幕間「最初の証人」
私の名は、セオドア。
かつては、その後ろに、ヴァレンタイン、という姓が、付いていた。
あの夜のことを、私は、生涯、忘れないだろう。
銀の光が、森に流れた、あの夜のことを。
三つの円の、十歩ほど外側で、私は、剣を抜いたまま、立っていた。
剣を抜いていたことすら、途中から、忘れていた。
銀の光が、森に向かって流れていく光景を、私は、見ていた。
学院で習った魔法の、どれにも、似ていなかった。
文献で読んだ魔法の、どれにも、似ていなかった。
私の知る、いかなる魔法の理論を、持ち寄っても、目の前で起きていることを、説明することができなかった。
けれど、起きていた。
私の足元の地面が、銀色に光った。
私の頬に、銀色の光が、触れた。
光は、温度を持たなかった。
けれど、確かに、皮膚で感じられた。
──現実だ。
──これは、現実だ。
私は、自分にそう、言い聞かせた。
そう言い聞かせなければ、立っていられなかった。
三つの円の中心で、アルマちゃんは、目を閉じたまま、静かに立っていた。
ハーミーネ殿は、火の円の中で、両足を踏ん張って、火の系統を、肩代わりしていた。
ガルは、月光の円のなかで、銀の毛並みを、月光と同期させていた。
そして、私は。
何も、していなかった。
護衛として、ここに立っているはずだった。
けれど、護衛するべき相手は、私が剣を振るう必要のない、別の次元で、戦っていた。
私は、剣を、握っていた手をゆっくりと開いた。
剣が、地面にふっと落ちた。
ヴァレンタイン家の家紋の彫られた、銀の剣が。
私は、その剣を、拾わなかった。
拾えなかった。
私の頭の中で、王立魔法学院の七年がゆっくりと解体されていく音が、聞こえていた。
教科書の表紙が、剥がれた。
索引のページが、風に、舞った。
教授たちの顔が、ひとり、ひとり、私の前を、通り過ぎていった。
教授たちは、私に、こう、教えた。
──魔法とは、世界の理に基づく、再現可能な、体系化された力の運用です。
けれど、目の前で起きていることは、再現可能ではなかった。
体系化、もされていなかった。
世界の理に、基づいてもいなかった。
──世界の理を、書き換えていた。
──「魔法は、覚えるものではない。創造するものだ」
ハーミーネ殿が、あの夜、私に、そう言った。
私は、そのとき、口を開けて、閉じた。
もう一度、開けて、閉じた。
それから、何も、答えなかった。
いま、私は、答えを、持っていた。
──ハーミーネ殿、私は、あなたの言葉を、信じます。
──いえ、信じる、ではない。
──私は、いま、目の前で、それが、起きていることを、見ました、と、申し上げます。
銀の光が、最後の一体に、達した。
森の唸り声が、消えた。
アルマちゃんが、両手を、下ろした。
私は、その姿を、ただ、見ていた。
六歳の少女が、たぶん、人類の歴史で、誰もしたことのない魔法を、ひとつ、終えて、息を吐いた、その、ひとつの呼吸を、見ていた。
そして、ハーミーネ殿が、崩れた。
私は、駆け寄ろうとした。
けれど、足が、動かなかった。
アルマちゃんが、すでに、老婆を、抱き止めていた。
治癒の魔法陣を、描き始めていた。
私は、立ち尽くしていた。
立ち尽くしながら、自分の頬に、何かが、流れているのを、感じた。
涙、だった。
──私が、泣いている。
──三男坊の、ヴァレンタイン家の、王立魔法学院首席卒の、第三騎士団の、私が。
──泣いている。
私は、自分が、泣いているという事実を、そのとき、初めて、客観的に、認識した。
そして、その涙が、何を意味するのか、わかった。
──私の二十二年が、いま、終わった。
──そして、私の、別の人生が、いま、始まった。
私は、生まれ直していた。
そう、思った。
二十二年生きてきた、ヴァレンタイン家の三男坊は、たぶんいまここで、死んだ。
そして、別の誰かが、私の体の中に、生まれていた。
その別の誰かはまだ名前を、持っていなかった。
けれど、彼はもうベルナール卿の「無難」という言葉に、何の感情も、抱かなかった。
父の「ご苦労だった、テオドア」という言葉に、何の傷も、感じなかった。
私は、剣を、地面から、拾い直した。
剣は、銀の光の余韻のなかで、いつもより、軽かった。
私は、その剣を、鞘に、納めた。
ヴァレンタイン家の家紋を、布で、ひと拭いした。
拭いた布を、ポケットに、戻した。
一連の動作を、私は、自分の意志で、行った。
自分の意志で、行ったことに、私は、気づいていた。
──私は、いま、初めて、自分の意志で、剣を、鞘に、納めた。
残ったのはただのセオドア、だった。
ただの、セオドアで、十分だった。
夜が明けて、私は、ガレリスさんに、ヴァレンタインを外したことを、告げた。
「セオドア、で構いません」と、私は言った。
ガレリスさんは、しばらく私を見て、それから「そうか」と、ひとことだけ、頷いた。
それだけで、十分だった。
王都では、私の名乗りを変えるのに、家長の許可と、騎士団の書類と、教会の登録が、必要だっただろう。
けれど、ここでは、私が「セオドアだ」と言えばそれでセオドアになれた。
その日のうちに、私は、心を、決めていた。
この村に、留まる。
たとえ、王都の連中が、私を、追ってきても。
たとえ、ヴァレンタイン家の三男坊が辺境に居ついたと、嗤われても。
私を必要としている場所は、王都にはもうない。
けれど、ここには、ある。
私の足元に、ある。
それだけで、留まる理由として、十分だった。
その夜、私は、客間の机に、向かった。
羊皮紙が、目の前にあった。
羽根ペンに、インクを、含ませた。
かつて、私は、この同じ机で、王都への救援要請書を、書いた。
あの書状は、王都に着く前に、却下された。
今夜、私が書くのは、救援要請では、ない。
「第三騎士団 ベルナール卿 御中
私、セオドア・ヴァレンタインは、本日付をもって、第三騎士団派遣騎士の任を、辞します。
理由は、私的なものです。
ヴァレンタイン家の家督継承順位は、変動ありません。
後任の派遣は、不要です。
グリモワール村における魔物事案は、地元の対処にて、すでに、解決済みです。
セオドア」
私は、その短い辞任状を二度読み返した。
ヴァレンタインを、最後の署名から、外した。
ただの、セオドアで、十分だった。
封蝋を、垂らした。
第三騎士団の派遣騎士の印はもう押さなかった。
代わりの、新しい印はまだなかった。
私は、その辞任状を、印なしのまま、巻いた。
──あの白い封蝋が、私の、王都との縁を切る、最後の儀式だった。
翌朝、辞任状は、王都からのもう一人の伝令騎士に、託されて、王都に、戻っていく。
ベルナール卿がそれを開いたとき、何を思うかは、私の知ったことではない。
私は、銀の星章をもう一度卓上から、取り上げた。
そしてそれを机の引き出しに、しまった。
捨てはしなかった。
──私の二十二年の、思い出として、残しておく。
──それも、私の一部だった、と、後で振り返るために。
引き出しを、閉めた。
部屋の外で、ガルが、何かを察したように低く鳴いた。
私は、その声を、聞きながら、窓の外の月を、見上げた。
月はまだ銀色に、光っていた。
──銀月の、魔導書。
──アルマちゃんは、そう、名付けた。
──その名は、いつか、世界中に、響くだろう。
私はまだそのとき、知らなかった。
ヴェルダンス領主から始まる、辺境の少女の物語が、これから、王都を、隣国を、聖法国を、そして、世界そのものを、書き換えていくことを。
けれど、知らなくても、構わなかった。
私はもうその物語の、最初の証人として、ここに、立っていた。
それで、十分だった。




