第1章「辺境の朝、新魔法を発明したい幼女」
第1章「辺境の朝、新魔法を発明したい幼女」
朝の光が、まだ青い。
グリモワール村の朝は、鶏が鳴くより先に、境界の森のほうから始まる。森のずっと奥、人の足では何日も歩かなければたどり着けない深いところで、夜のあいだ起きていた魔物たちが、ねぐらに帰っていく。その気配が、風に乗って里まで届く。
ほかの里の人間には、わからないことらしい。
けれどアルマには、はっきりとわかった。
「おはよう、みんな。今日もよく眠れた?」
六歳のアルマ・グリモワールは、寝間着のまま窓を開けて、誰にともなくそう言った。返事をするのは、風だけだ。でもアルマは満足そうにうなずいて、窓を閉める。森の奥のあの子たちは、ちゃんと眠れたみたいだった。風の匂いでわかる。
階段を下りていくと、台所のほうから、いい匂いがした。
「アルマちゃん、起きたの? おはよう」
母のアニエスが、鍋をかき混ぜながら振り返る。里でただ一人の治癒士で、朝から晩まで誰かしらの手当てに追われている母だけれど、朝のこの時間だけは、ちゃんと家族のために台所に立っていた。
「おはようございます、お母さん。今日はキノコのスープですね」
「あら、まだ蓋も開けてないのに、よくわかったわね」
「だって、匂いがちょっと甘いから。森の北側のキノコでしょう? あれは日が当たる時間が長いから、ほかのより甘くなるんです」
アニエスは、おたまを持ったまま、ほんの少しだけ手を止めた。
──この子は、いつもそうだ。
森の北と南でキノコの味が違うことなんて、里の大人だって意識しない。けれどアルマは、それを当たり前のように口にする。まるで、世界のすべてに名前と理由がついていて、それが全部見えているみたいに。
でもアニエスは、そのことを口には出さない。出してしまったら、この子が「自分は普通じゃない」と気づいてしまうかもしれないから。アルマはアルマのままでいい。母はそう思っている。
「ほら、座って。お父さんとお兄ちゃんはもう畑に出てるから、先に食べちゃいなさい」
「はぁい」
食卓につくと、足元で、低い唸り声がした。
ガル、である。
銀色の毛並みをした、大きな狼。大人の番犬の二倍はある体を、ぴったりとアルマの椅子の脚に寄せて、眠そうな目でこちらを見上げている。月狼──ルナ・ウルフ族の生き残りだ。三年前、群れからはぐれて境界の森でうずくまっていたところを、当時三歳だったアルマが見つけて、里に連れて帰ってきた。
普通なら、魔物を里に入れたりしない。けれどガルは、アルマにだけは決して牙を剥かなかったし、アルマもまた、ガルの言葉を最初から理解していた。
「ガル、おはよう。よく眠れた?」
「……ガウ」
「そっか。森の奥が、ちょっと騒がしかったんだ。うん、私もそんな気がしてた」
アルマは当たり前のようにそう返して、スープを一口すする。
アニエスは、それを聞きながら、また少しだけ手を止めた。
娘が、狼と、会話をしている。
三歳のころからずっと見てきた光景なのに、いまだに慣れない。けれど、それもまた、口には出さない。
そこへ、外から元気な足音が飛び込んできた。
「ただいまー! あ、アルマ、もう起きてたんだ!」
兄のルカだった。十二歳。父について畑に出ていたのが、朝の水やりを終えて戻ってきたところだ。土で汚れた手を慌てて洗いながら、妹の隣にどさっと座る。
「お兄ちゃん、おはよう。手、洗うの雑です」
「うっ……バレた。でもいいんだよ、すぐご飯だし」
「だめです。ばい菌が入ったら、お母さんに治してもらうことになって、お母さんの仕事が増えます」
「うわ、正論……」
ルカは笑いながら、もう一度ちゃんと手を洗いに行った。
アルマには、こういうところがある。理屈がまっすぐで、嘘がない。六歳とは思えないほど物事の筋道が見えていて、でもそれを偉そうに振りかざすことは決してしない。ただ、当たり前のことを当たり前に言う。それだけだ。
ルカは、妹のそういうところが大好きだった。
──アルマは、すごい。
兄である自分よりも、ずっと頭がいい。たぶん、里の誰よりも。婆様が言うには、もしかしたら王都の偉い魔術師よりも。
でも、それでよかった。
ルカは、アルマがどれだけすごくなっても、アルマの兄ちゃんでいられれば、それで十分だと思っている。妹が笑っているなら、それでいい。
「ねえ、お兄ちゃん」
「ん? なに?」
「私ね、今日、新しい魔法を作ろうと思うんです」
ルカは、口に運びかけたパンを止めた。
「……また?」
「また、です。だって、まだ世界には、誰も作ってない魔法がいっぱいあるんですよ。もったいないでしょう?」
アルマの目が、きらきらと輝いていた。
魔法の話をするときの、アルマの目だ。
「火の魔法と水の魔法はあるのに、火と水を混ぜた魔法はないんです。光の魔法と治癒の魔法はあるのに、混ぜた魔法はないんです。どうしてみんな、別々のまま使うんでしょう。混ぜたら、もっとすごいことができるのに」
「えーと……それは、混ぜちゃいけない決まりがあるんじゃないの?」
「決まり?」
アルマは、本当に不思議そうに首を傾げた。
「魔法に、決まりなんてあるんですか? 魔法って、自分で作るものでしょう?」
ルカは、答えられなかった。
──ああ、また始まった。
妹は、ときどき、こういうことを言う。
世界の誰もが「そういうものだ」と思っていることを、根っこから「どうして?」とひっくり返してしまう。そしてたいてい、ひっくり返したほうが正しい。
「……うん。アルマがそう言うなら、きっとそうなんだろうな」
「えへへ。お兄ちゃんは、いつも私の味方ですね」
「当たり前だろ。兄ちゃんだぞ」
そのとき、玄関の戸が開いて、大柄な男が入ってきた。
父のガレリスだ。里長であり、若いころは王都で下級騎士をしていた男。日に焼けた腕には古い剣の傷がいくつも残っていて、それが彼の来歴を静かに物語っている。
「おう、アルマ。起きてたか」
「お父さん、おはようございます。畑、もう終わったんですか?」
「ああ。今日は早めに切り上げた。……ちょっと、里のほうで話がある」
ガレリスの声が、いつもより少しだけ硬い。
アルマは、その違いに気づいたけれど、何も言わなかった。大人が大人の声で話すときは、子どもがあれこれ聞かないほうがいい。それくらいの分別は、ちゃんとある。
「ねえお父さん、ご飯は?」
「……スープだけもらおう。アニエス、悪いな」
「はいはい。あなた、たまにはちゃんと座って食べてくださいね」
父と母が、小さな声で何か話している。
アルマには、その内容まではわからなかった。けれど、父の眉間に寄ったしわと、母が一瞬だけ見せた表情の硬さで、何か里にとって面倒なことが起きているらしい、ということは伝わってきた。
でも、アルマの頭の大半は、すでに別のことでいっぱいだった。
──火と治癒を、混ぜてみたい。
朝ごはんを食べ終えたら、森に行こう。ガルと一緒に。
今日こそ、新しい魔法を作るのだ。
「ごちそうさまでした! お母さん、おいしかったです!」
「あら、もう行くの? 気をつけてね。森の浅いところだけよ」
「はぁい。ガル、行こう」
「ガウ」
銀の狼が、のっそりと立ち上がる。
少女と狼は、朝の光のなかへ駆け出していった。
その背中を見送りながら、ガレリスはスープの椀を置いて、低く言った。
「……アニエス。王都から、騎士が来るらしい」
アニエスの手が、止まった。
境界の森は、アルマにとって、世界でいちばん楽しい場所だった。
里の大人たちは、森を怖がる。当たり前だ。森の奥には魔物がいて、人を襲うこともある。けれどアルマにとって、森は怖い場所ではなかった。むしろ、たくさんの「わからないこと」が転がっている、宝物みたいな場所だった。
「ガル、見て。この花、昨日より大きくなってます」
「ガフ」
「うん。きっと、昨日の雨で水をたくさん飲んだんですね。植物も、私たちと同じで、お腹がすくんだ」
アルマは、しゃがみこんで花を眺めながら、頭のなかで考えていた。
植物は水を飲む。人は水を飲む。魔物も水を飲む。
みんな同じものを使って生きているのに、魔法は、どうして「火の人」「水の人」と分かれてしまうのだろう。
──やっぱり、おかしい。
隣で、ガルがふと耳を立てた。
銀の狼の視線の先、低い茂みの根元に、小さな塊がうずくまっている。
「あ……小鳥さん」
それは、片方の翼を不自然に曲げた小鳥だった。
茶色い羽に、点々とした模様。よく見ると、翼の付け根のあたりが、赤黒く焼けただれている。
「やけど、してる。……どこかで火に触っちゃったのかな」
アルマは、そっと両手で小鳥を包んだ。
小鳥は弱々しく鳴いて、けれど逃げようとはしなかった。アルマの手のなかが、不思議と安心できるとでもいうように。
「お母さんなら、治せるんだけど。私、治癒の魔法、まだ上手にできないんです」
アルマは、治癒魔法を一応は使える。母のアニエスに教わったからだ。けれど、火傷の治癒は難しい。傷を塞ぐだけでは、焼けた皮膚の奥の熱が残ってしまって、うまく治らない。
「うーん」
アルマは、首をかしげた。
「やけどって、熱で傷ができるんですよね。だったら、傷を治すだけじゃなくて、熱もどうにかしないと、だめなんじゃないかな」
「ガウ?」
「えっとね、たとえば──」
アルマは、地面に指で、小さな円を描き始めた。
それは、母に教わった治癒の魔法陣だ。傷を癒やすための、ありふれた陣。けれどアルマは、その円のなかに、もうひとつ別の模様を描き足していった。
火の魔法陣。
本来は、何かを燃やすための陣。
「あのね、火の魔法って、熱を出すための魔法でしょう? でも、逆向きに使ったら、熱を吸い取れるんじゃないかなって、ずっと思ってたんです」
ガルは、首をかしげながらも、じっとアルマの手元を見ていた。
そして、何かを感じ取ったように、少女のそばに静かに伏せた。銀色の毛並みが、月のない朝の光のなかで、かすかに発光しているように見えた。
アルマは、それに気づかない。
「えーと、これと、これを、こう……混ぜたら……」
二つの魔法陣が、重なる。
火と、治癒。
本来、決して交わることのない、二つの系統。
「……こうなる、はずなんですけど」
アルマが、小鳥を陣の中央にそっと置いた。
「あ。たぶん、できました」
──次の瞬間、空気が変わった。
もし、その場に魔術師がいたなら、卒倒していたかもしれない。
アルマが描いた二重の魔法陣から、淡い橙色の光が、ゆっくりと立ちのぼった。
それは火の魔法特有の、荒々しい炎ではなかった。むしろ、夕暮れの残り火のような、優しい温度を持った光だった。
その光が、小鳥の傷をそっと包む。
焼けただれた翼の付け根から、目に見えない「熱」が、すうっと吸い出されていく。まるで、傷のなかに閉じ込められていた痛みが、光のなかに溶けていくように。
そして、熱が抜けたあとの傷口に、今度は治癒の光が満ちていく。
赤黒かった皮膚が、みるみるうちに、もとの色を取り戻していった。
ぴよ、と。
小鳥が、鳴いた。
さっきまでの弱々しい声ではない。元気な、生きものの声だ。
小鳥は、治ったばかりの翼を、おそるおそる動かして──そして、ぱたぱたと羽ばたいて、アルマの手のひらから飛び立った。
朝の光のなか、小鳥は、まっすぐ空へ昇っていく。
「……飛べた」
アルマは、それを見上げて、にっこりと笑った。
「やっぱり、できた。火と治癒を混ぜたら、やけどが治せるんだ」
そして、まるで今日の天気の話でもするように、ぽつりと言った。
「この魔法、なんて呼ぼうかな。……炎の癒やしだから、炎癒、でいいかな」
ガルが、ゆっくりと顔を上げた。
銀の狼の喉から、低く、長い声が漏れる。それは唸り声ではなかった。もっと別の──畏れにも、喜びにも似た、何かだった。
月狼の一族は、知っている。
魔法というものが、どれほど厳格な「決まり」のうえに成り立っているか。火は火、水は水。それを混ぜるなど、本来、あってはならないことだ。森の奥に棲む長老格の魔物でさえ、それは「触れてはならぬ領域」だと語り継いでいる。
それを、この小さな人間の子は。
朝の散歩のついでに、片手間で、やってのけた。
「ガル? どうしたの。お腹すいた?」
何も知らないアルマが、無邪気に首をかしげる。
ガルは、答えなかった。
ただ、鼻先で、そっとアルマの頬を撫でた。
「えへへ、くすぐったいです」
少女は笑った。
銀の狼は、もう一度、空を見上げた。さっき飛び立った小鳥は、もうどこにも見えない。けれど、その傷が確かに癒えたことを、ガルは知っている。
──この子は、いったい、何なのだろう。
ガルにも、それはわからなかった。
ただひとつ、わかっていることがある。
この子のそばにいると、世界が、少しずつ、いつもと違う場所になっていく。それは、怖いことではなかった。むしろ、わくわくすることだった。
「さ、ガル。お婆ちゃんのところに行こう。今日のこと、報告しなくちゃ」
「ガウ」
少女と狼は、また歩き出した。
治ったばかりの傷も、生まれたばかりの魔法も、なにひとつ特別なことではないという顔をして。
ハーミーネ・グリモワールの書斎は、本の匂いがした。
古い紙と、乾いた革と、ほんの少しの埃。里のはずれにぽつんと建つ小さな小屋のなかは、天井まで届く棚に、ぎっしりと本が詰まっている。羊皮紙の巻物、革表紙の分厚い書物、紐で綴じられただけの研究ノート。どれも、王都の図書館でさえ滅多にお目にかかれない代物ばかりだ。
もっとも、それを知る者は、この里にはいない。
ハーミーネ自身を除いて。
「お婆ちゃん、来ました!」
戸を開けて飛び込んできたアルマを、暖炉のそばの揺り椅子に座った老婆が、しわだらけの目を細めて迎えた。
「おお、アルマや。今日も早いのう」
ハーミーネ・グリモワール。
推定八十代。背は曲がり、髪は雪のように白い。けれど、その瞳の奥には、長い年月をくぐり抜けてきた者だけが持つ、静かで深い光が宿っている。
アルマは、毎日この書斎に通って、ハーミーネから魔法を学んでいた。
もっとも、最近は、教わることよりも、報告することのほうが多くなっていたが。
「あのね、お婆ちゃん。今日、新しい魔法を作ったんです」
「ほう」
ハーミーネは、急須を傾けて、二つの椀に茶を注いだ。一つはアルマのために、ぬるめに。
「どんな魔法じゃ。聞かせておくれ」
「やけどを治す魔法です。火の魔法陣と、治癒の魔法陣を、混ぜました。火で熱を吸い取って、それから治癒で傷を塞ぐんです。炎癒って名前をつけました」
老婆は、茶を一口すすった。
そして、ゆっくりと、本当にゆっくりと、椀を膝に下ろした。
「……火と、治癒を、混ぜた、と」
「はい」
「系統の違う二つの魔法陣を、同時に、安定して、起動させた、と」
「えっと……はい。むずかしかったですか?」
アルマは、不安そうに聞いた。
ハーミーネがあまりに静かなので、何か間違ったことをしてしまったのかと思ったのだ。
ハーミーネは、しばらく黙っていた。
暖炉の薪が、ぱちりと爆ぜる音だけが、書斎に響く。
──複合魔法。
老婆の頭のなかを、その言葉がよぎっていた。
系統の異なる魔法を組み合わせる技術。それは、王都の宮廷魔導師団が何百年もかけて研究し、それでもなお、歴史上わずか三人しか成功例のない、魔法の最高峰だ。
そのうちの一人が、目の前にいる老婆自身であることを、アルマは知らない。
「アルマや」
「はい?」
「お主は、その魔法を作るとき、誰かに『こうしなさい』と教わったかえ?」
「いいえ。誰も。だって、誰も作ったことがない魔法だから、教われないでしょう?」
アルマは、当然のことのように答えた。
ハーミーネの胸の奥で、何かが、ふるえた。
──ああ。
この子は、本当に。
老婆は、若いころ、宮廷で同じことを言った。
「魔法は、覚えるものではない。創造するものだ」と。
宮廷の老人たちは、それを苦々しく聞いていたものだ。「魔法は神聖な体系である。それを勝手に作り変えるなど、過ぎたことだ」と。けれど、本当のところ、ハーミーネを宮廷から追いやったのは、そんな思想の対立などではなかった。
けれど、この子は。
そんな宮廷の事情も、儂の背負ったものも知らずに、ただ「作れるから作った」という顔をして、そこに座っている。
「アルマや」
ハーミーネは、茶をもう一口すすってから、静かに言った。
「よいか。覚えておきなさい。魔法とは、覚えるものではない。創造するものじゃ」
「創造?」
「うむ。本に書いてある魔法を、そのまま使うだけの者は、たくさんおる。じゃが、本に書いていない魔法を、自分の手で生み出す者は、ほとんどおらん。お主は、その『ほとんどおらん者』なのじゃよ」
「……でも、私、別に特別なことをしてるつもりはないんです。ただ、混ぜたら面白そうだなって思って、混ぜただけで」
「それでよい」
ハーミーネは、笑った。
しわだらけの顔が、くしゃりと優しくなる。
「面白そうだから作る。それが、いちばん正しい魔法の作り方じゃ。理由など、それで十分」
「えへへ。お婆ちゃんにそう言ってもらえると、嬉しいです」
アルマは、ぬるい茶を、こくこくと飲んだ。
ハーミーネは、その様子を眺めながら、心のなかで、そっとつぶやいた。
──この子の魔法は、誰のものでもない。お主だけのものじゃ。
──じゃからこそ、儂は、お主を守らねばならん。
──あの宮廷の連中に、見つかる前に。
老婆の脳裏に、遠い過去の記憶がよぎる。
宮廷を追われた、本当の理由。
──火と闇を混ぜて、人を殺す魔法を。
そう言って近づいてきた者たちがいた。彼らは言った。「お前の理論があれば、もっと強い魔法が作れる」と。
ハーミーネは、それを拒んだ。すべてを捨てて、この辺境に逃げてきた。
もう、誰にも、魔法を兵器になど使わせない。
そう誓って。
──じゃが。
老婆は、目の前で無邪気に茶を飲む少女を見て、かすかに眉を寄せた。
この子の才能は、儂などとは、比べものにならぬ。
もし、この子の存在が、あの連中に知られたら。
「お婆ちゃん? どうしたの。怖い顔してます」
「……いや。なんでもないわ。年寄りは、すぐ昔のことを思い出すものでな」
「昔のこと?」
「うむ。儂にも、若いころがあったということじゃよ」
ハーミーネは、それ以上は語らなかった。
アルマも、深くは聞かなかった。
ただ、書斎の隅に積まれた古い研究ノートの背表紙を、アルマはちらりと見た。
そこには、見たことのない文字で、何かが書かれている。
──あのノート、いつか読ませてもらえるかな。
アルマは、そう思った。
それが、ずっと先の、世界を揺るがす出来事につながっているとは、まだ知らずに。
里の広場に、人が集まっていた。
アルマがハーミーネの書斎を出て、ガルと一緒に里の中心まで戻ってくると、広場の井戸のまわりに、大人たちが固まって、何やら深刻そうに話し込んでいる。その輪の中心に、父のガレリスがいた。
「アルマ。ちょうどよかった。お前も聞いておけ」
ガレリスが、娘を手招きした。
広場の真ん中には、見慣れない男が一人、立っている。旅装の上に、王都の紋章をあしらった外套を羽織った、若い男だ。伝令だろう。馬を引いて、土埃にまみれている。
「もう一度、言ってもらえるか」
ガレリスが、伝令にそう促した。
伝令の男は、少し疲れた顔で、しかし役目を果たすように、声を張った。
「はっ。王都・第三騎士団より、辺境視察のため、騎士一名を派遣する。グリモワール村は、王都より最も遠い辺境集落の一つであり、近年の魔物の動向について、実地の調査が必要との判断である。──以上が、騎士団からの通達であります」
大人たちが、ざわついた。
「視察、だと?」
「今さら、何のために」
「魔物の被害を訴えても、これまで一度だって応えてくれなかったくせに」
里民たちの声には、隠しきれない不信が滲んでいた。
それも、無理はない。
グリモワール村は、これまで何度も、王都に救援を求めてきた。魔物が里の近くまで出てきたとき。畑が荒らされたとき。けれど、王都からの返事は、いつも同じだった。「辺境のことは、辺境で対処せよ」。
助けが来たためしなど、一度もなかった。
それが、今になって、視察の騎士を寄越すという。
「ガレリスさん。あんた、どう思う」
里の年寄りの一人が、ガレリスに問うた。
元下級騎士であり、王都の事情を多少なりとも知るガレリスの意見を、里の者たちは頼りにしていた。
ガレリスは、腕を組んで、低く唸った。
「……正直、いい話だとは思えん」
「やはりか」
「王都の連中が、辺境のために動くなんてことは、まずない。動くとしたら、それは辺境のためじゃなく、王都の都合のためだ。何か、こっちの知らない事情があるんだろう」
ガレリスは、若いころ王都で見てきた。
貴族たちが、いかに辺境を軽んじているか。騎士団が、いかに功績と保身ばかりを気にしているか。辺境の民の命など、彼らにとっては、地図の上の小さな点でしかない。
だからこそ、王都を捨てて、この里に帰ってきた。
ここには、地図の点ではない、生身の人間たちの暮らしがある。
「とにかく、騎士が来るなら、迎える。だが、警戒は怠るな。王都の人間が口にする『お前たちのため』ほど、信用ならんものはない」
ガレリスの言葉に、里民たちは、重々しくうなずいた。
その輪のなかで、アルマは、一人、不思議そうに首をかしげていた。
──騎士さん、何しに来るんだろう。
アルマには、大人たちが、なぜこんなに難しい顔をしているのか、いまひとつわからなかった。お客さんが来るなら、もてなせばいい。魔物のことを調べに来るなら、自分が知っていることを教えてあげればいい。森の奥の魔物たちは、本当は、そんなに怖いものではないのだから。
でも、アルマは、それを口には出さなかった。
大人が大人の声で話しているときは、子どもがあれこれ言わないほうがいい。それくらいの分別は、ちゃんとある。
ただ、ひとつだけ、気になることがあった。
「お父さん」
「ん? なんだ、アルマ」
「その騎士さんは、魔法のこと、詳しい人ですか?」
ガレリスは、少し面食らった。
「……さあな。王都の騎士なら、魔法学院を出ているかもしれん。それがどうした」
「だったら、いいなって思って。私の作った魔法、見てもらえるかも」
アルマの目が、また、きらきらと輝き始める。
「炎癒も、温泉の魔法も、まだ誰にも見せたことないんです。お婆ちゃんとガルにしか。王都の騎士さんなら、たくさん魔法を知ってるから、私の魔法のこと、面白いって言ってくれるかもしれません」
ガレリスは、娘の無邪気な笑顔を見て、思わず苦笑した。
──そうだな。
──お前にとっては、騎士が来ることも、新しい魔法を見てもらえる機会、というだけのことなんだろう。
王都の思惑も、騎士団の打算も、貴族の傲慢も。
この子には、まだ関係のないことだ。
そして、できることなら、ずっと関係ないままでいてほしい。
父は、そう願った。
けれど、ガレリスは、まだ知らない。
この娘の作る魔法が、王都の常識を根こそぎ覆し、騎士団を、貴族を、宮廷を、丸ごと揺るがすことになるなど。
「……アルマ。あんまり、はりきりすぎるなよ」
「はぁい!」
元気な返事が、夕暮れの広場に響いた。
西の空が、橙色に染まり始めている。
伝令の男は、その日のうちに里を発っていった。
騎士が来るのは、明日だという。
夜が来た。
グリモワール村の夜は、深い。
街の明かりも、行き交う人もない辺境の里では、日が沈めば、世界は星と月だけのものになる。アルマの部屋の小さな窓からも、こぼれそうなほどの星空が見えた。
アルマは、寝間着に着替えて、ベッドのなかで膝を抱えていた。
足元には、いつものように、ガルが丸くなっている。銀色の毛並みが、窓から差し込む月明かりを受けて、ほのかに光っていた。
「ガル。今日は、楽しい一日でしたね」
「ガウ」
「小鳥さんの傷を治せたし、新しい魔法も作れたし、お婆ちゃんに褒めてもらえたし。それから、明日は、王都の騎士さんが来るんですって」
アルマは、ガルの背中に、ぽすんと顔をうずめた。
ふわふわの毛が、頬に心地いい。月狼の毛は、夜になると少しだけ温かくなる。それはたぶん、月の光を浴びているからだ、とアルマは思っている。
「ねえ、ガル。私、明日が楽しみなんです」
「ガフ?」
「だって、王都の騎士さんは、きっと、私の知らない魔法をたくさん知ってます。それを教えてもらえたら、また新しい魔法が作れるかもしれない。火と治癒を混ぜられたんだから、ほかにも、もっといろんな組み合わせがあるはずなんです」
アルマの声が、だんだん、ゆっくりになっていく。
一日たくさん遊んで、たくさん考えて、もう眠たいのだ。
「水と……風を混ぜたら……どうなるかな……雨、降らせられるかな……」
「……ガウ」
「光と……闇を混ぜたら……あれ、それは……むずかしいか……な……」
言葉が、寝息に変わっていく。
ガルは、眠りに落ちた少女の寝顔を、じっと見つめた。
銀の狼の胸のなかには、言葉にできない、温かい何かが満ちていた。
この子は、知らない。
自分が、どれほど特別な存在なのか。
自分の作る魔法が、世界の何を変えてしまうのか。
そして、それでいいのだ、とガルは思う。
この子は、ただ、新しい魔法を作りたいだけ。
その純粋な願いのままに、世界が騒がしくなっていくとしても──それは、この子のせいではない。
ガルは、そっと、アルマの体に身を寄せた。
月狼の温かい毛が、少女を毛布のように包む。
窓の外で、夜風が、森の奥のほうから吹いてきた。
その風のなかに、ガルは、かすかな違和感を嗅ぎ取った。
森の、ずっと奥。普段とは違う、何かの気配。
──まだ、遠い。
──だが、近づいている。
けれど今夜は、まだ、その正体はわからない。
ガルは、耳を一度だけぴくりと動かして、それから、眠る少女のそばで、静かに目を閉じた。
明日、騎士が来る。
辺境のグリモワール村に、王都の風が吹き込んでくる。
そして、この小さな少女が、その風を、嵐に変えていくことになる。
──まだ、誰も、それを知らない。




