第173話:料理人になった日(2)
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二階へと続く階段の、中ほど。
薄い肩掛けを羽織ったリュカ・ヴァレンが、静かに、そこに立っていた。
彼女の獣耳は、二階の自室にいる時から、すべてを聞き取っていた。一度寝床に入った彼女は、眠れずに再び起き出してきていた。
手すりに片手をそっと添えて、厨房の方を見下ろす。
彼女には、わかっていた。
いま厨房で、何が起きているのかを。そして、それが、春原祐一という一人の青年にとって、どれほど大切な時間であるのかを。
その時、背後でわずかな衣擦れの音がした。
リュカが、ゆっくりと振り返る。
階段の上に、寝間着姿のクラリスが立っていた。彼女もまた、眠れずに起き出してきたのだろう。
クラリスとリュカの目が合った。
それから、視線を階下の厨房へと、ゆっくりと向けた。
厨房の方から、押し殺した嗚咽が、もう一度漏れてくる。
クラリスの瞳が、見開かれた。
「……すの……」
彼女の唇から、声にならない声が漏れる。足が階段を降りようと、一段下の段板に半歩、踏み出される。
しかし、リュカの手が、そっと、クラリスの手首を包む。
強く、握ったわけではなかった。ただ、ふんわりと、留めただけ。けれど、その指の温度は、確かにクラリスの動きを止めていた。
クラリスが、リュカの方を見た。
リュカは、何も言わなかった。ただ、小さく首を横に振った。
翡翠色の瞳が、まっすぐにクラリスを見ていた。咎めるのではなかった。説き伏せるのでもなかった。ただ、静かに──この時間が、誰のものなのかを伝えていた。
クラリスは理解した。
いま、厨房で泣いているのは──春原祐一という、一人の青年が、本気で何かを求めて、その手が届かなかった、その夜だった。
あれは、彼のための時間。慰めの言葉が、入っていい場所ではなかった。
クラリスは、ゆっくりと半歩、階段を戻す。
そして、リュカの隣に静かに腰を下ろした。
二人は肩を並べて、階段の中ほどに座った。
手すりに、リュカが、頬を寄せる。
クラリスが、自分の膝を、両腕でゆっくりと抱えた。
誰も、何も言わなかった。
厨房から時折漏れてくる、押し殺した嗚咽の音。それが、しばらく続いた。
やがて──。
その嗚咽の音が、少しずつ収まっていった。
代わりに、別の音が階段の方へと昇ってきた。
包丁を構え直す、衣擦れに似た、小さな音。
まな板の上を、刃が、すうっと走る音。
調理台の縁に、フライパンが、こと、と置かれる音。
火を入れた竈の、ごう、と低く唸る息遣い。
澄ましバターを落とした、ぱちん、と弾ける音。
春原は、泣きながら、調理を再開していた。
涙を流しながら、けれど彼の手は確かに動いていた。今日、舞台の上で覚え込んだ感覚を、明日には消えてしまうかもしれない、その指先の記憶を、今夜のうちに、自分の手に焼き付けようとしていた。
リュカは、その音を聞いていた。
獣の耳が、ぴくりと動く。
包丁の音。リュカが知っている、彼の包丁の音。けれど、その音には、半年前にはなかった確かな重さが、宿っていた。
クラリスも、その音を聞いていた。
料理人ではない彼女には、その音の細やかな違いまでは、わからない。けれど──誰かが、夜の厨房で、本気で、自分の手と向き合っている。その気配だけは、確かに、彼女にも、伝わっていた。
二人は、ただ、その音を聞いていた。
時折、嗚咽がまた漏れる。
春原は、それを押し殺しながら、それでも手を止めなかった。
クラリスの目の縁に、薄く何かが滲んでいた。彼女は、それを夜着の袖で、そっとぬぐった。
リュカの獣耳が、わずかに、伏せられていた。けれど、その口元には、ほんのわずかに、誇らしげな色が、宿っていた。
二人は、何も言わなかった。
ただ、肩を寄せ合うようにして、階段の中ほどに、座っていた。
夜は、まだ深かった。
彼の悔しさは形を変えずに、彼の胸の中で、生々しく息づいていた。けれど、それは半年前までの彼が、決して持ち得なかった感情。本気で何かを求める者だけが、持つことを許される、痛みだった。
春原は、まだ知らない。
彼の中で芽生えたこの「悔しさ」が、これから先、彼をどこへ運んでいくのかを。
知らないままに、彼は夜の厨房で包丁を握り直していた。
明日の朝、いつも通りにリュカと並んで仕込みを始めるために。
階段の中ほどでは、二人の女性が肩を並べて、その音を聞き続けている。
窓の外で、王都の夜が深く息づいていた。琥珀の炎が消えた後の、長い夜が──静かに、更けていく。
———第5章 黄昏に灯し琥珀の誓い 完
次回、第6部では──
「それでは『銀の厨房』を、よろしくお願い致しますね」
それは、初めての別離の言葉だった。
リュカは、自分が生まれた地──封じてきた根の地へ、ようやく足を向ける時を迎える。だが旅立つ彼女に代わり、銀の厨房に立つは、春原と──アレクシス・レオナード。
互いを認められぬまま、しかし同じ厨房で、無言の刃を交える日々。
そして、アレクシスが胸に秘める想いの、行き着く先は──。
「春原くん──いや、祐一。僕はやっぱり君が嫌いだ」
それは敵意か、それとも別の何かか。
そして遥か北方──故郷の風に抱かれたリュカもまた、避けることのできぬ過去と向き合っていた。十三年もの歳月、誰もが口を噤んできた、たった一つの真実。
「私は、あなた方を許しません」
俯いて生きてきた少女が、顔を上げた瞬間だった。
料理人の白衣を脱ぎ、王宮の門をくぐる男。
別の道を辿り、彼女の元へと急ぐ三人。
激動の渦の中で、リュカ・ヴァレンが守り抜くものとは──。
──第6部 「遠き高原に薫る北の風」
離別と再会、嫌悪と信頼。
それぞれの足取りが、やがて一つの場所へと辿り着く──




