第5章「銀月の魔導書、世界を書き換える」
銀の光が、流れていた。
地面に描かれた三つの円から、月までは届かない、けれど月光と混じり合う柱が、空に向かって立ち上がっていた。
柱の上半分が、ゆっくりと傾き、雲を撫でるように西に流れた。
流れた先は、境界の森だった。
森が、銀色に染まった。
染まっていく速度は、夜が明けていく速度よりも、ゆっくりだった。
アルマは、三つの円の中心に、立っていた。
両手は、まだ、組まれた魔法陣の上に、かざされていた。
彼女の小さな指先から、淡い銀色の光が、絶え間なく、流れ続けていた。
アルマの体の中で、二つの系統が走っていた。
月光と、治癒。
火の系統は、ハーミーネが、引き受けていた。
アルマには、ハーミーネの体の中で、何が起きているか、わかった。
老婆の魔力回路が、火の系統を、必死に押し留めていた。
本来、八十年使い込まれた回路に、これほどの負荷を、かけるべきではない。
それは、アルマにも、わかっていた。
けれど、アルマは、目を、閉じたままだった。
目を開けてしまったら、お婆ちゃんの顔を、見てしまう。
見てしまったら、たぶん、自分は、魔法を、止めてしまう。
──お婆ちゃん、頑張って。
──私、もうすぐ、終わらせます。
アルマは、心の中で、つぶやいた。
そして、自分の意識を、森に向けた。
銀色の光が、森のなかの、ひとつひとつの「気配」に、触れていく。
──いる、いる、いる。
──全部で、十一体。
──体の中に、火と闇の魔法陣が、焼き込まれた、もとは生きていた子たち。
アルマは、その一体ずつに、自分の魔法陣を、優しく、上書きしていった。
火の魔法陣を、月光の魔法陣に。
闇の魔法陣を、治癒の魔法陣に。
──書き換える。
──書き換えるけれど、消さない。
元の体は、ちゃんと、残す。
ガルが、三つの円の中心で、低く鳴いた。
「ガル……ガフ」
──われも、ここに、おる。
──ともに。
「うん」
アルマは、目を、閉じたまま、ガルの方角に、頷いた。
──ガルが、いてくれて、よかった。
──ガルがいなかったら、私、この魔法、できなかった。
三つの円のうち、月光の円から、ひときわ強い光が、立ち上った。
それは、ガルの銀の毛並みから、放たれていた。
月狼の魔力が、アルマの月光系統を、増幅していた。
ハーミーネが、火の円の中で、低く呟いた。
「アルマや……あと、どれくらいじゃ」
「お婆ちゃん」
アルマは、目を閉じたまま、答えた。
「あと、三体です」
「うむ……保たせる」
ハーミーネの声には、震えが、混じり始めていた。
アルマには、それも、わかった。
けれど、お婆ちゃんは「保たせる」と言った。
だから、信じる。
──二体。
書き換え、完了。
──あと、一体。
アルマは、最後の一体の気配に、自分の魔法陣を、合わせた。
それは、群れの中で、いちばん大きな個体だった。
たぶん、群れを率いていた、リーダー。
アルマたちが森で見つけた死骸の倍以上、ガルの三倍はあった。
──おまえも。
書き換えてあげる。
アルマの銀色の光が、森のいちばん深いところまで、届いた。
そして、最後の一体の体の中の、火と闇の魔法陣が、月光と治癒に、上書きされた。
森が、しんと、静まり返った。
唸り声は、消えていた。
代わりに、規則的な、低い寝息が、十一本、森のあちこちから、漏れていた。
アルマは、両手を、ゆっくりと、下ろした。
「──おわりました」
アルマの声は、いつもの、六歳の少女の声だった。
けれど、その背に、ハーミーネの体が、崩れるように、もたれかかってきた。
「お婆ちゃん!」
アルマは振り返って、老婆を、両手で支えた。
八十年の体は、軽かった。
けれど、いまの軽さは、いつもの軽さとは、ちがった。
──熱が、抜けていた。
──火の系統を、全部、押し留めた、その代償だった。
「お婆ちゃん、お婆ちゃん!」
アルマは、ハーミーネの胸に、耳を、押し当てた。
心臓は、動いていた。
けれど、弱かった。
アルマの目から、初めて、涙が、こぼれた。
けれど、アルマは、泣くのを、止めた。
──いま、泣いてる時間は、ない。
アルマは、ハーミーネの胸の上に、両手を、置いた。
そして、もう一度、治癒の魔法陣を、描いた。
今度は、自分の体に流れる治癒の系統を、すべて、ハーミーネに、流し込んだ。
「お婆ちゃん。寝ててください。私が、治します」
──お婆ちゃん、私の魔法は、もう、誰かを書き換える魔法じゃない。
──お婆ちゃんを、治す魔法です。
──治る、はず。
治る、と、私は、信じます。
治癒の光が、老婆の体を、優しく、包んだ。
ハーミーネの呼吸が、少しずつ、深くなった。
心臓の鼓動が、ゆっくりと、戻ってきた。
アルマは、それを確認して、ようやく、息を吐いた。
ガルが、二人の傍に、寄り添った。
銀の月狼は、アルマの肩に、鼻先を、そっと当てた。
「ガル、ありがとう」
「ガフ」
──ともに、おる。
いつでも。
アルマは、ガルの首に、顔を、うずめた。
そして、ようやく、少しだけ、泣いた。
一度だけ。
ほんの少しだけ。
それから、顔を上げて、空を、見上げた。
東の空が、白み始めていた。
夜明けが、来ていた。
そして、ただ一人の死者も、出ていなかった。
三つの円の、十歩ほど外で、セオドアが、剣を取り落としていた。
銀の光のなかで、彼が何を見、何を失い、何を得たのか──それを、彼自身が言葉にできるようになるのは、もう少し、あとのことだ。
いまはただ、彼は、頬を流れるものを拭おうともせず、立ち尽くしていた。
朝が来た。
ガレリスは、里の中央で、最後の防衛準備の指揮を、終えたばかりだった。
そこへ、東の境界から、セオドアが、歩いてきた。
銀の剣を、腰に、提げていた。
けれど、その歩き方が、昨夜とは、ちがっていた。
「ヴァレンタイン卿」
「セオドア、で構いません」
「は?」
「セオドアです、ガレリスさん。ヴァレンタインは、もう、外しました」
ガレリスは、しばらく、セオドアを見ていた。
それから、ゆっくりと、頷いた。
「──そうか」
「はい」
「アルマと、ハーミーネ殿は」
「ご無事です。アルマちゃんは、ハーミーネ殿を、治癒中です。ハーミーネ殿は、ご存命です。ただ、お疲れです」
「群れは」
「全員、眠っています」
「──眠って」
「眠って、います」
ガレリスは、片眉を、上げた。
「説明してくれ、セオドア」
「アルマちゃんは、魔物を、倒さず、書き換えました。体の中の魔法陣を、月光と治癒に、上書きしました。結果、魔物たちは、暴れなくなり、いま、森の中で、眠っています」
ガレリスは、長く、息を吐いた。
それから、低く、笑った。
「──娘が、世界を、書き換えやがった」
「はい」
「俺の、娘が」
「はい」
ガレリスの目に、薄く、涙が、滲んだ。
ガレリスは、それを、隠そうとしなかった。
隠す相手が、もう、いなかったからだ。
「セオドア」
「はい」
「俺は、里長として、いま、お前に、頼みがある」
「なんなりと」
「俺と一緒に、森に、入ってくれ。アルマと、ハーミーネ殿を、迎えに行く。それと──」
ガレリスは、自分の刀の柄を、撫でた。
「眠っている魔物たちの、体の中を、確認したい」
「火と闇の魔法陣の、出所、ですね」
「ああ」
ガレリスは、頷いた。
「あれを焼き込んだ連中の、足跡を、ひとつでも、拾いたい」
二人は、組頭の一人と、里民数名を連れて、森に入った。
まず、アルマと、ハーミーネを、家に運んだ。
ハーミーネは、揺り椅子に、寝かされた。
アニエスが、すぐに、治癒の続きを、始めた。
アルマは、母の隣で、しばらく、ぼんやりと座っていたが、母に「あなたも休んで」と促されて、自分の部屋に、戻った。
ガルは、アルマの足元に、寄り添ったまま、動かなかった。
ガレリスとセオドアと組頭たちは、もう一度、森に入った。
アルマの作った銀の柱の名残は、もう、消えていた。
けれど、森の中の魔物たちは、まだ、深く、眠っていた。
一体目の、いちばん大きな個体の前で、ガレリスは、足を止めた。
「──こいつだな。群れの頭」
「はい。ガルの三倍はあります」
「セオドア。あんた、魔法陣の検分は、できるか」
「学院でなら、習いました。ただ、こいつの体に焼き込まれているのが、本当に、火と闇の、書き換え跡の上に、月光と治癒、というのは、私の知識を超えています」
「やってみてくれ」
「はい」
セオドアは、しゃがんで、巨大な魔物の横腹を、観察した。
そこに、銀色に、ぼんやりと、光る紋様が、見えた。
アルマが書き換えた、月光と治癒の魔法陣。
けれど、その月光と治癒の紋様の、下に。
──まだ、消えていない、もうひとつの紋様が、見えた。
「ガレリスさん」
「ああ」
「アルマちゃんは、書き換えました。けれど、書き換える前の魔法陣の、痕跡が、まだ、残っています」
「読めるか」
「読めます」
セオドアは、目を、細めた。
火と闇の二重陣。
軸ずらしの調律記号。
書き手の癖が、滲み出ていた。
そして、二重陣の、外側に、小さな、ひとつの紋章が、焼き込まれていた。
紋章は、星と、ろうそくと、楕円のうろを、組み合わせた、奇妙な形をしていた。
セオドアは、その紋章を、見た瞬間、息を、止めた。
「ガレリスさん」
「ああ」
「これは、組織の紋章です」
「組織?」
「はい。私は、学院の第二書庫で、これを、一度、見ました。──ルクス・ノクテ。光と、闇」
「ルクス・ノクテ」
「ラテン語で、『光と闇』。一二〇年前に、王立宮廷魔導師団から、追放された、ある研究派閥の、私的な紋章です」
ガレリスの目が、鋭く、なった。
「追放された?」
「『魔法を、純粋な力として、人間の倫理から切り離す』という思想で、宮廷を、追放されました。表向きには、解散したことになっています。けれど、私が、第二書庫で見たいくつかの古文書に、彼らが地下で、研究を、続けてきた痕跡が、残っていました」
「そいつらが、まだ、いる、と」
「いる、と思います。──そして、ハーミーネ殿が、四十年前に、彼らの後継者と、ぶつかったのだと、思います」
ガレリスは、刀の柄を、握り直した。
それから、ゆっくりと、息を、吐いた。
「ルクス・ノクテ──か」
「はい」
「これは、里では、対処できねえな」
「はい。これは、王都の、もっと深いところに、根を張っています」
ガレリスは、しばらく、黙っていた。
それから、組頭たちのほうに、振り返った。
「お前たち、この光景を、よく見ておけ。誰にも、漏らすな。──だが、忘れるな」
「は」
「俺たちの里は、四十年越しの、宮廷の闇に、襲われた。だが、俺たちは、生き残った。誰一人、死ぬことなく」
組頭の一人が、声を、絞り出した。
「アルマちゃんの、おかげですね」
「ああ」
「アルマちゃんは、神様の、子なんでしょうか」
ガレリスは、その問いに、首を、振った。
「ちがう」
「は?」
「神様じゃ、ない。俺の娘だ。──ただの、俺の娘だ」
組頭は、深く、頷いた。
昼前に、里の広場には、人が、集まっていた。
戦える男たちは、皆、傷ついていた。
けれど、誰も、死んでいなかった。
重傷者の二人は、アニエスとアルマの治癒で、危険な状態を、脱していた。
そして、ルカは。
「あ、お、お母さん。──ぼく、寝てた?」
客間で、目を覚ました。
アニエスが、息子の額に、自分の額を、当てた。
涙が、止まらなかった。
「ルカ、ルカ、よかった、よかった」
「ぼく、胸、痛くないよ。あれ、夢、だったのかな」
「夢じゃ、ないわよ」
「えっ」
「あなたは、本物の、勇者だった」
ルカは、目を、ぱちぱちさせた。
「ぼ、ぼくが?」
「あなたが」
「えへへ」
ルカは、笑った。
そして、ふと、思い出したように、聞いた。
「アルマは、無事?」
「無事」
「ほんと?」
「ほんと」
「よかった」
ルカは、もう一度、笑った。
笑って、また、目を、閉じた。
今度の眠りは、回復のための、深い眠りだった。
アニエスは、息子の手を、握ったまま、長いあいだ、動かなかった。
アニエスの隣で、ガレリスは、自分の左腕の包帯を、見ていた。
自分の傷も、いつのまにか、ほとんど治っていた。
アルマが、家に戻ってから、家族全員に、治癒の魔法を、こっそりかけていたらしい。
気づかなかった。
──娘は、こういうことを、当たり前にする。
ガレリスは、目を、閉じた。
自分が、いま、この瞬間、世界で、いちばん幸せな父親だ、と、思った。
アルマが、自分の部屋から、降りてきたのは、昼を、少し過ぎた頃だった。
ガルを、足元に従えて、寝間着姿のまま、客間に、現れた。
目をこすっていた。
「お父さん、お母さん。おはようございます」
全員が、振り返った。
ガレリス、アニエス、セオドア、組頭たち。
そして、家屋の中で休んでいた里民、十数名。
全員が、無言で、アルマを、見た。
アルマは、その全員の視線を、受けて、首を、傾げた。
「……あれ? なにか、ありました?」
「アルマちゃん」
アニエスが、台所のほうから、駆けてきた。
そして、娘を、ぎゅっと、抱きしめた。
「お母さん? どうしたの? くるしいよ」
「ごめんね、ごめんね、アルマちゃん」
「お母さん、なんで、泣いてるの?」
「ううん、なんでもないの。──お腹、すいたでしょう?」
「あ、すいてます!」
アルマは、にこっと、笑った。
客間の全員が、息を、吐いた。
誰かが、最初に、笑った。
誰かが、もう一度、笑った。
笑い声が、伝染した。
最後には、客間中が、笑っていた。
アルマは、不思議そうに、首を、傾げた。
「あれ? みんな、なんで、笑ってるんですか?」
「アルマや」
ガレリスが、娘の頭を、ごく軽く、撫でた。
「お前は、お前のままで、いてくれ」
「うん。私、私です」
「ああ。それでいい」
アニエスは、台所に、戻って、すぐに、温かいスープを、運んできた。
アルマは、卓につくと、ガレリスとセオドアと組頭たちと一緒に、スープを、飲み始めた。
ガルは、アルマの椅子の脚に、寄り添っていた。
スープを、ひと口、飲んで、アルマは、ふと、思い出したように、言った。
「あ、そうだ。お婆ちゃんは、どこですか?」
「向こうの部屋で、寝ておるよ」
「あ、よかった。生きてた」
アルマは、ぱちぱちと、瞬きをした。
それから、にこっと、笑った。
「えへへ。約束、守ってくれて、嬉しいです」
客間の全員が、もう一度、息を、吐いた。
セオドアの隣に座っていた組頭の一人が、ぽつりと、つぶやいた。
「──このお嬢ちゃん、本当に、神様の子じゃ、ねえんですかね」
セオドアは、その組頭に、答えた。
「ちがいます。神様の子では、ありません。アルマちゃんは、ガレリスさんとアニエスさんの、ご令嬢です」
「は……あ、はい」
組頭は、目を、しばたいた。
セオドアは、低く、笑った。
ガレリスが、その笑いを、見て、薄く、口の端を上げた。
夕方、里の広場で、簡素な感謝の集まりが、行われた。
重傷者たちは、もう、歩けるようになっていた。
戦闘で命を落とした者は、誰一人、いなかった。
火傷を負った里民も、皆、回復していた。
里長ガレリスが、広場の中央に、立った。
「みんな、聞いてくれ」
里民たちが、静まり返った。
「俺たちの里は、昨日、四十年越しの、暗い影に、襲われた。だが、生き残った。一人も、欠けることなく」
「ええ」
「これは、アルマの、ハーミーネ殿の、そして、セオドアの、力だ。──だが、それだけじゃ、ない」
ガレリスは、里民全員を、見渡した。
「お前たち、一人一人が、戦ったから、生き残った。アルマは、お前たちを、守るために、魔法を、作った。だが、お前たちが、まず、戦わなかったら、アルマの魔法も、間に合わなかった」
「里長──」
「俺たちは、辺境の、里だ。王都に、見捨てられた。それは、もう、はっきり、した」
「ええ」
「だが、俺たちは、ここで、生きる。これからも、生き続ける。アルマと、ガルと、ハーミーネ殿と、セオドアと、そして、お前たち、全員で」
里民たちが、頷いた。
拍手は、なかった。
ただ、深い、無言の、頷きだけが、広場を、満たした。
アルマは、ガレリスの隣で、母の手を、握っていた。
自分が褒められているとは、たぶん、半分くらいしか、理解していなかった。
でも、お父さんが、嬉しそうにしているから、私も、嬉しい。
──そういう、子だった。
夕日が、傾き始めた頃、客間に、セオドアと、ガレリスと、起き上がったばかりのハーミーネが、集まっていた。
ハーミーネは、まだ、立ち上がれなかった。
けれど、揺り椅子に、座って、お茶を、飲むことは、できるようになっていた。
ハーミーネは、二日と少し、寿命を縮めた、と、自分で言った。
アルマには、それを、伝えていなかった。
「セオドアや」
「はい」
「お主は、これから、どうする」
セオドアは、卓に、両手を、置いた。
そして、ゆっくりと、答えた。
「私は、王都に、書状を、書きます。ただし、報告書では、ありません。──辞任状です」
ガレリスとハーミーネが、同時に、セオドアを、見た。
「辞任、と申すか」
「はい」
セオドアは、頷いた。
「私は、第三騎士団の派遣騎士として、辺境視察を、命じられました。視察の結果は、私が、独自に、判断します。そして、結果として、私は、第三騎士団を、離れます」
「ベルナール卿は、それを、許すまい」
「許さなくても、構いません。私が、辞めると、言えば、辞めるのです。私は、ヴァレンタイン家の三男です。家督の継承順位も、騎士団内の地位も、いずれも、辞任を、阻む理由には、なりません」
「ヴァレンタイン家のご当主は──父上は、どうお考えになるかな」
「父は、たぶん、何も、言いません。私の存在を、ほとんど、覚えていないので」
ハーミーネは、しばらく、セオドアを、見ていた。
それから、低く、笑った。
「セオドアや。お主、本当に、覚悟が、できたのう」
「はい」
「で、辞任した後は」
「グリモワール村に、留まります。ガレリスさんが、許してくださるならば」
ガレリスは、頷いた。
「許す、もなにも、お前は、もう、里の戦力だ。歓迎する」
「ありがとうございます」
「ただし」
ガレリスは、低く、続けた。
「お前が、ここに留まる、ということは、王都の連中が、お前を、追ってくる可能性が、ある。ヴァレンタイン家の三男坊が、辺境の里に居つく、というのは、王都にとっては、嗤い者になる話だ。だが、ベルナール卿が、お前を、嗤い者で済ませてくれるか、それは、わからん」
「わかっています」
「それでも、留まるか」
「留まります」
ガレリスは、頷いた。
そして、卓の上に、自分の刀を、置いた。
セオドアの剣の隣に、自分の刀を、置く、という、里長としての、ひとつの儀式だった。
「セオドア・ヴァレンタイン。──いや、セオドア」
「はい」
「グリモワール村は、お前を、受け入れる」
「ありがとうございます」
ハーミーネが、揺り椅子から、立ち上がろうとした。
セオドアが、慌てて、手を、貸した。
老婆は、しわだらけの手で、セオドアの手を、強く、握り返した。
「セオドアや。お主は、儂が、四十年待った、最初の、王都の人間じゃ」
「──」
「四十年、儂は、辺境にいた。誰も、儂を、訪ねてこなかった。じゃが、お主が、来た。そして、王都を、捨てた」
「ハーミーネ殿」
「儂は、もう、長くは、ない。じゃが、儂の知っていることは、すべて、お主に、伝える。アルマと一緒に、お主に、伝える」
「お引き受けします」
セオドアの声は、震えなかった。
その夜、伝令が、また、来た。
王都からではなかった。
隣の地方を治める、ヴェルダンス領主からの、馬の早便だった。
伝令は、馬上から、用件を、伝えた。
「ヴェルダンス領主、シャルル・ド・ヴェルダンス公爵閣下より、グリモワール村への、お招きの書状である!」
ガレリスは、伝令を、見上げた。
「招きの書状?」
「閣下は、グリモワール村における、未確認種の凶暴魔物の襲撃を、聞き及ばれた。当該事案の詳細を、伺いたく、ぜひ、グリモワール村の代表団に、ヴェルダンス城まで、足を運んでいただきたい、とのことです。閣下は、王都の対応とは、別に、独自の判断で、辺境集落の安全を、確保なさりたい、とのお考えです」
ガレリスは、伝令に、礼を、述べた。
書状を、受け取った。
伝令を、休ませる手配を、組頭に、頼んだ。
そして、客間に、戻った。
セオドアと、ハーミーネが、座って、待っていた。
「ガレリスさん、なんと」
「ヴェルダンス領主から、お招きの書状だ。隣の地方の領主。王都の影響力が、もっとも届きにくい、独立性の強い領主。シャルル・ド・ヴェルダンス。魔物事案の詳細を、聞きたい、と。だが、本音は、たぶん、別だ」
「──アルマちゃん、ですね」
「ああ」
ガレリスは、卓の上に、書状を、広げた。
「噂は、もう、漏れている。王都が動かなかった辺境の里が、自力で凶暴魔物の群れを撃退した、というのは、独立独歩のヴェルダンス領主にとっては、のどから手が出るほど欲しい情報だ」
ハーミーネが、揺り椅子から、低く、言った。
「ヴェルダンス領主は、悪い人物では、ない。儂も、四十年前、宮廷で、何度か、会った。今は五十代じゃが、若い頃から、頭の切れる男じゃった。王都の腐敗には、距離を、置いておった。──ただ、距離を置くだけの男ではない。彼自身に、何かの野心が、あるじゃろう」
ガレリスは、頷いた。
「それで、ハーミーネ殿、俺たちは、行くべきだろうか」
「行くべきじゃ。王都を相手にする前に、ヴェルダンス領主を、味方に、つけておくのは、悪くない選択じゃ」
「アルマを、連れて、ですか」
「アルマも、連れて」
ガレリスは、息を、吐いた。
それから、薄く、笑った。
「──スケールが、変わるな」
「うむ。アルマや、ガルや、お主自身が、辺境の村だけで生きる時代は、終わるかもしれぬのう」
夜が、深くなった。
アルマは、ガルと一緒に、自分の部屋で、ベッドに、座っていた。
窓の外で、半月が、銀色に、光っていた。
月は、少し欠けていた。
けれど、銀色だった。
「ガル」
「ガフ」
「今日、いっぱい、いろいろあったね」
「ガウ」
──いろいろ、あった。
だが、おわってよかった。
「うん、私も。終わってよかったって、思ってます。お婆ちゃん、生きてくれた。お兄ちゃんも、目を覚ましてくれた。お父さんも、お母さんも、無事。みんな、無事です」
「ガル」
「ガル、いてくれて、ありがとう」
「ガフ」
アルマは、ガルの背中に、ぽすんと、もたれかかった。
ガルは、しっぽを、一度、揺らした。
──遠くから、馬の蹄の音が、聞こえた。
夜更けに、誰かが、来たらしい。
アルマには、それが、誰なのか、わからなかった。
でも、なんとなく、明日から、また、忙しくなりそうな気がした。
「ガル。私、また、新しい魔法を、作りたいです」
「ガフ?」
「今度は、誰のことも、書き換えないで、ただ、ふんわりと、みんなを幸せにする魔法。──そういうの、ないかな」
ガルは、しっぽを、もう一度、揺らした。
「うん。たぶん、ある。あるって、信じます」
アルマは、目を、閉じた。
──そして、すぐに、寝息を、立て始めた。
銀の狼は、少女の傍らで、静かに、目を、細めた。
窓の外で、月が、ひとつ、傾いた。
グリモワール村の、長い、長い、一日が、終わった。
──いや、それは、まだ、始まりに、過ぎなかった。
王都の方角で、何かが、動き始めていた。
ヴェルダンス領主が、お招きの書状を、寄越した。
そして、銀月の魔導書の名は、これから、世界中に、広がっていく。
けれど、それは、また、別の話だ。
いまは、ただ、少女と狼が、月の下で、眠っている。
それだけで、十分だった。




