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『辺境育ちの天才発明魔導師 〜新しい魔法を作りたいだけなのに、なぜか世界が騒がしくなります〜』  作者: 夕凪 鏡介


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第14章「教会から、来訪あり」

朝、グリモワール村の、グリモワール家。


夜は短く明けるのは早かった。アルマはいつもより早く目を覚ました。目を開けた時ベッドの足元にガルとシルヴェが銀の額を合わせてまだ眠っていた。


「ガルシルヴェちゃん。おはよう」


「ガフ」


──おはよう。


「ガフ」


──おは、よう。


シルヴェはまだ人間の朝の言葉に慣れていなかった。けれどガルの真似をして答えた。


アルマは二頭の銀の毛並みを軽く撫でて、それから台所に降りていった。


台所ではもう母アニエスが湯気を立てていた。アニエスの隣でハーミーネがしわだらけの手でお茶の急須を持っていた。そしてガレリスは卓の前に紙と羽根ペンを広げて何かを書いていた。


「お母さんお父さん、お婆ちゃんおはようございます」


「アルマちゃんおはよう」


アニエスが振り返ってにっこり笑った。けれどその笑顔の奥にいつもと違う固いものがあった。アルマはそれを肌で感じた。


「お父さん何書いてるんですか?」


「うむ。──皆で今日のことを決めるための覚書だ」


「今日のこと」


「ああ」


ガレリスはペンを置いた。


「アルマ。──まずお母さんから説明する」


アニエスがおたまを置いて、エプロンで手を拭いた。それからしゃがんでアルマの目線に合わせた。


「アルマちゃん。お母さん昨日の夜、お父さんとお婆ちゃんといろいろ話したの」


「うん」


「教会の人たちは今日、ここに来ます。アルマちゃんとガルを連れて行きたい、と言うはずです」


「うん」


「──連れて行かせません」


アニエスの声は低く震えていなかった。


「お母さん」


「お母さんはね治癒士よ。──治癒士は命を守るのが仕事なの。──だからお母さんの娘の命を誰にも渡しません」


「お母さん私別に教会の人たちに連れて行かれてもたぶん大丈夫です」


アニエスは首を振った。


「アルマちゃん。──大丈夫ではないの」


「えっ?」


「教会の異端審問団は連れて行った人を無事に返してくれません。──ハーミーネさんが昨日、説明してくださった」


アルマはハーミーネを振り返った。


ハーミーネはしわだらけの目を細めて、頷いた。


「アルマや。──儂の知る限り、四十年で教会に連れて行かれた者で生きて戻った者はおらん」


「えっ──」


「皆『調査のため』と言うて連れて行かれた。そして二度と帰ってこなかった。──彼らはお主がガルを家族と呼ぶ、その口を永遠に塞ぐつもりじゃ」


アルマはしばらく黙った。それからガレリスを見上げた。


「お父さん」


「ああ」


「私口塞がれたくないです」


「ああ」


「私ガルが家族だ、ってこと口で言いたい、いつでも」


「ああ」


ガレリスが深く頷いた。


「だからお父さんはお前を渡さない」


「うん」


アルマは頷いた。


それからふと思い出して台所の隅を見た。そこには家の地下倉庫への小さな階段があった。


「お父さん」


「ああ」


「シルヴェちゃん、どうしますか?」


ガレリスが頷いた。


「それもいま決める。──ハーミーネ殿、ご意見を」


ハーミーネは急須からお茶を自分の椀に注いだ。それから低く言った。


「シルヴェは地下倉庫に隠す。──教会はまだシルヴェのことを知らぬ。儂たちがシルヴェを連れていた、と気づかれてはシルヴェの命まで危ない」


「ええ」


「アルマや。──シルヴェに説明しに行ってくれ。儂たちの家の地下倉庫でしばらく静かに過ごしてもらう、と」


「はい」


アルマは二階の自分の部屋に駆け上がった。


シルヴェはベッドの足元でガルと一緒に起き上がっていた。アルマはしゃがんでシルヴェの銀の毛並みに両手を当てた。


「シルヴェちゃん。お話あるんだけど」


「ガフ」


──きいておる。


「今日悪い人たちが家に来るの。シルヴェちゃんのことをまだ知らない、悪い人たち。──だからシルヴェちゃん、しばらく家の地下で隠れていてほしいの」


シルヴェが首を傾げた。


「ガフ」


──われ、にいさまと、いっしょに、いられない?


「うんガルは私と一緒に上にいるんだ。──シルヴェちゃんが地下で隠れる間、ガルは上で私を守ってくれる」


「ガフ……」


シルヴェの金色の瞳に不安が滲んだ。彼女はガルからまた離れる、ということに深い恐れを抱いていた。


ガルがシルヴェの額に銀の鼻先を押し当てた。


「ガフ」


──シルヴェ。

──いちにちだけ、だ。

──われは、ここに、おる。


「ガフ」


──にいさま、いなくならない?


「ガフ」


──ならぬ。


シルヴェはしばらくガルの目を見上げた。それからゆっくりと頷いた。


「ガフ」


──わかった。

──われ、ちか、にいる。


アルマがその額を軽く撫でた。


「シルヴェちゃん、ありがとう。──夜には出てこられるからね」


「ガフ」



その同じ朝北の街道。


四台の馬車と三十騎の聖騎士団が辺境街道を北上していた。


先頭の馬車は教会の正規の紋章を両側面に大きく描いた、白い箱型の馬車だった。馬車の中にひとりの女が座っていた。


ルナ・グランディス。

四十五歳。

王国教会・異端審問団・団長。


濃い灰色のローブ。腰に銀の聖印。髪は後ろで固く編まれていた。化粧はしていない。けれど彼女の顔は化粧をしている女の顔よりずっと整っていた。──整っているがゆえに冷たかった。


彼女は膝の上に革表紙の本を広げていた。本のタイトルにはこう書かれていた。


『異端審問・実務便覧・第七版』


ルナの指先はその本の十七章「魔物との家族関係を主張する者の処遇」のページに置かれていた。


彼女の隣に副官の若い神官が座っていた。


「審問官殿。グリモワール村まであと半日ほどです」


「うむ」


「目標は二名──少女アルマ・グリモワール、六歳。月狼の銀色個体ガル。──以上でよろしいですね」


「いや」


「いやと申されますと」


「ハーミーネ・グリモワール、推定八十代後半。──彼女も捕縛する」


副官の若い神官がぱちぱちと瞬きをした。


「審問官殿。ハーミーネ・グリモワールは四十年前に宮廷から追放され、すでに死亡したものと教会の記録にある者です」


「死んでいない」


「ですがヴェルダンス公爵領内でハーミーネを名乗る老婆の目撃証言はありますが本人かどうかは──」


「本人だ」


ルナはその本の別のページを指差した。


「私は四十年前のハーミーネを知っている」


「審問官殿四十年前はまだ、五歳でいらっしゃいましたが」


「父の書斎で彼女の容姿を毎日描かされた」


副官は口をつぐんだ。


ルナは本に視線を戻した。


「私の伯父がハーミーネを追った」


「は」


「伯父はもう八年前に亡くなった。──だが彼が遺した、ハーミーネへの怒りは私が引き継ぐ」


「では」


「ハーミーネ。アルマ・グリモワール。月狼ガル。──三名捕縛する。これが教会の正式な目標だ」


「了解いたしました」


ルナは副官にもうひとつ付け加えた。


「それからグリモワール村の里長ガレリス・グリモワールは必要ならその場で殺してかまわぬ。──里長を教会への抵抗者として処分すれば、里民は皆口をつぐむ」


「は」


副官は頭を下げた。彼の頬からわずかに血の気が引いていた。けれど彼はそれを表に出さなかった。


──審問官殿は、そういう方だ。

──四十年前の伯父の怨念を、四十年後の教会の制度として使う方だ。


副官は馬車の外に目を向けた。辺境街道の両側に麦畑が広がっていた。風が麦の穂をゆっくりと撫でていた。


あと半日でその平和な麦畑の村に四十年の怨念が到着する。



その朝グリモワール村の中央広場。


里長のガレリスが里民全員を広場に集めた。五十軒の家から男も女も子供も皆集まった。普段の里の集会の二倍はあった。教会が来るという話がすでに里じゅうに流れていたからだ。


ガレリスが広場の中央に立った。彼の隣にセオドアとハーミーネが立っていた。


「皆聞いてくれ」


ガレリスの声は落ち着いていた。


「ヴェルダンス公爵閣下より、緊急の密書が届いた。今日王国教会の異端審問団がこの里に到着する」


里民がしんとなった。


「目的はアルマとガルを連れて行くこと。──それからたぶん、ハーミーネ殿も」


里民の中からざわめきが起きた。


「里長」


里の年寄りの一人が声を上げた。


「教会がなぜここに」


「アルマが魔物を家族と呼んでいる、それが教会の教えに反する、と」


「アルマちゃんがガルと一緒なのは三年も前からだ」


「ああ」


「いまさらなぜ?」


ガレリスが頷いた。


「いまさらなぜか。──それは教会の本当の用件が教えへの違反ではないからだ」


「では何が」


ガレリスはしばらく沈黙した。それからハーミーネを振り返った。


「ハーミーネ殿説明をお願いします」


ハーミーネがゆっくりと前に出た。


「皆すまんのう。──儂が四十年前に宮廷で声を上げた、ある事案について、教会の上層のある人物が儂を消したがっておる。──いまアルマがその儂の弟子として知られておるゆえ、教会はアルマを口実に儂を消そうとしておる」


里民の中で白髪の老婆が声を上げた。


「ハーミーネ殿。──あんた何を宮廷で言ったんだい?」


「人を殺すための魔法を作ろうとした連中がおったんじゃ。儂はそれを止めようとした」


里民が目を伏せた。誰もそれ以上聞かなかった。けれど誰もがハーミーネの言葉の重さを感じ取った。


ガレリスが続けた。


「俺は里長として決めた。──アルマもガルもハーミーネ殿も教会に渡さない」


里民がしんとなった。


それから最前列の若い農夫が声を上げた。


「里長」


「ああ」


「俺たちは何をすればいい」


「俺とセオドアとヴェルダンス公の家臣リカルド殿で教会と話す。──皆は自分の家を守ってくれ。教会の聖騎士団が家の中に押し入ろうとしたら、俺の名前で断れ。それでも押し入ろうとしたら、俺を呼んでくれ」


「俺たち戦うのか」


「いや。──戦いになれば皆が死ぬ。教会は三十騎の聖騎士を連れてきている、らしい。俺たちの里の戦力では勝てん」


「ではどうする」


「俺とヴェルダンス公の家臣で教会の越権を論理で暴く。──公爵閣下がすでに王都の法務官に密書を送られている。教会はヴェルダンス領内では領主の許可なく住民を捕縛できない。それを突く」


里の年寄りが頷いた。


「ガレリスや。──あんたの知恵に賭ける」


「賭けてくれ」


ガレリスは深く頭を下げた。


里民が皆頷いた。そしてそれぞれの家に戻って行った。


最後にガレリスとセオドアとハーミーネが広場に残った。


「ガレリス殿」


セオドアが低く言った。


「公爵閣下の密書にはもうひとつ書いてあったことを思い出します」


「ええ」


「『カミラ猊下が神聖聖法国から特使を派遣された。到着は教会の異端審問団より、半日遅れる』と」


「ええ」


「私たちが半日持ちこたえれば、特使が到着する」


「ええ」


「──持ちこたえましょう」


ガレリスは頷いた。そしてハーミーネを見た。


「ハーミーネ殿。──四十年前のお話をもう隠しておくことはできなくなりました」


ハーミーネがしわだらけの目を細めた。


「うむ。──じゃが儂はいまさら隠す気はない。アルマが家族の食卓で自分の家族の宣言をした。──儂も自分の宣言をすることにする」


「宣言ですか」


「うむ」


ハーミーネはふっと笑った。


「儂はハーミーネ・グリモワール。──四十年前王立宮廷魔導師団の第三席であった、儂じゃ」



正午グリモワール村の入り口。


街道から白い箱型の馬車が四台、進んできた。先頭の馬車の屋根の上には教会の正規の紋章を刺した黄金の旗がはためいていた。馬車の後ろに三十騎の聖騎士団。皆銀の鎧。腰に聖印付きの剣。──三十騎の聖騎士の規模は王都の中央広場で皇帝の戴冠式に出る規模だった。


里の入り口にガレリスとセオドアとリカルドが立っていた。背後の家々の窓はすべて閉ざされていた。けれどその窓の隙間から無数の里民の目が教会の行列を見ていた。


先頭の馬車が止まった。


戸が内側から開いた。副官の若い神官がまず降りた。それからローブの裾を軽く整えて、馬車の入り口に両手を当てた。


「審問官お降りを」


ルナ・グランディスが馬車から降りた。


濃い灰色のローブが彼女の足元まで覆っていた。腰の銀の聖印が正午の光に冷たく光った。


ガレリスが一歩前に出た。


「私がグリモワール村の里長、ガレリス・グリモワールです。──お疲れのところ、はるばるお越しありがとうございます」


ルナはガレリスをゆっくり見た。


「ガレリス・グリモワール」


「は」


「あなたは四十年前、王都で下級騎士であった、と聞いた」


「ええ。──若い頃の一時期、王都で」


「では教会の権威はご存じだろう」


「ええ」


「ご存じならば話は早い。──あなたの娘アルマ・グリモワール、六歳。それから月狼の銀色個体、ガル。それからあなたの里に住んでいるはずの老婆、ハーミーネ・グリモワール。──三名教会の調査のため、私の馬車にお引き渡しいただきたい」


ガレリスはしばらく答えなかった。それから低く口を開いた。


「申し上げる前にまず確認させてください」


「うむ」


「あなたは王国教会・異端審問団・団長、ルナ・グランディス殿でよろしいか」


「うむ」


「ではルナ殿にお伺いします。──現在王国の法のもと教会の異端審問団は領主の同意なく領内の住民を捕縛する権限をお持ちですか」


ルナの唇の端がわずかに上がった。


「ガレリス殿。──知識のある問いだ」


「お答えを」


「教会の異端審問団は教義に反する者を調査するために領主の同意を得ずに住民を捕縛できる。これは二百年前の教会条例、第十二条による」


「二百年前の教会条例」


「うむ」


「ルナ殿。私の知る限りその教会条例は五十年前の王立法務改革で王国法より下位とされ、領主の同意なき捕縛は王国法違反となります」


ルナの唇の端がわずかに止まった。


副官の若い神官がぱちぱちと瞬きをした。


ガレリスは続けた。


「──さらに王国法より優先される教会の権限は王立法務官と教会本部の合意があった場合に限られます。本日その合意の証書をお持ちですか」


「持っている」


ルナは副官に手を差し出した。副官が革表紙の書類を差し出した。ルナはそれをガレリスに見せた。


ガレリスはその書類をじっと見た。


書類には教会本部の正規の印章と王立法務官の印が押されていた。──ただし王立法務官の印は左下の隅に小さく押されていた。


「──ルナ殿」


「うむ」


「この書類の王立法務官の印は第三席のヤンセン法務官のものです」


「うむ」


「ヤンセン法務官は私の知る限り、商業ギルドのドーラン・メルカディスから金品を受け取っていた人物の一人です。──三日前ヴェルダンス公爵閣下より、その告発書が王都の法務本部に提出されました」


ルナの唇の端がまた止まった。


「ヤンセン法務官は本日、おそらく王立法務本部から調査対象となっています。──その彼の印でこの書類は本日もはや有効ではない可能性があります」


ガレリスは低くしかし明瞭に続けた。


「ルナ殿。私は里長としてヴェルダンス公爵閣下に本書類の正当性の確認を求めます。──確認の回答が来るまで本書類に基づく捕縛は認められません」


副官の若い神官が息を呑んだ。


──ガレリスが教会の異端審問団に対して、ヴェルダンス公爵をたてに立てた。


ルナの目が細くなった。


「ガレリス・グリモワール」


「は」


「あなたは私の捕縛を拒む、と申されるか」


「いいえ。──手続きの合法性を確認するための保留を申し上げております」


「同じことだ」


「いいえ違います。──手続きが合法であれば、私は捕縛に応じます。けれど合法でない可能性がある以上、領主の確認を待つのは当然の権利です」


ルナはしばらくガレリスを見ていた。それから低くふっと笑った。


「ガレリス殿。あなたは王都の下級騎士にしては惜しい知性だ」


「お褒めありがとうございます」


「だが」


ルナは副官に目で合図した。副官が革表紙のもうひとつの書類を差し出した。


「私は本書類に基づく捕縛を保留する。──ただし本日より、グリモワール村は教会の管轄下に封鎖する。これは王国法に基づく、教会の権限内である」


ガレリスが頷いた。


「ええ。──封鎖は教会の権限内です」


「であれば本日より、私の聖騎士団は里の入り口に駐留する。──里民の出入りは私の許可を得る必要がある」


「ええ」


「そしてアルマ・グリモワール、ガルハーミーネ・グリモワールの里からの脱出は絶対に許さない」


「ええ」


「では私たちは里の広場に設営させていただく」


「ええ。──里の中央広場にお通しします」


ガレリスは頭を下げた。


ルナの聖騎士団が馬車を里の入り口の中に進めた。聖騎士たちが整然と整列して、里の広場へと進んだ。


ガレリスはその背中を見送りながら、セオドアに低くつぶやいた。


「半日稼げたか」


「ええ。──カミラ猊下の特使が半日後に到着するなら、それまで持ちこたえられます」


「うむ」


ガレリスは頷いた。そして深く息を吐いた。


──公爵閣下、ありがとうございます。

──あなたのヤンセン法務官への告発が、私を生かしてくれました。



その日の昼里の中央広場。


教会の聖騎士団が四台の馬車を広場に整然と並べた。三十騎の聖騎士は馬車の周囲を円形に囲んだ。中央の馬車の前に即席の白い天幕が張られた。天幕の中の卓にルナ・グランディスが座っていた。彼女は革表紙の本を開いて、何かを書いていた。


里の広場の入り口にガレリスとセオドアとハーミーネが立っていた。背後にアルマも立っていた。アニエスがアルマの肩に両手を置いていた。


天幕から副官の若い神官が出てきた。


「ガレリス殿。──審問官殿がアルマ・グリモワール嬢とハーミーネ・グリモワール殿にご挨拶を希望されております」


ガレリスが頷いた。それから後ろを振り返った。


「アルマハーミーネ殿。──行きますか」


「行きます」


ハーミーネが頷いた。


「私も行きます」


アルマが頷いた。


アニエスがアルマの肩をぎゅっと握って、それからゆっくり離した。


「アルマちゃん。──お母さんはここにいる」


「うん」


四人は天幕の前まで歩いた。


ルナが卓の前からゆっくり立ち上がった。彼女はまずアルマを見た。それからハーミーネを見た。


「ハーミーネ・グリモワール殿」


ハーミーネは頷いた。


「うむ。──久しいのうグランディス家の令嬢」


ルナの片眉が上がった。


「私をご存じか」


「うむ。──お主の伯父エドガー・グランディスは儂を消そうとした連中のひとりじゃった。──お主の顔は若い頃のエドガーによう似ておるのう」


ルナの頬の筋肉がわずかに動いた。


「四十年前のハーミーネ・グリモワールにお目にかかれて光栄です」


「いやいや儂のような年寄りに光栄もなにもなかろう」


「光栄ですよ。──私の伯父が四十年、追い続けた相手にこうしてお会いできる」


「うむ。──伯父御はお元気か」


「八年前に亡くなりました」


「そうか。──ご冥福を」


ルナはハーミーネから視線を外した。それからアルマに目を向けた。


「アルマ・グリモワール」


「はい」


アルマはまっすぐにルナを見上げた。


ルナはしばらくアルマを見ていた。それから低く口を開いた。


「君が月狼を家族と呼んでいるのか」


「はい。ガルは私の家族です」


「教会の教義では月狼は悪魔の使いだ」


「ガルは悪魔の使いじゃないですよ」


「なぜそう断言できる」


「ガルは優しくて、私を守ってくれて、私の話を聞いてくれます。──悪魔の使いがそんなことしますか」


ルナの唇の端がわずかに止まった。


「アルマ。君はまだ六歳だ。教会の千年の知恵より、自分の六年の感覚を信じるのか」


「はい」


「即答だな」


「だって私の六年はガルと三年一緒に暮らした六年です。──教会の千年はガルと一緒に暮らした千年ではないんですよね?」


ルナの顔がしばらく止まった。


副官の若い神官がぱちぱちと瞬きをした。


ガレリスが後ろから低く息を吐いた。セオドアが頬の筋肉を止めた。ハーミーネがしわだらけの目に薄く笑いを滲ませた。


ルナがゆっくり口を開いた。


「アルマ・グリモワール」


「はい」


「君は面白い子だ」


「ありがとうございます?」


「だが教会は面白い子を許す機関ではない」


「えっと──面白いのが悪いんですか?」


「教義に反する『面白さ』は神の名のもとに矯正する必要がある」


「矯正?」


「君の面白さを教会の教えに適合させる、ということだ」


アルマはしばらく首を傾げた。それからまっすぐにルナを見上げた。


「ルナさん」


「うむ」


「私面白くていいです」


「いま何と言った」


「私面白くていいです。──ガルと暮らしてて楽しいし、新しい魔法作るのも楽しいし、ティナちゃんとお友達になれたのも楽しいです。──ぜんぶ面白いです。それを教会の教えに適合させたら、私楽しくなくなるんです」


ルナの唇の端がまた止まった。


「アルマ。──君の楽しさは神の名のもとには無関係だ」


「えっと神様って、私たちが楽しく暮らすのを見守ってくださる方、じゃないんですか?」


「神は教えを守る者を守る」


「教えって誰が決めたんですか?」


「教会本部の千年の知恵、だ」


「私のお母さんは私が薬草を覚えるとき、お母さんが教えてくれました。お婆ちゃんは私が魔法を覚えるとき、お婆ちゃんが教えてくれました。──教会本部って、人ですか? それとも本ですか?」


副官の若い神官が唇を噛んだ。彼の唇はわずかに震えていた。──彼は笑いをこらえていた。


ルナはしばらく答えなかった。


それからゆっくり口を開いた。


「アルマ・グリモワール。君とこれ以上話を続ける必要はない」


「あ終わりですか?」


「私は明日君と月狼ガルを正式に異端審問にかける。──その時君は私の質問に答える。今日のような無邪気な答え方は許さない」


「はい」


「では下がりたまえ」


アルマはぺこりと頭を下げた。それからガレリスに走り寄って、ガレリスの手を握った。


ガレリスは娘の手を握り返した。そしてルナに頭を下げた。


「お時間をありがとうございました」


「うむ」


ガレリスとセオドアとハーミーネとアルマは天幕を離れた。


ルナはしばらく立ったまま、彼らの背中を見ていた。それから卓の前に座り直した。副官が後ろから低くつぶやいた。


「審問官殿。──あの少女子供ですが論理が思ったよりまっすぐです」


「うむ」


「明日の審問で彼女に勝てますか」


「勝つというのは正確ではない」


「と申されますと」


「私は勝つためにここに来ているのではない。──彼女の口を塞ぐために来ている」


「は」


副官は頭を下げた。そして心の中でひそかにつぶやいた。


──審問官殿は明日、あの六歳の口を塞ぐ。

──だが口を塞いだ後、あの少女の無邪気な論理が、教会本部の千年の知恵を揺さぶる、ということは、認めざるをえないだろう。

──私は教会の副官として、明日、何をすればよいのだろう。


副官はそれをルナには言わなかった。彼はただ卓の上の書類を整えていた。



夕方グリモワール家。


家族が台所に集まっていた。アニエスがまた薬草スープを注いだ。アルマとガレリスとルカとハーミーネとセオドアとリカルド。それからガル。──シルヴェはまだ地下倉庫にいた。


「お父さん」


ルカがガレリスに声をかけた。


「ああ」


「ぼく何かできることない?」


「ある」


「何?」


「お前は家の中にいる。アルマの隣にいてくれ」


「うん」


ルカは頷いた。それから自分の腰に差した、子供用の鉄剣をぎゅっと握った。


「父さん。ぼくもう剣振れるよ。──兄ちゃんはもう守られる側じゃない」


ガレリスが息子を見た。それから深く頷いた。


「ああ。──お前はもうアルマを守る兄ちゃんだ」


「うん」


ルカが頷いた。アルマが隣で兄を見上げた。


「お兄ちゃん」


「ん?」


「お兄ちゃん強そうですね」


「うん。──兄ちゃんだもん」


「えへへ」


家の中の空気が一瞬緩んだ。


ハーミーネがしわだらけの手でルカの頭を撫でた。


「ルカや。──お主よう育ったのう」


「お婆ちゃんぼく、剣だけじゃないよ。お父さんから王都の地理も教わってる。──里長の跡継ぎは勉強しないといけないんだ」


「うむ。──頼もしい跡継ぎじゃ」


ルカがにっこり笑った。


アニエスが夫を見上げた。


「あなた」


「ああ」


「明日の審問。──公爵閣下の特使はいつ来るんですか?」


「夕方には来るらしい。──審問は午後開かれる。特使が間に合わない可能性もある」


「ではその場合どうなりますか」


「アルマを教会に連れて行かれる可能性がある」


アニエスはしばらく答えなかった。それからゆっくり口を開いた。


「あなた。──私一緒に行きます」


「アニエス」


「アルマちゃんが連れて行かれるなら、私も連れて行かれます。──私の娘から私を引き剥がせる教会はありません」


ガレリスが妻を見た。それから低く頷いた。


「アニエス。──分かった。──だがまずそれが必要ないようにする」


「ええ」


ガレリスは卓を両手で握って、立ち上がった。


「セオドア」


「は」


「リカルド殿」


「は」


「俺は今夜徹夜で明日の審問の論点を整理する。──二人にも付き合ってもらいたい」


「は」


「ハーミーネ殿」


「うむ」


「四十年前のグランディス家の事案について、お話をもう一度お聞かせください。明日ルナ殿の伯父に関する論点を出すかもしれません」


「うむ。──儂はいつでも話す」


「アニエス」


「ええ」


「お前はアルマとルカを見ていてくれ。──夜子供たちは寝る必要がある」


「分かりました」


家族がそれぞれの役割を了解した。


そして台所の卓の上の薬草スープの湯気が温かく立ち上り続けていた。



その夜アルマは自分の部屋のベッドに入った。ガルはベッドの足元に丸まっていた。シルヴェは地下倉庫から夜になって上がってきていた。シルヴェもガルの隣にぴったり寄り添っていた。


「ガルシルヴェちゃん」


「ガフ」


「ガフ」


「明日ルナさんが私を審問する、って」


「ガフ」


──しっておる。


「私ルナさん嫌いだけど、可哀想だなって思った」


「ガフ?」


「ルナさん四十年前から伯父さんの怨念を引き継いでる、って言ってた。──伯父さんは亡くなった、って。それでもルナさんはその怨念を引き継いでる」


「ガフ」


──おまえは、いつも、そう、だ。


「うん。──ルナさん伯父さんが亡くなって悲しかったんだと思うんだ。だから伯父さんの怨念を続けることが伯父さんを忘れない唯一の方法だ、と思ってるのかも」


ガルはしばらく答えなかった。それから銀の鼻先をアルマの頬に軽く押し当てた。


「ガフ」


──おまえの、はなし、たまに、ふかい。


「えへへ」


シルヴェがその横でぱちぱちと瞬きをした。


「ガフ」


──ガルにいさま、いまの、はなし、われも、わかった?


「ガフ」


──まだ、すこし、はやい。


「ガフ」


──にいさま、おしえて。


「ガフ」


──いつか、おしえる。


二頭の月狼はしばらく銀の額を合わせていた。


アルマはふっと笑って目を閉じた。


「ガルシルヴェちゃん。──おやすみなさい」


「ガフ」


──おやすみ。


「ガフ」


──おやすみ、なさい。


少女が寝息を立て始めた。二頭の月狼はその傍らに身を横たえた。


そして銀の月狼の鼻先が夜風のなかにもうひとつの別の匂いを嗅ぎ取った。


それはまだ遠く。けれど確かに辺境街道を北上してきていた。別の馬車。教会のものではない馬車。それは神聖聖法国の聖アルベリック修道院の紋章を両側面に刻んだ、青い馬車だった。その馬車にひとりの若い女が座っていた。


カミラ・ド・ノーチェ。

神聖聖法国・聖アルベリック修道院・若き枢機卿。

二十一歳。


ガルは低く唸った。それは警戒の唸りではなかった。むしろ安堵の唸りだった。


「ガフ」


──シルヴェ。

──たすけ、が、くる。


「ガフ」


──にいさま。

──ほんとう?


「ガフ」


──たぶん、あしたの、ひる、に、つく。


「ガフ」


──よかった。


二頭の月狼は銀の額を合わせて目を閉じた。


そして月が出ていた。


ルナ・グランディスは広場の天幕の中でろうそくの光のなかで本を読んでいた。──そのろうそくの灯りもいつかは消えるということを彼女はまだ知らなかった。


──まだ、誰も知らない。

──明日の午後、教会の異端審問団の論理が、いくつかの思いがけない場所から揺さぶられることを。

──そして、その揺さぶりのいちばん深いところに、辺境の六歳の少女の無邪気な質問があることを。


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