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『辺境育ちの天才発明魔導師 〜新しい魔法を作りたいだけなのに、なぜか世界が騒がしくなります〜』  作者: 夕凪 鏡介


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第13章「辺境への帰路と、新しい家族」

朝、街道の馬車。


アルマは馬車の窓辺に頬杖をついて、外を流れていく麦畑をぼんやりと見ていた。


ヴェルダンスからグリモワール村まで馬車と徒歩で十五日。今日はその七日目だった。中間あたり。村までまだ八日かかる。


「お母さんもうすぐだね」


アルマは隣でうとうとしているガルにぽつりとつぶやいた。


「ガフ」


──しっておる。


「お兄ちゃん剣上手になってるかな」


「ガフ」


──しっておる。


「お婆ちゃんに新しい魔法、見せたいな」


「ガフ」


──しっておる。


アルマはふっと笑った。


「ガルなんでもしっておる、って言うんだね」


「ガフ」


──しっておる、と、いえば、おまえが、すぐに、つぎを、はなす、からだ。


「えへへ」


アルマはガルの銀の毛並みに頬をすり寄せた。月狼の毛は馬車の中でもほのかにひんやりと月の匂いがした。


しばらく二人は黙っていた。馬車の床が街道の石にこつ、こつと当たる音だけが響いていた。


「ねえガル」


「ガフ」


「ガルはいつも私の話、聞いてくれるけど」


「ガフ」


「ガルのお話ほとんど聞いたことないなって」


ガルはしばらく答えなかった。


それから低く息を吐いた。


「ガフ……」


──きいて、どうする。


「えっとねガルが好きなお話聞きたい」


「ガル……」


──むかし、ばなしを、するな。

──われは、はずかしい。


「お話するの恥ずかしいの?」


「ガル」


──われは、はずかしい。


アルマはその答えにぱちぱちと瞬きをした。それからガルの首に両手を回して、ぎゅっと抱きしめた。


「じゃあ恥ずかしくない、お話ひとつだけ」


「ガフ」


──……ひとつ、なら。


「うんひとつだけ」


ガルはしばらく目を閉じていた。月狼が何かを思い出す時の目だった。アルマはそれを待った。


「ガル……」


──きたの、ずっと、おく。

──やま、ふたつ、こえた、ところ。

──たに、が、ある。


「谷?」


「ガフ」


──つきろうぞくの、たに、だ。


アルマは息を止めた。


「月狼族の谷」


「ガフ」


──われの、ふるさと、だ。


アルマはガルの首から顔を上げた。それからガルの金色の瞳をじっと見た。瞳の奥に銀色の光がふわりと揺れていた。月狼の故郷を思い出している光だった。


「ガル。──私知らなかった」


「ガフ」


──いままで、はなさなかった。


「どうして?」


「ガフ……」


──われが、はぐれた、ばかりの、ころ。

──われは、たには、もう、なくなった、と、おもうて、おった。


「なくなった?」


「ガフ」


──ぐれごとの、けんかで、しんで、しもうた、おとうとも、いた。

──おかあも、いない。

──ちちのうえも、いない。

──だから、たには、もう、ない、と、われは、おもうて、おった。


アルマはしばらく答えなかった。


それからガルの銀の額に自分の額を軽く合わせた。


「ガル。お話聞かせてくれて、ありがとう」


「ガフ」


──おまえに、いって、すこし、らくになった。


「ガル知らないあいだにお母さんもお兄弟も亡くなってたんだね」


「ガフ」


──われは、はぐれて、にげて、にげて、ここに、きた。

──おまえの、3さいの、てに、ひろわれた。

──われに、たには、もう、ない。

──だが、おまえと、おまえの、いえが、われの、あたらしい、たに、になった。


アルマの頬をひとつ涙が流れた。

それからもうひとつ流れた。


「ガル」


「ガフ」


「私のお家がガルの谷でよかった」


「ガフ」


──われも、よかった、と、おもうて、おる。


アルマはしばらくガルの首に顔をうずめていた。

ガルはしっぽをひとつ揺らした。

それからまた目を閉じた。


外で麦畑が相変わらず流れていた。

朝の風が麦の穂をゆっくりと撫でていた。

その日の昼馬車が街道沿いの森に差しかかった。


森は深く両側から街道に迫っていた。木々の葉の隙間から午後の光が斑に地面に落ちていた。


「お父さん」


御者台の隣に座っていたセオドアがガレリスに声をかけた。


「次の宿場までもう少しかかります」


「ああ。それまでに馬を休ませる場所は」


「この先半里ほどで街道脇にひらけた場所があります。湧き水が出ます」


「そこで止めよう」


「はい」


馬車の中でガルがふと片目を開けた。


そして低く唸った。


「ガフ」


「ガル? どうしたの?」


アルマが首を傾げた。


「ガフ」


──におい。

──しんぞくの、におい、が、する。


「親族の匂い?」


「ガフ」


──つきろうの、におい。

──だが、ちが、まじっておる。


アルマの顔が青ざめた。


「お父さん!」


「ああ?」


「ガルが月狼の血の匂いを嗅いだって!」


「なんだと」


ガレリスは御者台のリカルドに急いで声をかけた。


「リカルド殿馬車を止めていただきたい!」


「は」


馬車がぎいっと止まった。ハーミーネは揺り椅子代わりの座席で目を細めていた。彼女は急かなかった。けれど彼女の表情がいつもとちがった。


「ガレリスや」


「は」


「アルマとガルを行かせなさい。──儂とお主とセオドアは付き添う。リカルド殿は馬車を守る」


「はい」


ガレリスは頷いた。


馬車の戸が開いた。アルマとガルがまず降りた。ガルは銀の鼻先を街道の脇の森の中に向けた。


「こっち」


「ガフ」


──そう、こっち。


アルマとガルが森の中に歩き始めた。後ろからガレリスハーミーネ、セオドアが続いた。


森の奥に進むほど葉の音がしんとなった。

普段森の中で聞こえる小鳥の声も虫の声もなかった。

不自然な静けさだった。


ガレリスが低くつぶやいた。


「魔物がいる」


「うむ」


ハーミーネが頷いた。


「じゃがガルが警戒を解いておる、ということは敵ではない」


「親族の月狼ですね」


セオドアがつぶやいた。


「うむ」


森の中を十分ほど進んだ。


ガルがふと足を止めた。


「ガフ」


──いる。

──ここ。


「ガルどこ?」


アルマが首を傾げた。


ガルが鼻先を低い茂みの根元に向けた。


そこに銀色の塊があった。


「あ──」


アルマが駆け寄った。


茂みの根元。

落ち葉の上。

若い月狼が横たわっていた。


毛並みは銀色だった。ガルより薄い銀。月狼族の若いメス。三歳くらいだろうか。額に三日月の紋章がある。けれどその紋章の下に──


別の紋章が焼き付けられていた。


ガレリスが息を呑んだ。

セオドアの頬の筋肉が止まった。

ハーミーネがしわだらけの目を細めて、低く息を吐いた。


「火と闇じゃ」


火と闇の二重陣。月狼の額の三日月のすぐ下に焼き込まれていた。

そしてその二重陣の外側に星とろうそくと楕円のうろを組み合わせた、奇妙な紋章があった。


ルクス・ノクテの紋章。


アルマはそれを見て両手で口を押さえた。


「お婆ちゃん」


「うむ」


「これ──」


「うむ。──ルクス・ノクテの新しい実験じゃ。今度は月狼を使うておる」


「実験……」


アルマは若い月狼の銀の毛並みに両手を当てた。月狼の息がわずかにある。けれど弱い。死にかけていた。


ガルが若い月狼の傍らにしゃがんで鼻先をその耳に当てた。

そして低く長く鳴いた。


「ガル……」


──しっておる、こだ。

──たにの、いもうとぶん。

──なまえは、シルヴェ。


「シルヴェ?」


「ガフ」


──たにの、ことばで、もり、という、いみ。


ガルの金色の瞳が揺れていた。月狼が長く家族と引き離されていて、いま再び出会ったその揺らぎだった。


「シルヴェちゃん」


アルマは月狼の首を両手で抱えた。


「シルヴェちゃん、息して。お願い」


ガルがシルヴェの額に鼻先を軽く押し当てた。


「ガフ」


──シルヴェ。

──ガル、だ。

──にいぶん、の。


シルヴェのまぶたがぴくり、と動いた。

それからゆっくりと開いた。

金色の瞳がぼんやりとガルを見上げた。


「ガフ……」


──にい、さま。

──ガル、にい、さま。

──やっと、あえた。


ガルが自分の銀の額をシルヴェの額に合わせた。

それは月狼族のもっとも深い挨拶のしるしだった。


アルマはそれを隣で見ていた。

そして自分がその光景を見ていていいのか、と迷った。


ハーミーネが後ろからしわだらけの手でアルマの頭を撫でた。


「アルマや。今はお主が必要じゃ」


「ははい」


「シルヴェの命はもう長くない。──刻印が深い」


「お婆ちゃん。私シルヴェちゃん、助けたい」


「うむ。──助けるなら書き換えじゃ。銀月の魔導書の応用じゃ」


「はい」


「じゃがシルヴェの体はもう弱っておる。──銀月の魔導書のように月光の大きな魔法陣を使うと書き換えの衝撃でシルヴェの心臓が止まる」


アルマの顔が青くなった。


「ではどうすれば──」


「精密にじゃ。──大きな月光の柱ではなく、シルヴェの刻印のひとつひとつの線をひとつずつ書き換えるんじゃ」


「ひとつずつ」


「うむ。──刻印の線を針で縫うように。書き換える」


アルマはしばらくシルヴェの銀の毛並みを見ていた。

それから頷いた。


「お婆ちゃん。私やってみます」


「うむ」

アルマはシルヴェの傍らに座った。


それから自分の腰の道具袋から、白チョークを取り出した。──いや白チョークでは足りなかった。シルヴェの体に直接新しい刻印を書き込まなければ、ならない。


「お婆ちゃん。──シルヴェちゃんの体に直接書きたい」


「うむ。──月狼の毛は銀じゃ。銀の上に銀の線は見えぬ。じゃが儂の杖の先端に特別な銀のインクが入っておる。これを使うがよい」


ハーミーネは自分の樫の杖の銀の柄をねじった。中から小さな銀の瓶が出てきた。


「四十年儂が温めておった、銀インクじゃ。──月光と相性がよい。お主の魔法陣に馴染む」


「ありがとうございます」


アルマは瓶を開けた。それから自分の白チョークの代わりに薄い銀色の液体に人差し指の先をひたした。


──シルヴェちゃんの刻印を、よく見る。

──火と闇の二重陣。

──これを、月光と治癒の二重陣に書き換える。

──ただし、ぜんぶいっぺんに、じゃなくて、線、一本ずつ。


アルマは銀インクのついた指をシルヴェの額の刻印のいちばん外側の線にそっと当てた。


火の陣の最も外側の円。

その上に月光の円をなぞる。


──ひとつ、書き換え。

──次。

──次。


ガルがシルヴェの反対側に座って、銀の毛並みをシルヴェの毛並みに寄せた。


ガルの銀が月光の魔力をシルヴェの体に流し込み始めた。アルマの銀インクがその流れに乗って、刻印の線を書き換えていく。


「ガルありがとう」


「ガフ」


──シルヴェの、たすけ、だ。

──われも、ちからを、かす。


アルマは慎重に慎重に線をなぞっていった。


火の外円から月光の外円へ。

火の調律記号から月光の調律記号へ。

それから闇の二重陣を治癒の二重陣へ。


「えっと線一本ずつ。

──おかあちゃんが、お裁縫するときの、針みたいに、ひと針、ひと針。──だから、これは、縫合、です。」


アルマは自分で自分の魔法に名前をつけた。誰にも聞こえないように小声で。


縫合ほうごう

裁縫の縫合と同じ字。

針で縫うように刻印を書き換える魔法。


セオドアが後ろからその様子を見ていた。

彼はしばらく目の前で起きていることをただ見ていた。

それからぽつりとつぶやいた。


「銀月の魔導書の精密版……」


「うむ」


ハーミーネが頷いた。


「アルマや。お主またひとつ新しい魔法を作っておる。──しかもお主はそれに気づいておらぬ、じゃろう」


「えっ?」


アルマは指を止めずに答えた。


「あのお婆ちゃん。私シルヴェちゃんを助けてるだけです」


「うむ。じゃがそれが新しい魔法になっておる」


「あそうですね。──じゃあこれ縫合、と呼びます。あとでノートに書きます」


ハーミーネがふっと笑った。


「お主のいつものことじゃ」


ガレリスが後ろから低く言った。


「アルマ。あとどれくらいかかる」


「えっと半時くらいです。──全部の線をひとつずつ書き換えるから」


「うむ。──俺たちは見張りだ」


ガレリスは刀を抜いて森の入り口の方を見ていた。

セオドアも剣を抜いた。

ルクス・ノクテの誰かがシルヴェを追って来る可能性があった。


森は相変わらずしんとしていた。


アルマは半時シルヴェの体に銀インクで線をなぞり続けた。


火の陣が月光の陣に書き換わっていった。闇の陣が治癒の陣に書き換わっていった。シルヴェの息が少しずつ深くなっていった。心臓の鼓動が戻ってきた。


「あいま最後の線、です」


アルマは最後の調律記号の一筆を銀インクでなぞった。


ぱちんと彼女は手を叩いた。


シルヴェの額の刻印が一瞬、橙色に光った。それから月光の銀色に変わった。次に治癒の緑色が混ざった。そしてゆっくりと淡い優しい光になって、消えた。


シルヴェの額にはもう火と闇の二重陣もルクス・ノクテの紋章もなかった。

ただ月狼族の三日月の紋章だけが残っていた。


「あ──終わりました」


シルヴェがゆっくりと目を開けた。

今度の目はもうぼんやりして、いなかった。

金色の瞳がしっかりとアルマを見上げた。


「ガフ」


──おまえ、なに。


「えっと私アルマ、です。アルマ・グリモワール」


「ガフ」


──ガルにいさま、の、ともだち?


「うん。家族です」


シルヴェがしばらくアルマをじっと見ていた。それからふと銀の鼻先を伸ばして、アルマの頬に軽く押し当てた。


「ガフ」


──ありがとう。

──いたみ、なくなった。


「えへへ」


アルマはシルヴェの銀の毛並みに頬を寄せた。月狼の毛はガルと同じようにほのかに月の匂いがした。けれどシルヴェの匂いはガルより、ずっと若くずっと傷ついた匂いだった。


「シルヴェちゃん。──歩ける?」


「ガフ」


──たぶん。


シルヴェがゆっくりと立ち上がった。前足が震えた。けれど立てた。それからガルに寄り添った。


ガルがシルヴェの額にもう一度、自分の額を合わせた。


「ガフ」


──シルヴェ。

──われと、いっしょに、こい。


「ガフ」


──にいさま。

──たにの、はなしを、しても、よいか。


ガルがしばらく黙った。


それから低く答えた。


「ガフ」


──こよい、いう。

──いまは、ここを、はなれよう。

その日の夕方街道沿いの宿に一行は泊まった。


宿の主人は銀の月狼が二頭いることに最初は目を剥いた。けれどガレリスが銀貨を二枚追加で置くと彼は何も聞かずに奥のひと部屋を貸してくれた。


夜アルマとハーミーネとガレリスとセオドアとガルとシルヴェがひとつの部屋にいた。


シルヴェはガルの隣にぴったりと寄り添っていた。月狼族の若い妹分が年上の兄に寄り添う姿だった。


「シルヴェ」


ガルが低く声をかけた。


「ガフ」


──にいさま。


「ガフ」


──たにの、はなしを、しろ。


「ガフ……」


シルヴェがしばらく黙った。それからゆっくりと語り始めた。


「ガフ……」


──にいさま、が、ここを、はなれた、あと。

──たには、しずかだった。

──ことしの、はる、まで。


「ガフ?」


──にんげんが、きた。

──きたから、たくさん。

──たにの、ぐち、を、かこんだ。

──われらの、ろうじん、が、たちむかった。


「ガフ」


──ろうじんは、ころされた。

──われら、わかいもの、は、つかまった。

──そして、つかまった、われらの、ひたいに、なにかが、おしつけられた。


「ガフ」


──われは、しばらく、おぼえて、いない。

──きづいたとき、われは、にげる、こころが、はたらく、まま、はしっていた。


「ガフ」


──にいさま、を、さがして、はしった。

──おまえの、においを、しっていたから。

──たまたま、にげるみちが、なんぼくの、しんりんに、つながって、おった。

──そして、ここまで、たどりついた。


ガルは長いあいだ答えなかった。


それからガルはシルヴェの額に自分の額を合わせた。


「ガフ」


──シルヴェ。

──よく、ここまで、きた。


「ガフ」


──にいさま、われが、にげた、あとも、たにに、まだ、つきろうぞくが、おる。

──われの、おかあも、おとうとも、つかまって、おる。

──にいさま、たすけて、ほしい。


部屋がしんとなった。


アルマがガルの銀の額に自分の手を当てた。


「ガル。──シルヴェちゃんが何を言ってるのか、私わかる」


「ガフ」


──しっておる。


「ガルのお母さんと弟さんがまだ谷にいる」


「ガフ」


──そう。


アルマはしばらく黙った。


それからガレリスを振り返って、口を開いた。


「お父さん」


「ああ」


「私月狼族の谷に行きたい」


ガレリスが頷いた。


「ああ。──だがいまはまず、家に帰ろう」


「お父さん──」


「アルマ。お前のお母さんとお兄ちゃんにまず会ってからだ。──月狼族の谷の話は家に帰ってお婆ちゃんと俺とお母さんとお前と皆で相談してから決める」


アルマは頷いた。


ハーミーネが揺り椅子代わりの椅子で低くつぶやいた。


「ガレリスや。──シルヴェの話、聞いたな」


「ええ」


「四十年前儂を消そうとした連中は月狼族の谷を知っておった」


「ええ」


「あの連中は四十年前から、月狼を実験の対象、として見ておった、ということじゃ」


ガレリスが頷いた。


ハーミーネはしわだらけの手をシルヴェの頭に軽く置いた。


「シルヴェ。お主ようここまで来てくれた。──儂はお主を助ける」


「ガフ」


──ばあさま。

──ありがとう。


シルヴェが銀の鼻先をハーミーネの皺だらけの手に軽く押し当てた。

その夜アルマはベッドにもぐり込んでノートを開いた。


『今日シルヴェちゃんという、新しいお友達ができた。シルヴェちゃんは月狼でガルの妹分。

体に火と闇の刻印が焼かれていた。──ルクス・ノクテの新しい実験だ、ってお婆ちゃんが言った。

私その刻印をひとつずつ月光と治癒に書き換えた。──新しい魔法。縫合ほうごう。お母さんがお裁縫する時の針みたいにひと針ひと針。

ガルが初めてお話をしてくれた。月狼族の谷の話。

ガルのお母さんがまだ生きてた。

お父さんが家に帰ったら皆で相談する、って言った。

お婆ちゃんがシルヴェちゃんを助けるって約束してくれた。

明日も街道。あと八日でお家。

お母さんもうすぐ会えるよ』


アルマはノートを閉じた。それからベッドの足元に丸まっているガルとその隣にぴったりと寄り添っているシルヴェを見た。


「ガル」


「ガフ」


「私絶対月狼族の谷に行くね」


「ガフ」


──しっておる。


「ガル私家族増やしたいんだ。シルヴェちゃんとガルのお母さんとガルの弟さんと谷のみんなをぜんぶ」


「ガフ」


──おまえは、いつも、そう、だな。


「えへへ」


アルマは目を閉じた。

すぐに寝息が立ち始めた。


ガルはしばらくその寝顔を見ていた。

それから銀の鼻先をシルヴェに軽く押し当てた。


「ガフ」


──シルヴェ。

──たには、すぐに、いく。


「ガフ」


──にいさま。

──ありがとう。


二頭の月狼はしばらく額を合わせていた。

それから眠りに入った。

八日後の夕方。


馬車が辺境街道の最後の丘を越えた。


丘の向こうにグリモワール村が見えた。

赤い夕日に里の屋根が染まっていた。煙突から夕餉の煙が立ち上っている家がいくつかあった。


「家だ──」


アルマが馬車の窓から身を乗り出した。


「お父さんお父さん。家見える!」


「ああ」


ガレリスも目を細めて頷いた。


馬車が里の入り口に近づいた。


里の入り口で人影がふたつ立っていた。


一人は栗色の髪を後ろで束ねた女性。──母アニエス。

もう一人は十二歳の本好きそうな少年。──兄ルカ。


二人は馬車を見つけて走り始めた。


「アルマ──!」


「お母さん!」


馬車が止まるか止まらないかの瞬間にアルマは戸を開けて降りた。それから走った。


アニエスが両手を広げた。

アルマがその腕の中に飛び込んだ。


「お母さん!」


「アルマちゃん!」


アニエスは娘を抱きしめた。それからもう一度抱きしめた。さらにもう一度。

ルカも後ろから妹を抱きしめた。


「アルマおかえり」


「お兄ちゃん!」


「ぼくずっと剣練習してたんだ。アルマが帰ってきたら、見せたかった」


「うん見せて!」


家族がしばらく入り口で抱きしめ合っていた。


ガレリスが馬車から降りて、アニエスの傍らに立った。アニエスは夫を見上げてふっと笑った。


「あなたおかえりなさい」


「ああ。──ただいま」


ガレリスは妻の肩に軽く手を置いた。それから息子の頭を軽く撫でた。


「ルカ。──傷はもう大丈夫か」


「うん! 剣も振れるよ!」


「そうか」


ガレリスはふっと笑った。


ハーミーネとセオドアとリカルドも馬車から降りた。

そして最後にガルが降りた。──ガルの傍らにもう一頭の若い月狼がぴったりと寄り添っていた。


アニエスが目を丸くした。


「あなたその子は」


「ああ。──シルヴェという。月狼族の若いメスだ。街道で出会った。──家族の話は家の中でする」


アニエスはすぐに頷いた。彼女は夫の声を聞いて深刻な事情があることを察した。けれどその場では何も聞かなかった。彼女はシルヴェにしゃがんで目線を合わせた。


「シルヴェちゃん。──いらっしゃい」


「ガフ」


──ありがとう、ございます。


シルヴェが銀の鼻先をアニエスに軽く押し当てた。


アニエスがふっと笑った。


「アルマちゃんのお母さんよ。──ようこそ私たちの家へ」


「ガフ」


──ありがとう、ございます。


シルヴェの震える前足の力が少しだけ緩んだ。

その夜グリモワール村のグリモワール家の台所。


アニエスが湯気の立つ薬草スープを皆に注いだ。アルマとルカとガレリスとハーミーネとセオドアとリカルド。それからガルとシルヴェ。


スープのぬくもりが家中に満ちていた。


「アルマちゃんお腹、すいたでしょう」


「うんお母さん。お母さんのスープ、二週間ぶりです」


「ふふいっぱいお食べなさい」


アルマはスープを一口飲んだ。

里の薬草の優しい味が口の中に広がった。

ヴェルダンスの晩餐のどんな料理よりもおいしい、とアルマは思った。


「お母さんこれ世界でいちばん美味しい」


「あらありがとう。──ティナちゃんに会ったら、お母さんがこれを作ってあげるって約束したんでしょう?」


「うん約束したよ」


「いつでもお連れしてね」


アルマが頷いたその瞬間。


玄関の戸がこんこんと叩かれた。


ガレリスが首を傾げた。

こんな時間に里長の家に客が来るのは珍しいことだった。


「俺が出る」


ガレリスが立ち上がって玄関に向かった。


戸を開けるとそこにはヴェルダンス公爵の家紋をつけた騎馬の伝令が立っていた。

息を切らせていた。馬は泡を吹いていた。

──十五日の道のりを、たぶん、八日で駆けてきた。


「ガレリス殿!」


伝令が頭を下げた。


「ヴェルダンス公爵閣下より、緊急の密書です!」


ガレリスが息を止めた。


伝令が革表紙の密書を差し出した。表紙の封蝋にヴェルダンス家の紋章。けれどその下にもうひとつ、印が押されていた。──「緊急」の赤い印。


ガレリスは密書を受け取った。

それから伝令を家の中に招き入れた。


「アルマハーミーネ殿、セオドア。──こっちへ来てくれ」


三人が玄関に集まった。


ガレリスは密書を開いた。


そしてその内容を二度読んだ。

二度目を読み終わった後彼は低く息を吐いた。


「──教会が来る」


ハーミーネが皺だらけの目を細めた。


「儂たちを追って、か」


「ええ。教会の異端審問団。明日グリモワール村に到着、します。──里の封鎖を申し渡される、と書いてある」


セオドアが頬の筋肉を止めた。


「それは──」


「アルマとガルを引き渡せ、と来るそうです」


家の中の空気が止まった。


アニエスが台所から顔を出した。鍋の前で湯気を立てていた、彼女の手が止まっていた。


「あなた──」


ガレリスが振り返った。


「ああ」


「アルマちゃんを誰にも渡しません」


アニエスの声は震えていなかった。

治癒士として五十回の出産を立ち会わせ、夫を戦場に送り出し息子の致命傷を塞いだ、その女の声だった。


「──私の娘です」


ガレリスが頷いた。


「ああ。──俺の娘だ」


ハーミーネがふっと笑った。

それから彼女はシルヴェの銀の額に皺だらけの手を軽く置いた。


「シルヴェ。──お主の家族はもう増えた」


「ガフ」


──ばあさま。


「お主の谷のお母ももうすぐ迎えに行く。──じゃがその前に儂たちの家をまず守らねば、ならぬ」


シルヴェが銀の鼻先をハーミーネの手に軽く押し当てた。


そしてガルが低く唸った。


「ガフ」


──われも、まもる。


「うむ」


ハーミーネが頷いた。


家の中で家族がしばらく無言だった。

台所の薬草スープの湯気だけが温かく立ち上っていた。


アルマはゆっくりとガレリスを見上げた。


「お父さん」


「ああ」


「教会の人たちはなんでガルと私を引き渡せって言うんですか?」


ガレリスはしばらく答えなかった。

それから低く答えた。


「教会は長いあいだ、魔物は神様に背いた悪い存在だ、と教えてきた」


「うん」


「そしてお前はその魔物を家族と呼んでいる」


「うん。──ガルは家族だもん」


「ああ。──だが教会の人たちはそれを許せない」


「どうして?」


「彼らはそれを許してしまうと自分たちの千年の教えが間違いだった、と認めることになるからだ」


アルマはしばらく考えた。

それからまっすぐにガレリスを見上げた。


「お父さん」


「ああ」


「私ガルが家族だ、っていうこと譲りません」


「うむ」


「ガルもシルヴェちゃんも月狼族の谷の皆さんもいつか私とガルの家族になります」


ガレリスが深く頷いた。


「ああ。──そうしよう」


ハーミーネがしわだらけの目に薄く、涙を滲ませた。彼女はそれを隠そうともしなかった。


──アルマや。

──四十年前、儂は宮廷でそれを言いたかった。

──じゃが、儂には、言葉が足りなかった。

──いま、お主がそれを、家族の食卓で言うた。

──儂は四十年、それを待っておった。


ハーミーネは心の中でそうつぶやいた。

それは誰にも聞こえなかった。

けれどシルヴェの月狼の鼻先だけがその心の声を嗅ぎ取ったようにハーミーネの皺だらけの手に軽く押し当てられた。

その夜グリモワール村に月が出た。


銀色の月だった。

ヴェルダンスの月とレーヴェンの月と街道の宿の月とぜんぶ同じ銀色だった。


アルマは自分の部屋のベッドに入って、ガルとシルヴェの銀の毛並みに両手を当てて、月を見上げた。


「ガル」


「ガフ」


「シルヴェちゃん」


「ガフ」


「明日教会の人たちが来るんだって」


「ガフ」


「私怖くないです」


「ガフ」


──しっておる。


「だって家族がいっぱい、いるから」


ガルがふんと鼻を鳴らした。シルヴェがその音に合わせて、ふんと鼻を鳴らした。──若い妹分が年上の兄を真似している姿だった。


アルマはふっと笑った。


「シルヴェちゃん、ガルの真似はやい」


「ガフ」


──われは、にいさまの、いもうと、だから。


「えへへ」


アルマは目を閉じた。

すぐに寝息が立ち始めた。


ガルとシルヴェはしばらくその寝顔を見ていた。

それから二頭は銀の額を合わせて、低く唸った。


「ガフ」


──シルヴェ。

──われらの、ふるさとを、まもる、まえに、まず、ここを、まもる。


「ガフ」


──にいさま。

──われも、まもる。


二頭の月狼は寝息を立てる少女の傍らに身を横たえた。


そして月狼の銀の鼻先が夜風のなかに近づいてくる別の匂いを嗅ぎ取った。


それはまだ遠く。

けれど確かに辺境街道を北へ進んできていた。

教会の馬車の車輪の匂いだった。

そしてその馬車の座席に座っている、ひとりの女の冷たい汗の匂いだった。


ルナ・グランディス。

王国教会・異端審問団・団長。


ガルは低く唸った。

けれど唸りをすぐに止めた。


──シルヴェ。

──あすの、はなしは、あすに、なってからだ。

──こよいは、ねむれ。


「ガフ」


二頭の月狼は月の光のなかで目を閉じた。


──まだ、誰も知らない。

──明日、グリモワール村に、教会の異端審問団が到着することを。

──そして、その日、辺境の少女が、初めて自分の家族のために、怒ることを。


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