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『辺境育ちの天才発明魔導師 〜新しい魔法を作りたいだけなのに、なぜか世界が騒がしくなります〜』  作者: 夕凪 鏡介


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第5章「銀月の魔導書、世界を書き換える」

銀の光が、流れていた。


 地面に描かれた三つの円から、月までは届かない、けれど月光と混じり合う柱が、空に向かって立ち上がっていた。

 柱の上半分が、ゆっくりと傾き、雲を撫でるように西に流れた。

 流れた先は、境界の森だった。


 森が、銀色に染まった。

 染まっていく速度は、夜が明けていく速度よりも、ゆっくりだった。


 アルマは、三つの円の中心に、立っていた。

 両手は、まだ、組まれた魔法陣の上に、かざされていた。

 彼女の小さな指先から、淡い銀色の光が、絶え間なく、流れ続けていた。


 アルマの体の中で、二つの系統が走っていた。

 月光と、治癒。

 火の系統は、ハーミーネが、引き受けていた。


 アルマには、ハーミーネの体の中で、何が起きているか、わかった。

 老婆の魔力回路が、火の系統を、必死に押し留めていた。

 本来、八十年使い込まれた回路に、これほどの負荷を、かけるべきではない。

 それは、アルマにも、わかっていた。


 けれど、アルマは、目を、閉じたままだった。

 目を開けてしまったら、お婆ちゃんの顔を、見てしまう。

 見てしまったら、たぶん、自分は、魔法を、止めてしまう。


 ──お婆ちゃん、頑張って。

 ──私、もうすぐ、終わらせます。


 アルマは、心の中で、つぶやいた。


 そして、自分の意識を、森に向けた。

 銀色の光が、森のなかの、ひとつひとつの「気配」に、触れていく。


 ──いる、いる、いる。

 ──全部で、十一体。

 ──体の中に、火と闇の魔法陣が、焼き込まれた、もとは生きていた子たち。


 アルマは、その一体ずつに、自分の魔法陣を、優しく、上書きしていった。


 火の魔法陣を、月光の魔法陣に。

 闇の魔法陣を、治癒の魔法陣に。


 ──書き換える。

 ──書き換えるけれど、消さない。

 元の体は、ちゃんと、残す。


 ガルが、三つの円の中心で、低く鳴いた。



「ガル……ガフ」


 ──われも、ここに、おる。

 ──ともに。



「うん」


 アルマは、目を、閉じたまま、ガルの方角に、頷いた。


 ──ガルが、いてくれて、よかった。

 ──ガルがいなかったら、私、この魔法、できなかった。


 三つの円のうち、月光の円から、ひときわ強い光が、立ち上った。

 それは、ガルの銀の毛並みから、放たれていた。

 月狼の魔力が、アルマの月光系統を、増幅していた。


 ハーミーネが、火の円の中で、低く呟いた。



「アルマや……あと、どれくらいじゃ」


「お婆ちゃん」


 アルマは、目を閉じたまま、答えた。



「あと、三体です」


「うむ……保たせる」


 ハーミーネの声には、震えが、混じり始めていた。

 アルマには、それも、わかった。

 けれど、お婆ちゃんは「保たせる」と言った。

 だから、信じる。


 ──二体。

 書き換え、完了。

 ──あと、一体。


 アルマは、最後の一体の気配に、自分の魔法陣を、合わせた。

 それは、群れの中で、いちばん大きな個体だった。

 たぶん、群れを率いていた、リーダー。

 アルマたちが森で見つけた死骸の倍以上、ガルの三倍はあった。


 ──おまえも。

 書き換えてあげる。


 アルマの銀色の光が、森のいちばん深いところまで、届いた。

 そして、最後の一体の体の中の、火と闇の魔法陣が、月光と治癒に、上書きされた。


 森が、しんと、静まり返った。


 唸り声は、消えていた。

 代わりに、規則的な、低い寝息が、十一本、森のあちこちから、漏れていた。


 アルマは、両手を、ゆっくりと、下ろした。



「──おわりました」


 アルマの声は、いつもの、六歳の少女の声だった。

 けれど、その背に、ハーミーネの体が、崩れるように、もたれかかってきた。



「お婆ちゃん!」


 アルマは振り返って、老婆を、両手で支えた。

 八十年の体は、軽かった。

 けれど、いまの軽さは、いつもの軽さとは、ちがった。


 ──熱が、抜けていた。

 ──火の系統を、全部、押し留めた、その代償だった。



「お婆ちゃん、お婆ちゃん!」


 アルマは、ハーミーネの胸に、耳を、押し当てた。

 心臓は、動いていた。

 けれど、弱かった。

 アルマの目から、初めて、涙が、こぼれた。


 けれど、アルマは、泣くのを、止めた。


 ──いま、泣いてる時間は、ない。


 アルマは、ハーミーネの胸の上に、両手を、置いた。

 そして、もう一度、治癒の魔法陣を、描いた。

 今度は、自分の体に流れる治癒の系統を、すべて、ハーミーネに、流し込んだ。



「お婆ちゃん。寝ててください。私が、治します」


 ──お婆ちゃん、私の魔法は、もう、誰かを書き換える魔法じゃない。

 ──お婆ちゃんを、治す魔法です。

 ──治る、はず。

 治る、と、私は、信じます。


 治癒の光が、老婆の体を、優しく、包んだ。

 ハーミーネの呼吸が、少しずつ、深くなった。

 心臓の鼓動が、ゆっくりと、戻ってきた。


 アルマは、それを確認して、ようやく、息を吐いた。


 ガルが、二人の傍に、寄り添った。

 銀の月狼は、アルマの肩に、鼻先を、そっと当てた。



「ガル、ありがとう」


「ガフ」


 ──ともに、おる。

 いつでも。


 アルマは、ガルの首に、顔を、うずめた。

 そして、ようやく、少しだけ、泣いた。

 一度だけ。

 ほんの少しだけ。


 それから、顔を上げて、空を、見上げた。


 東の空が、白み始めていた。

 夜明けが、来ていた。

 そして、ただ一人の死者も、出ていなかった。


 三つの円の、十歩ほど外で、セオドアが、剣を取り落としていた。

 銀の光のなかで、彼が何を見、何を失い、何を得たのか──それを、彼自身が言葉にできるようになるのは、もう少し、あとのことだ。

 いまはただ、彼は、頬を流れるものを拭おうともせず、立ち尽くしていた。




 朝が来た。


 ガレリスは、里の中央で、最後の防衛準備の指揮を、終えたばかりだった。

 そこへ、東の境界から、セオドアが、歩いてきた。

 銀の剣を、腰に、提げていた。

 けれど、その歩き方が、昨夜とは、ちがっていた。



「ヴァレンタイン卿」


「セオドア、で構いません」


「は?」


「セオドアです、ガレリスさん。ヴァレンタインは、もう、外しました」


 ガレリスは、しばらく、セオドアを見ていた。

 それから、ゆっくりと、頷いた。



「──そうか」


「はい」


「アルマと、ハーミーネ殿は」


「ご無事です。アルマちゃんは、ハーミーネ殿を、治癒中です。ハーミーネ殿は、ご存命です。ただ、お疲れです」


「群れは」


「全員、眠っています」


「──眠って」


「眠って、います」


 ガレリスは、片眉を、上げた。



「説明してくれ、セオドア」


「アルマちゃんは、魔物を、倒さず、書き換えました。体の中の魔法陣を、月光と治癒に、上書きしました。結果、魔物たちは、暴れなくなり、いま、森の中で、眠っています」


 ガレリスは、長く、息を吐いた。

 それから、低く、笑った。



「──娘が、世界を、書き換えやがった」


「はい」


「俺の、娘が」


「はい」


 ガレリスの目に、薄く、涙が、滲んだ。

 ガレリスは、それを、隠そうとしなかった。

 隠す相手が、もう、いなかったからだ。



「セオドア」


「はい」


「俺は、里長として、いま、お前に、頼みがある」


「なんなりと」


「俺と一緒に、森に、入ってくれ。アルマと、ハーミーネ殿を、迎えに行く。それと──」


 ガレリスは、自分の刀の柄を、撫でた。



「眠っている魔物たちの、体の中を、確認したい」


「火と闇の魔法陣の、出所、ですね」


「ああ」


 ガレリスは、頷いた。



「あれを焼き込んだ連中の、足跡を、ひとつでも、拾いたい」


 二人は、組頭の一人と、里民数名を連れて、森に入った。

 まず、アルマと、ハーミーネを、家に運んだ。

 ハーミーネは、揺り椅子に、寝かされた。

 アニエスが、すぐに、治癒の続きを、始めた。

 アルマは、母の隣で、しばらく、ぼんやりと座っていたが、母に「あなたも休んで」と促されて、自分の部屋に、戻った。

 ガルは、アルマの足元に、寄り添ったまま、動かなかった。


 ガレリスとセオドアと組頭たちは、もう一度、森に入った。

 アルマの作った銀の柱の名残は、もう、消えていた。

 けれど、森の中の魔物たちは、まだ、深く、眠っていた。


 一体目の、いちばん大きな個体の前で、ガレリスは、足を止めた。



「──こいつだな。群れの頭」


「はい。ガルの三倍はあります」


「セオドア。あんた、魔法陣の検分は、できるか」


「学院でなら、習いました。ただ、こいつの体に焼き込まれているのが、本当に、火と闇の、書き換え跡の上に、月光と治癒、というのは、私の知識を超えています」


「やってみてくれ」


「はい」


 セオドアは、しゃがんで、巨大な魔物の横腹を、観察した。

 そこに、銀色に、ぼんやりと、光る紋様が、見えた。

 アルマが書き換えた、月光と治癒の魔法陣。


 けれど、その月光と治癒の紋様の、下に。

 ──まだ、消えていない、もうひとつの紋様が、見えた。



「ガレリスさん」


「ああ」


「アルマちゃんは、書き換えました。けれど、書き換える前の魔法陣の、痕跡が、まだ、残っています」


「読めるか」


「読めます」


 セオドアは、目を、細めた。

 火と闇の二重陣。

 軸ずらしの調律記号。

 書き手の癖が、滲み出ていた。


 そして、二重陣の、外側に、小さな、ひとつの紋章が、焼き込まれていた。

 紋章は、星と、ろうそくと、楕円のうろを、組み合わせた、奇妙な形をしていた。


 セオドアは、その紋章を、見た瞬間、息を、止めた。



「ガレリスさん」


「ああ」


「これは、組織の紋章です」


「組織?」


「はい。私は、学院の第二書庫で、これを、一度、見ました。──ルクス・ノクテ。光と、闇」


「ルクス・ノクテ」


「ラテン語で、『光と闇』。一二〇年前に、王立宮廷魔導師団から、追放された、ある研究派閥の、私的な紋章です」


 ガレリスの目が、鋭く、なった。



「追放された?」


「『魔法を、純粋な力として、人間の倫理から切り離す』という思想で、宮廷を、追放されました。表向きには、解散したことになっています。けれど、私が、第二書庫で見たいくつかの古文書に、彼らが地下で、研究を、続けてきた痕跡が、残っていました」


「そいつらが、まだ、いる、と」


「いる、と思います。──そして、ハーミーネ殿が、四十年前に、彼らの後継者と、ぶつかったのだと、思います」


 ガレリスは、刀の柄を、握り直した。

 それから、ゆっくりと、息を、吐いた。



「ルクス・ノクテ──か」


「はい」


「これは、里では、対処できねえな」


「はい。これは、王都の、もっと深いところに、根を張っています」


 ガレリスは、しばらく、黙っていた。

 それから、組頭たちのほうに、振り返った。



「お前たち、この光景を、よく見ておけ。誰にも、漏らすな。──だが、忘れるな」


「は」


「俺たちの里は、四十年越しの、宮廷の闇に、襲われた。だが、俺たちは、生き残った。誰一人、死ぬことなく」


 組頭の一人が、声を、絞り出した。



「アルマちゃんの、おかげですね」


「ああ」


「アルマちゃんは、神様の、子なんでしょうか」


 ガレリスは、その問いに、首を、振った。



「ちがう」


「は?」


「神様じゃ、ない。俺の娘だ。──ただの、俺の娘だ」


 組頭は、深く、頷いた。




 昼前に、里の広場には、人が、集まっていた。


 戦える男たちは、皆、傷ついていた。

 けれど、誰も、死んでいなかった。

 重傷者の二人は、アニエスとアルマの治癒で、危険な状態を、脱していた。

 そして、ルカは。



「あ、お、お母さん。──ぼく、寝てた?」


 客間で、目を覚ました。


 アニエスが、息子の額に、自分の額を、当てた。

 涙が、止まらなかった。



「ルカ、ルカ、よかった、よかった」


「ぼく、胸、痛くないよ。あれ、夢、だったのかな」


「夢じゃ、ないわよ」


「えっ」


「あなたは、本物の、勇者だった」


 ルカは、目を、ぱちぱちさせた。



「ぼ、ぼくが?」


「あなたが」


「えへへ」


 ルカは、笑った。

 そして、ふと、思い出したように、聞いた。



「アルマは、無事?」


「無事」


「ほんと?」


「ほんと」


「よかった」


 ルカは、もう一度、笑った。

 笑って、また、目を、閉じた。

 今度の眠りは、回復のための、深い眠りだった。


 アニエスは、息子の手を、握ったまま、長いあいだ、動かなかった。

 アニエスの隣で、ガレリスは、自分の左腕の包帯を、見ていた。

 自分の傷も、いつのまにか、ほとんど治っていた。

 アルマが、家に戻ってから、家族全員に、治癒の魔法を、こっそりかけていたらしい。

 気づかなかった。


 ──娘は、こういうことを、当たり前にする。


 ガレリスは、目を、閉じた。

 自分が、いま、この瞬間、世界で、いちばん幸せな父親だ、と、思った。




 アルマが、自分の部屋から、降りてきたのは、昼を、少し過ぎた頃だった。


 ガルを、足元に従えて、寝間着姿のまま、客間に、現れた。

 目をこすっていた。



「お父さん、お母さん。おはようございます」


 全員が、振り返った。

 ガレリス、アニエス、セオドア、組頭たち。

 そして、家屋の中で休んでいた里民、十数名。


 全員が、無言で、アルマを、見た。

 アルマは、その全員の視線を、受けて、首を、傾げた。



「……あれ? なにか、ありました?」


「アルマちゃん」


 アニエスが、台所のほうから、駆けてきた。

 そして、娘を、ぎゅっと、抱きしめた。



「お母さん? どうしたの? くるしいよ」


「ごめんね、ごめんね、アルマちゃん」


「お母さん、なんで、泣いてるの?」


「ううん、なんでもないの。──お腹、すいたでしょう?」


「あ、すいてます!」


 アルマは、にこっと、笑った。

 客間の全員が、息を、吐いた。

 誰かが、最初に、笑った。

 誰かが、もう一度、笑った。

 笑い声が、伝染した。

 最後には、客間中が、笑っていた。


 アルマは、不思議そうに、首を、傾げた。



「あれ? みんな、なんで、笑ってるんですか?」


「アルマや」


 ガレリスが、娘の頭を、ごく軽く、撫でた。



「お前は、お前のままで、いてくれ」


「うん。私、私です」


「ああ。それでいい」


 アニエスは、台所に、戻って、すぐに、温かいスープを、運んできた。

 アルマは、卓につくと、ガレリスとセオドアと組頭たちと一緒に、スープを、飲み始めた。

 ガルは、アルマの椅子の脚に、寄り添っていた。


 スープを、ひと口、飲んで、アルマは、ふと、思い出したように、言った。



「あ、そうだ。お婆ちゃんは、どこですか?」


「向こうの部屋で、寝ておるよ」


「あ、よかった。生きてた」


 アルマは、ぱちぱちと、瞬きをした。

 それから、にこっと、笑った。



「えへへ。約束、守ってくれて、嬉しいです」


 客間の全員が、もう一度、息を、吐いた。

 セオドアの隣に座っていた組頭の一人が、ぽつりと、つぶやいた。



「──このお嬢ちゃん、本当に、神様の子じゃ、ねえんですかね」


 セオドアは、その組頭に、答えた。



「ちがいます。神様の子では、ありません。アルマちゃんは、ガレリスさんとアニエスさんの、ご令嬢です」


「は……あ、はい」


 組頭は、目を、しばたいた。

 セオドアは、低く、笑った。

 ガレリスが、その笑いを、見て、薄く、口の端を上げた。




 夕方、里の広場で、簡素な感謝の集まりが、行われた。


 重傷者たちは、もう、歩けるようになっていた。

 戦闘で命を落とした者は、誰一人、いなかった。

 火傷を負った里民も、皆、回復していた。


 里長ガレリスが、広場の中央に、立った。



「みんな、聞いてくれ」


 里民たちが、静まり返った。



「俺たちの里は、昨日、四十年越しの、暗い影に、襲われた。だが、生き残った。一人も、欠けることなく」


「ええ」


「これは、アルマの、ハーミーネ殿の、そして、セオドアの、力だ。──だが、それだけじゃ、ない」


 ガレリスは、里民全員を、見渡した。



「お前たち、一人一人が、戦ったから、生き残った。アルマは、お前たちを、守るために、魔法を、作った。だが、お前たちが、まず、戦わなかったら、アルマの魔法も、間に合わなかった」


「里長──」


「俺たちは、辺境の、里だ。王都に、見捨てられた。それは、もう、はっきり、した」


「ええ」


「だが、俺たちは、ここで、生きる。これからも、生き続ける。アルマと、ガルと、ハーミーネ殿と、セオドアと、そして、お前たち、全員で」


 里民たちが、頷いた。

 拍手は、なかった。

 ただ、深い、無言の、頷きだけが、広場を、満たした。


 アルマは、ガレリスの隣で、母の手を、握っていた。

 自分が褒められているとは、たぶん、半分くらいしか、理解していなかった。

 でも、お父さんが、嬉しそうにしているから、私も、嬉しい。

 ──そういう、子だった。




 夕日が、傾き始めた頃、客間に、セオドアと、ガレリスと、起き上がったばかりのハーミーネが、集まっていた。


 ハーミーネは、まだ、立ち上がれなかった。

 けれど、揺り椅子に、座って、お茶を、飲むことは、できるようになっていた。

 ハーミーネは、二日と少し、寿命を縮めた、と、自分で言った。

 アルマには、それを、伝えていなかった。



「セオドアや」


「はい」


「お主は、これから、どうする」


 セオドアは、卓に、両手を、置いた。

 そして、ゆっくりと、答えた。



「私は、王都に、書状を、書きます。ただし、報告書では、ありません。──辞任状です」


 ガレリスとハーミーネが、同時に、セオドアを、見た。



「辞任、と申すか」


「はい」


 セオドアは、頷いた。



「私は、第三騎士団の派遣騎士として、辺境視察を、命じられました。視察の結果は、私が、独自に、判断します。そして、結果として、私は、第三騎士団を、離れます」


「ベルナール卿は、それを、許すまい」


「許さなくても、構いません。私が、辞めると、言えば、辞めるのです。私は、ヴァレンタイン家の三男です。家督の継承順位も、騎士団内の地位も、いずれも、辞任を、阻む理由には、なりません」


「ヴァレンタイン家のご当主は──父上は、どうお考えになるかな」


「父は、たぶん、何も、言いません。私の存在を、ほとんど、覚えていないので」


 ハーミーネは、しばらく、セオドアを、見ていた。

 それから、低く、笑った。



「セオドアや。お主、本当に、覚悟が、できたのう」


「はい」


「で、辞任した後は」


「グリモワール村に、留まります。ガレリスさんが、許してくださるならば」


 ガレリスは、頷いた。



「許す、もなにも、お前は、もう、里の戦力だ。歓迎する」


「ありがとうございます」


「ただし」


 ガレリスは、低く、続けた。



「お前が、ここに留まる、ということは、王都の連中が、お前を、追ってくる可能性が、ある。ヴァレンタイン家の三男坊が、辺境の里に居つく、というのは、王都にとっては、嗤い者になる話だ。だが、ベルナール卿が、お前を、嗤い者で済ませてくれるか、それは、わからん」


「わかっています」


「それでも、留まるか」


「留まります」


 ガレリスは、頷いた。

 そして、卓の上に、自分の刀を、置いた。

 セオドアの剣の隣に、自分の刀を、置く、という、里長としての、ひとつの儀式だった。



「セオドア・ヴァレンタイン。──いや、セオドア」


「はい」


「グリモワール村は、お前を、受け入れる」


「ありがとうございます」


 ハーミーネが、揺り椅子から、立ち上がろうとした。

 セオドアが、慌てて、手を、貸した。

 老婆は、しわだらけの手で、セオドアの手を、強く、握り返した。



「セオドアや。お主は、儂が、四十年待った、最初の、王都の人間じゃ」


「──」


「四十年、儂は、辺境にいた。誰も、儂を、訪ねてこなかった。じゃが、お主が、来た。そして、王都を、捨てた」


「ハーミーネ殿」


「儂は、もう、長くは、ない。じゃが、儂の知っていることは、すべて、お主に、伝える。アルマと一緒に、お主に、伝える」


「お引き受けします」


 セオドアの声は、震えなかった。




 その夜、伝令が、また、来た。


 王都からではなかった。

 隣の地方を治める、ヴェルダンス領主からの、馬の早便だった。


 伝令は、馬上から、用件を、伝えた。



「ヴェルダンス領主、シャルル・ド・ヴェルダンス公爵閣下より、グリモワール村への、お招きの書状である!」


 ガレリスは、伝令を、見上げた。



「招きの書状?」


「閣下は、グリモワール村における、未確認種の凶暴魔物の襲撃を、聞き及ばれた。当該事案の詳細を、伺いたく、ぜひ、グリモワール村の代表団に、ヴェルダンス城まで、足を運んでいただきたい、とのことです。閣下は、王都の対応とは、別に、独自の判断で、辺境集落の安全を、確保なさりたい、とのお考えです」


 ガレリスは、伝令に、礼を、述べた。

 書状を、受け取った。

 伝令を、休ませる手配を、組頭に、頼んだ。

 そして、客間に、戻った。

 セオドアと、ハーミーネが、座って、待っていた。



「ガレリスさん、なんと」


「ヴェルダンス領主から、お招きの書状だ。隣の地方の領主。王都の影響力が、もっとも届きにくい、独立性の強い領主。シャルル・ド・ヴェルダンス。魔物事案の詳細を、聞きたい、と。だが、本音は、たぶん、別だ」


「──アルマちゃん、ですね」


「ああ」


 ガレリスは、卓の上に、書状を、広げた。



「噂は、もう、漏れている。王都が動かなかった辺境の里が、自力で凶暴魔物の群れを撃退した、というのは、独立独歩のヴェルダンス領主にとっては、のどから手が出るほど欲しい情報だ」


 ハーミーネが、揺り椅子から、低く、言った。



「ヴェルダンス領主は、悪い人物では、ない。儂も、四十年前、宮廷で、何度か、会った。今は五十代じゃが、若い頃から、頭の切れる男じゃった。王都の腐敗には、距離を、置いておった。──ただ、距離を置くだけの男ではない。彼自身に、何かの野心が、あるじゃろう」


 ガレリスは、頷いた。



「それで、ハーミーネ殿、俺たちは、行くべきだろうか」


「行くべきじゃ。王都を相手にする前に、ヴェルダンス領主を、味方に、つけておくのは、悪くない選択じゃ」


「アルマを、連れて、ですか」


「アルマも、連れて」


 ガレリスは、息を、吐いた。

 それから、薄く、笑った。



「──スケールが、変わるな」


「うむ。アルマや、ガルや、お主自身が、辺境の村だけで生きる時代は、終わるかもしれぬのう」




 夜が、深くなった。


 アルマは、ガルと一緒に、自分の部屋で、ベッドに、座っていた。


 窓の外で、半月が、銀色に、光っていた。

 月は、少し欠けていた。

 けれど、銀色だった。



「ガル」


「ガフ」


「今日、いっぱい、いろいろあったね」


「ガウ」


 ──いろいろ、あった。

 だが、おわってよかった。



「うん、私も。終わってよかったって、思ってます。お婆ちゃん、生きてくれた。お兄ちゃんも、目を覚ましてくれた。お父さんも、お母さんも、無事。みんな、無事です」


「ガル」


「ガル、いてくれて、ありがとう」


「ガフ」


 アルマは、ガルの背中に、ぽすんと、もたれかかった。

 ガルは、しっぽを、一度、揺らした。


 ──遠くから、馬の蹄の音が、聞こえた。


 夜更けに、誰かが、来たらしい。

 アルマには、それが、誰なのか、わからなかった。

 でも、なんとなく、明日から、また、忙しくなりそうな気がした。



「ガル。私、また、新しい魔法を、作りたいです」


「ガフ?」


「今度は、誰のことも、書き換えないで、ただ、ふんわりと、みんなを幸せにする魔法。──そういうの、ないかな」


 ガルは、しっぽを、もう一度、揺らした。



「うん。たぶん、ある。あるって、信じます」


 アルマは、目を、閉じた。

 ──そして、すぐに、寝息を、立て始めた。

 銀の狼は、少女の傍らで、静かに、目を、細めた。


 窓の外で、月が、ひとつ、傾いた。

 グリモワール村の、長い、長い、一日が、終わった。


 ──いや、それは、まだ、始まりに、過ぎなかった。


 王都の方角で、何かが、動き始めていた。

 ヴェルダンス領主が、お招きの書状を、寄越した。

 そして、銀月の魔導書の名は、これから、世界中に、広がっていく。


 けれど、それは、また、別の話だ。


 いまは、ただ、少女と狼が、月の下で、眠っている。

 それだけで、十分だった。

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