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『辺境育ちの天才発明魔導師 〜新しい魔法を作りたいだけなのに、なぜか世界が騒がしくなります〜』  作者: 夕凪 鏡介


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第4章「凶暴魔物の群れと、騎士団の沈黙」

アルマとルカが家に駆け込んできたとき、ガレリスは椀を持ち上げかけた手を止めた。



「お父さん!」


 アルマの声は、いつものアルマの声ではなかった。

 ガレリスはそれを、息子の表情を見るより先に、娘の声音で気づいた。



「アルマ。何があった」


「森の、奥に──」


 アルマは息を整えながら、卓に駆け寄った。

 ルカは妹の少し後ろで、剣を抜いたままだった。



「ルカ、剣をしまえ。家の中だ」


「あ、ご、ごめんなさい、父さん」


 ルカが慌てて剣を鞘に納めた。

 鉄の音が、客間の静寂を、ひとつ叩いた。


 卓の向こうで、セオドアが立ち上がった。

 三男坊の騎士の顔ではなかった。

 何かを察知した、もうひとつの顔だった。



「ガレリスさん。これは」


「待ってくれ」


 ガレリスが手で制した。



「アルマ。落ち着いて、見たままを話せ」


 アルマは息を吐いた。

 一度、二度。

 それから、平らな声で言った。



「魔物が、ひとつ、死んでました。境界の浅いところに。私の知ってる魔物じゃないです。お父さんが教えてくれた魔物図譜にも、たぶん載ってない種類」


「どれくらいの大きさだ」


「ガルの、二倍くらい」


 ガレリスの眉が動いた。



「それと、お父さん」


「ああ」


「体の中に、魔法陣が、焼き込まれてました。火と闇の」


 ガレリスは茶碗を、卓に置いた。

 音は、立てなかった。

 立てないように、置いた。


 セオドアが、ゆっくりと、椅子に座り直した。

 座り直しながら、自分の頬の筋肉が、固まっていくのを感じていた。


 ──火と、闇の、複合。

 ──今朝、ハーミーネ殿のノートで見たもの。

 ──森の奥に、その物的証拠が、転がっていた。



「アルマちゃん」


 セオドアが、自分でも驚くほど静かに、尋ねた。



「その死骸は、いつ死んだものか、わかりますか」


「えーと──」


 アルマは少し考えた。



「血の匂いが、まだ残ってたから、半日前くらい。ガルが、そう言ってました」


「半日前」


「はい」


 セオドアはガレリスを見た。

 ガレリスもセオドアを見た。

 二人の目が合った。

 言葉は要らなかった。


 ──半日前に死んだ個体が、境界の浅いところまで来ていた。

 ──ということは、群れ全体は、もっと近くにいる。

 ──そして、半日前に死んだ仲間を放置するということは、群れは前進している。

 ──退いてはいない。



「アニエス」


 ガレリスが、台所のほうに、低く呼んだ。



「あなた。聞こえてました」


 妻はすでに、戸口に立っていた。

 手に、薬草の束を持ったままだった。



「ルカと、アルマに、温かい飲み物を。それと、ハーミーネ殿を、呼んできてくれ」


「ええ」


「ハーミーネ殿が来たら、里の組頭たち全員、ここに集めてくれ。緊急だ」


「ええ」


 アニエスは余計なことを聞かなかった。

 聞かなかったが、ガレリスの背に向けて、ひとことだけ、静かに付け加えた。



「あなた」


「ああ」


「ご無理は、なさらないで」


 ガレリスは振り返らずに、頷いた。

 二十年連れ添った夫婦の、たぶん、いちばん短い会話だった。




 ハーミーネが家に着いたとき、すでに里の組頭五人が、客間の長卓を囲んでいた。


 ハーミーネはアルマを一目見て、何が起きたかを、ほぼ理解した。



「アルマや。ノートを、見せたばかりの今日に、こうなるとは、思わなんだ」


「お婆ちゃん」


 アルマは老婆の前に立つと、自分の小さな両手を、しっかりとハーミーネの手の上に重ねた。



「お婆ちゃん。森の奥にいるの、お婆ちゃんが昔、宮廷で止めようとした人たち、ですか」


 ハーミーネはその問いに、すぐには答えなかった。

 揺り椅子代わりの肘掛け椅子に、ゆっくりと腰を下ろした。

 それから、長い息を一度吐いた。



「アルマや。お主、随分と、まっすぐに、聞くようになったのう」


「だって、これは、私だけじゃ決められないことだから」


「うむ」


 ハーミーネは頷いた。



「儂の答えは、こうじゃ。森の奥にいる『者たち』は、四十年前の連中、そのものではないかもしれぬ。じゃが、思想は、同じじゃ。同じ思想が、四十年のあいだに、別の人間に受け継がれて、いまも生きておる。儂は、そう見ておる」


 組頭の一人、白髪の老人が、卓を握りしめた。



「ハーミーネ殿。それは、王都の連中、ということか」


「断言は、できぬ。じゃが、王都の影が、いま、辺境に、伸びてきておる。それは、認めねばならぬ」


 別の組頭が、低く吐き出した。



「だから、騎士派遣も、視察の名目で──」


「待ってくれ」


 セオドアがその言葉を遮った。



「私の派遣が、宮廷の闇と、関係しているとは、まだ、確信していません。可能性として、否定できないだけで」


「だが、可能性は、ある」


「あります」


 セオドアは、はっきりと頷いた。



「ですから、私は、明日、王都に救援要請の書状を、書きます」


 卓を囲んでいた組頭たちが、一斉にセオドアを見た。



「書く、と言われたか」


「書きます」


「王都に、ですか?」


「王都に。第三騎士団・ベルナール卿宛で。──ただし、アルマちゃんのことは、一切、書きません」


 セオドアの声には、迷いがなかった。

 少なくとも、表面上は。

 内側では、セオドアは、別の声と戦っていた。

 ──書いて、何になる?

 王都の連中は、辺境に救援を寄越したことなど、過去に一度もない。

 けれど、書かなければならない。

 書かないという選択を、自分の三男坊の責任で、しないわけにはいかない。

 書いた上で、断られる。

 そのほうが、断られたという事実が、ガレリスたちの手に残る。



「ヴァレンタイン卿」


 ガレリスが低く呼びかけた。



「あんた、わかってるんだな」


「はい」


「断られる、とわかっていて、書く」


「断られる、と、わかっていて、書きます」


 ガレリスは長く息を吐いた。

 それから、目を閉じて、開いた。



「それでいい。あんたの書状は、たぶん、無駄になる。だが、無駄になったことが、後で、価値を持つ」


「はい」


「ヴァレンタイン家の三男殿に、感謝する」


 セオドアは答えなかった。

 答えると、声が震える気がした。

 三男坊として育った二十二年、自分の判断に「感謝する」と言われた経験は、人生で初めてだった。


 アルマが、卓の端で、二人の会話をじっと聞いていた。

 そして、ハーミーネの隣に、ぴたりと寄り添った。



「お婆ちゃん」


「うむ」


「私、何ができますか」


 ハーミーネは、孫娘のような少女の頭を、しわだらけの手で、ゆっくりと撫でた。



「アルマや。お主には、今夜、決めてもらわねばならぬことが、ひとつ、ある」


「決めること?」


「うむ。じゃが、それは、後で話そう。いまは、里全体の話を、先にせねばならぬ」


「はい」


 アルマは素直に頷いた。

 けれど、アルマの紫水晶の瞳の奥で、何かが、もう、燃え始めていた。

 ハーミーネは、その小さな炎を、見ていた。

 見ていて、心の中で、ひとつ、覚悟を決めた。


 ──この子の覚悟を、儂は、止めぬ。

 ──いや、止められぬ。

 ──ならば、儂は、支える。儂のすべてで、支える。




 緊急会議は、深夜まで続いた。


 結論は、こうなった。

 一、明朝、セオドアが王都への救援要請書を作成。

 早馬で送る。

 二、里の女子供は、村の中央の頑丈な家屋に集める。

 三、戦える男たちは、境界の浅いところに、防衛線を構築。

 四、ガルは、ガレリス指揮下で、群れの偵察に当たる。

 五、ハーミーネは、書斎の最重要書物を、避難準備。

 六、アルマは──。



「アルマは、お婆ちゃんと一緒にいてくれ」


 ガレリスが、娘に向かって、そう言った。



「お父さん」


「これは、里長としての命令だ」


「お父さん」


「アルマ。聞け。お前の魔法が、どれほどすごくても、お前は、まだ六歳だ。父さんと母さんは、お前を、戦わせない」


 アルマは何か言おうとして、唇を噛んだ。

 それから、頷いた。

 頷いて、ハーミーネの手を、もう一度握った。


 ガレリスはその様子を見て、息を吐いた。

 娘が頷いた、ということを、信じきれない自分が、いた。

 けれど、信じるしかなかった。

 父は、娘の言葉を、信じることでしか、戦えない。




 翌朝、空は、青く晴れていた。


 こういう日に、悲劇は来る。

 セオドアは、客間の机で、羊皮紙に向かいながら、ふと、そう思った。



「第三騎士団 ベルナール卿 御中


セオドア・ヴァレンタイン、第三騎士団派遣騎士の任において、辺境集落グリモワール村より、緊急の救援要請を上申いたします。


当該村の境界の森にて、本日、未確認種の凶暴魔物の死骸を発見いたしました。死骸は、通常の魔物の生態とは異なる構造を持ち、群れによる前進が確認されております。村の防衛力では、対処不可能と判断いたします。


第三騎士団より、討伐隊の急派を、強く要請いたします。期限は、最大で、本書状到達より三日。三日を超えた場合、当該集落の壊滅は、避けがたい状況です。


セオドア・ヴァレンタイン」


 セオドアは、書き終えた書状を、二度、読み返した。

 文体は、騎士団の上申書として、過不足のないものだった。

 けれど、彼は知っていた。

 この書状の中身は、ベルナール卿の机の上で、確実に「却下」の印を押される。


 ──それでも、書く。

 ──書かなければならない。


 階下で、ガレリスが伝令役の里民に、馬を引かせる声が聞こえた。

 セオドアは羊皮紙を巻き、封蝋を垂らした。

 第三騎士団の派遣騎士の印を押した。

 胸の銀の星章が、朝の光で、いつもより重く感じた。


 階段を降りた。



「ガレリスさん」


「ああ」


「これを」


 セオドアが書状を差し出した。

 ガレリスは受け取って、伝令役の男に手渡した。



「カイル。全速力で頼む。三日で着いたら、奇跡だ」


「里長、俺、必ず届けます」


「ああ。──頼んだ」


 カイルと呼ばれた若い男は、馬上に身を移すと、すぐに駆け出した。

 蹄の音が遠ざかっていく。

 三人の男──ガレリス、セオドア、そして見送りに出ていた組頭の一人──は、その背中を、無言で見送った。



「ヴァレンタイン卿」


「はい」


「三日、保ちますかね」


「……」


「保ちませんよね」


「ガレリスさん」


 セオドアは、ガレリスを見た。



「保たないなら、保たない中で、できることをやります。それしか、ありません」


 ガレリスは頷いた。

 そして、低く笑った。



「あんた、いい騎士になるよ」


「もう、なっています」


「は」


 ガレリスは少し驚いた顔をした。

 それから、口の端を、わずかに上げた。



「ああ、そうだったな。失礼した」




 だが、書状が王都に届く前に、第三騎士団からは、別の便りが先に届いた。


 それは三日後ではなかった。

 ──翌日の、夕方だった。


 別の伝令役の騎士が、馬を駆って、グリモワール村に駆け込んできた。

 馬は泡を吹いていた。

 ガレリスとセオドアが広場に出ると、伝令は馬上から、息も継がずに、用件を伝えた。



「第三騎士団より、グリモワール村への通達!」


「言え」


「『辺境集落の魔物事案については、辺境にて対処せよ。第三騎士団の現有戦力は、王都中央の防衛および、隣国国境への対応を優先する。視察騎士セオドア・ヴァレンタインの上申は、過大評価と判断する』──以上!」


 広場が、静まり返った。


 ──過大評価。


 セオドアが、何かを言いかけた。

 けれど、口から出てこなかった。


 セオドアの書状は、まだ、王都に着いていない。

 それなのに、第三騎士団は、グリモワール村の救援要請を、すでに「却下」していた。


 ──つまり。

 ──第三騎士団は、私の書状を待っていなかった。

 ──私が「救援要請を書く」ということを、最初から、想定していた。

 ──そして、その答えを、最初から、用意していた。


 セオドアの頭の中で、ベルナール卿の執務室の風景が、よみがえった。

 三日もあれば十分だろう。

 視察は形式的なものだ。

 ──形式的、と、ベルナール卿は言った。


 形式的、というのは。

 結論が、最初から、決まっていた、ということだ。


 セオドアは、伝令の騎士を見た。

 伝令の騎士は、目を逸らした。

 逸らしながら、ひとことだけ、付け加えた。



「ヴァレンタイン卿。ベルナール卿からの、個人的な言伝です」


「言え」


「『君は、賢すぎないように、と言ったはずだ』──以上です」


 ──賢すぎないように。


 セオドアは、その言葉を、ベルナール卿の執務室で聞いたことを、思い出した。

 あのとき、私は答えた。

「努めます」と。


 ──努めない、と、ベルナール卿は、最初から、見抜いていた。

 ──だから、無難な男ではなく、無難な男のフリをしている男に、辺境の汚れ仕事を、押し付けた。

 ──私は、選ばれていた。

 ──最初から、棄てられるために、選ばれていた。


 セオドアは、息を吸って、止めた。

 止めたまま、伝令の騎士に向かって、ただ、ひとこと、言った。



「お引き取りください。──伝言は、受け取りました」


「は!」


 伝令の騎士は、馬首を返した。

 蹄の音が、また、遠ざかっていった。

 来た方向に、戻っていく。


 ガレリスは、セオドアの隣に立って、その背中を見送った。

 そして、低く、笑った。



「ヴァレンタイン卿」


「はい」


「あんたの上司は、あんたを、評価していたぞ」


「は?」


「無難な男に、辺境を任せたら、無難に処理する。だが、あんたは、無難じゃない、と最初から見抜いていた。だから、無難な振りをさせて、辺境に送った」


「……」


「あの上司は、あんたを、棄てたんだ。──最大限の評価をして、棄てた」


 セオドアは、自分の頬を、ふと、撫でた。

 そこに、何の感情も、なかった。

 ただ、空白だった。


 ──棄てられた。

 ──王都に。

 ──私の二十二年が。


 けれど、その空白の真ん中で、ひとつ、明確な感情が、芽生え始めていた。

 怒り、ではなかった。

 軽蔑、ともちがった。


 ──解放、だった。


 私はもう、王都に戻る理由を、失った。

 戻っても、評価されない。

 私の家には、長兄と次兄がいる。

 私の騎士団には、ベルナール卿がいる。

 私を必要としている場所は、王都には、もう、ない。


 けれど、いま、私を必要としている場所は、ここに、ある。

 私の足元に、ある。



「ガレリスさん」


「ああ」


「私は、ここで戦います」


 ガレリスは、セオドアの顔を見た。

 そして、頷いた。



「あんたを、グリモワール村の戦力として、迎える」


「光栄です」


「いいや」


 ガレリスは、肩を組むように、セオドアの背を、軽く叩いた。



「光栄なのは、こっちだ」




 群れが、来た。


 その日の夕方だった。


 ガルの低い唸り声が、村全体に、響き渡った。

 ガレリスは広場に駆け出した。

 セオドアも続いた。

 組頭たちが、それぞれの持ち場に走った。

 アニエスは治癒師としての道具を、頑丈な家屋に運び込んだ。

 子供たちは、その家屋に集められた。

 ハーミーネとアルマは、書斎にいた。


 ガルは、ガレリスの脇に立った。

 銀の毛並みが、夕日に、燃えるように光っていた。



「ガル。何匹だ」


「ガフ……ガル……ガウ」


 アルマがいなくても、ガレリスは、ガルの言葉を、長年の付き合いで、ある程度、読めるようになっていた。


 ──おおい。

 ──じゅうふくは、いる。

 ──まえに、ふたつ、つよいの。

 ──にげる、ものは、いない。



「十数体──」


 ガレリスは、刀を抜いた。



「先頭に、強いのが二体。逃げ道なし、か」


 セオドアも剣を抜いた。

 王都の銀の剣だった。

 ヴァレンタイン家の家紋の彫られた、立派な剣だった。

 けれど、いま、それは、ただの、命を守る道具だった。


 群れが、境界の森を、出てきた。


 先頭の二体は、アルマがルカと見た死骸と、同じ種類だった。

 けれど、もっと、大きかった。

 死骸の倍はある。

 その後ろに、より小型の魔物が、十数体。

 全ての魔物の、体の奥に、銀色の光が、揺らめいて見えた。


 ──体の中に、魔法陣が、焼き込まれている。

 ──全部に。


 セオドアは、その事実を、目で確認して、舌打ちをした。

 王立魔法学院の七年で、彼は、こんな魔物を、見たことがなかった。



「ガレリスさん」


「ああ」


「これは、人為的に作られた魔物の、軍勢です」


「知っている」


「学院では、習いませんでした」


「知っている」


 ガレリスは、刀の柄を、握り直した。



「俺たちは、王都に習わない戦い方で、これを、止める。──行くぞ」


「はい」


 戦闘が、始まった。




 最初の一体が境界を越えた瞬間、ガレリスの刀が、銀の弧を描いた。


 刃は、魔物の前足の付け根を断った。

 だが、傷口から噴き出したのは、血ではなかった。

 黒い、煙のような何かが、ごぼりと漏れ、すぐに止まった。

 痛みを感じている様子はない。

 魔物は、断たれた前足のまま、なお前へ出ようとした。



「痛覚が、ない……!」


 セオドアは、火の魔法を放ちながら、舌打ちした。

 学院で習った魔物は、傷つけば怯む。

 逃げる。

 だが、この群れは、怯まない。

 逃げない。

 ただ、前へ、前へと、村を目指す。

 体の奥の銀の魔法陣だけが、命令されたように、脈打っていた。


 ガレリスの刀が、二体目を裂いた。

 セオドアの治癒魔法が、倒れた組頭を立たせた。

 ガルの牙が、先頭の大型の一体の喉笛を、捉えた。


 それでも、数が、多すぎた。


 一刻ほどのあいだに、里の戦える男たち、二十三名のうち、七名が傷ついた。

 うち二名は、重傷。

 ガレリスは、左腕に、深い切り傷を負った。

 それでも、刀を離さなかった。

 セオドアは、火と治癒の魔法を、繰り返し使った。

 学院で習った範囲の魔法だけで、できる限り、戦った。

 ガルは、先頭の二体のうち、一体を、独力で、引き裂いた。


 けれど、もう一体は、止まらなかった。


 そいつは、村の防衛線を、突破した。

 アニエスのいる家屋に、向かって、駆けた。

 家屋の中には、女と、子供たちと、負傷者が、いた。


 そのとき、家屋の戸口で、ルカが、剣を構えていた。



「お、お母さん、後ろにいて!」


「ルカ!」


「ぼ、ぼくが、止める!」


 十二歳のルカが、子供用の鉄剣を、両手で握りしめた。

 母を背にして、家屋の前に立った。


 アニエスは、息子の名を、叫んだ。

 けれど、ルカは、振り返らなかった。


 魔物の、巨大な前足が、ルカに、振り下ろされた。

 ルカは、剣で、それを受けた。

 受けきれるはずがなかった。

 けれど、受けた。


 ルカの剣が、根元から、折れた。

 折れた剣の破片が、ルカの胸に、深く突き刺さった。

 ルカは後ろに、吹き飛んだ。


 ガルが、咆哮した。

 銀の月狼が、村の反対側から、矢のように、駆けてきた。

 そして、魔物の喉に、牙を、突き立てた。


 二体目の魔物が、絶命するまで、十数秒だった。

 けれど、その十数秒のあいだに、ルカは、家屋の戸口で、血だまりに、倒れていた。



「ルカ!」


 アニエスの叫びが、村中に、響いた。


 ガレリスが、左腕を押さえながら、駆けつけた。

 セオドアも、息を切らせて、駆けつけた。

 ガルが、ルカの傍らに、伏せた。



「ルカ、ルカ、しっかり!」


 アニエスは、息子の胸の傷を、見た。

 肋骨が、見えていた。

 剣の破片が、肺の、すぐそばまで、達していた。


 アニエスは、治癒師だった。

 治癒師として、瞬時に、判断した。

 ──このままでは、ルカは、死ぬ。


 アニエスの両手が、震えた。

 けれど、震えながらも、治癒の魔法陣を、描いた。

 治癒の光が、ルカの胸の傷を、包んだ。

 血は、止まり始めた。

 けれど、肺の傷は、深かった。

 治癒の魔法陣は、ひとつでは、足りなかった。



「アニエスさん、助手を──」


 セオドアが、駆け寄った。



「セオドアさん、火傷の、患者を、お願い。私は、ルカを──」


「わかりました」


 セオドアは、頷いて、別の負傷者の所に、駆けた。

 ガレリスは、息子の隣に、跪いた。

 自分の左腕の傷を、自分で、布で縛りながら、息子の顔を、見つめた。



「ルカ。ルカ、聞こえるか」


「と……うさん……」


「聞こえるな。──大丈夫だ。母さんが、治す」


「父さん。アル、マは──」


「アルマは、無事だ。ハーミーネ殿と、一緒だ」


「よか、った」


 ルカは、薄く、笑った。

 笑って、目を、閉じた。

 アニエスの治癒魔法が、息子の体を、繰り返し、包んだ。



「アニエス。──保つか」


「保たせます」


 アニエスの声は、震えていなかった。

 母としてではなく、治癒師として、答えた。



「あなた、私は、ここを、離れません。あなたは、里長として、村を、見てください」


「ああ」


「アルマを、信じてください」


「──」


 ガレリスは、息子の額に、自分の額を、軽く、合わせた。

 それから、立ち上がった。

 立ち上がって、村の中央広場に、向かった。


 群れの先頭、二体は、倒した。

 けれど、後続の小型魔物は、まだ、十体以上、残っていた。

 里の戦力は、半分以下に、削られていた。

 セオドアは、火傷の治療と、防衛の指揮を、同時に、こなしていた。

 けれど、限界が、見えていた。




 そして、夜が、来た。


 群れは、いったん、引いた。

 完全には、引いていなかった。

 境界の森の、すぐ向こうで、低い唸り声が、絶え間なく、響いていた。


 ──夜明けに、また、来る。


 ガレリスは、それを、確信していた。

 そして、夜明けに、来る次の波で、里は、終わる。

 それも、確信していた。


 客間に、ガレリス、セオドア、組頭の三人が、集まっていた。

 全員が、傷ついていた。

 全員が、疲弊していた。


 戸が、静かに、開いた。

 ハーミーネと、アルマが、入ってきた。



「ガレリスや」


 ハーミーネが、低く、呼んだ。



「ハーミーネ殿。アルマは、安全な家屋に──」


「アルマには、頼みがある」


「は?」


「ガレリスや、よく聞け」


 ハーミーネは、卓に手をついて、立ったまま、続けた。



「明朝、群れは、また来る。お主たちの戦力では、保たぬ。儂も、それは、わかる」


「……」


「じゃが、アルマには、保たせる方法が、ある」


 ガレリスの顔色が、変わった。



「ハーミーネ殿。アルマを、戦わせるおつもりか」


「戦わせるのではない」


 アルマが、ハーミーネの隣で、ガレリスを見上げた。

 紫水晶の瞳が、いつもとちがう色を、していた。

 怖れではなかった。

 怒りでも、なかった。


 ──決意だった。



「お父さん」


「アルマ──」


「お父さん。ルカ兄ちゃんが、剣で、私たちを守ってくれた」


「ああ」


「私は、魔法を、作れる」


「アルマ」


「お父さん。私の魔法で、守らせて」


 ガレリスは、息を、止めた。

 娘の顔を、見た。

 六歳の娘の顔だった。

 けれど、その目は、ガレリスが王都の戦場で見たどの戦士よりも、まっすぐだった。



「アルマ。お前、自分が、何を言っているか、わかっているか」


「わかってます」


「お前は、戦ったことがない」


「お父さん。私は、戦うのではないんです」


「──え?」


 アルマは、両手を、自分の胸の前で、ぎゅっと、握りしめた。



「私は、魔法を、作るだけです。新しい魔法を。──ずっと、作りたかった魔法を、いま、作るだけ」


 ガレリスは、しばらく、答えなかった。

 答えられなかった。


 セオドアが、二人を、見ていた。

 セオドアは、ハーミーネを、見た。



「ハーミーネ殿。あなたは、何を、考えておられるのですか」


 ハーミーネは、静かに、答えた。



「複合魔法を、三系統で」


「──三系統」


「火、月光、治癒。この三つを、軸ずらしの調律記号で、同時起動させる」


 セオドアは、椅子の背を、握った。

 握らなければ、立っていられなかった。


 ──三系統の、複合。


 学院では、それは「不可能領域」と教えられた。

 二系統の複合が、歴史上、わずか三人にしかできていない。

 三系統など、誰も、試したことすら、ない。

 理論上、人体に流れる魔力回路が、二系統で限界、と、されていた。

 三系統を、同時に走らせると、術者の魔力回路が、焼き切れる。


 焼き切れる、というのは。

 ──術者が、死ぬ、ということだ。



「ハーミーネ殿、それは──」


「ヴァレンタイン卿」


 ハーミーネは、セオドアを、見た。



「儂は、四十年前、宮廷で、これを試した、唯一の生存者じゃ」


「──」


「生存、と言うても、儂は、二度と魔法を使えぬ体に、なるところであった。じゃが、儂には、一つだけ、計算外の幸運があった」


「は?」


「儂の、月光魔法の、増幅装置が、ちょうど、満月の夜じゃった」


 セオドアは、息を吐いた。

 そして、ハーミーネが、何を、言おうとしているかを、理解した。



「ガル、ですか」


「うむ」


「ガルが、満月の夜の、月狼として、アルマちゃんの魔力回路の、月光系統の負荷を、肩代わりする──」


「正確には、ガルとアルマの、絆そのものが、増幅装置になる」


 セオドアの目が、月狼を、見た。

 ガルは、客間の戸口に、座っていた。

 銀の毛並みが、月のない夜の光のなかでも、ほのかに、光っていた。


 そして、セオドアは、はっとした。

 ──今夜は、月の出が、遅い。

 けれど、満月の三日後だ。

 月光は、まだ、十分に、強い。



「ハーミーネ殿。アルマちゃんの、魔力回路は、保ちますか」


「保たせる」


「具体的には」


「儂が、三系統のうち、火の系統を、肩代わりする」


 アルマが、ハーミーネを、振り返った。



「お婆ちゃん──」


「儂は、いずれ、寿命じゃ。じゃが、儂が、火の系統を、肩代わりすれば、アルマの体に流れるのは、月光と治癒の、二系統だけ。これなら、保つ」


「お婆ちゃん、それじゃ、お婆ちゃんが──」


「アルマや。儂は、八十年、生きた。お主は、まだ、六年じゃ。儂の残りは、お主の未来の、何百分の一にも、満たぬ」


「お婆ちゃん!」


 アルマが、初めて、声を、荒げた。



「お婆ちゃんが、死ぬのは、いやです!」


 ハーミーネは、しわだらけの手で、孫娘のような少女の頭を、撫でた。



「アルマや。儂は、死なぬ。たぶん、な」


「たぶん」


「うむ。たぶん、じゃ。じゃが、保証は、せぬ」


 アルマは、唇を、震わせた。

 けれど、泣かなかった。



「お婆ちゃん。ひとつだけ、約束してください」


「うむ」


「絶対に、生きてください」


「努める」


「努める、じゃ、いやです」


「努める、しか、儂には、言えぬ」


 アルマは、ハーミーネの胸に、顔を、うずめた。

 老婆は、孫娘のような少女を、抱きしめた。

 ガルが、二人の傍に、寄り添った。


 ガレリスは、その光景を、見ていた。

 そして、目を、閉じた。

 閉じて、開いた。



「ハーミーネ殿」


「うむ」


「俺の娘を、頼む」


「あいわかった」


「もし、アルマが──」


「ガレリスや。儂は、命に代えても、この子を、守る」


 ガレリスは、頷いた。

 それ以上、何も、言えなかった。

 そして、卓を、両手で、握って、立ち上がった。



「組頭たち。聞いてくれ」


「はい、里長」


「明朝の防衛は、俺と、ヴァレンタイン卿で、引き受ける。お前たちは、女子供と、負傷者の避難準備に、回ってくれ」


「は」


「アルマと、ハーミーネ殿には、別の役割を、お願いした。詳細は、聞くな。信じてくれ」


「里長が信じるなら、俺たちも、信じます」


「ありがとう」


 ガレリスは、組頭たちに、深く、頭を下げた。


 セオドアは、自分の剣を、卓の上に、置いた。

 そして、アルマに、向かって、ひとこと、言った。



「アルマちゃん」


「はい」


「私は、明日の朝、あなたと、ハーミーネ殿の、護衛を、します」


「セオドアさん──」


「私の剣は、もう、王都のものでは、ありません。あなたのものです」


 アルマは、ハーミーネの胸から、顔を上げた。

 涙の跡が、頬に、薄く残っていた。

 けれど、その目は、もう、決意の色に、戻っていた。



「セオドアさん、ありがとうございます」


「いえ」


「私、明日、新しい魔法を、作ります」


「はい」


「ずっと、作ってみたかった、魔法を」


 セオドアは、頷いた。

 そして、自分の銀の星章を、外して、卓の上に、置いた。

 ヴァレンタイン家の三男坊が、王立魔法学院首席卒の、最後の象徴を、卓上に、外した。



「これは、もう、私には、必要のないものです」


 誰も、それに、答えなかった。

 答える必要が、なかった。




 アルマは、母のいる家屋に、向かった。


 アニエスは、ルカの傍らで、まだ、治癒魔法を、続けていた。

 ルカは、薄く目を開けて、母を見ていた。

 アルマが入ってくると、ルカは、声を絞り出した。



「アル……マ」


「お兄ちゃん」


 アルマは、兄の傍らに、座った。

 兄の手を、両手で、握った。



「お兄ちゃん、私を、守ってくれて、ありがとう」


「うん。──ぼく、ちゃんと、できた、かな」


「うん。お兄ちゃんは、世界一の、お兄ちゃんです」


 ルカは、薄く、笑った。



「あ、たり、まえ、だろ。──兄ちゃん、だぞ」


 そして、また、目を、閉じた。


 アルマは、兄の手を、長いあいだ、握っていた。

 それから、立ち上がって、母を、見た。



「お母さん」


「アルマちゃん」


「私、明日の朝、お婆ちゃんと、お外に出ます」


 アニエスは、答えなかった。

 アニエスは、すべてを、もう、知っていた。

 客間の会話は、聞こえなかったけれど、母の勘で、すべてを、察していた。



「アルマちゃん」


「はい」


「無理は、しないでね」


「うん」


「絶対に、無理は、しないで。お母さんが、いるから」


「うん」


 アニエスは、娘を、抱きしめた。

 抱きしめながら、母の声で、ひとことだけ、付け加えた。



「お母さんも、あなたのことを、信じているわ」


「うん」


「行きなさい」


 アルマは、母から、離れた。

 そして、戸口で、もう一度、振り返った。



「お母さん、お兄ちゃん。明日、帰ってきますから」


「ええ」


 アルマは、戸を、閉めた。

 戸を閉めた瞬間、アニエスの目から、初めて、涙が、こぼれた。

 アニエスは、その涙を、誰にも、見せなかった。

 母としても、治癒師としても、見せなかった。




 夜が、深くなった。


 アルマと、ハーミーネは、書斎にいた。

 アルマは、ハーミーネの足元の絨毯の上で、書斎の床に、何かを、描いていた。



「お婆ちゃん」


「うむ」


「私、考えてたんです」


「うむ」


「魔物を、傷つけずに、止める魔法、ができないかな、って」


 ハーミーネは、しわだらけの目を、細めた。



「アルマや。お主は、明日、自分たちを襲う相手を、傷つけずに済ませたい、と、申すのか」


「だって」


 アルマは、床の魔法陣の素案を、見つめながら、答えた。



「あの魔物たち、もとは、生きてた、子たちなんですよね。誰かが、火と闇の魔法陣を、体に焼き込んで、無理に、こうしたんです」


「うむ」


「だから、私は、その魔法陣を、書き換えたい」


 ハーミーネの背筋が、伸びた。



「──書き換える、と」


「はい。体の中の魔法陣を、ぜんぶ、別の魔法陣に、上書きする。火と闇じゃなくて、月光と、治癒の、組み合わせに。そうすれば、魔物たちは、暴れなくなる。眠るみたいに、静かになる」


「アルマや」


 ハーミーネは、孫娘のような少女の頭に、しわだらけの手を、置いた。



「お主、いつから、それを、考えておった」


「ノートを、見せてもらった、あの時から」


「うむ」


「お婆ちゃんが、『これを使ってはならぬ』って、言ったから、私は、これを、書き換えるほうの魔法を、作りたいって、思いました」


「うむ」


「それで、ずっと、考えてた。考えてたら、できそうだなって、思ったんです」


 ハーミーネは、目を、閉じた。

 閉じた目の奥で、四十年前の宮廷の風景が、よみがえった。

 ──火と闇の、複合魔法を、止めようとした、若き日の自分。

 ──止められなかった、自分。

 ──そして、いま、目の前の六歳の少女が、自分が止められなかった魔法を、書き換える方法を、考えている。


 ハーミーネの目から、涙が、一筋、こぼれた。



「お婆ちゃん?」


「いや。年寄りは、よく、目から水が出るのじゃ」


「うん」


 アルマは、それ以上、聞かなかった。

 ただ、お婆ちゃんの皺だらけの手を、自分の頬に、当てた。



「お婆ちゃん。明日、その魔法、作ります」


「うむ」


「名前も、考えました」


「ほう」


「銀月の魔導書、です」


 ハーミーネは、しばらく、その名前を、口の中で、繰り返した。

 銀月の、魔導書。

 銀色の、月光の。

 書き換える、魔法の本。



「アルマや」


「はい」


「よい名じゃ」




 深夜。

 月が、東の空に、昇り始めた。


 月は、満月から三日後の、ほんの少しだけ、欠けた月だった。

 けれど、月光は、十分に、強かった。


 アルマと、ハーミーネと、ガルは、里の境界に、立っていた。

 セオドアは、二人と一匹の後ろで、剣を抜いて、護衛として立っていた。

 ガレリスは、里の中央で、最後の防衛準備を、指揮していた。


 アルマは、両手に、白チョークを、握っていた。

 ──いや、両手にではない。

 アルマは、両手の指のあいだに、それぞれ、複数本のチョークを、挟んでいた。



「お婆ちゃん」


「うむ」


「描きます」


「うむ」


 アルマは、地面に、しゃがんだ。

 そして、両手を、同時に、動かし始めた。


 一本の指で、円を描く。

 別の指で、円を描く。

 さらに別の指で、円を描く。


 三つの、巨大な円が、同時に、地面に、現れた。

 直径、それぞれ、五歩ほど。

 三つの円が、ヴェン図のように、重なり合った。


 アルマは、両手の動きを、止めなかった。

 三つの円の中に、軸ずらしの調律記号を、次々と、描き込んでいった。

 火の魔法陣の記号。

 月光の魔法陣の記号。

 治癒の魔法陣の記号。


 それぞれの記号が、全て、軸を、ずらされていた。

 互いに、干渉しないように。


 セオドアは、その光景を、ただ、見ていた。

 見ていることしか、できなかった。


 ──六歳の少女が。

 ──三系統の、複合魔法の、魔法陣を。

 ──地面に、両手で、同時に、描いている。


 学院首席卒のセオドアの頭の中で、もう、何かが整理されるレベルの話ではなかった。

 棚は、倒れたまま、起き上がろうとしなかった。

 セオドアは、ただ、剣を握って、自分が見ているものを、見届けることに、専念した。


 ガルは、三つの円の、中心に、座った。

 三つの円が、月狼の周りで、銀色に、光り始めた。



「アルマや」


 ハーミーネが、低く、呼びかけた。



「うむ。儂も、入る」


「お婆ちゃん」


 ハーミーネは、火の魔法陣の円の中に、足を踏み入れた。

 老婆の足元から、淡い橙色の光が、ふわりと、立ち上った。



「アルマや。これで、お主の体に流れるのは、月光と、治癒の、二系統だけじゃ」


「はい」


「準備は、よいか」


「はい」


 アルマは、最後の調律記号を、描き終えた。

 立ち上がって、両手を、三つの円の交点の真ん中に、かざした。


 月光が、雲のあいだから、ふいに、強く、差した。


 アルマは、目を、閉じた。

 そして、静かに、つぶやいた。



「銀月の魔導書」


 ──次の瞬間。


 三つの円が、銀色の光に、包まれた。

 光は、地面から、天に向かって、巨大な、銀の柱を、立ち上らせた。

 柱は、夜の空に、月までは届かなかった。

 けれど、月の光と、混ざり合った。

 そして、その混ざり合った光が、境界の森のほうへ、ゆっくりと、流れ始めた。


 銀の波が、森に、押し寄せた。


 森の奥で、低い唸り声が、響いた。

 唸り声は、徐々に、別の音に、変わっていった。

 ──それは、寝息に、似ていた。


 アルマは、目を閉じたまま、ぽつりと、つぶやいた。



「みんな、寝てね」


 銀の光は、明け方まで消えなかった。


 そして、グリモワール村は、その明け方を、ただ一人の死者も出さず、迎えた。


 セオドアは、剣を握ったまま、その銀の光のなかに、立ち尽くしていた。

 胸に、もう星章はない。

 王都・第三騎士団の騎士でも、ヴァレンタイン家の三男坊でもない──ただのセオドア・ヴァレンタインとして、彼は、目の前で起きたことを、見届けていた。


 のちに、彼は、この夜の自分を、こう呼ぶことになる。


 銀月の魔導書の、最初の証人。


 だが、それを言葉にできるようになるのは、まだ、ずっと先のことだった。


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