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『辺境育ちの天才発明魔導師 〜新しい魔法を作りたいだけなのに、なぜか世界が騒がしくなります〜』  作者: 夕凪 鏡介


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第2章「派遣騎士セオドアの絶句」

辞令を渡されたとき、私は一度だけ笑った。短く、息を漏らすように。




三男坊にはふさわしい辞令だ、と思ったのだ。




第三騎士団長、ベルナール卿の執務室は、王都の中央広場を見下ろす三階の角部屋だった。窓の外で午後の鐘が三つ鳴っていた。机の上に置かれた羊皮紙を、私は二度読み直した。書かれていることが理解できないからではなく、理解したくなかったからだ。




「辺境視察。私が、ですか」




「君が、だ」




ベルナール卿は私を見なかった。彼はずっと窓の外を見ていた。私と目を合わせたくない上司というのは、たいてい、後ろめたいことを命じている。学院で七年、騎士団で二年、二十二年も三男坊をやっていれば、それくらいのことは見抜ける。




「グリモワール村。地図でいうと──」




「ここから馬で十二日です。私の知る限り、王国の北西の、ほとんど端」




卿の眉が一瞬だけ動いた。よく知っているな、と言いたかったのだろう。私は学院首席だ。地理くらいは入っている。むしろ、入っていなければあの七年は何だったのか。




「魔物の動向調査だ。近年、北の辺境集落から不審な報告が散発的に上がっている。誰かに行かせる必要があった」




「その『誰か』が私だった理由を、お伺いしても?」




ベルナール卿は、ようやく私に向き直った。




「君は、独身で、家を継ぐ責任もなく、若くて、首席で、そして──まあ、無難だ」




無難。




学院首席卒の、第三騎士団の、ヴァレンタイン家三男セオドアに、無難という言葉が貼られた。私はその場で笑ってしまいそうになって、奥歯を一度噛んだ。




三男坊というのは、便利な存在だ。長男は家を継ぐ。次男は軍のエリート部隊に押し込まれて、次の世代の名を上げる。三男坊は、余りだ。余りの肉のように、誰かに食わせる必要があるが、誰も主菜にはしたがらない。




私は学院では首席だった。卒業式で銀の星章を胸につけて、それでも家に帰ったときの父の言葉はこうだった。




「ご苦労だった、テオドア。お前にも何か役割があるといいな」




ご苦労さま、ではなく、ご苦労だった。何か、と。




役割があるといいな、と。




そう言われた夜のことを、私は今も時々思い出す。たぶん、墓に入るまで忘れない。




「期間は」




「三日もあれば十分だろう。視察は形式的なものだ」




「三日」




「君の馬なら、片道十二日、現地三日、復路十二日。一月で帰ってこられる」




一月。




私はもう一度、羊皮紙を見た。「グリモワール村における魔物動向の実地調査」とだけ書かれていた。実地調査。耳触りのいい言葉だ。実地、というのは、要するに、面倒なことをしに行く、という意味でしかない。




「了解しました」




「うむ」




「ひとつだけ、伺っても?」




「言ってみたまえ」




「グリモワール村からの報告は、これまで」




私は一度言葉を切った。




「これまで、無視されていたと聞いています。違いますか」




ベルナール卿は、机の上の何かを見ていた。たぶん、何も見ていなかった。視線をどこにも置けないとき、人は机の木目を見る。




「君は、賢い男だ」




「光栄です」




「賢すぎないように」




「努めます」




私は一礼して、執務室を出た。




廊下を歩きながら、私は襟を一度直した。学院の卒業式で授与された銀の星章が、制服の胸の上で小さく揺れた。




──無難。




その言葉が頭の中で何度か繰り返されて、それから、消えた。








王都を出る日は、雨だった。




早朝、まだ商人たちも荷を出していない時刻。北門の前で、私は鞍に手をかけた。馬は黒鹿毛の二歳駒で、名前はクラウス。父の代の家令から譲り受けた、ヴァレンタイン家の使い古しの一頭だ。




「セオドアさま」




後ろから声がした。振り返ると、家令が傘も差さずに立っていた。




「ご無事のお戻りを」




「ありがとう、ジャン。父には」




「お父上には、無事に出立されたとお伝えします」




「うん。それと──」




私は少し迷ってから、続けた。




「兄上たちには、何も言わなくていい」




「かしこまりました」




ジャンは深く頭を下げた。彼は私が学院に入る前から家令だった。たぶん、私の三男坊としての一生を、最後まで見届けるであろう男だ。




馬上に身を移すと、革のベルトが少しきつかった。最近、肩がまた厚くなった気がする。鍛錬を欠かしていない証拠だ、と自分に言い聞かせる。




雨は弱まらなかった。




私はクラウスの腹を軽く蹴って、北へ向かった。




王都を出てしばらくは、街道は石畳だった。三日もすれば石畳は途切れて、土の道になる。五日もすれば、その土の道さえ怪しくなる。十日もすれば、ただ草の踏み跡が続くだけになって、そして十二日目、辺境にたどり着く。




旅の途中で、私は何度も、ベルナール卿の「無難」という言葉を反芻した。




無難な男には、無難な任務が来る。


それは、無難ではない男に何かを任せると、何かが起きる可能性があるからだ。私には、その可能性がない、と上司は言ったわけだ。




それは、たぶん、正しい評価だった。


私はそういう男だ。




王立魔法学院七年、首席。火・光・治癒を得意とし、闇は苦手。複合魔法は習わなかった。教師たちは「複合魔法は宮廷魔導師団の領域です」と言って、首席である私にも、それを教えなかった。系統を組み合わせる、というのは、私の知る限り、人類の歴史でわずか三例しか成功していない技術であって、学院で教えるようなものではない。




私は、その三例の名前を全て暗記している。


それも、入っていた知識のひとつだ。




そのうちの一人が、私がこれから向かう村にいるなど、私はまだ、知る由もなかった。




──いま思えば、あの執務室で奥歯を噛んだ私は、自分が王都に戻ってくる頃には別の人間になっていることなど、一度たりとも想像しなかった。




当然だ。




想像できるはずがなかった。








十二日目の夕方、グリモワール村の入口が見えた。




馬上から、まず気づいたのは、村の境界の異常な静けさだった。




辺境の集落というのは、普通、簡素な木柵か、せいぜい掘割で囲まれている。村の入口には警戒の篝火が焚かれ、見張りが立つ。グリモワール村にも、確かに木柵はあった。柵はあった。しかし──。




火が、焚かれていない。




篝火台は確かに据えてある。台の周りには、燃え残りの炭の山がある。だが、いま、火がない。日が暮れかけているのに、ない。




見張りも、立っていなかった。




私はクラウスの足を止めて、しばらく入口を眺めた。何かの間違いで、別の村に来てしまったのではないかと思ったほどだ。私の知る限り、辺境の村で見張りを置かないというのは、自殺行為だ。




「どちらさん」




声が、すぐ横からした。




私はびくりと肩を跳ねさせて、左手で剣の柄に触れた。




柵のすぐ脇に、男が一人、屈んで何かをしていた。屈んでいたから気づかなかったのだ。男は薪を割っていた。手斧を木の塊に下ろしながら、片目だけ私に向けて、ものうげに繰り返した。




「どちらさん。見ない顔だな」




「失礼しました。私は──」




私はクラウスから降りて、姿勢を正した。




「王都・第三騎士団、セオドア・ヴァレンタイン。辺境視察のため、こちらの村へ参りました」




男は手斧を下ろした。


手を止めて、私を見上げた。それから、ゆっくりと立ち上がった。背の高い男だった。私とほぼ同じ、いや、少し高い。日に焼けた頬に、古い剣の傷が一本。腕は、農夫のそれではなかった。私の知る限り、ああいう腕は、訓練を積んだ騎士のものだ。




「俺は里長のガレリスだ。話は、伝令から聞いている」




「お初にお目にかかります」




「ああ」




ガレリスと名乗った男は、私を頭の先からつま先まで眺めた。


私の制服の襟、銀の星章、剣の柄、革のブーツの泥。何かを値踏みするような目だったが、不快な目ではなかった。むしろ、私がどう値踏みされても構わない、と思える、奇妙に落ち着いた目だった。




「学院出か」




「はい」




「首席か」




私は答えるのが一拍遅れた。




「……ご慧眼です」




「星章の形でわかる」




ガレリスは短く言って、手斧を肩に担ぎ直した。




「俺も、若い頃に王都にいた。下級騎士だった。第三には所属していないが、まあ、廊下くらいは歩いたことがある」




「失礼ながら、お名前は」




「ガレリス・グリモワール。当時、騎士団名簿に名前があったかどうかは、もう忘れた」




私は、その名前を頭の中で検索した。




グリモワール。


辺境の村と同じ姓。出戻った下級騎士が、里長を継いだのだろう。よくある話だ。




「篝火が、焚かれていませんね」




私は、いま気になっていることを口にした。




「ああ」




「魔物の出没する辺境では、夜の篝火は必須かと記憶していますが」




「うちには、火を焚かなくても、もっと頼りになるのがいる」




「え?」




「中で見ろ。──馬は、こっちだ。預かる」




ガレリスは私の返事を待たず、クラウスの手綱を取って、村の中へ歩き出した。私は慌てて後を追った。襟が首に擦れた。革ベルトの留め金が、また少しずれていた。




村の中は、辺境の集落としては──奇妙だった。




「奇妙だった」と私は書いた。報告書なら、別の言葉を選ぶ。整然としていた、とでも書く。だが、整然というほど整っているわけでもない。むしろ、家々はばらばらに建っていて、道は曲がりくねっていた。けれど、何か、見えない秩序が、そこにあった。




たとえば、屋根の上に、何かの草が干してある。家ごとに違う草だが、配列に意味がありそうな干し方だった。




たとえば、家の戸口に、小さな鈴がぶら下がっている。鈴は風で鳴るが、その鳴り方が、家ごとに音程を変えてあるらしかった。




たとえば、井戸の縁に、子どもが描いたような魔法陣の跡が、薄く残っている。雨に流れて消えかけているが、確かに、それは魔法陣だった。




私は、井戸のところで、思わず足を止めた。




「ヴァレンタイン卿」




ガレリスが、馬を引きながら、振り返らずに言った。




「子どもの落書きだ。気にするな」




「……はい」




気にするな、と言われた。




が、気にせざるを得なかった。それは確かに「子どもの落書き」のように見えた。実際、線が震えていて、円も歪んでいる。しかし、私の知る限り、その「歪み」は、子どもが手の癖で歪めたものではなかった。あれは──意図して歪めてある。系統の交差を起こさせないために、わざと中心軸をずらしてある。




学院の高等魔法陣理論で習った技術だ。


五年次の、後期。




──落書き?




私はもう一度、井戸の縁を見た。




雨に流れた線が、夕日に照らされていた。








ガレリスの家は、村の中央にあった。




里長の家らしく、他の家より少しだけ広い。ただし、王都の貴族屋敷の感覚で「広い」のではない。せいぜい、王都の小商人の家程度だ。木造の二階建てで、屋根は茅葺き。煙突から、夕餉の煙が立ち上っていた。




「妻のアニエスだ。アニエス、王都からの騎士殿だ」




「あら、まあ」




玄関先に出てきた女性は、栗色の長い髪を後ろで束ねていた。手に薬草を抱えていた。歳は三十代後半か。彼女は私を見て、軽く頭を下げた。




「遠いところ、ご苦労さまでした。すぐお茶を淹れますね」




「いえ、お構いなく──」




「あらあら、お構いしますよ。長旅だったんでしょう?」




「ええ」




私は気圧された。


王都の貴族夫人なら、まず私の家柄を問う。次に、私の階級と立場を確認する。それから、私を客間に通す。アニエスというこの女性は、その全部を飛ばして、いきなり「お茶を淹れますね」だった。私の知る限り、それは王都の作法ではなかった。




だが、奇妙なことに、不快ではなかった。




むしろ、襟の汗が、急に乾いた気がした。




「──父さん、ただいま」




玄関の奥から、少年が顔を出した。十二歳くらいの男の子だ。父譲りの茶色い髪、母譲りの緑の目。私と目が合うと、少年は一瞬びくりとして、それから、ぺこりと頭を下げた。




「あ、ぼ、僕は、ルカです。ルカ・グリモワールです」




「セオドア・ヴァレンタインです。よろしく、ルカ君」




「ど、どうも、よろしくお願いします、ヴァレンタイン……卿?」




ルカという少年は、私の呼び方に戸惑っていた。


たぶん、村に「卿」と呼ぶような客人が来た記憶など、彼の一生のうちで一度もないのだろう。




「卿、はいらない。ヴァレンタインで」




「は、はい」




「いや、それも長いな。セオドア、で構いません」




「えっ、で、でも──」




ルカが助けを求めるように母親を見た。アニエスは笑って、息子の肩に手を置いた。




「セオドアさん、で良いんじゃない? お客さんがそうおっしゃるんだから」




「は、はい」




「ところで、アルマは?」




アニエスが、私ではなく息子に聞いた。




「ばあちゃんのところに行ったきり、まだ。あ、でも、夕ごはんには戻るって言ってた」




「またね。あの子は、ハーミーネさんのところに行くと、時間を忘れちゃうから」




アニエスはため息をついた。


そのため息は、心配のため息ではなく、呆れた笑いのため息だった。私の知る母親というのは、もっと別の感じでため息をついた。私の母は、私のことで何度もため息をついた。あれは、たぶん、別の種類のため息だった。




「アルマ、というのは」




私は思わず尋ねた。




「うちの娘です。今年で六歳」




「ハーミーネ、というのは」




「あ、隣のおばあちゃんです。アルマの先生」




「先生──」




「魔法の」




アニエスは、何でもないことのように言った。




私は、頷くタイミングを逃した。




辺境の村に、「魔法の先生」がいる。


そして、六歳の娘が、その先生のところに通っている。




これは、報告書に書けるだろうか。




私の知る限り、辺境集落の魔法教育などというものは、存在しなかった。王都ですら、子どもが魔法を学ぶのは八歳以降だ。六歳の子どもに教えるなど、人体に有害だと、学院では教えられていた。魔力回路が未発達の段階で系統別の魔法を教え込むと、回路が偏って、後天的な学習が困難になる。




「六歳、ですか」




「ええ」




「魔法を、学んでいる」




「ええ。あ、お茶、すぐお持ちしますね」




アニエスは、ふっと笑って、台所に消えた。




玄関に残されたのは、私と、ガレリスと、ルカ。




ガレリスは私の表情を見て、低く、短く笑った。




「あんた、これからもっと驚くぞ」




「え?」




「いや。──部屋に案内する。荷を置いてくれ。話は、メシのあとだ」




ガレリスは私の返事を待たず、二階への階段を上がっていった。




私は革のブーツを脱ぎながら、ふと、井戸の縁にあった魔法陣のことを思い出していた。




子どもの落書き、と彼は言った。




──子ども、の。


──六歳の?








アルマ・グリモワールという少女に会ったのは、夕食の少し前だった。




私が二階の客間で旅装を解いて、革のベルトを外し、上着を椅子の背にかけ、息をひとつ吐いて、それから階下に降りようと階段の途中まで来たとき。




一階の玄関が開く音がした。




「ただいま戻りましたー!」




高く、澄んだ声だった。




「お母さん、お婆ちゃんがクッキーくれたんですけど、半分残しておきました! お父さんとお兄ちゃんに!」




「あら、自分で食べちゃってよかったのに」




「だめです、半分は半分です」




私は階段の途中で足を止めた。


階下から、ぱたぱたと駆ける足音と、誰かを抱きしめたらしい衣擦れの音が聞こえた。それから、低い唸り声。狼の、声に似ていた。




──狼?




私はもう一度、足を進めた。




一階に下りて、私が見たものは、こうだった。




銀髪の少女が、母親に抱きついていた。少女の腰のあたりまで届く、長い髪。寝間着のような薄い水色のワンピース。腰に革の道具袋を提げている。袋からは、白チョークの先と、羽根ペンの軸が覗いていた。




そして、少女のすぐ後ろに──




銀色の、巨大な狼が、座っていた。




大型犬の二倍はある体格。額に、三日月の紋章。私の知る限り、それは、月狼。ルナ・ウルフ族。伝説の魔物だ。学院の魔物図譜にだけ載っていて、現存個体は確認されていないとされる、絶滅したはずの種。




──ウソだろう。




私は、無意識のうちに、剣の柄に手を伸ばしていた。




そのとき、銀髪の少女が振り返って、私を見た。




「あ」




紫水晶の、大粒の瞳だった。




「お客さんですか?」




少女は首を傾けた。


そして、にこりと笑った。




「あ、もしかして、王都の騎士さんですね! 来てくれて、ありがとうございます!」




「……」




「私、アルマ・グリモワールです。六歳です。お会いできて嬉しいです!」




私は、剣の柄から手を離せなかった。




──いま、なんと言った?




来てくれて、ありがとう、と言ったのか?




王都の騎士が辺境の村に来て、感謝された経験は、私の人生にない。ベルナール卿の口ぶりからも、村の側から「ありがとう」が出てくることは想定されていなかった。むしろ、迷惑な客として扱われると覚悟して、私は十二日の旅をしてきた。




「──セオドア・ヴァレンタイン、です」




「セオドアさん!」




「はい」




「あの、後ろの、月狼です」




アルマと名乗った少女は、月狼を振り返って、その太い首を、まるで犬を撫でるように撫でた。月狼は目を細めた。喜んでいる、ように、見えた。




「ガル、っていうんです。家族です。怖くないので、剣はしまっていただいて大丈夫です」




「家族」




「はい」




「家族、と言いますと」




「家族です」




アルマは、それ以上の説明は不要、という顔で頷いた。




私の頭の中で、王立魔法学院の七年が、音を立てて崩れていた。




──月狼は、絶滅種。


──六歳の子どもが、絶滅種の魔物を「家族」と呼ぶ。


──そして、村の里長は、その狼を「もっと頼りになるのがいる」と言って、篝火を焚かない。




篝火を焚かない理由が、いま、わかった。


焚く必要がない。


月狼が、ここに、いる。




私はゆっくりと、剣の柄から手を離した。


ガルと呼ばれた月狼は、私を一度だけ見て、それから、興味を失ったように顔を背けた。アルマの足元に、どっかりと寝そべった。




「ヴァレンタイン卿」




階段の上から、ガレリスの声がした。




「飯だ」




「──はい」




私は、まだ動けなかった。








食卓は、丸い木の卓だった。




アニエスがキノコのスープと、薄切りのパンと、塩漬けの肉を運んできた。アルマは私の向かいに座り、ガルは彼女の椅子の脚に体をぴったりと寄せて伏せていた。ルカは私の隣に座り、しきりに私の銀の星章を盗み見ていた。ガレリスは、私の正面の少し離れた席──というか、卓の主の席についた。




「いただきます!」




アルマが、両手を合わせた。


ルカも、慌てて両手を合わせた。


私も、つられて、合わせた。




スープは、温かかった。




一口飲んで、私は息を吐いた。十二日の旅で冷えた体に、キノコの出汁が染みた。北側の森のキノコだろうか、と、なぜかそんな思考が脳の隅をよぎった。あとで気づいたが、それは正確な推測だったらしい。




「セオドアさんは、王都から来たんですよね」




アルマが、スープを一口飲んでから、私に尋ねた。




「はい、そうです」




「王都って、どんなところですか?」




質問が漠然としていて、私は答えに詰まった。




「えっと、人が、多いです」




「どれくらい?」




「この村の、千倍くらい、でしょうか」




「千倍!」




アルマは目を丸くした。




「すごい! じゃあ、魔法もたくさん使われてますか?」




「ええ、まあ。学院や、宮廷魔導師団が」




「学院、というのは?」




「王立魔法学院です。魔法を学ぶ場所」




「学ぶ?」




アルマが、首を傾げた。




「魔法を、学ぶんですか?」




「ええ」




「学ぶ、というのは、どういうふうにですか?」




私は、スプーンを止めた。




──学ぶ、というのが、どういうことか?




それは、たぶん、たいていの子どもが既に知っている。学校で文字を習うのと同じだ。教科書があって、先生がいて、覚える。私はそう答えようとして、しかし、目の前のアルマの目が、本気で「わからない」と言っているのを見て、口を閉じた。




「あの、アルマちゃん」




「はい」




「君は、魔法を、どうやって覚えましたか」




「覚える、というか、その──」




アルマは少し考えてから、答えた。




「混ぜたら、面白そうだなって思ったので、混ぜました」




「え?」




「混ぜたら、できたんです」




「混ぜる、というのは」




「火と治癒を、です。今朝、新しいの作りました。やけど、治せる魔法」




私はパンを取りに伸ばしかけた手を、宙に止めた。




──今朝。新しいの。やけどを治せる魔法。


──火と治癒を、混ぜた。




私の頭の中で、誰かが、ゆっくりと、しかし正確に、私の人生で大切にしてきたものを、片付け始めていた。学院七年、首席、銀の星章、ベルナール卿、辞令、無難、ヴァレンタイン家三男。




それらが、一個ずつ、棚の上から下ろされて、箱に詰められていく。




──まさか。




「アルマちゃん」




私は、努めて穏やかに、聞いた。




「火と、治癒、というのは、その、系統が違いますね」




「はい」




「系統の違う魔法を、組み合わせるのは──」




「混ぜるのは、難しいって、お婆ちゃんに言われました」




「……」




「でも、混ぜたら、できました。やけどに、火の魔法陣を逆向きに使うと、熱を吸い取れるんです。それから治癒で傷を塞ぐと、ちゃんと治るんですよ」




アルマは、にこにこ笑いながら、スプーンでスープをすくった。




そして、ふと、何かを思いついた顔で、手を止めた。




「あ」




「え?」




「セオドアさん、長旅で疲れてますよね」




「えぇ、まぁ」




「お風呂、入りますか?」




「お風呂?」




「あ、いま思いついたんですけど、お風呂、すぐ作れますよ」




「──いま、なんと?」




アルマは、スプーンを置いて、椅子から立ち上がった。




ガルが、それに合わせて、のっそりと起き上がった。


アルマは私を見て、それから両親を見て、少し申し訳なさそうに言った。




「お父さん、お母さん、ごはんの途中ですけど、ちょっとだけ、外に出ていいですか?」




「アルマちゃん。何をするの?」




「お風呂を作ります」




アニエスは、何かを言いかけて、止めた。


ガレリスは、私のほうを一度見て、肩をすくめた。「言ったろう」という顔だった。




「気をつけてね」




「はぁい!」




アルマは、家の裏手の戸を開けて、外に出ていった。


ガルが、後を追った。




私は、自分のスプーンを見て、それから、卓を見て、それから、ガレリスを見た。




「あの」




「行ったほうがいい」




「え?」




「見ておいたほうがいい。報告書に、書けるかどうかは、別として」




ガレリスは、自分のスープを一口飲んで、続けた。




「俺も、最初の頃は、目を逸らした。だが、無理だった。あれは、見るべきものだ」




「……」




「あんた、首席卒だろう。なら、なおさら」




──なおさら、何だ。




私はその意味を聞き返すことができなかった。


椅子を引いて、立ち上がった。


革のブーツを履き直し、裏口に向かった。




ルカが、後ろから小走りについてきた。


ルカは、私の肘のあたりで、こっそり囁いた。




「セオドアさん」




「はい」




「驚かないでくださいね。アルマ、悪気はないんです」




「え?」




「ほんと、悪気は、ないんです」




ルカは、それだけ言って、私の前を抜けて、裏庭に駆けていった。


私は、少しだけ、深呼吸をした。




──首席卒だろう。なら、なおさら。




その意味が、これからわかるのだろう。


そう思って、私は、裏口の戸を開けた。








裏庭は、思ったより広かった。




家の裏に、小さな空き地が広がっていて、その向こうは、もう森だった。空き地の真ん中に、井戸があった。それから、薪の山が一つ。──ただ、それだけだった。




アルマは、その井戸のそばに、しゃがんでいた。




ガルは、彼女の少し離れたところで、伏せて、こちらを見ていた。


ルカは、井戸から十歩ほど離れた場所で、両手を後ろで組んで、立っていた。慣れた距離の取り方、に見えた。




「セオドアさん、こっちです!」




アルマが、顔だけこちらに向けて、笑った。




「あの、お風呂、ここに作るので、よければ近くで見ていてください」




「はい」




「えーと、まず、地面を平らにして……」




アルマは、白チョークを取り出した。


そして、井戸の脇の地面に、何かを描き始めた。




私は、十歩、近づいた。


五歩、近づいた。


二歩、近づいた。




そして、彼女の手元を覗き込んで、息を吸って、止めた。




──水の魔法陣。


──火の魔法陣。




二つの魔法陣が、地面に、同心円状に、描かれている。


外側に水、内側に火。


そして、二つの陣の交点に、軸をずらして描き込まれた、小さな調律記号。




高等魔法陣理論、六年次後期。




系統の異なる魔法陣を、互いに干渉させずに同時起動させるための、軸ずらし技法。私の知る限り、それを正確に描ける人間は、王立魔法学院でも、教授以上に限られる。




私は学院で習った。


だが、私には、描けない。


一度試みた。失敗した。教授は「これは知識として知っておくだけで十分です」と言った。




それを。




六歳の少女が。




地面に。




チョークで。




描いている。




「これと、これを、こう……」




アルマは、楽しそうに、二つの陣の交点に、もう一筆を加えた。




「あ、ガル、ちょっとだけ、お願いします」




「ガウ」




ガルが、立ち上がった。


そして、月狼は、アルマの描いた魔法陣のすぐ脇まで来て、座った。




私は、それを見ていた。




──月狼が、魔法陣の脇に、自分から、座った。


──まるで、自分の位置を知っているように。




アルマは、何でもないことのように、ガルの首をひと撫でして、それから、両手を魔法陣の中央にかざした。




「えーと、お風呂ですから、適温で、深さはこのくらいで……」




ぶつぶつと呟いている。


私の知る詠唱とは、似ても似つかなかった。私の知る詠唱は、古代語で、定型句で、九小節以上ある。アルマの呟きは、ただの、独り言だった。お風呂の準備をしている、家政婦のような呟きだった。




「……できました」




アルマが、ぱちん、と手を叩いた。




次の瞬間。




私は、自分の足元から、何かが湧き出すのを感じた。




「──」




足元の地面が、波打った。


一瞬で、土が、削れた。井戸の周りに、半径二歩ほどの、浅い、すり鉢状の窪みができた。窪みの深さは、たぶん、私の膝くらい。




そして、その窪みの底から、湯が、湧いた。




湯。




蒸気を立てて。




適温の。




──適温の。




私は、湯気に頬を撫でられて、後ろに一歩、よろめいた。


たぶん、目を見開いていた。たぶん、口も開けていた。たぶん、私のヴァレンタイン家の三男坊としての顔は、ベルナール卿が二度と「無難」と呼ばないであろう顔に、なっていた。




「セオドアさん、入りますか?」




アルマが、にこにこと、私を見上げた。




「ちょっと熱かったら、言ってくださいね。調整します」




「──」




「あの、セオドアさん? 大丈夫ですか?」




私は、答えられなかった。




私は、足元の湯を見ていた。


湯気が立っていた。


表面に、波紋が立っていた。


波紋の中心から、もうもうと湯が湧き続けていた。それは、私の知っている井戸ではなかった。私の知っている井戸は、水を汲み上げるためのものだった。湯を、こんこんと湧かせるためのものではなかった。




「アルマ」




ガレリスの声がした。


いつの間にか、裏口に、ガレリスが立っていた。腕を組んで、私のほうを見ていた。




「お父さん」




「適温は何度だ」




「えーと、人肌より、ちょっと熱いくらい。あの、四十度くらい?」




「分量は」




「井戸の半分くらい、です」




「持続は」




「あ、それ、考えてませんでした。たぶん、私が解除するまで、です」




「うむ」




ガレリスは、頷いた。


ただ、頷いた。




──娘が、適温の、井戸大の湯を、地面から、湧き出させて、それを父親は、ただ、頷いた。




私の頭の中で、もう、何かが片付けられている、というレベルではなかった。


棚自体が、倒れていた。




「セオドアさん」




アルマが、もう一度、私を見上げた。




「お風呂、入ってください。ずっと馬に乗ってたんでしょう? お疲れだと思います」




「……」




「あ、もしかして、男の人を見ちゃうから、入りにくいですか? でも、私、後ろを向きますから、大丈夫です」




「アルマ、それは、別の問題」




ガレリスが、低く笑った。




「ヴァレンタイン卿は、たぶん、別のことに驚いている。アルマ、何かを作ったら、相手の反応を見るんだ」




「あ」




アルマは、私を、もう一度、ちゃんと見上げた。


そして、不思議そうに、首を傾げた。




「セオドアさん、これ、もしかして、難しい魔法でしたか?」




私は、ようやく、声を絞り出した。




「──ええ。それは」




「えっ」




「とても、難しいですよ、アルマちゃん」




「そうなんですか?」




アルマは、両手を、自分のほっぺたに当てた。




「あ、いま思ったんですけど、もしかして、こういうの、王都では、まだ誰も作ってないんですか?」




「──」




「あ、もしかして、私、また、新しい魔法、作っちゃいましたか?」




また。




また、と、彼女は言った。




私は、その「また」の意味を、一拍遅れて、理解した。




──朝、火と治癒の複合魔法を作った。


──夜、火と水の複合魔法を作った。




一日に、二つ。




学院では、首席が、卒業までに、複合魔法を一つも作れずに卒業する。




私は卒業した。


私は、複合魔法を、ひとつも、作れない。




──六歳の少女が、一日に、二つ。




「アルマちゃん」




私は、自分でも驚くほど静かな声で、言った。




「君は、いま、どんな気持ちですか」




「気持ち、ですか?」




「ええ」




「えーと──」




アルマは、しばらく考えた。


そして、首を傾けて、笑った。




「セオドアさんが、ちゃんとお風呂に入れたら、嬉しいです」




私は、その答えの意味を、長いあいだ、理解できなかった。




そして、たぶん、人生で初めて、私は誰かに対して、深く、深く、頭を下げたいと思った。




だが、できなかった。




三男坊の、ヴァレンタイン家の、第三騎士団の、王立魔法学院首席卒の、銀の星章の私には、まだ、その勇気はなかった。




私は、ただ、湯気の立つ井戸を見ていた。


適温の、湯気を。




アルマは、私の沈黙を、なぜか「冷めるのを心配している」と解釈したらしかった。




「セオドアさん、冷めちゃう前に、入ってください。タオル、持ってきますね!」




そう言って、家の中に駆けていった。


ガルが、彼女の後を追った。




裏庭に、私とガレリスだけが残った。




ガレリスは、私の隣まで歩いてきて、肩を並べて、湯を見下ろした。




「な?」




彼は、それだけ言った。




「──はい」




私も、それだけ答えた。




──首席卒だろう、なら、なおさら。




ベルナール卿の「無難」と、ガレリスの「なおさら」は、いま、私の胸の中で、ちょうど、火と水が混ざるように、対になっていた。




だが、私は、それを混ぜる魔法を、知らなかった。








その夜、私は、本当にその湯に浸かった。




入らない、という選択肢は、なぜか、なかった。アルマがあまりに嬉しそうにタオルを持ってきたので、断ると、何か取り返しのつかないものを傷つける気がした。私は十二日分の汗を、彼女の作った湯で洗った。




湯は、本当に適温だった。




まったく、申し分なく。




私はその湯のなかで、自分の親指の腹を、もう一方の親指でこすりながら、考えていた。




報告書に、なんと書く?




「グリモワール村において、複合魔法を即興で作る六歳の少女を確認」と書くのか。


ベルナール卿は、それを読んで、なんと言う?


「君、ご苦労、頭は冷やしたほうがいい」とでも言うか。


学院の同期は、私を笑うだろう。三男坊は辺境で気が触れた、と。




だが、湯は、温かかった。




湯気は、確かに、立ち上っていた。




私は、その湯気が私の頬を撫でる、その物理的な、触覚的な、否定しようのない感覚を、何度も確かめた。




──現実だ。


──これは、現実だ。




湯から上がって、寝間着に着替えて、客間に戻ると、卓上に、お茶のポットと、二つの椀が置かれていた。




「ヴァレンタイン卿」




戸の影から、声がした。




振り返ると、小柄な老婆が、立っていた。


雪のような白髪。深い紫紺の瞳。古びた紺色の魔導師ローブ。彼女は、戸の枠に手をつき、ゆっくりと、頭を下げた。




「儂は、ハーミーネ・グリモワール。アルマの、師匠を務めておる」




「──」




私は、椅子に座ろうとしていた手を止めた。




「ハーミーネ──グリモワール」




「ええ」




「失礼ですが、その姓、お孫さんに?」




「いえ」




老婆は、首を横に振った。


そして、片方の椀に、自分でお茶を注いだ。




「血の縁ではない。同姓は、ただの──まあ、後継ぎの形式じゃ」




後継ぎ。




私は、彼女が腰を下ろすのを待って、自分も座った。




「形式、と申されますと」




「儂は、お主に、聞きたいことがある。よければ、儂の話を聞いてもらえるかえ」




「はい。──伺います」




「うむ」




ハーミーネは、ゆっくりと、椀を口に運んだ。


三秒。


たぶん、もっと長く。


椀が、ゆっくりと、膝に下ろされた。




「ヴァレンタイン家の三男、と聞いた」




「はい」




「学院首席、と」




「はい」




「儂は、宮廷魔導師団に、おった」




私は、湯のなかで温まったはずの体が、急速に冷えるのを感じた。




「──いつ頃、でしょうか」




「四十年は、前じゃ」




四十年。




私は、頭の中の宮廷魔導師団員名簿を、検索した。学院首席卒の特権で、私はそれを閲覧できる。四十年前──。




「ハーミーネ・グリモワール、団員番号は」




「忘れた」




「役職は」




「やめてくれ」




ハーミーネは、しわだらけの目で、私を、まっすぐ見た。




「儂は、その名を、捨てた。捨てた者を、名で呼ぶでない」




「──失礼しました」




「いや」




沈黙が降りた。




暖炉のない部屋だった。それでも、不思議と寒くはなかった。


私は、自分の椀のお茶を、まだ口にしていなかった。湯気が立っていた。さっきの井戸とは、別の、もっと細い湯気だった。




「ヴァレンタイン卿」




「はい」




「お主は、今日、何を見た」




「──」




私は、答えに迷った。




アルマの井戸の湯気を、思い出した。


それから、井戸の縁の魔法陣の落書きを、思い出した。


それから、月狼が、自然に魔法陣の脇に座った姿を、思い出した。




「私は、たぶん、見たものを、まだ理解できていません」




「うむ」




「ただ、見たことは、確かです」




「うむ」




ハーミーネは、もう一口、お茶を飲んだ。




「では、ひとつだけ、聞こう」




「はい」




「お主は、今日見たものを、王都に、報告するかえ?」




──。




私は、答えに、長く詰まった。




ハーミーネは、急かさなかった。


暖炉のない部屋で、お茶の湯気だけが、私と老婆のあいだに、ゆらゆらと、立っていた。




──報告する。


──私は、ベルナール卿に派遣された騎士だ。


──見たことは、報告するのが、私の務めだ。




だが。




だが、と、私の中の何かが、ささやいた。




報告したら、どうなる?


ベルナール卿は、すぐには信じないだろう。だが、王都の宮廷魔導師団は、信じる連中もいる。彼らは、必ず、グリモワール村に、人を寄越す。複合魔法を即興で作る六歳の少女。それは、宮廷魔導師団にとって、何としても手に入れたい存在だ。




そして、彼女は、王都に、連れて行かれる。


たぶん、彼女の意志とは、関係なく。


たぶん、家族とも、引き離されて。




──「学ぶ、というのは、どういうふうにですか?」




アルマの、夕食の卓での問いが、頭の中で、もう一度、響いた。




「ハーミーネ殿」




私は、初めて、声に詰まった。




「私は──」




「うむ」




「私は、まだ、決められません」




ハーミーネは、長く、私を見た。


そして、目を細めて、ふっと笑った。




「それは、結構な答えじゃよ、ヴァレンタイン卿」




「え?」




「即答する者は、たいてい、間違える。お主は、迷えばよい。迷うのは、悪いことではない」




「──」




「魔法とは、何じゃと思う?」




老婆は、ふと、話題を変えた。




「え?」




「魔法とは、何じゃと、学院では教わったかえ」




私は、教科書の定義を思い出した。




「魔法とは、世界の理に基づく、再現可能な、体系化された力の運用です」




「うむ」




ハーミーネは、頷いた。




「では、儂が思う魔法とは、何じゃと思う?」




「──存じません」




「魔法とは、覚えるものではない。創造するものじゃ」




私は、口を開けて、閉じた。


もう一度、開けて、閉じた。




「それは──」




「学院では、教えてくれぬ定義じゃろう」




「はい」




「儂は、それを、宮廷で言った。そして、宮廷を、追われた」




「──」




「いや、それも、正確ではない。儂が追われたのは、別の理由じゃ。じゃが、儂の信条が、追われやすい体質を作ったことは、確かじゃ」




ハーミーネは、椀を、もう一度、膝に下ろした。




「お主は、まだ若い。学院の定義を、信じておればよい。じゃが、ひとつだけ、覚えておくがよい」




「はい」




「魔法は、覚えるものではない、創造するものじゃ──と、心の底から信じておる者が、いま、お主の見たあの井戸の脇に、ひとり、おる」




アルマ、だ。




私は、その名を、口の中で、つぶやいた。




ハーミーネは、立ち上がった。


古びたローブを、ひと撫でして、戸口に向かった。




「ハーミーネ殿」




私は、思わず、呼び止めた。




「もうひとつだけ、伺っても?」




「言うがよい」




「あの少女は──アルマは、これから、どうなるのでしょうか」




ハーミーネは、戸口の影で、立ち止まった。


振り返らずに、低く、言った。




「それは、誰にも、わからぬ」




「──」




「じゃが、儂は、ひとつだけ、知っておる」




「はい」




「あの子は、誰のものでもない。あの子の魔法は、あの子だけのものじゃ」




そして、彼女は、戸を閉めて、出ていった。




私は、椅子に座ったまま、しばらく動けなかった。




お茶は、もう、湯気を立てていなかった。








その夜、私は、客間の机に向かった。




報告書を、書こうとした。


羊皮紙を一枚、広げた。


羽根ペンに、インクを含ませた。




「第三騎士団 ベルナール卿 御中」




そこまでは、書けた。




次の一行を、書こうとして、私は、ペンを、止めた。




──私は、辺境のグリモワール村において、複合魔法を即興で作成する、六歳の少女を、確認しました。




そう書く?




──私は、月狼の現存個体を、確認しました。




そう書く?




──私は、王都を捨てたかつての宮廷魔導師、ハーミーネ・グリモワールが、当該少女の師匠として、辺境の村に身を隠して暮らしているのを、確認しました。




そう書く?




私は、ペンを置いた。


羊皮紙の上に、インクが、一滴、落ちた。


黒い、小さな染み。


私は、それを、しばらく見ていた。




──ベルナール卿は、これを読んで、なんと言うか。




ふと、ベルナール卿の執務室の窓の外で鳴っていた、午後の鐘の音を、思い出した。三つ鳴っていた。




あの鐘が鳴ったとき、私は、奥歯を噛んだ。


三男坊にはふさわしい辞令だ、と、思った。


無難という言葉に、笑った。




──いま、私は、何を、噛んでいるだろうか。




私は、ペンを、もう一度、手に取った。


羊皮紙のインクの染みを避けて、続けて書こうとした。




だが、書けなかった。




私は、結局、その夜、報告書を、書けなかった。




窓の外で、夜風が、ひとつ、吹いた。


森の奥のほうから、吹いてきた、風だった。




風のなかに、何かの、低い、唸り声が、混じった気がした。




月狼の声に、似ていた。


だが、ガルの声ではなかった。




──別の、月狼?




私はその違和感を、たぶん、ガルが嗅ぎ取った違和感と、同じものを、感じた。




けれど、私には、それを、確かめる方法も、なかった。




私はただ、ペンを置いて、羽根布団のなかに、もぐり込んだ。




客間の天井を、見上げた。




ヴァレンタイン家の三男坊として、私は、たぶん、今夜、何かを、失った。


何かを失った代わりに、何かを、得たのか。


それは、まだ、わからなかった。




──いま思えば、あの夜、私の人生は、確かに、別の場所に、橋を渡し始めていた。




だが、それを、私が言葉にできるようになるのは、もっと、ずっと、先のことだ。




私は、目を閉じた。


夜風が、もう一度、吹いた。




森の、ずっと奥から。




何かが、近づいてくる気配を、私は、たぶん、その夜、初めて、騎士としてではなく、ただの人間として、感じ取っていた。

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