表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
187/188

第173話:料理人になった日(2)



 ◆◆◆◆◆◆ 



 二階へと続く階段の、中ほど。

 薄い肩掛けを羽織ったリュカ・ヴァレンが、静かに、そこに立っていた。


 彼女の獣耳は、二階の自室にいる時から、すべてを聞き取っていた。一度寝床に入った彼女は、眠れずに再び起き出してきていた。


 手すりに片手をそっと添えて、厨房の方を見下ろす。

 彼女には、わかっていた。


 いま厨房で、何が起きているのかを。そして、それが、春原祐一という一人の青年にとって、どれほど大切な時間であるのかを。

 

 その時、背後でわずかな衣擦れの音がした。

 リュカが、ゆっくりと振り返る。

 階段の上に、寝間着姿のクラリスが立っていた。彼女もまた、眠れずに起き出してきたのだろう。

 

 クラリスとリュカの目が合った。

 それから、視線を階下の厨房へと、ゆっくりと向けた。

 厨房の方から、押し殺した嗚咽が、もう一度漏れてくる。

 

 クラリスの瞳が、見開かれた。


「……すの……」


 彼女の唇から、声にならない声が漏れる。足が階段を降りようと、一段下の段板に半歩、踏み出される。


 しかし、リュカの手が、そっと、クラリスの手首を包む。

 強く、握ったわけではなかった。ただ、ふんわりと、留めただけ。けれど、その指の温度は、確かにクラリスの動きを止めていた。

 

 クラリスが、リュカの方を見た。

 

 リュカは、何も言わなかった。ただ、小さく首を横に振った。

 翡翠色の瞳が、まっすぐにクラリスを見ていた。咎めるのではなかった。説き伏せるのでもなかった。ただ、静かに──この時間が、誰のものなのかを伝えていた。

 

 クラリスは理解した。

 いま、厨房で泣いているのは──春原祐一という、一人の青年が、本気で何かを求めて、その手が届かなかった、その夜だった。


 あれは、彼のための時間。慰めの言葉が、入っていい場所ではなかった。

 

 クラリスは、ゆっくりと半歩、階段を戻す。

 そして、リュカの隣に静かに腰を下ろした。

 

 二人は肩を並べて、階段の中ほどに座った。

 

 手すりに、リュカが、頬を寄せる。

 クラリスが、自分の膝を、両腕でゆっくりと抱えた。

 

 誰も、何も言わなかった。

 厨房から時折漏れてくる、押し殺した嗚咽の音。それが、しばらく続いた。

 



 やがて──。

 

 その嗚咽の音が、少しずつ収まっていった。

 代わりに、別の音が階段の方へと昇ってきた。

 


 包丁を構え直す、衣擦れに似た、小さな音。

 まな板の上を、刃が、すうっと走る音。

 調理台の縁に、フライパンが、こと、と置かれる音。

 火を入れた竈の、ごう、と低く唸る息遣い。

 澄ましバターを落とした、ぱちん、と弾ける音。

 


 春原は、泣きながら、調理を再開していた。

 

 涙を流しながら、けれど彼の手は確かに動いていた。今日、舞台の上で覚え込んだ感覚を、明日には消えてしまうかもしれない、その指先の記憶を、今夜のうちに、自分の手に焼き付けようとしていた。

 

 リュカは、その音を聞いていた。

 獣の耳が、ぴくりと動く。

 包丁の音。リュカが知っている、彼の包丁の音。けれど、その音には、半年前にはなかった確かな重さが、宿っていた。

 

 クラリスも、その音を聞いていた。

 料理人ではない彼女には、その音の細やかな違いまでは、わからない。けれど──誰かが、夜の厨房で、本気で、自分の手と向き合っている。その気配だけは、確かに、彼女にも、伝わっていた。

 

 二人は、ただ、その音を聞いていた。

 

 時折、嗚咽がまた漏れる。

 春原は、それを押し殺しながら、それでも手を止めなかった。

 

 

 クラリスの目の縁に、薄く何かが滲んでいた。彼女は、それを夜着の袖で、そっとぬぐった。

 リュカの獣耳が、わずかに、伏せられていた。けれど、その口元には、ほんのわずかに、誇らしげな色が、宿っていた。

 

 二人は、何も言わなかった。

 ただ、肩を寄せ合うようにして、階段の中ほどに、座っていた。

 

 夜は、まだ深かった。

 

 彼の悔しさは形を変えずに、彼の胸の中で、生々しく息づいていた。けれど、それは半年前までの彼が、決して持ち得なかった感情。本気で何かを求める者だけが、持つことを許される、痛みだった。

 

 春原は、まだ知らない。

 彼の中で芽生えたこの「悔しさ」が、これから先、彼をどこへ運んでいくのかを。

 

 知らないままに、彼は夜の厨房で包丁を握り直していた。

 明日の朝、いつも通りにリュカと並んで仕込みを始めるために。

 

 

 階段の中ほどでは、二人の女性が肩を並べて、その音を聞き続けている。

 窓の外で、王都の夜が深く息づいていた。琥珀の炎が消えた後の、長い夜が──静かに、更けていく。






———第5章 黄昏に灯し琥珀の誓い 完



次回、第6部では──


「それでは『銀の厨房』を、よろしくお願い致しますね」


それは、初めての別離の言葉だった。

リュカは、自分が生まれたハラナ・ファル──封じてきた根の地へ、ようやく足を向ける時を迎える。だが旅立つ彼女に代わり、銀の厨房に立つは、春原と──アレクシス・レオナード。


互いを認められぬまま、しかし同じ厨房で、無言の刃を交える日々。

そして、アレクシスが胸に秘める想いの、行き着く先は──。


「春原くん──いや、祐一。僕はやっぱり君が嫌いだ」


それは敵意か、それとも別の何かか。


そして遥か北方──故郷の風に抱かれたリュカもまた、避けることのできぬ過去と向き合っていた。十三年もの歳月、誰もが口を噤んできた、たった一つの真実。


「私は、あなた方を許しません」


俯いて生きてきた少女が、顔を上げた瞬間だった。


料理人の白衣を脱ぎ、王宮の門をくぐる男。

別の道を辿り、彼女の元へと急ぐ三人。


激動の渦の中で、リュカ・ヴァレンが守り抜くものとは──。



──第6部 「遠き高原に薫る北の風」

  離別と再会、嫌悪と信頼。

  それぞれの足取りが、やがて一つの場所へと辿り着く──




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ