第3章「師匠の研究ノートと、世界の異変」
ガルが、おかしい。
そう気づいたのは、アルマが朝起きて、いつものように窓を開けた、その瞬間だった。
足元、ベッドの脇の絨毯の上で、いつも丸くなって眠っているはずの銀の狼が、起きていた。ただ起きていただけではない。顔を北東の窓のほうへ向けて、鼻先を、何かを嗅ぐように宙に持ち上げている。耳がまっすぐに立っていた。尻尾は、ぴくりとも動かない。
アルマの知るガルは、朝、こうではない。朝のガルは、アルマが起きるまでぐっすり眠っていて、「おはよう」と声をかけると、ふあああ、と大きなあくびをしてから、のっそり立ち上がる。それがガルの一日の始まり方だった。
「ガル?」
寝間着の裾を直しながら、アルマは銀の狼の隣にしゃがんだ。
「どうしたんですか。お腹、すいたんじゃないでしょう?」
ガルは答えなかった。鼻先を北東に向けたまま、低く、長く、息を吐いた。
「ガル」
もう一度呼んで、今度は太い首に両手を回した。銀の毛並みが、いつもより少しだけこわばっていた。
「ガル、見て」
アルマは、ガルの顔をそっと自分のほうへ向けさせた。月狼の金色の瞳が、ようやくアルマを見た。瞳の奥に、いつもの「おはよう」の色はない。もっと別の、深いところを見ている色だった。
「……ガフ」
ガルが、ようやく小さく鳴いた。アルマだけが理解できる、月狼の言葉。
──森の、奥。
──いつもと、ちがう。
──気を、つけて。
アルマは、その言葉を頭の中でゆっくり組み立てた。ガルの言葉は、人間の言葉のように文の形をしているわけではない。匂いと、気配と、声のかすかな高さの違いが組み合わさって、意味を作る。三歳のころからずっと、アルマはそれを嗅ぎ分け、聞き分けてきた。
「いつもと違う、って、どんなふうに?」
首を傾けて、ガルに聞く。
「ガウ……ガフ」
──におい。
──森の、いきものの、においじゃ、ない。
いきものの、匂いじゃ、ない。
アルマは、その意味を何度か頭の中で繰り返した。森には、いろんな魔物が棲んでいる。狼の群れ、熊の一族、森人の長老格の気配。それぞれに、生きているものの匂いがある。
でも、ガルが今、嗅ぎ取っている匂いは。
生きているものの、匂いじゃ、ない。
「ガル」
太い首に、ぎゅっと顔をうずめた。
「ちょっと、見に行ったほうがいい?」
「ガウ」
──まだ、いかなくて、いい。
──まだ、とおい。
──でも、ちかづいて、いる。
アルマは顔を上げて、北東の窓のほうを見た。朝の光のなかで、森が、いつものように青く、しんと横たわっている。何も、変わったところはない。
けれど、ガルが言うなら、何かがいる。アルマは、ガルの言うことを疑ったことがない。三歳のときからそうだ。
「わかった。じゃあ、お母さんとお父さんには、まだ、言わない」
アルマは決めた。
「だって、まだ、何が来てるか、わかんないし。お父さんたち、心配しちゃうから。──でも、お婆ちゃんには、聞いてみよう。お婆ちゃんは、なんでも知ってるから」
「ガフ」
──いく。
──いっしょに、いく。
朝食の前に、アルマは裏庭に出た。
母のアニエスが、薬草園の手入れをしていた。その前にしゃがんで、アルマは薬草の列をじっと見つめる。
「お母さん」
「あら、アルマちゃん。早いのね」
「薬草、お水、足りてますか?」
「ええ、昨日たっぷりあげたから。どうして?」
「ううん。ちょっと、見たくて」
アルマは、薬草の中の一本に目を留めた。葉の先が、少しだけしおれかけている。きっと、昨日の風が強かったから、根が痛んだのだ。
その根元に、人差し指をそっと触れた。
──治癒の魔法は、傷を塞ぐ魔法。
──土の魔法は、土を耕す魔法。
──じゃあ、傷を塞ぎながら、土を耕したら、植物は、もとに戻るんじゃないかな。
アルマは、地面に小さな円を描いた。治癒の魔法陣と、土の魔法陣を重ねる。二つの陣の交点に、軸をずらした調律記号を、ちょこんと描き足した。
「えーと、こうやって……」
二つの陣が、重なろうとして――ぱち、と小さく爆ぜた。
「あ。これも、喧嘩する」
治癒は、生きものの中へ向かう魔法。土は、外の世界をいじる魔法。向いている方向が、まるで逆なのだ。アルマは唇を尖らせて、少し考えた。それから、土の陣のほうを、ぐっと小さく描き直した。
「土は、ちょっとでいいんだ。根っこのまわりだけ、やわらかくしてあげれば。あんまり張り切ると、治すほうとぶつかる」
もう一度、そっと重ねる。今度は、爆ぜなかった。二つの陣が、すうっと馴染んでいく。
「アルマちゃん、何してるの?」
覗き込んだアニエスに、アルマは笑った。
「お母さんの薬草が、しおれかけてたから、元気にしたいんです。──できました」
ぱちん、と手を叩く。
緑色の淡い光が、薬草の根元にふわっと広がった。火の荒々しい光でも、水の冷たい光でもない。春の野原に降る若葉のような、優しい、命の色だった。
しおれかけていた薬草が、ゆっくりと葉先を持ち上げる。葉の縁が艶を取り戻し、茎がまっすぐになった。
アニエスは、おたまを持つ手を止めたまま、しばらく動かなかった。
アルマは、それを見上げた。お母さんは、ときどきこうして固まる。何か言いたそうにして、でも、結局は何も言わない。
「お母さん? 変だった?」
「……ううん。ありがとう、アルマちゃん。薬草が、喜んでるわ」
アニエスは、娘の頭をそっと撫でた。その手が、ほんの少しだけ、震えていた。アルマは気づいたけれど、いつものことなので、それ以上は聞かなかった。
「えへへ。この魔法、翠癒って呼ぼうかな。緑の、癒やし」
「翠癒……。いい名前ね」
アニエスの声が、少しかすれていた。アルマは、なんでお母さんの声がかすれたのか、わからなかった。でも、お母さんが笑っているから、きっと、いいことなのだと思った。
朝食のあと、父のガレリスが、客人の騎士――セオドアを呼んだ。
「ハーミーネ殿のところへ行くなら、あんたも来い。昨夜、何か話したんだろう。あの人が王都の人間に話す気になったなら、聞いておけ」
セオドアは、少し迷ってから、頷いた。
こうして、アルマとガル、それにセオドアの三人で、村のいちばん奥にあるハーミーネの書斎へ向かうことになった。アルマは嬉しかった。お婆ちゃんとガル以外の誰かを、自分の「魔法の先生」のところへ連れていくのは、初めてだったから。
「セオドアさん、お婆ちゃんの書斎、すごいんですよ。本がいっぱいで」
「……そうですか」
セオドアは、短く答えた。その声が、なんだか少し硬い。アルマは首を傾げたけれど、王都から来たばかりで疲れているのかな、と思うことにした。
ハーミーネの書斎の扉は、古い樫の一枚板でできていた。表面に、何か文字のような模様が薄く彫り込まれている。
アルマが扉をノックした。
「お婆ちゃん、来ました!」
「おお、入っておいで」
中から、しわがれた声がした。
戸を開けると、本の匂いがした。天井まで届く棚に、ぎっしりと革表紙の本が詰まっている。羊皮紙の巻物が束ねて積まれ、机の上には開きっぱなしの研究ノート。
後ろから入ってきたセオドアが、敷居をまたいだまま、動かなくなった。書斎の本の山を見つめて、口を開けたまま、固まっている。
アルマは、その様子がおかしくて、ふふっと笑った。
「セオドアさんも、びっくりしました? わたしも、初めて来たときそうでした」
「……ええ」
セオドアは、それだけ言うのがやっとのようだった。
「ヴァレンタイン卿。立ったまま固まっておるのう」
ハーミーネが揺り椅子から、しわだらけの目を細めて言った。セオドアは、なんとか敷居をまたぎ切って、勧められた樫の椅子に座った。アルマは、ハーミーネの足元の絨毯に、ガルと一緒にぺたんと座る。
「お婆ちゃん、あのね」
アルマは、すぐに本題に入った。
「ガルが、今朝、おかしいんです。森の奥が、いつもと違うって。生きてるものの匂いじゃないって」
ハーミーネが、急須を傾ける手を止めた。ほんの一瞬。けれど、アルマはその一瞬を見た。お婆ちゃんが手を止めるのは、何か大事なことを聞いたときだ。
「ガルや」
ハーミーネが月狼の名を呼んだ。
「お主、どのあたりから感じる」
「ガフ」
──きた、ほくとう。
──ふかい。
──まだ、とおい。
「北東の、深いところ」
アルマが訳した。セオドアが、その横で息を呑むのがわかった。少女が狼の言葉を人間の言葉に訳す――それが、彼にはよほど不思議だったらしい。
ハーミーネは、しばらく黙っていた。それから、ゆっくり立ち上がり、棚のいちばん奥、いちばん下の段から、革表紙の古いノートを一冊、引き出した。
ノートには、銀の小さな鍵がかかっていた。ハーミーネは、首にかけた銀の鎖を外す。鎖の先に、その鍵がぶら下がっていた。
「アルマや」
「はい」
「これを、お主に見せる時期が、来たのかもしれぬ」
机の上にノートを置き、鍵穴に鍵を差し込む。かちり、と音がした。ノートが開く。
最初のページに、紋章が描かれていた。アルマには、それが何の紋章かわからない。けれど、セオドアが、椅子の上で、はっきりと身を硬くしたのがわかった。
「ハーミーネ殿、これは」
「儂の、研究ノートじゃ。四十年前、宮廷で最後にまとめておった研究のな」
ハーミーネは、ページをゆっくりめくった。アルマの知らない文字が、びっしりと並んでいる。やがて、ある一枚で、手が止まった。
そこに描かれていたのは、二つの魔法陣だった。火と――もう一つは、アルマも見たことのない、黒い渦のような陣。軸をわざと交差させた、二重陣。
アルマは、それを覗き込んで、目を輝かせた。火と、何か。混ぜてある。混ぜてあるものを見ると、アルマの胸はいつもわくわくする。
けれど、隣で、セオドアが、椅子から半分立ち上がっていた。
「これは……これは、人を殺すための魔法陣です」
セオドアの声は、低く、かすれていた。
アルマは、きょとんとした。火と、黒い渦。混ぜると、人が、死ぬ。そんなことが、あるのだろうか。アルマには、まだ、よくわからなかった。
「ヴァレンタイン卿は、よく知っておるな」
ハーミーネは静かに言った。
「儂は、これを四十年前、宮廷で止めようとした。そして、追われた」
「お婆ちゃん」
アルマは、ノートの黒い陣を指さして、首を傾けた。
「これ、何の魔法ですか?」
ハーミーネは、しばらく答えなかった。それから、しわだらけの手を、そっとノートの上に置いた。
「アルマや。これは、儂がお主に、いつかは見せようと思うておったノートじゃ。じゃが、今日見せるのは、お主にこれを使うてほしいからではない」
「はい」
「これを、絶対に使うてはならぬ、と、覚えてもらいたいからじゃ」
アルマは、ぱちぱちと瞬きをした。
「使っちゃいけない魔法、ですか?」
「うむ」
「魔法に、使っちゃいけないものなんて、あるんですか?」
その問いに、悪意はまったくなかった。アルマは、本気で不思議だったのだ。魔法は、自由に作るもの。作ったら、使うもの。そうじゃない魔法が、あるなんて、考えたこともなかった。
ハーミーネは、ノートをゆっくり閉じた。鍵を、もう一度かける。
「アルマや。儂が宮廷を出たのは、これを作ろうとした者たちから、逃げるためじゃ。火と、闇。これは、命を奪う魔法じゃ。儂はその理論を、若いころに書いてしもうた。書いてしもうてから、気づいたんじゃ。これは、誰も書いてはならぬものじゃった、と」
「お婆ちゃん。その人たちは、いまも、いるんですか?」
「わからぬ」
ハーミーネは、首をゆっくり振った。
「わからぬ。じゃが、ガルが森の奥に、生きておらぬ匂いを嗅いだ、と言うなら――儂は、いまも、おる、と思うておる」
アルマは、その言葉を、頭の中でつなげた。森の奥の、生きていない匂い。お婆ちゃんが逃げてきた、人たち。火と、闇の、魔法。それが、ぜんぶ、つながっているのかもしれない、と、なんとなく思った。けれど、まだ、こわいとは思わなかった。アルマには、それがどれくらい大変なことなのか、まだ実感がなかったのだ。
セオドアは、ずっと黙っていた。
ノートが棚の奥にしまわれてからも、彼は、椅子の上で、固く拳を握っていた。何かを、必死に考えているような顔だった。アルマは、その横顔を見上げた。
「ハーミーネ殿」
ようやく、セオドアが口を開いた。その声は、絞り出すようだった。
「もし、私が、今日のこの話を、王都に報告したら――あなたは、どうなりますか」
「儂はもう、何も失うものはない。年寄りじゃ。残った時間も、長くない」
ハーミーネは、静かに答えた。それから、アルマのほうを見た。
「じゃが、この子は別じゃ。この子は、生きるべきじゃ。誰のものでもなく、自分のものとして。──報告するもせぬも、お主の自由じゃ、ヴァレンタイン卿。じゃが、ひとつだけ言える。この子の魔法を、誰かの兵器にしては、いけぬ」
書斎が、しんとした。
アルマは、自分の話をされているのは、なんとなくわかった。でも、大人たちが、こんなに真剣な顔をする理由は、まだ半分くらいしかわからない。だから、黙って座って、セオドアの返事を待った。
セオドアは、長いあいだ、黙っていた。
それから、ゆっくりと、口を開いた。
「私は、今日見たことを、まだ、報告するべきか、決められません」
「うむ」
「ですが」
セオドアは、深く息を吸った。
「あなたのノートのことだけは、王都に報告しません。私の、騎士としての立場とは別の、私自身の口で、それだけは、お約束します」
ハーミーネは、しばらくセオドアを見ていた。それから、ふっと笑った。
「それは、結構な約束じゃ、ヴァレンタイン卿」
アルマは、セオドアを見上げた。なんだか、よくわからないけれど、セオドアが、お婆ちゃんと、自分のために、何か大事なことを決めてくれた。それだけは、はっきりとわかった。
「セオドアさん」
「……はい」
「ありがとうございます」
セオドアが、はっと、アルマを見た。その目が、なぜか、少しだけ赤くなっていた。アルマには、その理由はわからなかった。けれど、ありがとうは、ありがとうだ。誰かが自分のために何かをしてくれたら、ありがとう、と言う。それだけのことだった。
セオドアは、何も言わなかった。ただ、ぎゅっと、唇を結んでいた。
帰り道、アルマとガル、セオドアは、しばらく無言で歩いた。
アルマは、ガルの背中に手を置いて歩きながら、さっきの黒い渦の魔法陣のことを、少し考えていた。火と、闇。混ぜると、人が死ぬ魔法。
──わたしは、あれは、作らない。
理由は、うまく言葉にできなかった。ただ、お婆ちゃんがあんなに悲しそうな顔をするものを、作りたいとは、思えなかった。それだけで、十分だった。
ガルが、ふと、また北東のほうへ鼻先を向けた。
「ガル。まだ、来てる?」
「ガウ」
──まだ、とおい。
──でも、きのうより、ちかい。
アルマは、北東の森を見た。朝より、ほんの少しだけ、風が冷たくなった気がした。
それでも、アルマは、こわくなかった。
だって、ガルがいる。お婆ちゃんがいる。お父さんも、お母さんも、お兄ちゃんもいる。それに――
アルマは、隣を歩くセオドアを、ちらりと見上げた。王都から来た、優しいお兄さん。さっき、自分のために、何か大事なことを決めてくれた人。
きっと、この人も、味方だ。
アルマは、そう思って、少しだけ、笑った。
そして、まだ知らなかった。
森の奥で近づいてくるその気配が、あと数日で、この穏やかな里に届いてしまうことを。そのとき、王都から来たこの優しいお兄さんが、生まれて初めて、自分の剣を、誰かのために抜くことになるのを。
──まだ、誰も、それを知らない。




