第15章「ガルの夢月狼族の谷」
夜。
グリモワール家の食卓。
審問の前の夜は長かった。
ガレリスは卓の上に何枚もの紙を広げていた。
明日の審問の論点の整理。
教会条例。王立法務改革。ヤンセン法務官の不正の証拠。
――書き出した論点は20を超えていた。
その横でセオドアとリカルドがそれぞれの観点でガレリスを補佐していた。
セオドアは王立魔法学院出身の知識から、教義の論理矛盾を抽出していた。
リカルドはヴェルダンス公爵の家臣として、領主の権限の細部を補強していた。
ハーミーネは卓の隅の椅子でお茶をすすっていた。
彼女はいつものお茶ではなく、自分で淹れたぬるめの薬草茶を飲んでいた。
――気を落ち着かせるための自家製のものだった。
アルマは自分の小さな机を卓の隅に引き寄せて、ノートを広げていた。
お父さんが徹夜で明日の準備をしているのに、自分だけ寝てしまうのは嫌だった。
「お父さん、お疲れさまです」
「ああ。――お前は明日、ちゃんと寝た顔でルナ殿の前に立ちなさい」
「うん。――でももう少しだけ、お父さんと一緒にいさせてください」
ガレリスはふっと笑った。
「そうだな。――少しだけだ」
アルマはノートにペンを走らせた。
『お父さんが徹夜でお仕事してる。お父さんのお仕事は私を守るためのお仕事。
私、何かお手伝いできるかな。
そうだ、シルヴェちゃんの体の刻印、もう一度見たい。
前に見た時、急いで書き換えたから、刻印のいちばん内側の線、ちゃんと確認できなかった。
内側の線をちゃんと見れば、ルクス・ノクテの人たちが何をしようとしてたか、もっとわかるかも。
ハーミーネお婆ちゃんと一緒に見てみよう』
アルマはペンを止めてハーミーネを振り返った。
「お婆ちゃん」
「うむ」
「私、シルヴェちゃんの体の刻印、もう一度見たいんです。――ちゃんと内側の線まで確認したくて」
ハーミーネはしわだらけの目を細めた。
「アルマや。――お主、何か気づいたようじゃのう」
「うん。――前に書き換えた時、急いでたからいちばん内側の線、ちゃんと見てません。あれ、たぶんいちばん大事なところです」
「うむ。――地下倉庫じゃ。シルヴェにひと声かけよう」
◆
家の地下倉庫は薄暗かった。
土の壁にろうそくがひとつ灯っていた。
倉庫の隅に薪と保存食の樽が積まれていた。
シルヴェはその薪の山の手前に丸まっていた。
アルマが降りてきた音に銀の鼻先を持ち上げた。
「ガフ」
――アルマ
「シルヴェちゃん。――ちょっと体の刻印、もう一度見せてもらってもいい?」
「ガフ」
――いい
――われのためでもある?
「うん。――たぶんガルのお母さんと弟さんを助けるためにも必要です」
シルヴェはゆっくりと起き上がった。
それからろうそくの光の前にしっかりと座った。
アルマはシルヴェの傍らにしゃがんだ。
ハーミーネが隣に腰を下ろした。
「お婆ちゃん。――刻印は書き換える前は、いちばん外側に火と闇の二重陣、それからルクス・ノクテの紋章でした」
「うむ」
「私、それを月光と治癒に書き換えたんですけど、いちばん内側の線、まだ調べてません」
「うむ」
「お婆ちゃんの銀インク、また貸してもらえますか」
「うむ」
ハーミーネが自分の杖の柄から、銀の瓶を取り出した。
アルマは銀インクに人差し指をひたした。
それからシルヴェの額のもとの刻印のあった場所にそっと指を当てた。
「ガフ」
――くすぎったい
「ごめんね、シルヴェちゃん。すぐ終わるから」
アルマは目を閉じた。
そして自分の指先に月光の魔力をほんの少しだけ集めた。
――月光は消えた刻印の痕跡を浮かび上がらせる。
シルヴェの額に淡い銀色の光が滲んだ。
そしてゆっくりと消えたはずの刻印が影のように浮かび上がってきた。
火と闇の二重陣。
ルクス・ノクテの紋章。
――そして、その内側に、もう一層、線があった。
「あ――」
アルマは息を止めた。
「お婆ちゃん。――線がもう一層あります」
「うむ。――見せておくれ」
ハーミーネはしわだらけの目を細めて、その内側の線をじっと見つめた。
長い沈黙だった。
それからハーミーネはゆっくり口を開いた。
「アルマや」
「はい」
「このいちばん内側の線は――意識の魔法陣じゃ」
「意識?」
「うむ。――月狼の自分が自分であるという感覚を司る魔法陣じゃ。それを書き換える設計になっておる」
アルマは頬から血の気が引くのを感じた。
「お婆ちゃん。――それって月狼が月狼じゃなくなるっていうことですか?」
「うむ」
「シルヴェちゃんがシルヴェちゃんじゃなくなる?」
「うむ。――書き換えが完成すれば、シルヴェはシルヴェの記憶もガルへの愛も谷への愛も失う。ただのルクス・ノクテの命令に従う、自意識のない人造魔物になる」
アルマの手が震えた。
シルヴェはその横でぱちぱちと瞬きをした。
アルマとハーミーネの深刻な顔を見て、不安そうに銀の鼻先をアルマの頬に押し当てた。
「ガフ」
――アルマ、どうした
「シルヴェちゃん――」
アルマはシルヴェの銀の毛並みに両手を当てた。
「シルヴェちゃん、私、間に合った?」
「ガフ?」
「シルヴェちゃんがシルヴェちゃんじゃなくなる、その前に私、書き換えできた?」
「ガフ」
――われはシルヴェ
――にいさまをしっておる
――おまえをしっておる
――ばあさまをしっておる
シルヴェはしっかり答えた。
ハーミーネがふっとしわだらけの目で笑った。
「アルマや。――シルヴェはまだシルヴェじゃ。お主がいちばん内側の線が起動する、その直前に外側の二層を書き換えた。――おかげでシルヴェの意識の線は刺激されず、休眠したまま残った」
「よかった……」
アルマは両手で顔を押さえた。
「お婆ちゃん。――月狼族の谷の月狼たち、まだ書き換えが終わってない子もいるかもしれません」
「うむ」
「終わってない子は、私の縫合でシルヴェちゃんと同じように助けられるかも」
「うむ。――じゃが終わってしまった子は」
ハーミーネがしばらく沈黙した。
「終わってしまった子は、もう戻らぬ可能性がある」
アルマは頷いた。
それから低くつぶやいた。
「ガルのお母さんが、もしもう書き換えられてたら――」
「うむ」
「ガル、悲しむ」
「うむ」
ハーミーネはしわだらけの手でアルマの頭を撫でた。
「アルマや」
「はい」
「お主、ひとつ覚えておきなさい」
「はい」
「人を人でなくする魔法と、魔物を魔物でなくする魔法は表裏一体じゃ」
「えっ?」
「ルクス・ノクテは月狼から月狼の心を取り除き、ただの操作可能な道具に変えようとしておる。――じゃがそれは、人から人の心を取り除き、操作可能な道具に変える技術とまったく同じ仕組みじゃ」
「お婆ちゃん」
「うむ」
「それって――」
「うむ。連中は月狼で技術の最終調整をしておる。――40年前、儂を消そうとした時、彼らが目指していたのはこれじゃ」
アルマは深く息を吐いた。
「お婆ちゃん。――私、ルクス・ノクテの人たち、嫌いです」
「うむ」
「嫌いだけど、可哀想だなとは思いません」
「うむ」
「――ルナさんは可哀想と思えました。けど、ルクス・ノクテの上の人たちは思えません。彼らは人の心を取り除く技術を作って、それを月狼で試して、そしていつか人にも使おうとしてる」
「うむ」
「お婆ちゃん。――私、これは止めたいです」
ハーミーネはしわだらけの目に薄く涙を滲ませた。
「アルマや。――お主、40年前の儂と同じことを言うておる」
「うん」
「ただし儂のときは儂ひとりで立った。――いまはお主と儂とガレリスとアニエスとルカとセオドアとリカルド殿とヴェルダンス公爵閣下と、それからたぶん明日の昼に来ていただける、神聖聖法国の若い枢機卿さまも立つ」
「うん」
「ひとりでは止められぬことを皆で止める。――それが40年前といまのいちばんちがうところじゃ」
アルマは頷いた。
それからシルヴェの銀の毛並みに額を押し当てた。
「シルヴェちゃん。――私たち、絶対、谷を助けに行く」
「ガフ」
――ばあさまのはなし、われもわかった?
「ガフ」
――まだぜんぶはわからん
――じゃが、たすけにいくことはわかった
――よかった。
◆
その夜、アルマは自分の部屋に戻った。
ガルはベッドの足元に丸まっていた。
シルヴェも地下倉庫からガルと再会して、一緒に二階に上がっていた。
アルマはベッドに座って、ガルの銀の毛並みに両手を当てた。
「ガル。――シルヴェちゃんの体のいちばん内側の線、見ました」
「ガフ」
――しっておる
「あれは月狼を月狼でなくする線でした」
「ガフ」
――しっておる
ガルはしばらく沈黙した。
それから低く答えた。
「ガフ」
――われは、谷はもうなくなったと思うておったというたな
「うん」
「ガフ」
――それははぐれたばかりのころの話だ
「うん」
「ガフ」
――じゃがもし、谷にいるおかあと弟が、すでにシルヴェの妹分のもとのような姿にされていたら
ガルの声が震えた。
「ガフ」
――われは谷はもうないということにしたほうが、楽かもしれぬ
――助けにいってもいないものを助けることになるのだから
アルマはガルの銀の額に、自分の額を押し当てた。
「ガル」
「ガフ」
「ガル、谷に行こう」
「ガフ」
――おまえはいつもそうだ
「うん。――行っても、もしもうお母さんがお母さんじゃなくなっていても、その時は私と一緒に悲しもう」
「ガフ」
――おまえはまだ6歳だ
――おまえがわれのおかあと一緒に悲しむわけにはいかぬ
「ガル、私ガルの家族だよ。――家族なら一緒に悲しんでいいんだよ」
ガルはしばらく答えなかった。
それからガルは銀の鼻先をアルマの頬に軽く押し当てた。
「ガフ」
――アルマや
「うん?」
「ガフ」
――谷を見せたい
「えっ、谷? 行けるの?」
「ガフ」
――いまおまえと一緒にいって、物理的にいるわけではない
――われが月狼の魔力で、おまえの夢に谷を見せる
「夢に?」
「ガフ」
――月狼族は長くはぐれた親族に、夢で便りを送る魔法を持っておる
――久しぶりだがわれも使える
アルマは目をぱちぱちと瞬きした。
「ガル、それすごい魔法です」
「ガフ」
――おまえの治癒の魔法を一緒に使えば、ふたつ効果がある
――ひとつ、おまえが谷を目で見ることができる
――ふたつ、われが本当に助けたいものがまだ谷にいるかどうか、わかることができる
「うん。――やってみよう」
シルヴェが横で瞬きをした。
「ガフ」
――にいさま、われも一緒にいく?
「ガフ」
――シルヴェ、おまえはもう谷を知っておる
――今回はアルマに見せるためじゃ
――おまえはわれとアルマの横で眠っておれ
「ガフ」
――わかった
シルヴェはガルの隣に寄り添って、目を閉じた。
アルマは自分の小さな治癒の魔法陣をベッドの上に白チョークで描いた。
それからその上に寝転んだ。
「えっと、月光はガルが出してくれるんでしょう?」
「ガフ」
――そう
「治癒は私の魔法陣で。――夢はガルが紡いでくれる」
「ガフ」
――そう。――われが谷のいちばん高いところからおまえに見せる
「うん」
アルマはガルの首に両手を回して、目を閉じた。
ガルがゆっくりと銀の毛並みを輝かせ始めた。
月光の魔力がベッドの上を淡く包んだ。
――月夢。
アルマは心の中で、その魔法の名をつけた。
そして彼女の意識が、ふわりと銀の光のなかに溶けていった。
◆
アルマは立っていた。
最初、自分がどこにいるのかわからなかった。
それからゆっくりと目を開けた。
――いや、夢の中で目を開けるのは現実の目とちがった。
けれど見えるものは見えた。
そこは谷のいちばん高い岩棚だった。
足元に銀色の月光に照らされた深い谷が広がっていた。
谷の底には岩肌に無数の洞穴が開いていた。
月狼族の住処だった。
「ここが月狼族の谷……」
アルマはぽつりとつぶやいた。
「ガフ」
ガルの声が彼女の隣で聞こえた。
「ガル、いるの?」
「ガフ」
――ここにおる
――われはおまえの夢とつながっておる
「うん」
アルマは谷を見渡した。
そして息を呑んだ。
谷の底に月狼がいた。
たくさんいた。
けれど、それらの月狼は皆おかしかった。
通常の月狼族の、月の光に銀色に輝く毛並みではなかった。
彼らの毛並みは灰色にくすんでいた。
額に本来あるはずの三日月の紋章が消えていた。
代わりに火と闇の二重陣が暗く焼き付けられていた。
...
そして彼らの金色の瞳には――光がなかった。
無感情に命令を待っている、ガラス玉のような瞳だった。
「あ……」
アルマの手が口を押さえた。
「ガル、これ――」
「ガフ」
――そう
――大人の月狼の大半が、すでに書き換えられておる
「みんな……」
アルマは谷の底を見ていた。
数えてみると40、いや50頭近くいた。
それらの月狼が皆、額に火と闇の二重陣を焼かれていた。
皆無感情の瞳で岩棚に座っていた。
「ガル」
「ガフ」
「ガルのお母さん、どこ?」
ガルはしばらく答えなかった。
それから低く答えた。
「ガフ」
――探しておる
「うん」
アルマはガルが月夢のなかで、谷の上空をゆっくり移動しているのを感じた。
彼女の視界がガルの視点に合わせて動いていた。
谷のいちばん奥の大きな洞穴の前でガルの視点が止まった。
そこにもう一頭の月狼が横たわっていた。
年寄りの月狼だった。
毛並みは銀色だった。――まだ灰色にはなっていなかった。
けれど額に火と闇の二重陣が半分、書き込まれていた。
ガルがしばらく無言だった。
「ガル」
「ガフ」
「これ、ガルのお母さん?」
「ガフ」
――そう
アルマは息を止めた。
「ガルのお母さんも書き換えの途中――」
「ガフ」
――そう
ガルの声が震えた。
「ガフ」
――まだ半分
――まだおかあは、おかあである
「ガル!」
アルマはぱっと目を輝かせた。
「ガル、間に合う! 私の縫合でお母さん、助けられる!」
「ガフ」
――本当か
「うん! いちばん内側の自意識の線がまだ起動してないなら、外側の二層を書き換えるだけで助けられる!」
「ガフ」
――谷にはもうひとりいるはずだ
――われの妹分シルヴェのもとを、もうひとり助ける意味で助けたい
「うん」
ガルの視点がまた移動した。
今度は谷の底の別の洞穴の前で止まった。
そこに若い月狼が5頭横たわっていた。
皆まだ銀色の毛並みを持っていた。
皆書き換えの途中だった。
シルヴェと同じくらいの若い月狼たちだった。
「ガル、この子たち――」
「ガフ」
――シルヴェの姉分たちだ
――たぶんシルヴェよりすこし前に捕まった
「うん。――ぜんぶ助けられる」
「ガフ」
ガルの声が安堵で震えた。
「ガフ」
――アルマや
「うん?」
「ガフ」
――おまえに月狼族の老人がいることを、言い忘れておった
「あ、長老?」
「ガフ」
――谷のいちばん奥の奥に、シルヴェの話した老人のもうひとりがいるはずだ
「もうひとり?」
「ガフ」
――谷の老人はふたりおった
――シルヴェが話した老人は殺されたというたが、もうひとりある
「うん」
ガルの視点が谷のいちばん奥に移動した。
そこに大きな洞穴があった。
洞穴の入り口に月狼がひとり座っていた。
その月狼は灰色ではなかった。銀色だった。
――シルヴェよりもガルよりもずっと深い銀色だった。
年を重ねた月狼の銀色だった。
額の三日月の紋章がはっきりとある。
そして彼の金色の瞳には、はっきりとした光があった。
アルマは息を呑んだ。
「ガル、この人――」
「ガフ」
――谷の老人のもうひとり
――エリス
――われの父上の父上
「あ、ガルのおじいちゃん!」
「ガフ」
――そう
――エリスはまだ無事らしい
エリスがふと、銀の鼻先を空に向けた。
...そして月光の方向を見上げた。
それから低く長く鳴いた。
「ガウ……」
――ガル
――ガルであろう?
ガルが息を呑んだ。
「ガフ」
――じいさま、われである
「ガウ……」
――長き眠りからわれを呼び起こしたおまえの月狼の魔法を、われは知っておる
――ガル、おまえいずこより、いまわれを訪ねた
「ガフ」
――じいさま、われ人間の幼子とつながっておる
――幼子の夢のなかでここを訪ねておる
エリスがふっと笑ったように見えた。
「ガウ」
――人間の幼子を連れて谷を訪ねたか
――面白い子であろうな
「ガフ"」
――面白い子だ
――じいさま、谷を助けにわずかでいく
「ガウ」
――ガル
――われは谷で長く耐える
――助けがくるまで耐える、ぎりぎりまで耐える
「ガフ」
――じいさま、忘れていないことがあれば
「ガウ」
――ふたつある
「ガフ」
――聞く
「ガウ」
――ひとつ
――人間の若者が谷を襲うた
――そのなかにひとり、白髪の男がおった
――その白髪の男は、本当に谷を知ろうとしたものではなかった
――その男は、不死を長く作った経験があったような匂いがした
――その男は谷を知ろうよりも、月狼の死を知ろうとしておった
ガルがしばらく答えなかった。
「ガフ」
――じいさま
――その男の匂いを、われ知っておる
――レーヴェンの街の入り口ですれ違った
――ヴェルダンスの夜にも、気配を感じた
「ガウ」
――ガル
――その男は、谷を知ろうではない
――知りすぎぬように制限するものであろう
――谷の本当の犯は、もっと奥におる
「ガフ」
――じいさま、本当の犯を知っておるですか
「ガウ」
――ふたつめがそれじゃ
エリスの声が深くなった。
「ガウ」
――ガル
――本当の犯の人間は、40年前、月狼族の谷を初めて訪ねた人間と同じ人間である
ガルが息を止めた。
「ガフ」
――じいさま、ではその人間は、いまいくつである
「ガウ」
――オヴボウを超えた人間である
――オヴボウを超えた人間。
それは月狼族の言葉で『大きな成果を上げた』者を意味した。
――つまり人間社会で最高位に登り詰めた者、ということだった。
「ガフ」
――じいさま
――その名前を知っておるですか
「ガウ」
――聞いたことはある
――じゃが人間の名前、長くわれ覚えぬ
「ガフ」
――じいさま、ひとつだけお願いである
――その人間の名前を、われに再び伝えてほしい
「ガウ」
――覚えぬものを覚える方法はない
――じゃがわれ、いちど使った魔法のなかに、その名前を刻んだことがある
――谷を訪ねてわれを助けたれば、魔法を再び使い、名前を伝える
「ガフ」
――じいさま、わかった
――谷を訪ねるまで耐えてください
「ガウ」
――ガル
――幼子に月狼族より、喜びの敬意を伝えよ
――幼子の眠りが深いことを、われは知る
――親族の幼子に、われらは助けてもらうことになる
ガルの声がしばらく揺らいだ。
「ガフ」
――じいさま、伝える
エリスはゆっくりと頷いた。
そして月光の方向をもう一度見上げて、目を閉じた。
ガルの視点がゆっくり谷から離れた。
アルマの視界が月光のなかにふわりと戻った。
◆
アルマは目を開けた。
朝だった。
窓から薄い朝日が差し込んでいた。
ベッドの足元にガルが丸まっていた。
シルヴェもガルの隣でぐっすり眠っていた。
「ガル」
「ガフ」
――おはよう
「夢見せてくれて、ありがとう」
「ガフ"」
――いや、こちらこそだ
「ガルのお婆――じゃない、お祖父さまエリスさんの言葉、聞いたよ」
「ガフ」
――親族としてありがたく思うておるという敬意であった
「うん。――ガル、お祖父さま強そうでした」
「ガフ」
――谷の老人のひとりじゃ
――谷が月狼族としてまだ生きておる間は、エリスがそれを支えておる
「うん」
アルマはしばらくガルの銀の毛並みに両手を当てて、目を閉じていた。
それからゆっくり起き上がった。
「お父さん、起きてるかな」
「ガフ」
――お父さま徹夜、いま台所で眠っておる
「あ、寝てるんだ。――じゃあ、お婆ちゃんにまず伝えに行こう」
◆
台所でハーミーネはもうお茶を淹れていた。
アルマが入ってきた。
「お婆ちゃん」
「アルマや、おはよう」
「お婆ちゃん、ガルが月狼族の谷の夢見せてくれました」
「うむ」
ハーミーネはお茶を椀に注ぐ手を止めた。
「お主、谷を見たか」
「うん。――月狼族の大人はほとんど書き換えられてました。シルヴェちゃんの姉さんたちももう書き換えの途中でした」
――でもガルのお母さんと姉さんたち5頭は、まだ書き換えの途中で私の縫合で助けられます」
「うむ」
「それから谷には長老がひとり、まだ無事でいました。――エリスという、ガルのお祖父さまです」
「ほう」
ハーミーネがしわだらけの目を細めた。
「お主、長老と話したか」
「うん。――そして長老がふたつ教えてくれました」
「ふたつ」
「ひとつ目はヴェルダンスとレーヴェンでガルが感じていた、灰色の髪の男のこと。――あの人は月狼族の谷を知ろうとして来た人じゃなくて、月狼族の死を知ろうとして来た人でした。つまり本当の犯人はもっと奥にいる」
ハーミーネのお茶の椀を持つ手を止めた。
「ふたつ目」
「ふたつ目は――本当の犯人の人間は、40年前初めて月狼族の谷を訪れた人と同じ人間で、いま人間社会で最高位に登り詰めた人物です」
ハーミーネはしばらく答えなかった。
それから低くつぶやいた。
「アルマや」
「うん」
「ご隠居――いやエリス殿は、その人物の名を知っておるか」
「うん。――エリスさん、人間の名前は長く覚えていられないらしいけど、いちど使った魔法のなかにその名前を刻んだって言ってました」
――谷に私たちが助けに行ってエリスさんを助けたら、そこでその魔法をもう一度使って、名前を教えてくれるって」
ハーミーネはお茶の椀をゆっくり卓に置いた。
それからしわだらけの目から、ひと筋涙が流れた。
「アルマや」
「お婆ちゃん?」
「儂は40年その名を追ってきた。――いまお主が、その答えをエリス殿からもらってきてくれた」
「うん」
「儂、明日の審問、もう怖くない」
「お婆ちゃん」
「うむ。――怖くない。――儂、40年の答えにもう少しでたどり着くのじゃ」
アルマはハーミーネに抱きついた。
「お婆ちゃん。――私、月狼族の谷に行きたいです」
「うむ」
「明日の審問終わったら、すぐ行きたい」
「うむ」
「お父さんと、ガレリスお父さんとお母さんとお兄ちゃんと、ガルとシルヴェちゃんと、それからお婆ちゃんとセオドアさんとリカルドさんと、皆で行きたい」
「うむ」
ハーミーネはしわだらけの手でアルマの頭を撫でた。
「アルマや。――皆で行こう」
「うん」
そのとき台所の戸が開いた。
ガレリスが寝ぼけた顔で入ってきた。
「アルマ、ハーミーネ殿。――おはよう」
「お父さん!」
アルマはガレリスに駆け寄って、抱きついた。
「お父さん、私、月狼族の谷の夢見ました!」
「夢?」
ガレリスはしばらくぱちぱちと瞬きをした。
それからハーミーネを見た。
ハーミーネが頷いた。
「ガレリスや。――アルマがガルと月光の魔法で谷を見てきた」
「――」
ガレリスは息を止めた。
「ハーミーネ殿、40年来のお話の続きが出てきたのですか」
「うむ。――宮廷魔導師団の総長。――エリス殿の口から、その名がもうすぐ出る」
ガレリスが深く息を吐いた。
「――ハーミーネ殿。――今日の審問は、いま勝たねばならぬのですね」
「うむ」
「俺たち、今日ルナ殿に勝つ」
「うむ」
ガレリスは低く頷いた。
そしてアルマの頭を軽く撫でた。
「アルマ。――谷の話は後でお父さんにもちゃんと聞かせてくれ。――まず今日の審問終わってから、皆で計画を立てよう」
「うん!」
◆
その日の朝、グリモワール村の中央広場の教会の天幕。
ルナ・グランディスは卓の前で革表紙の本を閉じた。
副官の若い神官が卓の脇で待機していた。
「審問官殿。――審問は午後1時でよろしいですか」
「うむ」
「会場は里の中央広場。――私の聖騎士団30騎が円形に警備」
「うむ」
「アルマ・グリモワール、月狼ガル、ハーミーネ・グリモワールの三名を呼び出します」
「うむ」
副官は低く頷いた。
それからしばらくためらってから口を開いた。
「審問官殿。――おひとつお伺いしても」
「言うがよい」
「昨日のアルマ嬢の質問。――『教会本部って、人ですか? それとも本ですか?』というのは確かに無邪気な質問でしたが、私、夜ずっとその質問を考えておりました」
「うむ」
「そして私、自分なりの答えを見つけました」
ルナはしばらく副官を見ていた。
それから低く口を開いた。
「お主、自分の答えで満足したか」
「いいえ」
「では、なぜそれを考え続けたか」
「――分かりません。けれど彼女の質問は、私の5年の教会勤めで初めて頭の中で消えなかった質問でした」
ルナはしばらく沈黙した。
それから低く答えた。
「そういう質問を無邪気に口にする者こそが教会の最大の敵なのだ」
「は」
「だから私たちは彼女を止めねばならぬ」
「は」
副官は頭を下げた。
そして心の中でひそかにつぶやいた。
――審問官殿は止める、とおっしゃった
――だが私には、もう止める気力が消えかけている
――昨日の夕方、アルマ嬢の質問が私の5年の教会勤めで初めて頭から消えなかった
――環境今朝、私はその答えをまだ見つけていない
――審問官殿、私は今日、何かを間違えるかもしれません
副官はそれをルナには言わなかった。
彼はただ頭を下げて天幕の外に出ていった。
外では辺境街道の方角から、青い馬車が近づいてくる音がわずかに聞こえていた。
それは神聖聖法国の聖アルベリック修道院の紋章を両側面に刻んだ、青い馬車だった。
カミラ・ド・ノーチェ枢機卿、21歳の馬車だった。
――まだ誰も知らない。
午後1時、グリモワール村の中央広場で教会の異端審問が開かれることを。
そしてその同じ時間に、神聖聖法国から若き枢機卿の特使が辺境街道を駆け抜けて到着することを。
それから2頭の月狼の銀の鼻先が、その特使の馬車の青い旗をすでに嗅ぎ取っていることを。




