェンの中央広場。


アルマと、ガレリスと、ハーミーネと、セオドアと、ガルが、馬車に荷物を積んでいた。広場の周りには、すでに市民が集まり始めていた。


「アルマちゃん!」


ティナが駆けてきた。母親もその後ろからゆっくりと歩いてきた。


「ティナちゃん!」


アルマはティナを、ぎゅっと抱きしめた。


「もう、お別れなの?」


「うん。──でも、また、来るから。それに、お婆ちゃんが、いいよって言ってくれたら、ティナちゃんと、お母さん、辺境の里にも来てね。お母さんが、薬草スープ作ってくれるから」


「ほんとうに?」


「ほんとうに!」


ティナの後ろから、ニコが近づいてきた。彼の頬の腫れは、もう、ほとんど引いていた。


「アルマちゃん。──ありがとうございました」


「ニコさんも、また、来てください、辺境に」


「行きます。必ず、行きます」


「ガルが、待ってます」


「ガル殿が迎えてくれるなら、心強いです」


ニコは、ガルの銀の毛並みに、軽く手を当てた。ガルは、ふん、と鼻を鳴らした。


「ガフ」


──おまえ、いいやつだ。


「ニコさん、ガルが、いいやつだ、って」


「光栄です」


その後ろから、八百屋の女主人もやってきた。


「アルマちゃん。これ、お餞別と思って、持ってきた」


彼女が差し出したのは、籠だった。籠の中には、自家製のハーブと、果物と、それから、小さな布のお人形が入っていた。


「お人形?」


「うちの娘が、子供の頃遊んでたお人形だよ。──いまは、もう、大きいから、いらない、って。アルマちゃんに、もらってほしいって言ってた」


「うわぁ。ありがとうございます!」


アルマは、そのお人形を両手で受け取った。それから、ガレリスを振り返って、お人形を見せた。


「お父さん、見て。お人形もらった」


「よかったな、アルマ」


ガレリスが頷いた。


集まった市民が、いつのまにか、何百人にもなっていた。最前列に、ティナと、ティナの母親と、ニコと、八百屋の女主人。その後ろに、貧民街でヴェロニカ草をもらった、無数の人たち。さらにその後ろに、中央市場で葉を配った、屋台の主たち。


そしてその、すべての人々の後ろに──ヴェルダンス公爵旗を、自分の店に掲げた、何十軒もの店主たちが立っていた。


馬車の準備が整った。

アルマと、ハーミーネと、ガレリスと、セオドアと、ガルが、馬車に乗り込んだ。御者台にリカルドが座った。彼は、ヴェルダンス城まで一行を送り届ける役だった。


市民がいっせいに、頭を下げた。


「アルマちゃん、ありがとう!」


「また、来てね!」


「アルマちゃん、お元気で!」


馬車がゆっくりと動き始めた。


アルマは窓から身を乗り出して、ぶんぶんと手を振った。


「皆さん、ありがとう! また、来ます! 絶対来ます!」


馬車が広場から出ていく。市民たちの声が追いかけてくる。アルマはもう一度振り返って、市民たちに手を振った。それから、馬車の中に戻った。


戻ってから、アルマはふと、自分の頬を触った。

頬が濡れていた。


「あれ、私、泣いてる」


ガレリスが、低く笑った。


「ああ。──別れは寂しいものだ、アルマ」


「うん。──寂しいって、こういう感覚なんですね。私、初めてだ」


「うむ」


ハーミーネが、しわだらけの手で、孫娘のような少女の頭を撫でた。


「アルマや。お主、ティナちゃんという、お友達ができた、ということじゃ」


「友達と別れるのは、寂しいんですか」


「うむ」


「──それはそうですね。私、ガルがいなくなったら、もっと寂しいです」


「ガフ」


──われは、いなくならぬ。


「うん。ガル、ずっと一緒にいてね」


「ガフ」


アルマは、ガルの銀の首に、顔をうずめた。


馬車は、レーヴェンの市場を抜けて、城門へ向かっていた。




同じ頃、レーヴェンの別の街門。


灰色の髪の男が、商人風の目立たない馬車に乗り込んでいた。馬車の御者は、彼の年下の部下だった。


「会頭」


部下が、御者台から低く声をかけた。


「王都まで、馬車で十二日です。──道中、何か、ご指示がありますか」


「うむ」


灰色の髪の男は、ローブの内側から、薄い革表紙の報告書を取り出した。表紙には何も書かれていない。けれど、彼の指は、その表紙をしばらく撫でた。


「これを、王都に着いたら、まず、第七番館へ。それから、写しを、第三番館へ」


「は」


「内容は見るな」


「は」


灰色の髪の男は、報告書をしまった。それから、馬車の窓から、レーヴェンの街並みを最後にひと目見た。


街はよく晴れていた。

昨日、群衆がアルマに「ありがとう」と声を上げた、中央広場の上の空が、青く澄んでいた。


「会頭。──行く前に、ひとつだけお伺いしても」


「申せ」


「あの少女、本物、ですか」


灰色の髪の男はしばらく、答えなかった。

それから、低く答えた。


「本物だ」


「それは──ハーミーネ・グリモワールの後継者として、ですか」


「いや」


「では」


「彼女は、ハーミーネ・グリモワールが四十年前に見ていた未来そのもの、だ」


「未来、ですか」


「うむ。──ハーミーネは四十年前、宮廷で『魔法は、覚えるものではない。創造するものだ』と言うた。あれはその時、誰にも理解されなかった。一笑に付された。我々ですら、それをただの理想主義として扱った」


「……」


「だが、いま、辺境の六歳の娘が、その理想を現実として生きておる。──ハーミーネは四十年前に、それを見ていた、ということだ」


「会頭」


「うむ」


「我々は、その理想と戦うのですか」


灰色の髪の男はしばらく黙った。

それから、馬車の座席の背にもたれた。


「戦う、というのは正確ではないかもしれぬ。

──だが、我々の組織はそれを『戦う』と表現する。それは本部の上席の方々のお決めになることだ」


「……」


「私ができるのは、報告だけだ。──行くぞ」


馬車が動き始めた。


灰色の髪の男は、窓の外のレーヴェンの街を、もう見なかった。

彼の目の前にあるのはもう、王都の地下の窓のない部屋、だけだった。




その日の夕方。



ヴェルダンス城に戻ってきたアルマたちは、夕餉のあと、公爵に別れの挨拶をした。


「閣下。お招きありがとうございました」


ガレリスが、深く頭を下げた。


「礼を申すのはこちらの方じゃ。──あなたがた、グリモワール村の方々の勇気とお知恵で、レーヴェン領は救われた」


「いいえ、私たちはただ、薬草を配っただけです」


「うむ。──だが、その『ただ薬草を配っただけ』が、レーヴェンのいちばんの救いだった」


公爵は頷いた。それから、アルマを振り返って軽く笑った。


「アルマ嬢」


「は、はい!」


「先日、君は私にこう聞いたな。──『ヴェルダンスのお城に、私の知らない魔法、ありますか』、と」


「はい、聞きました」


「答えはこうじゃ。──ヴェルダンスのお城には、君の知らない魔法はなかった。あったのは、君の知らない、計算じゃった」


「計算?」


「うむ。──だが、君のお庭ひとつで、その計算はすべてひっくり返った。──私は、いまから新しい計算を始める。それは、君に見えないところで、する」


「お城の、お仕事、ですか」


「うむ。お城のお仕事じゃ」


「閣下、頑張ってください!」


アルマは、にこっと笑った。


公爵が、ふっと笑った。


「アルマ嬢。──ありがとう」


「えへへ」


公爵は、ガレリスに向き直った。


「ガレリス殿」


「ええ」


「いずれ、また、お会いしたい。今度は、私が辺境の里へお伺いするかもしれぬ」


「閣下が辺境へ?」


「うむ。──里の薬草スープを、馳走になりたい」


ガレリスは、低く頷いた。それから、ふっと笑った。


「妻が、喜びます」




翌朝、夜明け。


ヴェルダンス城の城門の外で、馬車が待っていた。


公爵は、城門の内側で彼らを見送った。


「皆様、お気をつけて」


「ありがとうございます、閣下」


ガレリスが馬車に乗り込んだ。続いて、ハーミーネ、セオドア、アルマ、ガル。


馬車が動き始めた。


アルマが、馬車の窓からもう一度、ヴェルダンス城を振り返った。城は朝の光のなかで、白く輝いていた。塔のいちばん高いところに、青い旗がはためいていた。


「お城、おっきいね、ガル」


「ガフ」


──おまえはいつも、そういう。


「えへへ」


馬車が城門を抜けて、街道に出た。

そして、アルマの視界から、ヴェルダンス城がゆっくりと遠ざかっていった。


その同じ瞬間、ヴェルダンス城のいちばん高い塔の上に、シャルル・ド・ヴェルダンス公爵が立っていた。


公爵は塔の欄干に、軽く手を置いて、遠ざかっていく辺境の馬車を見下ろしていた。彼の隣にはリカルドが立っていた。


「閣下」


リカルドが、低く口を開いた。


「アルマ嬢をお送りした、後のご予定は」


「うむ。──書斎に戻る。今夜から王都の密書を、何通か書く」


「何通、ですか」


「五通じゃ。一通は、王都の私の腹心へ。二通目は、宮廷の第二書庫長へ。三通目は、神殿の上席神官へ。四通目は、隣領のライバル公爵へ。──そして、五通目は」


「五通目」


「神聖聖法国の、若い枢機卿、ひとり」


リカルドが、息を呑んだ。


「閣下、それは──国外、ですか」


「うむ」


「ルクス・ノクテへの対抗、ですか」


「うむ。──ルクス・ノクテは王国の内側に根を張った組織じゃ。だが、王国の内側だけで戦うと、こちらが不利になる」


「では、国外の勢力と結ぶ、と」


「結ぶ、というのともすこし、ちがう。──聖法国の若い枢機卿は、ハーミーネ殿の思想に共感する可能性がある。彼がこちらの味方についてくれれば、王都のルクス・ノクテは国際的に孤立する」


リカルドはしばらく考えてから、頷いた。


「閣下、その五通の密書を書き終わるのに、何日、要しますか」


「夜を徹して、三日じゃ」


「三日、徹夜なされますか」


「うむ」


「閣下、御身を、お労りを」


「リカルド」


公爵はゆっくりと、リカルドを振り返った。


「私は四十年、傍観者だった。──いま、寝ている時間はない」


リカルドは、深く頭を下げた。


馬車はもう、城門からかなり遠くに行っていた。アルマが最後にもう一度、窓から振り返って、城を見上げた。

ヴェルダンス城のいちばん高い塔のところに、公爵の姿を認めた、はずだった。けれど、アルマには、それがわからなかった。彼女にはただ、城の塔のいちばん高いところに、人影がひとつ見えただけだった。


「あ、お父さん」


「うむ」


「お城のいちばん上のところに、誰かいる」


「うむ」


「誰、ですか」


「閣下じゃないか、たぶん」


「閣下が、見送ってくださってるんだ」


アルマは、窓からぶんぶんと、手を振った。


塔の上の公爵は、その小さな、振られている手を、城門のはるか向こうに認めた。

そして、彼も自分の手を、軽く欄干から離して、答えた。


それは、誰の目にも見えない、小さな手の振り方だった。

けれど、それは、公爵の五十二年の人生で、誰かに向かって自分の手を振った、初めての瞬間だった。


「閣下」


リカルドが、低くつぶやいた。


「アルマ嬢に、見えていないと思いますが」


「うむ。──見えなくて、よい」


公爵は、微かに笑った。


「あれは、私の計算ではなく、私のただの人間のお別れのしるしじゃ」


「は」


「リカルド、私は書斎へ降りる」


「は」


二人は、塔から降りていった。

塔のいちばん高いところには、青い旗だけが残された。

旗は、朝の風にふっとはためいた。




そして、街道。


馬車のなかで、アルマは、城がもう地平線の向こうに消えるのを、ずっと見ていた。


「お父さん」


「うむ」


「私たち、辺境に帰るんですね」


「ああ」


「お母さんに、会えますね」


「ああ」


「ルカ兄ちゃんに、お土産話いっぱいしなくちゃ」


「ああ」


アルマは、隣のハーミーネの皺だらけの手を、自分の小さな手で握った。


「お婆ちゃん」


「うむ」


「公爵さま、お婆ちゃんにお手紙くださったんですよね」


「うむ。──お主、覗いたな」


「ちょっとだけ覗きました。あの、姓のところ見ました」


「うむ」


「お婆ちゃんも、グリモワール、なんですね。私と、お父さんと同じ」


「うむ」


「お婆ちゃんは、いつグリモワールになったんですか?」


ハーミーネは、ふっと笑った。


「アルマや。それはいずれ、お主がもう少し大きくなったら、儂がぜんぶ話す」


「いつ?」


「儂が決めるのは、お主が十歳になる頃かのう」


「四年後ですね!」


「うむ。──それまで、お主は楽しい毎日を過ごしておくがよい」


「はい!」


アルマは、にこっと笑った。それから、馬車の窓の外の街道の両側に広がっていく麦畑を見た。風が、麦の穂を揺らしていた。


「お婆ちゃん」


「うむ」


「ヴェルダンス、楽しかったです」


「うむ。──それで十分じゃ」


ハーミーネは、孫娘のような少女の頭を、しわだらけの手でゆっくりと撫でた。


その夜、馬車が街道沿いの小さな宿に泊まった。


アルマは、宿の窓辺でガルと一緒に、夜空を見ていた。

雲のない夜だった。

銀色の月が、天の中央にぽつんと浮かんでいた。


「ガル」


「ガフ」


「お母さん、いまごろ、辺境の家で月、見てるかな」


「ガフ」


──しっておる。

──お母上はいつも、夜空を見上げて、おまえのことを、おもうておる。


「うん」


アルマは、窓辺に肘をついて、月を見上げた。


──お母さん、お兄ちゃん。

──私、いま、ヴェルダンスのお城の向こうの宿にいます。

──明日から、辺境のお家まで、十五日くらいです。

──ティナちゃんという、新しいお友達ができました。お母さんが、薬草スープを作ってくれる、って約束しました。

──公爵さまも、いつか辺境のお家に来てくださるかもしれません。

──新しい魔法、たくさん作りました。萌芽と、陽だまり、です。

──家に帰ったら、ぜんぶ見せます。

──お母さん、おやすみなさい。

──お兄ちゃんに、剣を習いたいです。

──ガルも、私と一緒にお家に帰ります。


アルマは、目を閉じて、月に向かって、心の中でつぶやいた。


──また、家に帰ります。

──そのあと、私はまた、新しい魔法を作ります。

──そして、たぶん、また知らない街に出かけます。

──知らない街には、知らない、お友達がいて、知らない、お薬の足りない人がいて、知らない、魔法のヒントがある、と思います。

──私は、それをぜんぶ見たいです。


ガルが、アルマの足元に、太い首をすり寄せた。


「ガフ」


──おまえはいつも、そうだな。


「えへへ」


少女と銀の月狼は、窓辺で夜空の月を、しばらく見ていた。


それから、アルマはベッドにもぐり込んだ。

ガルは、その傍らに身を横たえた。


少女がすぐに、寝息を立て始めた。

ガルはしばらく、その寝顔を見ていた。


そして、月狼の銀の鼻先が、夜風のなかにわずかな別の匂いを嗅ぎ取った。


それは、王都の方角から漂ってくる、まだ遠い、けれど確かに近づきつつある、淀んだ匂いだった。


灰色の髪の男が王都へ向かって、馬車を走らせている、その匂いだった。

そして、その向こうに、ルクス・ノクテの地下の組織が、辺境の少女について報告を待っている、その匂いだった。


ガルは、低く唸った。

けれど、唸りをすぐに止めた。


──いま、おまえに、つたえることでは、ない。

──おまえはまだ、おうちに帰る、こどもだ。


銀の月狼は、眠る少女の傍らに、身を横たえた。


そして、月のない、闇の中で、ガルはひとり起きて、街道のその向こうの王都を、しばらく見つめていた。



そして、辺境のグリモワール村。


その夜、アニエスは薬草園の手入れを終えて、家に戻ってきた。台所の窓から、外の月を見上げた。


ヴェルダンスの月と、グリモワール村の月は、同じ銀色だった。

それを、彼女は知っていた。


「ルカ」


ベッドのなかで、本を読んでいたルカが、顔を上げた。


「ん、母さん?」


「月、出てるね」


「うん」


「アルマも、いま見てるかしらね」


「たぶん、ね」


ルカは本を閉じて、笑った。


「アルマ、新しい魔法をいっぱい作ってると思う」


「そうね。──きっと、そう」


アニエスは、台所の窓辺で、月に向かってつぶやいた。


「アルマちゃん。──毎日、楽しい?」


返事はなかった。

けれど、銀色の月だけが、彼女のつぶやきを聞いていた。


そして、月はその問いを、ずっと、ずっと、遠くの街道の宿の窓辺の、辺境の少女の寝息のところまで、運んでいた。


──アルマちゃん。

──毎日、楽しい?


少女の寝息は、優しく答えていた。

楽しいよ、と。


それは、母には聞こえなかった。

けれど、月だけが、それをちゃんと運んで伝えていた。


そして、その夜、月は、もうひとつのことも、知っていた。


──まだ、誰も、知らない。

──王都の闇が、いずれ、辺境の少女のところまで伸びてくることを。

──そして、その日、辺境の少女がふたたび、家から出ていくことを。

──そのとき、彼女のうしろには、ヴェルダンス公爵と、セオドアと、ガレリスと、ハーミーネと、ガルと、ティナと、ニコと、八百屋の女主人と、レーヴェンの、何百人もの市民が、立っていることを。


月はそれを見ていた。

けれど、月は誰にも、それを伝えなかった。


ただ、月はその夜、空のいちばん上で、ふっと笑ったように銀色に光った。


辺境のグリモワール村で、アニエスがその光を見上げた。

街道の宿の窓辺で、アルマの寝息がそれに応えていた。

そして、ヴェルダンス城の書斎の机で、公爵が、最初の密書の第一行を書き始めていた。


『神聖聖法国、聖アルベリック修道院、若き枢機卿カミラ猊下、御許へ──』



──まだ、誰も知らない。これから、辺境の少女と、ヴェルダンス公爵と、神聖聖法国の若き枢機卿の、思いがけない出会いが、王都の闇を一気に揺るがすことを。

──だが、それは、また、別の話だ。

──いまは、ただ、月がふっと笑った。

──それで、十分だった。


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