第9話 『正直、私もそう思っています。今、かなり堪えてます……』
どこか遠くで誰かが喋っている。
意識を向けようとするが声は霞んでいてうまく聞き取れない。
体を起こそうとしても、指先ひとつ思うように動かなかった。この異常な重だるさは、まだ時間が早すぎるせいか、それとも昨日のバスケの疲労が残っているせいか。
『昭くん、昭くん』
遠くから俺を呼ぶ声が聞こえる。だが今はまだ意識を揺蕩う海から浮上させたくない。俺は抗うように、布団の鎧を深く被り直した。
『おい昭、起きろ。用事だと言っているだろう』
『ッ!』
腹部に鈍い衝撃が走った。――蹴られたのか!?
悲鳴とも吐息ともつかない音が肺から漏れる。自分から出た声のはずなのに、ひどく不快に感じられた
『やっと起きたか。たなてに手間をかけさせるんじゃない』
『空ちゃん、そこまでしなくても……』
『いいんだ。どちらにせよ、起きなければならない時間だろう』
まだ脇腹がじんじんと痛む。実体のないはずの存在に蹴られて起こされるなんて前代未聞だ。
なる姉は当然そんな乱暴な真似はしないし、そもそも最近はは俺の方が早く起きる。
『……というか空、お前。なんで俺に触れるんだよ。初日は透けてただろ?』
『別になるこは触れていただろう。思うに、慣れの問題ではないのか?』
『慣れって……まだ四日目だぞ?』
『そんなことは知らん。貴様が私のことをジロジロ見ていたんだろう。それで早く順応できた。そう考えると、つくづく気色の悪い男だ』
『空ちゃん、憶測で人を判断するのは良くないですよ』
『当たり前のことだぞ、空』
『まだ生まれて三日目だ。大目に見てやってくれ』
わずか三日で「空節」に拍車がかかっている気がする。これから先が思いやられる……。
『……それで、用事って何だ?蹴ってまで起こしたんだから、つまらない用件だったら怒るぞ』
俺は空を軽く睨みつける。彼女たちはあくまで俺の空想から生まれた存在のはずだ、こんな横柄な態度を許していたら、いつか収拾がつかなくなる。最悪、精神科へ直行だ。
『だから、用があるのはたなてだと言っている。私ではない』
そう言われて思い返せば、最初に呼びかけていたのはたなての声だったような。
『あの、何だかすみません……』
たなてが申し訳なさそうに肩をすくめる。
『いいよ。お前が謝ることじゃない』
『そうだ、たなてが謝る道理などどこにもない』
……空は無視しよう。
『それで、たなての用件って?』
彼女の表情は真剣そのものだった。もっとも空の暴挙に困惑している節もあるだろうが。
たなては意を決したように、抱えていた言葉をゆっくりと差し出してきた。砂浜から潮が引いていくような、周囲の音が一気に吸い込まれていくような、奇妙な静寂が広がる。
『あの……多分、私の「核」を思い出せました』
『カク?……核か! イマジナリーフレンドの!』
『はい。断片的なイメージだったのですが、夢に出てきて……こう、ビビビッときました』
唐突な告白に俺の眠気は完全に消し飛ぶ。もっとドラマチックなきっかけで思い出すとばかり思っていたから。
『それで、どんなものだったんだ?』
正直なところ、俺自身も気がかりだった。無意識のうちに別の人格として確立されるほどの記憶だ。よほどの出来事が関わっているに違いない。
だが、俺の記憶をいくら遡っても、そんな大きな事件の心当たりはない。興味と、正体不明の恐怖が入り混じるなか、俺は身構える。
『あの……すごく聞きにくいことなのですが』
固唾を呑んで続きを待つ。
『昭くんは、目の前でお兄さんが亡くなられた……という経験はありますか?』
『……は?』
目の前で、お兄さんが、死んだ?
あまりに予想の範疇を超えた言葉に、口があんぐりと開く。
『お前の過去のことだろう、ないのか? そういう記憶が』
『ないも何も、そもそも俺に兄貴なんていねえよ。なんだよ、その夢』
俺が即座に否定すると、たなては目に見えて落ち込んだ。いつもは肌身離さず持っているバールも、所在なさげに足元へ置かれている。
『炎に包まれるなか、気づいたら「お兄さん、お兄さん」と叫んでいたんです。それだけは、はっきり覚えているのですが……』
『全く記憶にない。親父からもそんな話は一度も聞いたことがないぞ。』
『そうですか……』
たなてはポツリと呟き、少し間を置いてから再び話し始めた。
『実を言うと、私もどこか昭くんの記憶ではない気がしていたんです。お兄さんと呼びかける声も、女性のものでしたし……』
『じゃあ、絶対に俺の記憶じゃないだろ。大体、火事なんて大騒動になっていたらどんなに幼い頃でも覚えてるはずだ』
たなては再び黙り込んだ。唸るような沈黙が、古びた旅館の一室を重苦しく包み込む。
『……あまり考えたくはないのですが、漫画や映画のワンシーンに似たものはありますか?』
『どういうことだ?』
『要は、お前が漫画に感情移入しすぎるあまり、現実と区別がつかなくなったのではないか、と聞いているんだ』
『あまりにリアルな夢だったので、違うと思いたいのですが……もし創作物が私の核だとしたら……』
『私なら考えたくもない。貴様が漫画を読んで号泣した結果、ポンと生まれたのが自分だなどとな』
『正直、私もそう思っています。今、かなり堪えてます……』
たなては小さく背を丸めてへたり込んでしまった。もともと小柄な彼女の背中が、さらに小さく、儚く見える。
バールを拾い上げようとした彼女の手は、力が入らないのか空を切り、鉄の棒がポロリと床に転がった。その様子は、見ていて痛々しいほどだった。
『……いや、そんなはずはないと思うぞ。俺、漫画で泣くようなタイプじゃないし』
『強がりはやめろ。現にたなてが生まれているんだぞ。お前の記憶じゃなかったらなんなんだ』
漫画への共感から誕生。そんな冗談のような理由だとしたら泣きたくもなる。どう声をかけるべきか。
『話は聞かせてもらったよ』
背後から声がした。振り返ると、いつの間にか目を覚ましていたなる姉が、驚くほど澄んだ表情でこちらを見ていた。ついさっきまで泥のように眠っていたはずなのに、恐ろしいほどの切り替えだ。
『私、知ってるよ。その「お兄ちゃん」って叫ぶシーン』
『やっぱり……漫画なんですか?』
『ううん、違うよ。創作物なんかじゃない』
『それでは、何なのですか?』
一言一言を大切に、この空間の空気に刻みつけるように、なる姉がはっきりと告げた。
『多分、その記憶は――おばあちゃんの記憶』




