第16章「異端審問グリモワール村」
午後1時、グリモワール村の中央広場。
広場の中央に教会の白い天幕が移されて、円形の審問場が設営されていた。
天幕の前に長い卓が置かれていた。
卓の上に革表紙の聖典と銀の聖印と白い羊皮紙が並んでいた。
円形の審問場の外側を30騎の聖騎士が銀の鎧で囲んでいた。
そして円形の審問場の内側に4つの椅子が並べられていた。
4つの椅子にガレリスとハーミーネとセオドアが座っていた。
そしていちばん左の椅子にアルマが座っていた。
アルマの足元にガルが銀の毛並みをまっすぐにして座っていた。
審問場の外に里民が集まっていた。
50軒の家からほぼ全員が出てきていた。
けれど彼らは聖騎士団の銀の鎧の壁に阻まれて、審問場の中には入れなかった。
里民の中でいちばん前に母アニエスと兄ルカが立っていた。
アニエスは両手でルカの肩をしっかり握っていた。
正装したルナ・グランディスが卓の前に立った。
濃い灰色のローブの上に白の祭祀用ローブを重ねていた。
腰の銀の聖印には紫の宝石が嵌め込まれていた。
――正式な異端審問の祭服だった。
ルナの隣に副官の若い神官が立っていた。
副官の手は革表紙の召喚状を握っていた。
その手はわずかに震えていた。
「召喚状を読み上げよ」
ルナが低く副官に命じた。
副官は頷いた。
それから召喚状を開いた。
「王国教会・異端審問団より、グリモワール村の住民3名に召喚を申し渡す」
副官の若い神官の声はわずかに震えていた。
けれど彼はそれを押し殺して続けた。
「一、アルマ・グリモワール、6歳。罪状――月狼を家族として扱い、教会の教義に反したこと。
二、月狼ガル、推定8歳。罪状――人間との家族関係を装い、教会の魔物討伐令に反したこと。
三、ハーミーネ・グリモワール、推定80代後半。罪状――40年前、宮廷魔導師団からの追放命令に反した逃亡の継続」
里民の中で白髪の老婆が声を上げた。
「逃亡の継続!? ハーミーネ殿は40年、ここで平和にお暮らしになっていたんだよ!」
「黙れ!」
聖騎士のひとりが低く怒鳴った。
ガレリスが椅子から立ち上がりかけた。
ハーミーネが手で軽くそれを制した。
「ガレリスや。――まだじゃ」
「ええ」
ガレリスは座り直した。
ルナが続けた。
「以上3名の罪状について、本日ここに異端審問を開廷する。――3名はそれぞれ、罪状を認めるか否認するか、答えなさい」
ルナの視線がまずハーミーネに向いた。
「ハーミーネ・グリモワール殿。――罪状を認めるか、否認するか」
ハーミーネがしわだらけの顔を上げた。
そしてゆっくり口を開いた。
「ルナ殿。――まずひとつ訂正させていただこう」
「うむ」
「儂は40年前、宮廷魔導師団から追放されたのではない」
「では何だ」
「儂は宮廷魔導師団から逃げたのじゃ。――彼らが儂を殺そうとしたからじゃ」
円形の審問場の中の空気が止まった。
里民の中でざわめきが起きた。
副官の若い神官が唇を噛んだ。
ルナの顔の頬の筋肉がわずかに動いた。
「ハーミーネ殿。――それは宮廷魔導師団に対する重大な告発だ」
「うむ」
「証拠はあるか」
「ある」
「では述べなさい」
「儂が40年前、宮廷魔導師団の長老会で声を上げた、その時の会議の議事録じゃ」
「議事録は宮廷魔導師団の機密文書だ。――我々が出さねば出ない」
「うむ。――じゃが儂は出させる手段を持っておる」
ハーミーネはしわだらけの目を細めた。
「儂は40年前、その議事録の写しをある人物に託した。――その人物は今日、もうすぐここに到着する」
「誰だ」
「神聖聖法国・聖アルベリック修道院・若き枢機卿、カミラ・ド・ノーチェ猊下のお母上、レオノーラ猊下じゃ」
ルナの頬の筋肉が止まった。
副官の若い神官は目を見開いた。
――神聖聖法国の枢機卿のお母上。
それは教会本部の最高位のひとりであった。
「レオノーラ殿は8年前に亡くなっておる。――じゃが彼女は議事録の写しを娘のカミラ猊下に遺された」
ルナが低く息を吐いた。
「ハーミーネ殿。――貴殿は40年、その日を待っておったと申されるか」
「うむ。――40年待った。――そしていま、その日が来た」
ルナはしばらく答えなかった。
それからゆっくり口を開いた。
「結構。――ハーミーネ殿の答弁は聞き取った。次は――」
ルナの視線がアルマに向いた。
「アルマ・グリモワール、6歳。――罪状を認めるか、否認するか」
アルマはガレリスをちらりと見上げた。
ガレリスが頷いた。
アルマは椅子から降りた。
それからルナの前にまっすぐ立った。
「ルナさん。――私、罪状認めません」
「否認ということか」
「はい。――私はガルを家族として扱ってます。それは教会の教義に反するかもしれないけど、罪じゃないです」
「教義に反すればそれが罪となる。――6歳の君にはまだわからないかもしれぬが」
「分かります。――でもガルは悪いことをしていません」
「月狼が人間の家族と家族関係を結ぶことが教会の教義に反する。――それが月狼の罪だ」
アルマはしばらくルナをまっすぐ見上げた。
ルナが続けた。
「アルマ――月狼ガルは悪魔の使いだ。教会はそれを悪魔の使いとして討伐する」
ガルが足元で低く唸った。
「ガフ」
――ガル、しずかに
「ガフ」
――しずかにしておる
◆
アルマはガルの首に手を当てた。
それからルナを見上げた。
彼女の紫水晶の瞳がいつもとはちがう光を宿していた。
それは無邪気な好奇心の光ではなかった。
新しい魔法を思いついた時の光でもなかった。
それは――怒りの光だった。
アルマは6歳で初めて怒っていた。
「ルナさん」
「うむ」
「ルナさんがガルを悪魔の使いだっておっしゃるのは、ルナさんのご自由です」
「うむ」
「でもガルを討伐するっていうのは、ちがいます」
「アルマ・グリモワール。――君がなぜちがうと断言できる」
「ガルは私の家族です」
アルマの声は静かだった。
けれどその静けさのいちばん奥に、はっきりとした揺るがない何かがあった。
「ガルは私の家族です」
アルマはもう一度はっきりと言った。
「ガルは3年前から、私とずっと一緒に暮らしてきました。私がご飯を食べる時、ガルも一緒に食べました。私が泣いた時、ガルが私の頬を舐めてくれました。私が新しい魔法を思いつく時、いちばん最初に聞いてくれるのはガルです。私が怖い時、ガルが私を守ってくれます」
ルナは答えなかった。
「私のお父さんとお母さんとお兄ちゃんと、お婆ちゃんと、それからガル。――ぜんぶ私の家族です」
「アルマ――」
「ルナさんがガルを討伐するというのは、私の家族を討伐するということです」
「アルマ――」
「私は私の家族を守ります」
審問場の外の里民がしんとなった。
副官の若い神官が唇を噛んだ。
彼の唇はいまわずかに震えていた。
ルナはしばらくアルマを見ていた。
それから低く口を開いた。
「アルマ・グリモワール。――家族の定義は人間と人間の間のものだ。月狼は家族の対象ではない」
「ルナさん」
「うむ」
「家族の定義は誰が決めたんですか?」
「教会の千年の知恵だ」
「教会本部は人ですか? それとも本ですか?」
審問場の中で副官の若い神官がはっきりと息を呑んだ。
ルナの頬の筋肉がまた止まった。
「アルマ・グリモワール。――昨日も同じ質問をしたな」
「はい。――昨日ルナさんの答えを聞いてないので、もう一度お聞きします」
「教会本部は千年の知恵を束ねた機関だ」
「機関?」
「うむ」
「機関って人ですか? それとも本ですか?」
副官の若い神官の唇が震えていた。
彼はもう笑いをこらえているわけではなかった。
彼はただ、何かが自分の中で崩れていることをこらえていた。
ルナが低く答えた。
「アルマ。――機関とは人と本と規則と伝統の総体である」
「それを決めた人、誰ですか?」
「アルマ。質問は繰り返している」
「繰り返してます。――ルナさんが答えてくださらないから」
「アルマ――」
「私の家族を討伐すると決めた人を、私、知りたいです」
ルナはしばらく答えなかった。
それから低く息を吐いた。
「アルマ・グリモワール。――君は教会の最大の敵だ」
「私、敵じゃないです。――私、ただガルが家族だって言ってるだけです」
「それが敵となる」
「ルナさん」
「うむ」
「ルナさんがガルを討伐したいのは、ルナさんが教会のお仕事として決められたからですよね?」
「うむ」
「ルナさんご自身はガルを討伐したいと思ってますか?」
ルナの頬の筋肉が止まった。
今度は長く止まった。
副官の若い神官の両手が震えていた。
「アルマ――」
「ルナさんは40年前から、伯父さんの怨念を引き継いでるっておっしゃいました」
「うむ」
「私、それ聞いた時、ルナさんは伯父さんを忘れないために怨念を続けてるんだと思いました」
「うむ」
「底にルナさんがご自身の心でガルを討伐したいと思ってないなら、伯父さんは悲しむと思います」
ルナの目が止まった。
――アルマのその言葉。
それは45年のルナの人生で、誰かが彼女に初めて向けた言葉だった。
『ご自身の心で思ってないなら』
伯父の怨念を引き継ぐということと、自分の心で別に考えるということは、いままでルナの中で結びつかなかった。
◆
ルナが長く沈黙した。
副官の若い神官が両手で口を押さえた。
彼の口の中で何かが湧き上がってきていた。
――それはたぶん自分の答えだった。
審問場の外の里民が皆、息を止めていた。
アニエスがルカの肩を握る両手が震えていた。
そのときハーミーネがゆっくりと椅子から立ち上がった。
「ルナ殿」
ハーミーネの声は静かだった。
「うむ」
「儂が申し上げたいことがある」
「述べなさい」
ハーミーネが円形の審問場の中央にゆっくり歩いた。
そしてルナの前に立った。
「ルナ殿」
「うむ」
「あなたの伯父エドガー・グランディスは40年前、宮廷魔導師団の第一席であった」
「うむ」
「そして第一席であった彼が儂を消そうとした」
「うむ」
「儂が彼に提案した複合魔法の理論は当時の宮廷では画期的なものであった。――じゃが彼はそれを人を殺すための魔法に応用しようとした」
「うむ」
「儂はそれを拒んだ。彼は儂を消そうとした。儂は逃げた」
「うむ」
「40年、儂は辺境にいた」
「うむ」
ハーミーネはしばらく沈黙した。
それから低く続けた。
「ルナ殿。――40年前のエドガー・グランディスの本当の目的をご存じか」
「儂は宮廷の機密を知らされておらぬ」
「では儂がお教えしよう」
ハーミーネはしわだらけの目を細めた。
「エドガー・グランディスは月狼族の谷の、月狼の心を書き換える技術の開発を目指しておった」
ルナの目が止まった。
「いま何と申された?」
「月狼の心を書き換える技術じゃ。――そしてその技術は月狼から人間にも応用できる技術じゃった」
「ハーミーネ殿。――それは宮廷魔導師団の機密だ。あなたがそれを知っているということは――」
「儂はその機密文書の写しも持っておる。――同じくレオノーラ猊下に託した」
ルナの頬の筋肉が止まった。
「ルナ殿。あなたの伯父エドガー・グランディスは人の心を書き換える技術を目指した男じゃ」
「――」
「そしてその技術は40年経ったいま、月狼族の谷でほぼ完成しつつある。――シルヴェという月狼の幼子がその技術の被害者として辺境にたどり着いた。儂たちはその幼子を書き換えの途中で救い出した」
「シルヴェ――月狼の子? 月狼がもう一頭いるのか」
ルナの視線がガレリスに向いた。
それから家の方向に向いた。
「ガレリス殿。――月狼がもう一頭いるというのは真か」
ガレリスが答えなかった。
ハーミーネが答えた。
「真じゃ。――ただしその子はルクス・ノクテの実験の被害者で、命を救われた子じゃ。――貴殿の伯父御の後継者たちが行っている実験じゃ」
ルナはしばらく答えなかった。
それから低く口を開いた。
「ハーミーネ殿。――あなたは私を揺さぶろうとしている」
「いいや。――貴殿に事実を申し上げておる」
「事実ですか」
「うむ」
「ではお伺いする。――そのルクス・ノクテとはいったい何者だ」
「お主が考えておるよりも、お主のすぐそばにおる組織じゃ」
「私のすぐそばに?」
「うむ」
ハーミーネはしわだらけの目をルナの目にまっすぐ向けた。
◆
「ルナ殿。――貴殿が本日グリモワール村に来たその背後に、教会本部から直接の命令があったはずじゃ」
「うむ」
「その命令を出した人物は誰じゃ」
「教会本部の上席神官、ベルナルド殿」
「ベルナルド殿は貴殿の伯父御と若い頃、宮廷魔導師団で同期じゃった」
ルナの頬の筋肉が止まった。
「――ハーミーネ殿。それは偶然では――」
「偶然ではない。ベルナルド殿がルクス・ノクテの教会内の連絡役じゃ」
円形の審問場の外の里民がしんとなった。
副官の若い神官の両手の震えが止まった。
ルナが低く息を吐いた。
「ハーミーネ殿。――証拠はあるか」
「ある。――同じくレオノーラ猊下に託した。――カミラ猊下がもうすぐ到着する。――その時すべての証拠が出る」
ルナはしばらく答えなかった。
それから低く副官に目で合図した。
「副官」
「は」
「審問を中断する」
「審問官殿?」
「中断する。――カミラ猊下の到着まで待つ」
「は――」
副官は頷いた。
そして心の中でひそかにつぶやいた。
――審問官殿、ご決断ありがとうございます。
――私は今日、何かを間違えるかもしれぬと思っていたが、間違えずに済んだ。
そのとき聖騎士団の円形の外側で声が上がった。
「閣下! 街道から別の馬車が来ます!」
ルナと副官が振り返った。
辺境街道の方角から青い馬車が進んできていた。
馬車の屋根の上に2本の旗がはためいていた。
1本は神聖聖法国の聖アルベリック修道院の白い紋章の青い旗。
もう1本はヴェルダンス公爵家の家紋の赤い旗。
――2本の旗が並んで、はためいていた。
馬車は聖騎士団の銀の鎧の壁の前で止まった。
戸が内側から開いた。
ひとりの若い女性が降りた。
21歳。
銀の髪を後ろで軽く束ねていた。
青いローブの上に白の祭祀用ローブを重ねていた。
腰の銀の聖印には青い宝石が嵌め込まれていた。
――カミラの枢機卿としての正装だった。
カミラ・ド・ノーチェ。
神聖聖法国・聖アルベリック修道院・若き枢機卿。
そしてその後ろからヴェルダンス公爵の家臣、リカルドの上司にあたる家令長が降りた。
「ヴェルダンス公爵閣下より、ご挨拶をお持ちいたしました」
家令長がルナに深く頭を下げた。
そして革表紙の書状を差し出した。
副官がそれを受け取った。
ルナは書状をひらいて読んだ。
『王国教会・異端審問団・団長、ルナ・グランディス殿へ。
本書状をもってヴェルダンス領主、シャルル・ド・ヴェルダンスより、貴殿に要請申し上げます。
一、本日の異端審問をただちに中止されたし。
二、王立法務本部よりヤンセン法務官の調査開始の命令書が本日、貴殿の所属する王国教会本部に送達された。これにより貴殿の領内捕縛権限は本日、無効となる。
三、上記貴殿の王国教会本部上席神官ベルナルド殿の捕縛命令も王立法務本部の調査対象に含まれる。
ご対応をよろしくお願いいたします。
ヴェルダンス領主シャルル・ド・ヴェルダンス』
ルナは書状を読み終わった。
それからゆっくり書状をたたんだ。
そしてカミラ・ド・ノーチェ枢機卿を見た。
「カミラ猊下」
「ルナ殿」
カミラの声は若かった。
けれどその声の奥にはっきりとした知性と深い覚悟が宿っていた。
「私は本日、神聖聖法国・聖アルベリック修道院・若き枢機卿カミラ・ド・ノーチェとしてここに来ました。――私の母レオノーラ猊下から託された文書をお持ちしました」
「うむ」
「本日の異端審問の議題に関係する、40年前の宮廷魔導師団の議事録の写し。――さらにハーミーネ殿が40年前にお書きになった複合魔法の理論書、原本。――そしてエドガー・グランディス殿が40年前にお書きになった、月狼族の谷の調査記録、写し」
ルナの目が止まった。
「ご家族の伯父御の調査記録、写し」
「は――」
「ルナ殿。――私は貴殿の伯父御のお名前を否定する目的でここに来たのではありません」
「ではなぜ」
「教会は神に仕えるべきです。――教義に仕えるべきではありません」
ルナがしばらく答えなかった。
「教義に仕えるということは、しばしば人を神から引き剥がすということになります」
「うむ」
「私は本日、教会の若き枢機卿として貴殿に申し上げます。――本日の異端審問は教会のお仕事として不適切です。――貴殿の伯父御を悼む心と教会のお仕事は別のものです」
副官の若い神官が息を漏らした。
彼の唇はもう震えていなかった。
彼はただ安堵していた。
ルナはしばらくカミラを見ていた。
それからゆっくり頷いた。
「カミラ猊下」
「うむ」
「私は本日の異端審問を中止します」
「うむ」
「ハーミーネ・グリモワール殿、アルマ・グリモワール嬢、月狼ガル。――3名を解放します」
ガレリスが深く息を吐いた。
セオドアが頬の筋肉を緩めた。
ハーミーネがしわだらけの目を細めた。
里民の中でアニエスが両手を口に押し当てた。
ルカが剣の柄から手を離した。
そしてアルマがぱちぱちと瞬きをした。
それからにこっと笑った。
「ルナさん、ありがとうございます」
「アルマ・グリモワール」
「はい」
「君は――」
ルナはしばらく答えに迷った。
それから低く低く答えた。
「君は私の伯父御のお悔やみを、誰よりも深く述べてくれた子だ」
「えっ?」
「君が私に、伯父御は悲しむと言ってくれた。――私は45年、伯父御の悲しみを考えたことがなかった」
ルナはふっと息を吐いた。
「いま私は伯父御の悲しみを初めて考えている」
「ルナさん」
「うむ」
「伯父さんの悲しみは、ルナさんがご自身の心で考えていただければ伯父さんは喜びます」
「――そうかもしれぬな」
ルナはしばらくアルマを見ていた。
それから彼女はゆっくり頭を下げた。
「アルマ・グリモワール嬢。――私の失礼をお詫び申し上げる」
「ルナさんが失礼ではないですよ。――私たち、ちゃんと話せました」
「――そうか」
「はい」
ルナはふっと笑った。
それは45年のルナの人生で、たぶん彼女が誰にも見せたことのない種類の笑いだった。
◆
その日の夕方、グリモワール村の中央広場。
教会の異端審問団はすでに広場を撤収しはじめていた。
白い天幕はたたまれていた。
長い卓は馬車に積み込まれていた。
30騎の聖騎士団は銀の鎧を外して、楽な姿勢で撤収の準備をしていた。
ルナ・グランディスは自分の馬車の前で副官に低く命じていた。
「副官」
「は」
「私は本日、グリモワール村を離れる。――そして王都の教会本部に戻る」
「ベルナルド殿との対峙、ですか」
「うむ」
「ご安全を祈ります」
「副官」
「は」
「お主は本日、よくためらってくれた」
「は?」
「お主がためらってくれたおかげで、私は自分の心を見直す時間ができた。――ありがとう」
副官の若い神官は深く頭を下げた。
...そして心の中でひそかにつぶやいた。
――審問官殿、ありがとうございます。
――私は今日、何かを間違えると思っていました。
――けれど、何かを間違えずに済んだのは、審問官殿のご決断のおかげです。
副官はそれをルナには言わなかった。
そして副官は馬車の扉を開いた。
ルナは馬車に乗り込む前に、もう一度振り返ってグリモワール家の方向を見た。
家の入り口にアルマと家族たちが立っていた。
アルマがにこっと笑ってルナに手を振った。
ルナはふっと笑った。
そして低く頭を下げて馬車に乗り込んだ。
馬車が動き始めた。
アルマは馬車が街道の向こうに消えるまで手を振り続けた。
「お父さん」
「ああ」
「ルナさん、最後笑いました」
「ああ」
「ルナさん、これから伯父さんをちゃんと悲しめるといいなと思います」
ガレリスがふっと笑った。
「ああ。――そうだな」
◆
その日の夕方、グリモワール家。
家族とカミラ・ド・ノーチェ枢機卿、リカルドの上司である家令長が、家の台所に集まっていた。
アニエスが薬草スープを皆に注いだ。
「カミラ猊下。――こんな辺境の里の薬草スープでよろしいでしょうか」
「ぜひいただきたいです。――私の母レオノーラが、いつも辺境のスープに憧れておりました」
「お母様ですか」
「はい。母は生前、ハーミーネ殿にいつかお会いしたいと申しておりました。――私が母の代わりにお会いできて嬉しいです」
ハーミーネがしわだらけの目を薄く滲ませた。
「カミラ猊下。――貴殿のお母上、レオノーラ殿に、儂は40年お世話になっておった」
「いえ。――こちらこそ、母はハーミーネ殿の思想に深く共感しておりました」
「貴殿のお母上は、儂が40年唯一信頼できた宮廷の女性じゃった」
「光栄です」
カミラは頷いた。
それからアルマを見た。
「アルマ嬢」
「はい!」
「あなたの本日のルナ殿との対話は、私の心に深く刻まれました」
「えっ?」
「あなたは6歳ですが、8年前に亡くなった私の母が生きていらしたら、きっとあなたを誇りに思されたと申し上げます」
「お母さん、私のこと誇りに思ってくれてるの?」
アルマが振り返ってアニエスを見た。
アニエスがふっと笑った。
「あら、お母さんはいつだって誇りに思ってますよ」
「えへへ」
カミラがまた頷いた。
「アルマ嬢。――私は明日、ヴェルダンス公爵と合流して王都に行きます。――ヤンセン法務官の調査の進捗を確認します」
「うん」
「...そしてハーミーネ殿が40年追ってこられた、宮廷魔導師団総長との対決の準備を整えます」
「あ――」
アルマがぱっと顔を輝かせた。
「カミラ猊下、私たち、月狼族の谷に行きます」
「うむ」
「谷でエリスさんというガルのお祖父さまから、宮廷魔導師団総長の名前を聞きます」
「うむ」
「猊下、谷から戻ってきた時、教えてもいいですか?」
「もちろんです。――私とヴェルダンス公爵が、その名を王都の法務本部と神聖聖法国の宗教会議に提出します」
ハーミーネがしわだらけの目に、また涙を滲ませた。
「カミラ猊下。――40年が終わるのじゃのう」
「終わるか、新しい40年が始まるかは、これからの私たちの行動次第です」
カミラはふっと笑った。
「ですがハーミーネ殿。――ひとつ申し上げます」
「うむ」
「あなたは40年、孤独に戦ってこられた。――今後は私とヴェルダンス公爵と辺境のご家族と、皆で戦います」
ハーミーネは深く頷いた。
それからしわだらけの手で目元を押さえた。
その横でガルが、銀の鼻先をハーミーネの足元に軽く押し当てた。
「ガフ」
――ばあさま
――われもここにおる
「うむ。ガルや。――お主がおる」
ガルの隣でシルヴェも、銀の鼻先をハーミーネの足元に押し当てた。
「ガフ"」
――ばあさま
――われもここにおる
「うむ。シルヴェや。――お主もおる」
そして家の中で、家族とカミラと家令長と2頭の月狼が、夕暮れの薬草スープを囲んだ。
――明日、皆で月狼族の谷を訪れる計画を立てる。
――そしてその先に、王都の闇との対決が待っている。
――だが今夜は、まず温かいスープだった。
カミラが薬草スープをひと口飲んだ。
「――美味しい」
「あら、ありがとうございます」
「私の母が辺境のスープに憧れていた、その理由がわかりました」
「光栄です」
家の中の薬草スープの湯気が、いつまでも温かく立ち上り続けていた。
――まだ、誰も知らない。
明日から、辺境の少女と、若き枢機卿と、若き枢機卿の母の40年前のご友人の深い祈りが、ひとつの王都の闇に向かって結ばれていくことを。
そしてその結びのいちばん中心に、辺境の6歳の少女の初めての怒りがあったことを。




