第6章「王都の動揺、辺境の沈黙」
王都の朝は、辺境の朝とは、まるで違う。
鶏の声よりも先に、荷馬車の車輪が石畳を叩き、物売りの声が交差し、鐘楼が時を刻む。
グリモワール村の朝が森の気配から始まるのだとすれば、王都の朝は、人の都合から始まる。
第三騎士団の本部、その三階の角部屋で、ベルナール卿は、一通の書状を、手にしていた。
封蝋に、印が、なかった。
第三騎士団派遣騎士の印も、ヴァレンタイン家の印も、押されていない。
ただ、白い封蝋が、垂らされているだけ。
ベルナール卿はそれを二度、見直した。
印のない書状など、騎士団の規定では、受理してはならない。
けれど、彼はそれを開いた。
短い文面だった。
「──辞します。理由は、私的なものです」
ベルナール卿は、その一行をしばらく見ていた。
窓の外で、午後ではなく、朝の鐘が、鳴っていた。
「セオドア・ヴァレンタイン」
彼は、その名を、口の中で、転がした。
それから、署名の欄を、見た。
そこには、「セオドア」とだけ、書かれていた。
ヴァレンタインが、ない。
ベルナール卿は、椅子の背に深くもたれた。
辺境視察に出した、無難な男。
無難な振りをしている、無難ではない男。
彼は、その男が、無難に視察を済ませ、無難に王都へ帰ってくるものと、思っていた。
あるいは、辺境の汚れ仕事に音を上げて、泣きながら戻ってくるものと。
けれど、戻ってきたのは、男ではなく、印のない、一枚の辞任状だった。
「……辺境に、根を、張ったか」
ベルナール卿は低く呟いた。
その声に、苦々しさは、あった。
けれど、それと同じくらい、別の感情も、混じっていた。
それが何なのか、ベルナール卿自身、すぐには、名前を、つけられなかった。
彼は、辞任状を、机の抽斗に、しまった。
受理の判を、押さなかった。
押せば、正式な記録に残る。
残せば、ヴァレンタイン家の三男が辺境に逃げ込んだという噂が、社交界に流れる。
──握りつぶす。
──それが、いちばん、丸い。
ベルナール卿は、そう決めて、立ち上がった。
立ち上がって、窓の外の、王都の喧騒を、見下ろした。
そしてふと思った。
あの男は、いったい、辺境で、何を、見たのだろう、と。
その「何を見たのか」は、ベルナール卿が握りつぶした辞任状とは別の経路で、すでに、王都に、漏れ始めていた。
最初に動いたのは、宮廷魔導師団だった。
辺境からの行商人が、酒場で、こぼした。
北西の辺境集落が、凶暴な魔物の群れに襲われたが、一人の死者も出さずに撃退した、と。
しかも、戦って倒したのではなく、「魔物が、みんな、眠ってしまった」のだと。
酒場の与太話は、たいてい、そこで消える。
けれど、その夜、たまたまその酒場にいた宮廷魔導師団の若い書記官が、「眠ってしまった」という一語に、引っかかった。
魔物が、眠る。
傷つけられたのでも、討伐されたのでもなく、眠る。
書記官はそれを上官に報告した。
上官は、鼻で笑った。
けれど、笑いながら、念のため、辺境の事案記録を、調べさせた。
そして、記録に、奇妙な符合を、見つけた。
四十年前。
同じ北西の辺境に、一人の宮廷魔導師が、姿を消していた。
複合魔法の、当代随一の使い手。
名を、ハーミーネ。
上官の、笑いが、消えた。
大貴族たちは、別の角度から、ざわついた。
「王都が見捨てた辺境が、自力で生き延びた」という話は、貴族にとって、面白くない。
なぜなら、それは「王都の庇護など、なくてもよい」という前例に、なりかねないからだ。
辺境が、王都を、必要としなくなる。
それは、中央に座る者たちの足元を静かに削る。
ある侯爵は、晩餐の席で、こう、漏らした。
「辺境の田舎者が、まぐれで魔物を追い払った、というだけの話だろう。騒ぐほどのことではない」
けれど、その侯爵は、翌朝、密かに、自分の領地の魔導師に、グリモワール村の調査を、命じていた。
教会は、もっと、慎重だった。
「魔物を、殺さずに、眠らせる」。
それは、教会の教義の、根幹に、触れる話だった。
教会は、長く、こう、説いてきた。
魔物は、神に背いた、穢れた存在であり、討伐すべき敵である、と。
その魔物を、殺さず、眠らせた者がいるらしい、という噂は、教会にとって、看過できない、危うい思想だった。
大司教は、その報告を聞いて、長い祈りを、捧げた。
祈りの後、彼は、側近に、ひとことだけ、命じた。
「その者が、聖なる力か、あるいは、別の何かか。見極める必要がある」
そして、四つ目の勢力は。
王都のどの名簿にも、どの組織図にも、載っていなかった。
王都の地下、貴族街の外れの、とある館の一室。
窓のない部屋に、数人の男女が、集まっていた。
彼らの胸元には、星と、ろうそくと、楕円のうろを、組み合わせた、小さな紋章が、留められていた。
ルクス・ノクテ。
光と、闇。
一二〇年前に宮廷を追われ、表向きは解散し、地下で命脈を保ってきた、研究派閥。
そのうちの一人、灰色の髪の男が、報告書を、卓に、置いた。
「北西に放った個体群、十一体。全て、応答が、途絶えました」
「討伐されたか」
「いえ」
灰色の髪の男は、首を、振った。
「討伐では、ありません。──書き換えられました」
部屋が、静まり返った。
「書き換え、だと」
「我々が焼き込んだ、火と闇の複合刻印が、別の刻印に、上書きされていました。月光と、治癒の、複合です。個体は、破壊されておりません。生かされたまま、無力化されています」
「……ありえん」
年長の女が低く言った。
「複合刻印の上書きなど、当代に、できる者は、おらん。ハーミーネ亡き今──」
「ハーミーネは、生きています」
灰色の髪の男が、遮った。
「四十年前に消えた、あの女は、北西の辺境に、潜んでいた。そして、おそらく──後継者を、育てていた」
年長の女の、目が、細くなった。
「後継者」
「我々の刻印を、片手間で書き換える、後継者を」
部屋の空気が、ひときわ、重く、沈んだ。
誰も、口を、開かなかった。
ただ、窓のない部屋の、燭台の炎だけが、ゆらゆらと、揺れていた。
同じ頃、グリモワール村は、いつもの朝を、迎えていた。
王都が、四つの方向から、ざわめいていることなど、誰一人、知らなかった。
知っていたとしても、たぶん、里の朝の仕事は、何も、変わらなかっただろう。
「お母さん、洗濯物、外に干すと、今日は乾きにくいですよ」
朝食の片付けを終えたアルマが、窓の外の、どんよりした空を見上げて、言った。
「あら、そうね。雨は降らないみたいだけど、お日さまも出ないわねえ」
アニエスが、洗濯籠を抱えて、困った顔をした。
湿った洗濯物を、生乾きのまま取り込むのは、治癒士の家にとっては、特に困る。
生乾きの布は、傷の手当てには、使えないからだ。
アルマは、籠の中の、濡れた布をじっと見た。
──乾かすには、熱がいる。
でも、火の魔法を直接当てたら、布が、焦げちゃう。
──お日さまは、熱いけど、焦がさない。
ふんわり、乾かす。
──じゃあ、火の魔法を、すごく、すごく、弱くして、それに、光を、混ぜたら。
──お日さまみたいな、ふんわりした熱に、なるんじゃないかな。
「お母さん、ちょっと、試していいですか」
「何を?」
「洗濯物を、お日さまみたいに、乾かす魔法です」
アニエスは、おたまを置く手を、止めた。
それから、何事もなかったように、笑った。
もう、驚かない、と、決めていた。
「いいわよ。やってみて」
アルマは、洗濯物を、物干しに、かけた。
それから、その下の地面に、小さな魔法陣を、二つ、描いた。
火の陣を、ごく、小さく。
光の陣を、その横に。
二つの陣の交点に、軸ずらしの記号を、ちょこんと。
「火は、ほんのちょっとだけ。光と、手をつなぐくらい。──えーと、こうやって」
ぱちん、と、手を叩く。
物干しの周りの空気が、ふわりと、暖かくなった。
それは、火のような、刺すような熱ではなかった。
冬の縁側に差し込む、午後の陽だまりのような、優しい、まろやかな暖かさだった。
濡れていた布から、ほわほわと、白い湯気が立ち、みるみる、乾いていく。
けれど、焦げない。
布の繊維一本も、傷つけない。
ただ、陽だまりに干したように、ふっくらと、乾いていく。
「わあ……」
通りかかった里の女房が、足を、止めた。
「アニエスさん、これ、なんだい」
「アルマが、作ったの。……お日さまの、魔法、ですって」
アルマは、乾いた布に、頬を、寄せた。
ふわふわで、ぽかぽかで、お日さまの匂いが、した。
「えへへ。できました。これ、陽だまり、って呼ぼうかな」
──あの夜。
私は、ガルに、言った。
──今度は、誰のことも書き換えないで、ただ、ふんわり、みんなを幸せにする魔法を、作りたいって。
──これ、たぶん、それです。
アルマは、自分でも、気づいていなかった。
銀月の魔導書という、世界を書き換える魔法を作った、その同じ手がいまただ、お母さんの洗濯物を、ふっくら乾かすための魔法を、作っていた。
そして、アルマにとっては、その二つは、まったく、同じ重さの「新しい魔法」だった。
世界を救う魔法も、洗濯物を乾かす魔法も、どちらも、ただ、「面白そうだから、作った」。
足元で、ガルが、乾いたばかりの布の匂いを、くんくん、嗅いだ。
それから、その暖かい空気のなかで、ごろん、と、寝そべった。
「ガルも、気持ちいい?」
「ガフ」
──ひだまり。
──いい、においだ。
裏庭の薪を割っていたセオドアが、その光景を、遠くから、見ていた。
かつて王都で、彼は、暖を取るために、薪をくべ、炉に火を入れていた。
それが、当たり前だと思っていた。
けれど、ここでは、六歳の少女が、陽だまりを、作る。
セオドアは、手斧を下ろしてふっと笑った。
笑ってまた薪を、割り始めた。
驚くのはもうやめていた。
ただ、その驚きを、日々の暮らしの一部として、味わうことに、していた。
それが、ここでの、彼の生き方だった。
その夜、ハーミーネの書斎に、ガレリスが、訪ねてきた。
ハーミーネは、銀月の魔導書の夜から、すっかり、回復していた。
とはいえ、二日と少し縮めた寿命は、戻らない。
それを、ハーミーネは、誰にも、言わなかった。
言っても、仕方のないことだったからだ。
「ハーミーネ殿。夜分に、すまん」
「よい。茶でも、飲むかえ」
二人は、暖炉の前で、向かい合った。
薪が、ぱちりと、爆ぜた。
「ルクス・ノクテのことだ」
ガレリスが、切り出した。
「セオドアが、魔物の体から、読み取った紋章。あれが、本当に、王都の地下に、いまも、根を張っているなら──いずれ、また、来る」
「来るじゃろうな」
ハーミーネは、茶を、すすった。
「一度、書き換えられた個体群を、失った。連中は、必ず、その『書き換えた者』を、知りたがる。そして、欲しがる」
「アルマを、か」
「うむ」
ガレリスの拳が、膝の上で、固く、握られた。
「ハーミーネ殿。あんた、四十年前、連中と、何が、あった」
ハーミーネはしばらく黙っていた。
暖炉の炎が、皺だらけの顔を、橙色に、照らした。
「儂はな、若い頃、複合魔法の理論を、書いた。世界で、三人しか成し得なかった、その一人として。──じゃが、儂の理論は、優しい魔法にも、恐ろしい魔法にも、使えた。包丁が、料理にも、人殺しにも、使えるようにな」
「……」
「連中は、儂の理論で、人を殺す魔法を、作ろうとした。火と、闇を、混ぜてな。儂は、断った。すべてを捨てて、逃げた。この辺境まで」
ハーミーネは、茶碗を、膝に、下ろした。
「儂は、ずっと、思うておった。儂が、あの理論を、書かなければ、と。書いてしまった罪を、儂は、四十年、背負ってきた」
「ハーミーネ殿……」
「じゃが」
ハーミーネは、顔を、上げた。
その瞳の奥に、四十年分の、何かが、宿っていた。
「アルマを、見て、儂は、考えを、変えた。あの子は、儂の理論を、誰にも、教わっておらん。自分で、ゼロから、たどり着いた。そして、その理論を、人を殺すためではなく、人を、守るために、使うた。魔物すら、傷つけずに、な」
「ああ」
「魔法は、覚えるものではない。創造するものじゃ。──ならば、その創造を、どう使うかも、創造する者が、決める。儂は、人を殺す魔法に、使われかけた。じゃが、アルマは、洗濯物を乾かす魔法を、作る。同じ理論から、まるで、違うものが、生まれる」
ハーミーネはふっと笑った。
「儂の罪は、消えぬ。じゃが、アルマが、いる限り、儂の理論は、もう、闇のものでは、ない」
ガレリスは、長く、息を、吐いた。
それから低く言った。
「俺は、里長として、あんたに、礼を言う。──娘を、育ててくれて、ありがとう」
「礼を言うのは、儂のほうじゃ、ガレリスや」
ハーミーネは、首を、振った。
「あの子は、お主と、アニエスの、娘じゃ。儂は、ただ、本を、貸しただけ。──あの子を、人間に、育てたのは、お主たち、家族じゃよ」
暖炉の薪がまたひとつ、爆ぜた。
二人はしばらく何も、言わずに、炎を、見ていた。
数日が、過ぎた。
ヴェルダンス領主への出立の朝が、来た。
代表団は、ガレリス、ハーミーネ、セオドア、そして、アルマと、ガル。
アニエスとルカは、里に残る。
ルカはまだ本調子では、なかったし、誰かが、里を、守る必要が、あった。
「アルマ。ヴェルダンス城は、この里より、ずっと、大きい。人も、多い。粗相を、するんじゃないぞ」
ガレリスが、馬の支度をしながら、娘に、言った。
「はぁい。あの、お父さん」
「なんだ」
「ヴェルダンスのお城には、私の知らない魔法が、いっぱい、あるかな」
アルマの目が、きらきらと、輝き始めた。
「さあな。あるかもしれん」
「楽しみです! いっぱい見て、いっぱい、新しい魔法、考えます!」
ガレリスは、苦笑した。
王都の四勢力が、彼女を巡って、暗く、蠢いていることなど、アルマは、知らない。
ヴェルダンス領主の招待に、どんな思惑が、隠れているかも、知らない。
アルマにとって、それは、ただ、「知らない魔法を、たくさん見られる、お出かけ」だった。
「ガル、行こう。お城だって。お城」
「ガウ」
──おしろ。
──たのしみ、だな。
ガルが、しっぽをゆっくり振った。
銀の月狼も、少女の、わくわくに、当てられたように、いつもより、少しだけ、足取りが、軽かった。
アニエスが、玄関先で、娘を、抱きしめた。
「アルマちゃん。気をつけてね。お父さんと、お婆ちゃんと、セオドアさんの、言うことを、よく聞くのよ」
「はい、お母さん」
「ルカ兄ちゃんにも、お土産話、いっぱい、してあげてね」
「うん!」
ルカが、まだ少し、ふらつく足で、玄関まで、出てきた。
「アルマ。……ぼくの分まで、いろいろ、見てきて」
「お兄ちゃん。お留守番、ありがとう。──私、ぜったい、帰ってきますから」
アルマは、にこっと、笑った。
ルカは、その笑顔を、見て、自分も、笑った。
胸の傷はもう痛まなかった。
妹が、笑っている。
それで、十分だった。
一行は、馬と、徒歩で、里を、出た。
境界の森の、浅いところを、抜けていく。
森の奥では、書き換えられた十一体の魔物が、いまも静かに眠っている。
彼らはもう誰も、襲わない。
アルマが、そう、書き換えたからだ。
森を抜けると、丘が、見えた。
丘を越えれば、グリモワール村の領域は、終わり、その向こうは、アルマがまだ一度も、足を踏み入れたことのない、広い、広い、世界だった。
アルマは、丘の上で一度立ち止まって、振り返った。
生まれ育った、小さな里が、朝の光のなかに、ぽつんと、横たわっていた。
「いってきます」
アルマは、里に向かって、小さく、手を、振った。
それから、前を、向いた。
丘の向こうの、知らない世界へ。
知らない魔法が、待っているかもしれない、世界へ。
「ガル。私、わくわくしてます」
「ガフ」
──われも、だ。
少女と、銀の狼は、丘を、下り始めた。
その少し後ろを、父と、老師と、元騎士が、続いた。
風が、丘を、渡っていった。
その風は、辺境から、王都の方角へと、吹いていった。
そして、その風のなかにはもうひとつの名が、確かに、乗っていた。
銀月の魔導書。
辺境の、小さな少女が、何気なく、つけた、その魔法の名は、これから、王都を、貴族を、教会を、そして、闇に潜む者たちを、ひとつ残らず、揺り動かしていく。
けれど、それはまた別の話だ。
いまは、ただ、一人の少女が、新しい魔法を、作りたい一心で、知らない世界へ、足を、踏み出した。
──その、最初の一歩を、世界は、まだ、知らない。




