第3話 『生まれた理由なんて、あるんですか?』
『本当に旅館の一室に閉じ込められていたんだな』
部屋の外へ踏み出した空が、感嘆ともため息とも取れない声で呟く。小さな部屋から解放され、その表情も幾分か柔らかくなった。
まだ五時を少し過ぎたばかりで、他の客室からは人の気配は感じられない。しかし一階からは食事の準備をしているのか、食器が触れ合うカタカタという音が聞こえてくる。
全体的に少し古びた環境音に思いを馳せていると、背後からたなてが弾かれたように駆け出し先に階段を降りていった。ようやく外に出られたという喜びが、その後ろ姿からよく伝わってきた。
『嬉しくて、たなてちゃん飛び出して行っちゃったね』
なる姉の言葉に、『ああ』とだけ短く返す。
『なあ、質問いいか? 出会った時から質問攻めが続いて悪いが』
空が真面目な顔を向けてくる。
『うん? 問題ないよ。最大限協力するつもりだから』
『たなては昭の目の届かないところへ走っていった。だが、たなても昭の幻想なんだよな? 彼女の瞳には今、何が映っている?』
なるほど。もっともな疑問だ。
もし俺の一部であるたなてが、俺のいない現実を見ることができるなら、それは超能力以外の何物でもない。
『多分』と前置きを挟み、俺は答える。
『『俺が思う』旅館の一階にいるだろうな。俺が
想像する世界、っていうかな……』
空は怪訝な顔をしている。いまいちピンときていないようだ。
『例えばたなてが一人で外に出た場合、お前は一々そこがどんな状況かを考えているのか?』
『うーん。別に意識して考えているわけじゃないんだけど、無意識にやってるんじゃないかな。結局は頭の中の話だから、俺にもよく分かんねえけど』
『直感に反して納得しかねる。もし今から私が昭の背後に回り込めば、そこは既に空想の世界になるのか』
正直、答えづらかった。イマジナリーフレンド──IFが脳内の存在であるがゆえの検証は、意図的に避けていた節がある。矛盾それ自体がなる姉という存在を否定してしまう気がして……。
『すぐに慣れるよ。私達は昭を通してでしか、現実に参加できないってこと』
なる姉がさらりと告げるが、言葉にされると微かな罪悪感を覚える。好きで作ったわけではないが、彼女たちは俺という人間に縛られているのだ。
IFなんて無意味な妄想だと切り捨ててしまえばそれまでのことではあるが、目の前で生き生きと動き回る姿を見ると無理な話だと感じる。
一足先に着いていたたなてに合流し、玄関の引き戸を開ける。
思っていたより長く喋っていたのだろうか。日はすっかり傾き、蝉の声にはヒグラシの声が混じり始めていた。肌に触れる空気もどこかしっとりとしている。
『わぁー、田舎!私たち一面の山に囲まれています!』
『人の気配を感じられなかったが、まさかここまで山の奥だったとはな』
『どこに行きます?今、とてもワクワクしてます!』
軽く飛び跳ねながら、たなてが尋ねる。
『もし近くにあればですが、この土地の神社に一度お参りしたいです』
『いいんじゃない? 昭もこの夏は長く過ごすんだし、行っておこうよ』
別に信心深いわけではないが、神社独特の厳かな空気感は嫌いじゃない。お参りに行くのもあり
か。
スマホで検索してみると『徒歩三分』と表示された。そのまま画面をたなてに見せる。
『ん!すぐそこですね!』
どうやら神社は坂の上にあるらしく、ナビに導かれるまま勾配を登っていく。
近くの製材所からは、切りたての生木の匂いが漂ってくる。フォークリフトが忙しそうに動く様子は、どこか可愛らしくも見えた。一生懸命に働く大人に失礼なのかもしれないが。
前を行くたなてがふと足を止めた。
『そういえばなんですけど、そもそも私たちって生まれた理由なんてあるんですか?昭さんが作ろうと思ったわけでもないのに』
『あるんじゃねえかな。というか、理由もなしにポンポン知らない人が生まれちゃたまんねえしな』
もしそんなことがあったら、それこそ本格的に病院へ行くべきだ。立派な病名を貰えると思う。
『生まれたきっかけのような『核』はあると思うよ』
顎に手を当てながら、なる姉がすぐさま答える。
『トラウマが核になって無意識に人格が生まれるという人もいるみたいだし、それほど深刻じゃなくても、何かしらの理由はあるはずだよ』
なる姉は相変わらず頭の回転が速い。淀みなく言葉が紡がれる様子は、自分から生まれた存在であることを疑いたくなる。
『でも、それが何かはまだ分からないし、とりあえずはこの夏を一緒に楽しんでいこうね!』
『うん!』
なる姉はすっかりたなてと仲を深めた様子だった。
今まではIFが一人だけだったので気づかなかったが、この人は高いコミュニケーション能力まで
備えていたのか。
曲がり角に差し掛かった時、空が一歩前へと踏み出し俺たちの動きを制した。
『空ちゃん、どうしました?』
『たなてには悪いが少し止まっていてほしい』
『別にいいですが?』
『この先の景色を見て戻ってくる。それまで皆ここにいてくれ。検証したいことがある』
検証……先の会話の話だろうか。
『まあいいよ。そんなに遠くへは行くなよ』
俺が言い終えるより前に空は駆けていき、角を曲がっていった。『検証って…… 何の?』と、たなては不思議そうに首を傾げていた。
しばらくして、空が角から姿を現す。
『で、どんな景色だった?』
『右手側に民家が広がっていた。至って普通の住宅街だぞ』
『んじゃ、見てみるとするか』
恐る恐る角を曲がる。
そこで目にしたものは――
『ソーラーパネル……だな』
民家は一軒も見当たらず、右手の斜面には、ただ夕日に照らされて赤く輝くソーラーパネルが広がっていた。
空の方を見ると、ガックリと肩を落としている。
『だから、お前は俺の頭の中に生きているんだって。ごめんだけどさ』
俺の言葉が耳に入っていたのかは分からないが、空は奥歯を噛み締めながら小刻みに震えている。
とはいえ、空は確かに民家を見たわけだ。俺の頭の中は一体どうなっているのだろうか。
『空ちゃん、元気出しましょ?』
たなてが背伸びをして、空の頭を優しく撫でる。空は何も言わない。
好きで作ったわけではないが……申し訳なくなる。
なる姉の先の言葉が反響する。
『すぐに慣れるよ。私達は昭を通してでしか、現実に参加できないってこと』
…………
『ほら、そろそろ坂を登り切るぞ』
空気を変えるために、あえて明るい声を作って呼びかける。
急勾配が終わり、一気に視界が開ける。それと同時に俺は思わず息を呑んだ。
足元一面に、宇宙が広がっていたから。
一瞬、体が浮遊したかのように感じた。それほどまでに、地面を塗りつぶす漆黒と深い緑は現実離れした光景だった。
『なんだ、これは』
唾を飲み込むことすら躊躇われるほどの異質さ。
『ぬばたま……』
たなてが、聞き慣れない言葉をポツリと呟いた。
『なんだ?ぬばたまって』
『黒色にかかる枕詞です。あ、枕詞というのは、特定の言葉の前に置く和歌の修辞技法で……』
『あーいいよいいよ。俺、そういうのは興味ないから。とりあえず、黒が綺麗だってことだろ?』
頭が痛くなりそうな話に、反射的に突き放すような言い方をしてしまう。でもなぜだろうか。 その言葉に、どこか懐かしさを覚えるのは。
今は午後六時手前だろう。夕焼けの茜色が辺りを赤く染めている。
だけど、足元だけは深い黒と緑に覆われていて──
『まるで、夢みたいだな……』
無意識に、そんな言葉が零れ落ちていた。
『なんだ、昭もちゃんと枕詞知ってるじゃん』
なる姉がうんうんと俺の背中を叩くが全くピンと来ない。
『あのさ、なんのこと?』
『あ、知らないで言ってたんだ?それはそれで凄いけどさ』
話が見えてこない。
『昭、地面の黒取ってみてよ』
黒を取る?試しに屈んで漆黒に手を伸ばす。ポロポロと黒色の球体が手に入ってきた。植物の種?
『ぬばたまはヒオウギっていう植物の種の名前なんだ。ちなみにこの枕詞の後ろには黒色だけじゃくて、黒から連想される言葉が来る時もあるよ』
黒から連想される言葉……直ぐには思いつかない。夜空は含まれるだろうか? だが夜空は黒というよりは星の光が主役な気もする。
ぬばたま……言うなれば、全てを塗りつぶす様な、そんな物が合っているのだろうか。
『この漆黒から連想される言葉、なるこの黒髪も含まれそうだ』
『え、ありがとう?』
空から突然髪を褒められ、なる姉は少し戸惑っていた。
『そうだね。黒髪に係ることもあるよ。他にも夜とか夢に係ることもあるから昭がちゃんと覚えてると思ったんだけどね』
それにしてもどこから和歌の知識なんて得たんだ?
『ちなみに昭は資料集をざっと見た時とお婆ちゃんに話を聞いた時の計二回この知識に触れてるからね』
口に出していない疑問を当たり前のように答えないでほしい……。
『なるこさんとっても詳しいですね。和歌、好きなんですか?』
『うん。昔の人の感情に触れるのはロマンがあるよね』
いや、多分違う。短歌の知識だってなる姉の博識の一部に過ぎない。もう慣れてしまったことだが、これも異常なことなんだろう。
『やっぱり尊敬です。私もなる姉って呼んでもいいですか? 響が可愛いのでウズウズしてたんです』
『えー、まあいいけどね』
『改めてよろしくお願いします! なる姉さん!』
名称の交換会の様に頭を下げあっている。何を見せられているのだろうか。
『そろそろ帰らね?暗くなってきたし』
『うん、お爺ちゃん美味しいもの作ってくれてるだろうしね』
俺たちがお参りを忘れていたことに気付いたのは坂を下り終えた後だった。




