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『辺境育ちの天才発明魔導師 〜新しい魔法を作りたいだけなのに、なぜか世界が騒がしくなります〜』  作者: 夕凪 鏡介


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幕間「公爵の計算」

私の名は、シャルル・ド・ヴェルダンス。

五十二歳。ヴェルダンス領、領主。──そして、四十年の傍観者だった男。


今夜、私の机の上には、二つの書類が並んでいる。一つは、ドーラン・メルカディスの贈与帳簿。彼の罪の几帳面な記録。──もう一つは、まだ、何も書かれていない、白い羊皮紙。これは、王都の私の腹心への、密書になる予定だ。


書く前に、私は、自分の手を見た。


五十二年、私はこの手で無数の計算を行ってきた。領内の税率の計算。隣領との交易の利幅の計算。王都の貴族たちと距離を置く、その距離の計算。──そして、ハーミーネ・グリモワール殿が四十年前に宮廷で声を上げた、あの夜のあと、私がそれを傍観すべきか、立つべきかを、決めるための計算。


私の計算は、いつも、正確だった。

それゆえに、いつも、何も変えなかった。


正確な計算はいつも「いま、動くべきではない」と、私に答えた。

私は、その答えに、従い続けた。

それで、四十年。

あの少女が、私の城に着いた日のことを、書いておきたい。


朝、私は家臣の報告で、辺境の客の馬車の到着を知った。私は玄関には出なかった。慣例だ。領主は、客の到着を玄関で迎えない。──だが、それだけが理由ではなかった。


私は、その日、まだ、迷っていた。


辺境のグリモワール村で、凶暴魔物の群れを、誰一人、死者を出さずに撃退した、というのは、辺境からの不確かな報告に過ぎなかった。けれど、その報告のなかで、ハーミーネの名が出ていた。──四十年前、宮廷から消えた、あの女がいま、辺境のその村にいる、と。


ハーミーネが、生きている。

それは私にとって、ひとつの計算が、四十年ぶりにひっくり返る、ということだった。


私はハーミーネを招くべきか、彼女を放っておくか、迷っていた。──招けば、私の四十年の傍観が、もう、続けられないことになる。放っておけば、四十年の傍観は、五十年、六十年と伸びる、だけだ。


私は、招くことに決めた。

ただし、それは覚悟ではなかった。

ただ、「ハーミーネがいま、何を思っているか」を知りたかった、それだけだった。


そして、その日の午後、彼女が辺境の少女と一緒に、私の謁見の間に入ってきた。


ハーミーネは、しわが深かった。背が曲がっていた。けれど、その瞳の深いところで、私の知っていた、四十年前の若き宮廷魔導師の目が、まだ、生きていた。


私はそのことを、誰にも言わずに、ただ、頭の中で確認した。

──ああ、ハーミーネ・グリモワール殿。

──四十年、お変わりない。


そして、私は彼女の隣に立っていた、辺境の少女に、初めて目を向けた。


六歳。

寝癖。

銀の髪。

紫水晶の、大きな瞳。


──普通の、六歳の子供だ。

私の最初の計算は、そう、答えた。


辺境の村長の娘。ハーミーネの弟子。可愛らしい、好奇心の強い子供。──騒がれているほど、特別ではない。たぶん、ハーミーネの教育の賜物に過ぎない。


私はその計算に、満足していた。

それなら、ハーミーネを、私の四十年遅れの再会の相手として扱えば、よい。少女は保護対象の子供として扱えば、よい。私の四十年の傍観は、たぶん、五年、六年は伸ばせる。


──そう計算していた、その瞬間。


少女が、私の杖を見て、口を開いた。


「光と風が、別々に、動いてます。混ざってないんです。だから、ちょっと、もったいないなって」


私の五十二年の計算が、その瞬間、ひとつだけ、止まった。


私の杖の、ふたつの魔力陣の設計を、ヴェルダンス家以外で口にできた者は、私の知る限り、四人しかいない。宮廷魔導師団の長老格、三人。──そして、ハーミーネ殿、ひとり。


それを、寝癖の六歳が、一目で。


私はすぐには、答えなかった。彼女の目を見た。

そこには、私の計算に入っていなかった、ある種の目があった。


純粋。

──そう書けば、簡単すぎる。

私が見たのは、「何も計算していない者の目」だった。


私の五十二年の人生で、私は『何も計算していない者』に出会った経験が、ほとんどなかった。家臣たち、家族、客、敵、味方。──皆、何かを計算していた。私自身も誰よりも、計算していた。


その私の目の前で、寝癖の六歳が私の杖の家宝の魔法陣を見て、ただ『もったいない』と言った。


──ああ、ハーミーネ殿。

──あなたが、この子の師匠を引き受けたのは、たぶん、儂の宮廷時代と同じ理由か、もしくは、全く、ちがう理由、ですね。


私はそれを、口には出さなかった。

ただ、計算を、一度、止めた。


それから、晩餐の間で、その子は、シャンデリアのちらつきを、肉を食べる合間に、直してしまった。


光と、風の、複合。

それは、私の五十二年の人生で、自分の杖の中でしか、見たことがない技だった。


私の計算は、その晩、もう一度、止まった。


そして、その晩、私はようやく、自分の本当の用件を口にした。

レーヴェンの薬の話を。


辺境の少女は、首を傾げて言った。


「薬が、足りないなら、作ればいいと、思います」


私はその瞬間、自分の計算盤を机から押しのけた。


このとき、私はまだ、自分がそれをしたことに、気づいていなかった。

気づくのは、もっと後になる。

私はここで、正直に書く。


その晩、晩餐のあと、私は執務室にひとりになって、思った。

──この少女を、私の政治の駒にできる、と。


辺境から来た、自力で凶暴魔物を退けた、ハーミーネの弟子。彼女の存在は、私の王都に対する独立性を強化する、最強の切り札になる。私は彼女の保護者を装い、彼女の力を私の領内の問題の解決に使い、そして、彼女の名前を王都との交渉のテーブルに置く。


それは、私の五十二年の計算の、ひとつの頂点だった。

それゆえに、その夜、私は計算したことを、自分自身に隠さなかった。


──私はヴェルダンス領主だ。

──私の領を守るためには、駒は多いほうが、よい。

──六歳の辺境の少女、いっぴき、それも駒になる。


そう、思った。

そして、その思いを隠さずに書いておく。

それが、私が書き残しておきたい、私の計算の最後の姿、だからだ。


──私は、計算を、やめなかった。

──やめなかったのは、私が悪人だから、ではない。

──四十年、計算をやめなくても領を保てた、その慣性だった。

三日目に、私は自分の計算が、すこしずつずれていくのを感じた。


少女とハーミーネと、その他の辺境の人たちは、レーヴェンの貧民街で、ティナという知らない少女の、知らない母親を、無料で治した。


それは、私の計算の外にあった。

私の計算では、辺境の少女は、私の政治の駒として、私の指示を待つはず、だった。

彼女は待たなかった。

彼女は、私の指示を無視した、わけでもなかった。

ただ、彼女には、最初から、私の指示が必要、なかった。

彼女は自分の目の前の、薬の足りない子供たちに、薬を配るために、ただ、薬草を育てていた。


私の政治の駒は、私の政治の盤からは、もう、はみ出していた。


私は執務室で二日、ハーミーネ殿に密書を書こうとして、書けなかった。


書こうとしたのは、こうだった。

「アルマ嬢に、もう少し、私の意向に沿った動きをお頼みいただきたい。彼女の自由な行動は、王都への私の交渉の駒としては、扱いにくい」


──書けなかった。


ハーミーネ殿が、私のその密書を読んだら、どう、思うか。

それを想像した瞬間、私の羽根ペンが、止まった。


ハーミーネ殿は、たぶん、こう答える。


「シャルル殿。お主はまだ、ご自分の政治の盤の上で、お主の計算をしておるのか。──四十年前と、変わらぬのう」


そう想像した私の頬が、熱くなった。

五十二歳の領主が、頬を赤らめる。──そんな経験は、十五歳のときに母上に叱られて以来、なかった。


私は、密書を丸めて捨てた。

そして、別の密書を書き始めた。


王都の私の腹心への、調査依頼だった。

ドーランの、王都の贈与先について。

──私はもう、その時点で、密かに自分の計算盤をひっくり返し始めていた。


私は自分で、それに、まだ、気づいていなかった。

決定的だったのは、第四日目の夕方、宿の屋根裏で、私の家臣が見た光景の報告だった。


ドーランの私兵が、貧民街の家屋を襲い、葉を奪った。

辺境の人たちは、宿の屋根裏でそれを聞いた。


そのとき、辺境の少女はノートに何かを書きながら、こう言った、という。


「私、毒、作ってないですよ?」


──普通だ。

──普通の、六歳の、当たり前の反応だ。


それから、彼女はしばらく考えてから、こう言った。


「ドーランさん、可哀想ですね」


──ドーランさん、可哀想ですね。


私はその一言を家臣から伝え聞いて、執務室でしばらく動けなかった。


私の五十二年は、ドーランのような敵を、いつも、こう扱ってきた。

──敵に塩を送るな。

──敵に隙を見せるな。

──敵を許すな。


それが、ヴェルダンス家の、五代続いた家訓だった。


そして、私はそれに忠実に生きてきた。だから、私は五十二歳まで生きてこられた。

──いや。

──五十二歳までヴェルダンス領を保ってこられた。

──と、私は自分に言い聞かせてきた。


辺境の六歳の少女は、私の五代の家訓を、一言で無効化した。


「ドーランさん、可哀想ですね」


それは、敵を許す、という意味ではなかった。

それは、敵を敵として見ない、という意味でもなかった。

それは、ただ、「ドーランがいま、自分のいちばん大事なものを奪われそうになって、嘘をついている」、その事実を、辺境の少女が見て、彼女の純粋な感情で応えた、ということだった。


哀れみ、というのは、計算ではなかった。

ましてや、戦略でもなかった。

彼女はただ、ドーランを見て、可哀想だと思った、それだけだった。


私の五十二年の計算は、そこでようやく、自分の形を失った。

その夜、私は執務室で、机の上に三つの書類を並べた。

ドーランの贈与帳簿の写し。

私兵の強奪リスト。

そして、ドーランの王都の贈与先の推定資料。


私はそれを見ながら、ようやく、自分自身に問いを立てた。


──シャルル・ド・ヴェルダンス。

──お前は、なぜ、四十年、傍観者でいられたのか。

──それは、計算が、いつも、「動くべきではない」と答えたから、だ。

──だが、その計算は、何のためにあった。


私は、自分に答えた。


──ヴェルダンス領を、保つため、だ。


──ヴェルダンス領を保つ、とは、何か。


──領内の民が、安寧に暮らせる、ことだ。


──いま、レーヴェンの貧民街では、薬が足りずに、母親が死にかけている。それは、領内の民の安寧、と言える状態か。


──否、だ。


──では、なぜ、お前は、四十年、その状態を見て、計算を「動くべきではない」と答えさせてきた、のか。


私は、自分に答えなかった。

答えられなかった。


私は執務室でひとりで、しばらく、座っていた。

それから、リカルドを呼んだ。

そして、明日の朝、ニコの小屋の前に、私の旗を掲げよ、と命じた。

それは、ドーランへの宣戦布告だった。

それは、王都のドーランの贈与先の貴族たちへの、宣戦布告でもあった。


私の四十年の傍観は、その夜、ひとつの決断によって、終わった。


リカルドが執務室を出た、そのあと、私はひとりになった。

そして、その夜、初めて、私は心の中でつぶやいた。


「ハーミーネ殿」


それは、四十年、私が誰にも聞かせなかったつぶやきだった。


「あなたは四十年前、ひとりで立った。今度は、私が立つ番です。──少し、遅すぎた。だが、まだ、間に合うはず、です」


その声に、誰も応えなかった。

けれど、応えなくてよかった。

私は自分の四十年の傍観を、自分自身に自白した。

それが、いちばん、必要なことだった。

そして、今日。


ドーランは解任された。私兵は紋章を外して、姿を消した。

中央広場で、群衆は辺境の少女に「ありがとう」と声を上げた。

私はその隣で、辺境の少女がこう答えるのを聞いた。


「ありがとう、は、私じゃ、なくて、皆さんに、です」


私はその瞬間、私の計算盤の最後の欠片が、机から滑り落ちる音を聞いた。


私は、自分の政治の駒として、彼女を扱おうとしたことが、あった。

彼女はそれに気づかずに、ただ、「皆さんに、ありがとう」と言った。


私の四十年の計算は、敗北したのではない。

彼女に、最初から計算が必要、なかったのだ。


私は、自分の頭を下げた。

群衆に向かって。──そして、辺境の少女に向かって。


「アルマ嬢の言う通りじゃ。──皆、ありがとう」


そう言ったとき、私の声は、自分でも驚くほど、震えていた。

誰も気づかなかった、はずだ。

群衆の歓声に紛れて、私の声の震えは消えた、はずだ。

だが、私にはわかった。


──私は五十二歳で、初めて、自分の計算ではない言葉で、群衆に頭を下げた。


それは、私の四十年の傍観の、終わりの儀式だった。

いま、執務室の机の上に、私は白い羊皮紙を広げている。


これは、王都の私の腹心への密書だ。

内容はこうなる予定だ。


「ドーランの贈与先の貴族たち、その背後の勢力の調査を急がれたい。

特に、ルクス・ノクテと呼ばれた研究派閥の、現在の構成員の特定。

──彼らは、辺境の少女にすでに目をつけている。

彼らが王都で動く前に、私たちは王都に、こちらの味方を増やす必要がある」


書きながら、私はもう一度、自分の手を見た。


これは、五十二年、計算を続けてきた手だ。

四十年、傍観を続けてきた手だ。

そして、いま、ようやく、その計算をひとつのことのために使うと、決めた手だ。


辺境の六歳の少女が、これから、王都の闇に追われる、その日まで、私は彼女がただ薬草を育て、葉を配り、新しい魔法を作り続けることができるように、その背後で、計算を続ける。


私の四十年の傍観は、終わる。

だが、私の五十二年の計算は、終わらない。

形が変わるのだ。


私は、それを自分に約束した。

そして、いま、その約束を、初めて誰かに伝えたい、と思った。


机の引き出しから、もう一枚、白い紙を取り出した。

そこに、私は宛名を書いた。


「ハーミーネ・グリモワール殿」


四十年、口にしなかったその姓を、自分の手で書く。

それだけのことが、これほど難しい、とは思わなかった。


私は本文をこう書き始めた。


「ハーミーネ殿。

四十年、ご無沙汰、いたしました。

私は四十年、貴殿の声を聞いていながら、ただ、距離を置いておりました。

それは、私の五代の家訓と、ヴェルダンス領主の責任と、王都の腐敗への私の判断、すべてを合計した計算の結果でした。

──ですが。

それは、ただの傍観だった、と、いまはわかっております」


私は、ペンを止めた。

それから、続けた。


「貴殿のお弟子のアルマ嬢が、私の四十年の計算をひっくり返しました。

ひっくり返したつもりがなかったところが、彼女のいちばんの強さでした。

──私はこれから、彼女が安心して、新しい魔法を作り続けられる、その背後を引き受けます。

それが、四十年遅れの私の答えです」


私は、ペンを置いた。


しばらく、その密書を見ていた。

それから、署名を書いた。


「シャルル・ド・ヴェルダンス」


そして、もう、書き足さなかった。

書き足す必要は、なかった。


私はその密書をたたんで、自分の懐にしまった。

明日の朝、私はこれをハーミーネ殿に、自分の手でお渡しする。


リカルドや家臣を使うことでは、ない。

これは、私自身の四十年の決算で、ある。

それを人に運ばせるわけには、いかない。

燭台が、机の上で揺れている。

それは、いつぞやの夜と同じ灯りだった。

私の顔の半分を橙色に染め、もう半分を影に沈める。


ただし、今夜のその光と影は、もう、四十年の傍観の光と影では、ない。

今夜のその光と影は、これからの十年、二十年の計算の光と影だ。


私は、自分の手をもう一度、見た。

そして、その手で、まだ白い、王都への密書の上にペンを走らせた。


書きながら、私はもう、自分の計算が、政治の駒の配置のためではない、ことを知っていた。


私の計算はこれから、辺境の六歳の少女が、ただ新しい魔法を作り続けるための計算になる。

私はそれを、五十二年、ようやく見つけた、自分の人生の用件だと、思っている。


少し、遅すぎた。

だが、まだ、間に合うはずだ。


──シャルル・ド・ヴェルダンス。

──お前は四十年、傍観者だった。

──だが、今夜から、お前は、辺境の少女の背後を計算する男だ。


私は自分自身に、その新しい名前を与えた。

そして、燭台をふっと吹き消した。


執務室は、闇に沈んだ。

だが、その闇のなかで、私の目の奥に、新しい計算がひとつ、ふたつと、灯り始めた。


ドーランの王都の贈与先の貴族たちの数。

ルクス・ノクテの現在の構成員の推定数。

ハーミーネ殿が覚えているはずの、彼らの組織の内部構造。

そして、辺境の少女がこれから王都に知られる、その時間の計算。


私はこれから、いくつかの夜を徹してそれを計算する。

それが、私の四十年遅れの答えだ。


──少し、遅すぎた。

──だが、まだ、間に合うはずだ。


私は心の中で、もう一度、そうつぶやいた。

そして、辺境の少女がいつか、私のこの計算の存在を知らずに生涯を終えてくれることを、ひそかに願った。


それが、たぶん、彼女のいちばんの幸せ、だからだ。

そして、彼女がそれを知らないまま生きてくれることが、私の四十年の傍観のいちばんの贖罪、だからだ。


執務室の燭台は、消えた。

だが、ヴェルダンス城の最上階の執務室の影の中で、五十二歳の領主は、ひとり、目を開けて、座っていた。


そして、まだ、誰にも見えない、夜明けの前の闇のなかで、四十年の傍観者は、初めて立ち上がろうとしていた。


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