第172話:料理人になった日(1)
春原とクラリスが『銀の厨房』のある通りについた頃には、もうすっかり夜の深い色に覆われていた。
そして『銀の厨房』の店先にリュカが、ぽつりと立っていた。
獣耳の先が、風にあわせてほんの少しだけ揺れている。その表情には、隠しきれない不安の色が薄く滲んでいた。何度も、通りの方へと視線を投げ、そのたびに、また足元へと視線を落とす。
二人の姿を、視界の端に捉えた瞬間──。
リュカの肩が、ほんの僅かに跳ねた。獣耳の先が立ち上がる。
「お二人とも、お帰りなさい」
その口元には、いつもの柔らかな笑みが浮かんでいた。
「ただいま、リュカ!」
クラリスが、ぱたぱたと駆け寄った。
「もう、本っ当に色々あったから、報告したいことが山積みよ! ……リュカの方は大丈夫だった? あの後、何もなかった?」
「はい。最後の手続きまで、無事に済みました。もう、終わりましたよ」
リュカが、ふっと微笑んだ。
「……そっか、よかった!」
クラリスの肩から、ようやく力が抜けた。
それから、リュカの瞳が春原の方へと、ゆっくりと向けられた。
「春原さんも、料理大会お疲れ様でした」
その声は、控えめだった。けれど、その奥に込められた温度は、確かに彼に届いていた。
春原は、しばらく彼女の顔を見ていた。
言葉を選ぼうとした。けれど、上手く言葉が出てこなかった。代わりに、口から漏れたのは──。
「……うん。でも、ごめん」
彼の視線が、わずかに落ちる。
「勝てなかった」
その言葉は、淡々としていた。けれど、その淡々さの中に、何かを抑え込んでいる響きが、確かに混じっていた。
「春原、でもそれは──」
クラリスが、何かを言いかけた。彼の言葉に、すぐに反論しようとする、そんな気配だった。
「クラリスさん」
リュカの声が、その上に重なった。決して強くはないけれど、明らかに、クラリスの言葉を、優しく、押し止める響き。
「詳しいことは後ほど。ご飯ができていますので、まずは、食べましょう。それから──今日あったこと、ゆっくり聞かせてください」
彼女は、扉をそっと開けた。橙色の灯りが、店の中から、二人の足元へと零れ出してくる。
「それもそうね、もうお腹空いたわよー! 結局今日、朝から何も食べてないし」
三人は、客席のテーブルを囲んで座った。
テーブルの上には、リュカが煮込んでくれていた、温かなスープと、薄く切られたパン。控えめな、けれど戦い抜いた身体に、ちょうど沁みる夕食だった。
ひとさじ、口に運ぶと春原の肩から力が抜けていく。今日一日、気づかぬうちに張り詰めていた緊張が、その温かさでゆっくりとほどけていく。
そこから先は、クラリスの独壇場だった。
彼女は今日一日のすべてを、堰を切ったように語り出した。研究所での攻防。アシュレイの強引な手続き。所長印を貰うまでの、一秒を惜しむような時間との戦い。それから──。
「──もう、ほんと壮絶だったわよ。もう、見てられなかったもの。アシュレイの助手さん……全部の手続き押し付けられてて。でも、あの強引さがなかったら、絶対に間に合わなかった。アシュレイって、変人だけど、ちゃんと、頼れる人だったわ」
「それは、見てみたかったですね。アシュレイさんにもきちんとお礼しないと」
リュカが、口元を片手で覆った。けれど、その指の隙間から笑いがこぼれ出ていた。
「で! それから決勝の会場で春原に……春原?」
クラリスが、身を乗り出しかけて──ふと、その動きを、止めた。
「あ、うん?」
「あんた、なんか元気ない?」
その問いに春原は、わずかに目を上げた。
クラリスの瞳が、まっすぐに彼を捉えていた。先ほどまでの興奮の色はそこにはなかった。
「え? いや、大丈夫だよ。それで──アシュレイとは、上手くやれてた? その、喧嘩したりとか、しなかった?」
話の方向を、それとなく、ずらした。
クラリスは、ぱちりと瞬いて、それから──。
「あ、そうだ聞いてくれる!? 所長印もらって、これから戻るって時に『研究員の私が、走るなど効率が悪すぎる』とか言い出して、馬車を呼ぼうとしてたのよ。時間がないってのに、これから馬車呼ぶなんて、待ってられなかったから走ろうとしたのよ」
彼女は、再び勢いよく語り出した。
春原は、その語りに頷いて相槌を打った。クラリスの話を、ちゃんと聞いているという顔で。
その横でリュカが、ちらり春原を見た。彼女の瞳が、彼の横顔の上でほんの一瞬、止まった。
会場を後にしてからの春原は、驚くほど「いつも通り」だった。軽口に応え、穏やかに笑い、そつのない相槌を打つ。けれど、視線がふとした瞬間に焦点を失い、まるでここではないどこかにある。彼の心だけが別の場所に置き去りにされていることが、彼女にはたまらなく明白だった。
春原は、変わらずクラリスの話に薄く笑って、頷いている。ただ、その頷きの中に、彼の心は、いなかった。
けれど、リュカは、何も言わなかった。
◆◆◆◆◆◆
「……じゃあ、私、そろそろ上がるわね」
時計の針が深夜の入り口を指した頃。クラリスが大きく伸びをして、固まった身体をほぐすように椅子から立ち上がった。
「さすがにもう限界。今日は本当に……色んなことがありすぎたわ」
「お疲れ様でした、クラリスさん。また明日からよろしくお願いいたしますね」
「お疲れ様、クラリス。……今日は、本当にありがとう。助かったよ」
春原も椅子からゆっくりと立ち上がり、穏やかないつもの調子で言葉を添えた。
クラリスは階段の手前で一度足を止め、振り返らずに、どこか楽しげに肩をすくめて見せた。
「ははっ、何よ二人とも。今日で湿っぽいのは終わり! 明日からはまた、忙しくなるんだから。覚悟しておきなさいよ?」
彼女はそう言い残すと、二階へと続く階段を軽快な足取りで上っていった。
一段ごとに響いていた木靴の音は、やがてパタン、と扉が閉まる音に吸い込まれ、再び深い静寂が降りてきた。
残されたのは、春原と、リュカ。
「……リュカさん」
春原が、口を開いた。
「はい」
「僕、もう少し、厨房に残るよ」
リュカが、ゆっくりと、顔を上げた。
「……今日の感覚、忘れたくないんだ。あの、肉の重さとか、フライパンの熱の感じとか、香辛料の振り方の指先の動きとか……明日の朝には、消えてしまいそうな気がして」
春原は、視線をテーブルの上に落とした。
「だから、今日のことを、手に覚え込ませておきたいんだ」
その声は、穏やかだった。
「……はい、使ってください……春原さんも今日はお疲れだと思うので、あまり無理はなさらないでくださいね」
「うん。厨房の掃除と片付けはちゃんとしておくから。リュカさんもゆっくり休んで」
「はい……あの、それと、その……」
深夜の静寂が満ちる店内で、リュカは、しばらくじっと春原の顔を見ていた。
その穏やかな瞳に射抜かれ、春原はわずかに肩を揺らす。
「ん? どうしたの?」
「あの……春原さん。私は会場で、春原さんの料理を見ることができませんでしたが、クラリスさんの話から、とても素敵なものだったと聞いています。なので、えっと……」
「……?」
言葉を探すように、リュカは所在なげに指先を絡めた。頬をほんのりと赤く染め、今にも俯いてしまいそうなほど照れながらも、彼女は逃げ出さずに春原を見つめ返す。
その眼差しは、ただ彼という人間の歩みを肯定する、祈りにも似た優しい眼差しだった。
「……本当によく、頑張りましたね」
その声は、さざ波のように静かだった。けれど、取り繕った笑顔で固まっていた春原の心の隙間に、その温かな響きがじわりと染み込んでいく。
春原は、何も言えずに、ただ、頷いた。
「で、では! お先に休ませていただきますね。おやすみなさい、春原さん」
「うん。……おやすみ、リュカさん」
彼女の足音が、階段を上っていった。途中で一度、ほんの少しだけ、止まった気がした。けれど、そのまま、ゆっくりと、二階の自室へと、消えていった。
扉が閉まる、小さな音。
それきり、店の中には、春原一人だけが、残された。
春原は、ゆっくりと、厨房へと向かう。
いつもの調理台。見慣れた作業場。彼は、調理台の上に手を置いた。木の天板の、冷たい感触が、掌に伝わってくる。
包丁を、手に取った。
まな板の上に、何もない。けれど、彼は、刃を構えた。
今日、シャトーブリアンを切り分けた、あの瞬間の指先の感覚を思い出す。肉の繊維。刃が滑り込んでいく、あの抵抗のない、滑らかな手応え。
刃を、ゆっくりと、動かした。
空のまな板の上で包丁が、すうっと、走った。
ストン──と、あの音は聞こえない。春原は、もう一度、刃を構え直した。
その時──。
胸の奥から、何かが、せり上がってきた。
結果が発表された時に、すっと宿った、あの正体の知れない、何か。
最初は、ほんの小さな、しこりのようなものだった。胃のあたりに、ぽつり、と落ちていた、あの違和感。それが、ゆっくりとせり上がってきた。
喉の奥に。
舌の根に。
目の縁に。
春原は、包丁をまな板の上に、そっと置いた。
──ああ。
彼の唇が、わずかに動いた。
声には、ならなかった。
ただ、口の中で、その音だけが、はっきりと、形を取った。
──くやしい、と。
調理台の縁を、両手で握りしめた。木の天板に、指の腹が食い込んだ。指先が、白くなるほどに、力を込めて。
届かなかった。
あれだけ、すべてを出し切って。クラリスが届けてくれた瓶を、受け取って。ルオットが、隣で支えてくれて。リュカが、信じてくれて。『銀の厨房』で積み上げてきたものを、皿の上に乗せて。
それでも、四位だった。優勝には、届かなかった。
春原は、調理台に、額をゆっくりと、押し当てた。
春原の喉の奥から、ようやく最初の音が漏れた。
「うっ……」
声を、必死に、押し殺す。
二階で、リュカとクラリスが眠っている。彼女たちを、起こしたくなかった。今夜の、この時間は、誰にも、見られたくなかった。だから、彼は、唇を強く噛んで、声を、喉の奥に押し戻した。
けれど、押し戻されたものは、別の場所から溢れ出てきた。
目の縁から、最初の一滴が、ぽたり、と、調理台の上に落ちる。
悔しい。
頭で考えた言葉ではない。
胸の奥から、勝手に湧き上がってきた、生々しい感情。それが、いま、彼の身体を、内側から突き上げていた。
「ぐっ……」
春原は、両手で、口を覆った。
堪えきれずに、嗚咽が、指の隙間から漏れた。
彼は、調理台に縋るように、ゆっくりと、その場に崩れ落ちた。床の冷たい石畳が、膝に当たる。背中を、調理台に預けて、両手で顔を覆ったまま、彼は、声を殺して泣いた。
肩が、震えていた。
覆った指の隙間から、押し殺した呼吸の音が、断続的に漏れていた。
涙が、指を伝って、手首まで、ゆっくりと、流れていった。
──ああ、こんなの、初めてだ。
元の世界にいた頃。何かが上手くいかなかった時、何かに失敗した時。彼は、いつも、肩をすくめて、苦笑して、それで終わらせていた。「まあ、自分なんて、こんなものだろう」と。「もともと、期待していなかった」と。
悔しがる、ということを、彼はしなかった。
春原は、ずっと、何も求めずに生きてきた。
求めなければ、傷つかない。期待しなければ、裏切られない。それが、彼の処世術だった。元の世界で、彼は、そうやって自分を守って生きてきた。
けれど、いま──。
押し殺した嗚咽が、また、指の隙間から漏れた。
届かなかったことが、悔しい。
あれだけのことをして、それでも、四位だったことが、悔しい。
エレナの背中が、遠かったことが、悔しい。
そして、何より──。
リュカの隣で、自分が積み上げてきたものが、まだ、足りなかったこと。それを、こうやって、突きつけられたこと。
それが、何より、悔しかった。
春原は、初めて気づいた。
自分は、いま料理を本気で、やりたいと思っている。
もっと料理が上手くなりたいと、心の底から願っている。
あの三人の背中に、追いつきたいと──いや、追い越したいと。
涙が、止まらなかった。
悔しさは、その願いの裏返しだった。
春原は、ようやく、本当の意味で、生き始めていた。
石畳の床に、何滴も、何滴も、ぽたぽたと落ちていった。彼の喉から漏れる、押し殺した嗚咽は、夜の厨房の静寂の中で、ただ響いていた。




