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第10話 『……何故ですか、昭さん』

「今から数えればもう八十年も前にもなる。けどね、今でも瞼を閉じればはっきりと浮かんでくるんだ」


 安楽椅子に腰かけながら、婆ちゃんは固く結ばれた縄を解くように語り始めた。


「その日はねえ、慰霊祭だったんだ。いくら田舎といっても赤紙は届いたから、沢山の男の人たちが出陣していってね。まあ、初めて見送るときは、それは盛大に送ったものだったんだけど」


 心の内ではどう思って話しているのだろう、音のない語り口だ。


「でもね、段々とそんな気力も体力も擦り減っていって、ただ時々送られてくる死亡通知書に『ああ、』と漏らす、そんな頃だった」


 と、突如として婆ちゃんがたなての方に向き直った。一瞬ぎょっとしたがただ何もない一点を見つめるために、偶然たなての方を向いただけだとわかる。

 その目には、何も映ってはいなかったから。


「慰霊祭の話が持ち上がったんだね。もちろん式典とは名ばかりの、静かな会なんだけど」


 たなては、彼女もまた、何もない空間を見つめ返した。


「お兄様が若いもんの代表に選ばれてね、挨拶をすることになった。生真面目なところがあった人だから、かなり張り切られていて。久しぶりに家族の中に『目標』が生まれた気がしていたよ」


 窓からの光が陰る。雲がかかったのだろうか。


「当日、わざわざ下の町に降りてね。あの日はうだるように暑かったんだけど、それでも会場でお兄様の――こう言うのは違うかもしれないけど――晴れ舞台を見ようとついていったんだ。大勢の前に立つわけだからね」


 薄暗いざわめきが、どこからか聞こえてくる。


「いざ、お兄様が何百人もの前で話し始めるって壇上に上がった。いつもに増して凛々しい立ち姿でね、私は目を奪われていた。

 その時、『ウーン』と低い警報が鳴った。そしてすぐに地面が大きく揺れた。私は倒れてしまって、逃げ惑う人々に頭を踏まれないようにうずくまることで精一杯だった」


 焦げた匂いが鼻を突く。俺はそれを振り払う。


「ここから逃げないとって、なんとか立ち上がったとき、今までで一番大きな衝撃があって。またしゃがまないとと思ったとき、私は背中から弾き飛ばされた」


 チリチリと、熱気が肌を刺す。


「顔を打ってしまって、痛い痛いと思いながら後ろを振り返ったら……お兄様がいた。炎の中、屋根の下敷きになってね」


 持ち上げるには、あまりにも。


「どかそう、どかそうって泣きながら屋根を動かそうとしても、熱くてとても持てないし、そもそも少女1人だけじゃどうしようもなかった。道具でもあればまた違ったのかもしれないけどね」


 バールを持つたなての右手が震えている。チープなプラスチックが軋んでいる。


「最後はお兄様に逃げろと怒鳴られて、言われるがままに逃げるしかなかった。ううん、見捨てるしかなかった」


 涙特有の湿り気を感じる。


「後から聞いた話だとね、下の町にあった少し大きな工場を爆撃した帰りに、残りを適当にばら撒いたんだって」


 時間の流れに逆らうことなくただ揺らぐように婆ちゃんは締めくくった。


「結局私が何を言いたいかというとね、昭。他人のために命を懸けられるような、尊くて立派な人になるんだよ」


…………


 意味もなく引き戸を開け、外に出る。いつもと変わらぬ蝉時雨がギンギンとこめかみに響く。


 誰も喋らない。

 

 遠くに入道雲がどっかりと座り込んで、夕立を知らせる姿が見えた。


『とりあえず、たなての核はあれで間違いない……か』


 何が「とりあえず」なんだろう。自分の言葉に違和感を覚える。余りにも、ひどく軽い言葉。


『私、漫画じゃ嫌だなんて……』


『しょうがないことだ。まさか戦争の記憶だなんて、思いつかない』


 話を聞いてからずっと息が荒いたなての背を空は優しくさすり続けている。それでもなかなか落ち着かないようだ。


『バールに、そんな意味があったなんてな』


 両手で抱え込むように握られているオモチャを見ながら呟く。それはあくまで玩具だったけれど、遊ぶためのものでもなかった。


 抱えきれないほどの重い記憶。


 肺の中の空気をすべて吐ききり、大きく吸い込む。強張った体が多少はマシになった。


『お婆ちゃん、お兄様のことをとても尊敬していました』


 『そうだな』と相槌を打つ。


『私も、お兄様のような人になりたいです。誰かのために、命を投げ出せるような、そんな人に』


 決意を固めたように、力強い声でたなてはそう話した。


『そうだな。お祖母様のお兄様は、これ以上ないくらいに立派な人だ』


 頷きながら空が答える。


『すごいよね。妹のために飛び出せるなんて。咄嗟に命を捨てられるなんて』


 なる姉は、目を閉じ奥歯を噛み締めている。


『……俺はそうは思わない』


 言うべきでは無いかもしれない言葉。思うべきではないかもしれない考え。視線が一斉に俺に集まる。


『……何故ですか、昭さん』


 あんなに遠くに見えた入道雲はもう直ぐそこまで迫っていた。


「だって、残された側はどう生きていけばいいんだ? 婆ちゃんの顔、見ただろ」


 孫に人生観を、有るべき姿を語るその姿は、とても迷いに満ちていたから。


『私はお兄様のような人物になるために生まれてきたんだと思います。人を助けられる人物になるために』


『たなて。いくら核がわかったからって、それに

縛られる必要はないんだぞ? あくまでお前はお前だろ』


 たなてはただ首を振っただけだった。


 それを機に、沈黙が長く続く。風は吹かず、ただ重さだけが溜まっていった。

 


…………


 

『なあ。たなてには悪いが、今確認してもいいか』


 何分そのままでいたのだろうか。空の声で、体が息をすることを思い出した。


 空が真面目な声で訊いてくる。


『うん。空ちゃんにも関係するかもしれないしね』


『私のことも、気を使わないでくださいね』


 空は軽く頷いた。


『たなての核は、『祖母から聞かされた戦争の記憶』という認識で間違いないな』


『うん、間違いないと思うよ。正確には『聞かされた戦争の記憶の中での、お婆ちゃんの理想の姿』だと思うけどね。バールを持ってるのも、後悔の念の表れだと思う』


『なる姉。これ、あくまで『俺の記憶』なんだよな? 婆ちゃんの記憶が俺に混ざって……みたいな神秘現象じゃなくて』


 話を聞いている最中、まるで昔の記憶を思い出すかのように、五感があの現場を感じ取っていた。

 

 それは初めての経験で、まだ心臓が生を確認するかのように激しく波打っている。


『うん、そうだね。私が生まれる前のことだから、ぼやけてでしかアクセスできないんだけど、昭が小さい頃にお婆ちゃんから話されたときは、もっと長い間語られていたと思うよ。それこそ一週間近くね。かなり詳しく聞かされたんじゃないかな』


『それで俺は、自分が体験したかのように、その戦争の世界を想像したと』


『うん。幼い子って、自分が想像したものと実際に体験したことの区別がつかなくなっちゃうこと、よくあるからね』


 なる姉は正しいんだろう。それでも、あの飲み込むような熱気は、俺の肌に深く刻まれていた。



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