第5章 間話:王立魔導研究所、緊急依頼(1)
──料理大会決勝と聴聞会が重なる日の朝。
『銀の厨房』の扉の前に、三人が並んで立った。
「本日休業」の札が、まだかかっている。朝の光が、東区の石畳を薄い金色に染め始めていた。
「じゃ、そろそろ私は行くわね」
最初に口を開いたのはクラリスだった。書類の束を抱え直し、赤いリボンの位置を確かめるように指先で触れる。
「できることは全部やった。だから、私もこっちが片付いたらすぐに戻るから。それまでリュカと春原は、それぞれ任せたわね」
クラリスはリュカを見て、小さく頷いた。リュカも頷き返す。
「はい。クラリスさんが戻られるまでの間、聴聞会は私の方で対応しておきます。──春原さん」
それからリュカが、春原に向き直った。
「どうかお願いします」
「うん。料理大会は任せて、必ずやり遂げて見せるから」
三人の足が、別の方角へと歩き出した。
リュカは銀の厨房へ戻り。春原は、北区の決勝会場に向かって。
そしてクラリスは中央区へ
誰も振り返らなかった。
◆◆◆◆◆◆
東区の石畳を抜けて、クラリスは中央区へと続く大通りへ出た。
クラリスは、その中を一人で走っていた。
革鞄を抱える腕に、僅かに力がこもる。
ふと、クラリスは、自分の歩幅が、少しずつ大きくなっているのに気づいた。
怖いのだ。
怖いから、足が、勝手に急いでしまう。
もし──と、心の片隅で、囁く声がある。もし間に合わなかったら。もし、リュカの聴聞会で、何の証拠も出せなかったら。あの店の扉に、二度と「営業中」の札が、戻らないかもしれない。
クラリスは、ぎゅっと拳を握った。
「……大丈夫。間に合わせる」
誰にともなく、クラリスは呟いた。
石畳に落とした自分の足音が、思っていたよりも、しっかりと響いた。
中央区へ近づくにつれて、街並みは目に見えて整然となっていく。装飾の施された街灯が等間隔に並び始める。すれ違う人々の服装も、外套の仕立てが少しずつ良くなっていく。
その中で、クラリスは、一段と背筋を伸ばした。
革鞄の取っ手を、もう一度、握り直す。
行き先は、ただ一つ。
王立魔導研究所──そして、あの、偏屈で、けれど、リュカの料理にだけは、不器用なほど真っ直ぐな、白衣の男のもとへ。
◆◆◆◆◆◆
王立魔導研究所の正面玄関を抜けると、磨き上げられた大理石の床が、長い廊下となって奥へ伸びていた。
空気の質が、外とは明らかに違う。乾いていて、僅かに鉱物の臭いを含んでいて、そして何より、静かだった。
奥に進むにつれ、廊下は少しずつ生活の気配を取り戻していく。早朝勤務の若い研究員が、抱えきれないほどの書類を抱えて廊下を横切っていき、その脇を、白衣の老紳士が穏やかな足取りで通り過ぎていく。誰もが、クラリスのような部外者の女に、視線を向けることはない。
受付で来意を告げ、案内された通りに、二階へ続く大階段を上がっていく。
アシュレイの研究室は、二階の最奥にあると案内された。階段の踊り場に差しかかろうとした、その時だった。
「──いけません、アシュレイ様!」
女性の声が、上階から、はっきりと降ってきた。
毅然とした声。声の主は明らかにまだ若く、そして、声の奥にはきっぱりとした怒りが込められている。
「前々日からも何度も申し上げておりますが、この『魔素分光器』は半年先まで予約が埋まっております! 順番を飛ばすなど、研究所の信用問題に関わります!」
「ええい、うるさい! 今日までに仕上げねばならんのだ!」
答えたのは、間違いなくアシュレイの声だった。けれど、普段の冷然とした研究者の声ではない。
「本日予約されている依頼者は、ローゼンベルク伯爵家、王立軍部第三師団、王立大学です! これらの分析を後回しにして、いったいどう説明なさるおつもりですか!」
クラリスは、思わず柱の影に隠れてしまった。
視線を声の方向へと向けると、二人の人物が向かい合って立っていた。
白衣を翻して苛立たしげに片手を腰に当てているアシュレイ。
そして、彼の前に立ちはだかる小柄な女性。
髪を後ろできっちりと結い上げ、使用人が着る服の上に、研究者が羽織る白衣を着込んでいる。両腕には、ぎっしりと書類の束を抱えていた。
「アシュレイ様、もう一度申し上げます! 本日の予定を後回しにする件、私は到底、承服致しかねます!」
声は、慇懃だった。
けれど、その瞳の奥には、燃え立つような怒りと、それと同じ濃さの深い深い敬意が、同居している。主人を諫めるための、忠義の怒り。敬愛するからこそ、決して譲れないという類の怒りだった。
クラリスは、柱の影から、ゆっくりと一歩踏み出した。
「……あ、あのぅ〜、私は、『銀の厨房』のクラリスと申します。お取り込み中のところ、申し訳ありません。分析の件で、伺った者なんですけれども」
革鞄の紐を持ち直しながら、腰を低くして穏やかに、声をかける。
二人の視線が、同時に、ぱっとクラリスへと向けられた。
「給仕の者! よく来た、話が早い!」
アシュレイの声が、瞬時に明るくなる。
一方、女性の瞳が、すうっと冷たくなった。
それまで主人に向けられていた怒りも敬意も、その全てが、まるで切り替えのスイッチを押したかのように、すっと別の色に塗り替えられていく。残ったのは、研究所の秩序を守る職員としての、磨き抜かれた拒絶の色だった。
「……あなたが『銀の厨房』の方ですか」
彼女はゆっくりと書類の束を抱え直し、それから一度、深く頭を下げた。礼儀正しく、しかし決して目線を下げないままに。
「申し遅れました。私はアシュレイ様の助手を務めております、ミーナ・ホフマンと申します」
名乗りはあくまで丁寧だった。けれど、顔を上げた彼女の瞳には、もう敬意の影もなかった。あったのは、ただ一つ。
「あなた方がアシュレイ様に、何を吹き込んだのか存じませんが──正式な手続きを経ない、あなた方のご依頼は、到底お受けできません」
澄み切った、敵意の色だけだった。
「度し難いぞ、ミーナ! 時間がないのだ、あれは私が作ったのだ、多少使うことは目を瞑れ! 助手でもあるが、私の使用人であろう!」
ついに業を煮やしたアシュレイが、声を張り上げた。
「いいえ。断じて認められません」
ミーナの声は、信じられないほど落ち着いていた。
「確かに、この『魔素分光器』は、アシュレイ様がご自身でお作りになられたものでございます。その栄誉と功績は、私が誰よりも存じ上げております。ですが──」
その「ですが」の一言に、廊下の空気が、ぴしりと凍った。
「この研究所の所有物として登録され、王立魔導研究所の財産として運用されている以上、それはもはや王国の財産でございます。いくら私が、アシュレイ様の使用人でございましょうとも──いいえ、アシュレイ様の使用人であるからこそ──王国の財産を、正式な手続きも経ず、ご主人様の私情のままに使用させるなど、断じて認められません」
言葉の一つ一つが、まるで磨き抜かれた刃物のように、隙なく研ぎ澄まされている。アシュレイが、ぐっ、と言葉に詰まった。
そして、ミーナの視線が、ゆっくりとクラリスへと移った。
「それと、単刀直入に申し上げます。クラリス様」
「は、はいっ!」
クラリスは思わず背筋を伸ばした。
「本日、アシュレイ様にあなた方のご依頼分析を強行させることは、私の職分として、断じて認められません。どうかお引き取りを」
ミーナは深々と頭を下げた。けれど、それは敬意ではなかった。あくまで、礼を失わないための形だけの所作。
「……そ、そこを、どうにかですね。今日中に、いやお昼までには分析の結果が必要でしてぇ……」
「概ね、アシュレイ様から事情をお聞きしております。ですがその上で、お断り申し上げているのです」
ミーナはなお続けた。書類の束を抱え直し、息一つ乱さずに。
「現在、王立魔導研究所には、王国中から分析依頼が殺到しております。本来の依頼を後回しにすれば、王国の中枢に関わる方々への、明確な背信となります」
彼女は一度、視線をアシュレイに戻した。
「私はアシュレイ様のご研究の優先度について、誰よりもよく理解しているつもりでございます。であればこそ、アシュレイ様のお名前と、王立魔導研究所の信用を、私情で傷つけさせるわけには、まいりません」
クラリスは、ようやく、目の前の女性の正体を理解した。
この人は、敵じゃない。
この人は、アシュレイの最大の理解者で、最大の擁護者で、そして、最大の崇拝者だ。だからこそ、彼女は、敬愛する主人が「私情で職分を踏み越える」ことを、自分の職務として、絶対に阻止しなければならないのだ。
それを止められるのは、自分しかいないという、強烈な使命感を持って。
「……それに、アシュレイ様」
ミーナの声に、僅かに別の色が混じった。
「近頃、あなた様は変わられてしまいました。夜中に研究室で、『彼女の尻尾が』『獣耳が』と、うなされる日が増えました」
「ぶっ……な、なななななに、を……っ!? ち、違うぞ! 給仕の者! 決してリュカさんのことではないからなっ!」
アシュレイが、咳き込んだ。
「これも全て『銀の厨房』との関わりが始まってから、でございます。私はアシュレイ様の研究効率の低下を、非常に憂慮しております」
「すぅー……その……それは、なんというか……」
クラリスは軽く額に手を当て、天を仰ぐように天井を見つめる。
「私じゃ、どうにもならないと言いますか。こちらのアシュレイさんのお気持ち次第なところもありましてぇ……」
「クラリス様。あなた方のお店が、私の敬愛するアシュレイ様を、いったいどうなさってしまったのか──いずれ、ゆっくりと、お伺いしたいものでございます」
クラリスは内心、冷や汗を流した。
「それに現状、銀の厨房様からのご依頼は、正式な書面ですら受領しておりません。それは、手続き上、極めて不適切でございますので」
……ぐっ。クラリスは、思わず言葉を呑み込んだ。
確かに、ミーナの言うことは完全に正しい。本来であれば、こんな依頼は門前で蹴られて当然なのである。
「……ええ、本当におっしゃる通りです……ぐぅの音もでません」
クラリスはしょんぼりと俯いた。しかし。
「わ、私もその上で、お願いに上がっています。これが筋の通った話ではないことは、重々承知の上でしてぇ……」
「であれば、なおさら、お引き取り願いたいのですが」
「ええ、本来ならそうすべきところを、こうして強引に押しかけている時点で、私の常識など、もう半分くらいその辺に捨ててきたつもりでしてぇ……」
「どのような事情があれ、規程は曲げられません。お引き取りを」
……そりゃ、そうよね。クラリスは、内心で苦笑した。
この人は、本当に、まともな交渉では絶対に動かない。彼女が動かないなら、動かす対象は、彼女ではない。
クラリスは、瞬時に、戦略を切り替えた。
動かすべきは彼女ではなく、彼女の主人だ。アシュレイ本人を、動かすしかない。
ゆっくりと頭を上げる。視線を、ミーナからアシュレイへとまっすぐに移す。
アシュレイは、二人の押し問答の間、苛立ったように腕を組んでいた。けれど、ミーナの「夜中にうなされる」発言以降、その表情には、明らかな動揺が混ざっていた。眼鏡の奥の青銀色の瞳が、落ち着きなく揺れている。
クラリスはその揺れを、見逃さなかった。
彼女は、深く息を吸った。
ここから先は、商人の交渉ではない。
「リュカのことが好きすぎる王立魔導研究所主任研究官」を、最終的なカードとして使う。交渉ではなく人心掌握の時間だ。
クラリスは、まず、軽く、肩を落として見せた。
ほんの僅かに、視線を伏せる。まずは、絶望から。
「……あぁ〜、困ったなぁ。どうしよう、このままだとお店を、閉じちゃうことに……」
声色を、いつもの軽さよりも、ほんの少し、低く落とす。
商人の流儀でいえば、これは典型的な「同情の引き出し」。だが、こんな子供だましが、合理性の塊である研究者に効くとは、本来であれば思えない。──普通の研究者であれば、だ。
効く相手は、ただ一人決まっている。
ちらり、と。クラリスは、視線だけを横に流した。
アシュレイの眉が、ぴくりと動いていた。
クラリスは内心で、ぐっと拳を握った。一段、深く踏み込む。
「どうしよう。……このままだと銀の厨房は、営業停止。最悪の場合、永久閉店。リュカは、料理人としての資格を失う。王都で料理屋を再び開くことは、おそらくこの先、二度と、ないんだろうなぁ」
ミーナが、すかさず声を上げる。
「クラリス様、関係のないお話を持ち出すのは──」
けれどクラリスは、ミーナを見なかった。見るべき相手は、彼女ではない。
「ぐすん……もう二度と、リュカの料理が、食べられなくなっちゃう」
その言葉は、廊下の高い天井に、ふわりと響いて消えた。
アシュレイの動きが、ほんの一瞬、固まった。眼鏡の奥の青銀色の瞳が、揺れる。
それは、研究者の冷静な思考が、ほんの僅かに、別の何かに侵食されていく揺れだった。揺れの正体は、おそらく、彼自身にも、まだはっきりとは分かっていない。
クラリスは、もう一歩踏み出した。決定的な一撃を、置きにいく。
「…たぶん、笑うことも二度とないんだろうなぁ」
その瞬間。
アシュレイの動きが、完全に、止まった。
眼鏡の奥の青銀色の瞳が、ふっ、と焦点を失った。
クラリスには、それが見えていた。
彼の脳裏に、何が浮かんでいるのか。──厨房に立ち、銀色の鍋を覗き込みながら、ふと顔を上げて笑うリュカ。皿を差し出しながら「いかがですか」と、はにかむように尋ねるリュカ。香ばしい湯気の向こうで、獣耳を、ぴこ、と動かして喜ぶリュカ。
その全てが、二度と戻ってこない、という想像。
「………………」
アシュレイは、何も言わなかった。
ただ、白衣の袖を握る彼自身の手に、ぎりっ、と力が入ったのが、クラリスには見えた。指先が、白く、なるほどに。
ミーナが、慌てて口を挟んだ。
「アシュレイ様! この者の戯言など──」
「ミーナ・ホフマン」
アシュレイの声は、低かった。低くて、そして決定的だった。
ミーナの言葉が、ぴたりと止まった。
彼は、ゆっくりと顔を上げた。眼鏡の奥の瞳が、再び焦点を結ぶ。けれど、そこに宿っているのは、覚悟を決めた人間の目だった。
「今から、分析を行う」
「アシュレイ様!?」
「責任は、私が取る。王立魔導研究所主任研究官として、職権をもって、これを命じる」
「アシュレイ様! これは規程の範疇を超えて──」
「分かっている。分かった上で、命じているのだ」
ミーナの顔から、すうっと血の気が引いていった。
「ローゼンベルク伯爵家には、なんとご説明を──」
「説明は、お前に任せる」
「……はいぃ!?」
ミーナの声が、ひっくり返った。
「ローゼンベルク伯爵家、王立軍部第三師団、王立大学。本日予定されていた全ての分析依頼の、後ろ倒しに伴う対外説明と謝罪。お前が、責任を持って処理せよ」
「アッ、アシュレイ様……っ!?」
「適切な遅延理由を準備し、後日、正式書面にて謝罪状を発送。もちろん私が後日、直接出向いて説明する。印章課、記録課、所長への報告──一切合切、お前の判断で進めて構わん」
「私一人で全方面の調整を、ということですかぁ!?」
ミーナの腕の中で、書類の束が、ぐらり、と揺れた。
それを支えなおしながら、彼女の瞳が、見るからに大きく見開かれていく。
「ミーナ」
アシュレイの声は、一段、低くなった。
「私は、お前を、研究所で一番、信頼している」
ミーナの動きが、ぴたり、と、止まった。
書類を抱えた腕が、固まったまま、動かない。
「ミーナ・ホフマン。お前にしか、頼めないのだ。私の助手として、唯一、信頼に足る者として、お前にしか」
「……っ」
ミーナの肩が、震えた。
「あ……アシュレイ様……」
彼女の声から、毅然とした怒りが、すうっと抜けていった。代わりに残ったのは、ただ、震える、小さな声だった。
「私のことを、そのように……今まで、一度も、そのようなお言葉を、頂戴したことなど、なかったのに……」
「言葉にすべきことだったか。怠っていた、私の落ち度だ」
アシュレイは、淡々と続けた。けれど、その淡々さの奥に、ほんの僅かに、不器用な誠実さの色が混じっているのを、クラリスは敏感に感じ取った。
ミーナにとって、それは──。
「……アシュレイ様」
ミーナの瞳が、今度こそ、潤みきった。しかし、彼女はそれを瞬きで散らした。書類の束を、ぐっと胸に抱え直す。
「ええ……ええ、分かりました。分かりましたとも。このミーナ・ホフマン。アシュレイ様の助手として、使用人として、全身全霊で、務めさせていただきます」
彼女は、深々と頭を下げた。
「研究所の対外的信用、責任、全てこの身に引き受けて、本日の業務、完遂いたします」
「すまんな、ミーナ」
「滅相もございません。アシュレイ様のお役に立てることが、ミーナ・ホフマンの全てでございますれば」
クラリスは、半ば呆然と、その光景を見ていた。
これは、もう、純粋な崇拝の領域である。アシュレイ本人が無意識に発した一言が、ミーナにとっては、何年も渇望していた、唯一無二の褒美だったのだ。
そして、その崇拝の代償として、彼女は今、研究所の対外信用に関わる、絶対に一人で背負う範疇を超えた職務を、たった一人で引き受けた。
クラリスは、おずおずと、声をかけた。
「……ミーナさん」
その瞬間、ミーナは、ゆっくりと、振り返った。
そして、潤んだ瞳のまま──敵意を、剥き出しにした。
「決して、あなた方のためでは、ございません」
ミーナの声は、震えていた。けれど、震えながらも、刃物のように鋭かった。
「私と、アシュレイ様の、誰にも踏み込めない、崇高な信頼関係の証として、お引き受けいたしました。クラリス様。あなた方が、本日この研究所の秩序を、いったいどれほどの規模で踏み躙られたのか──その代償が、最終的に、誰の肩に載るのか──私は、生涯をかけて、忘れませんので」
「……はい。すみません」
クラリスは、ただ、頷いた。
目の前の狂信者に、他に何と言えばいいのか、分からなかった。




