第171話:勝者の背中、敗者の足跡(2)
春原が振り返ると、栗色の髪を揺らした女性が、まっすぐにこちらへ歩いて来ていた。
エレナ・フォスター。
その表情は、勝者として誇るような色はなく、ただ、純粋な彼を見つけた嬉しさそのものだった。彼女のすぐ後ろには、相変わらず慌てた様子のエリナが、姉の足取りに必死についてきている。
「エレナさん。優勝、おめでとうございます」
春原は、軽く頭を下げた。
「ありがとう! 春原君もあの料理、炎、ほんっとに綺麗だった。私、調理しながら、見惚れちゃったもん! それに、樽を壊し始めた時は、お腹抱えて笑っちゃったし!」
エレナは、肩をすくめて笑った。それから、ふっ、と表情を改めた。そして彼女の瞳が、まっすぐに春原を捉える。
「だから、春原君。いや──」
彼女の唇が、ふわりと、開いた。
「祐一って、呼ばせて」
その瞬間、エレナの手が、自然な動きで、春原の手を包んでいた。両手で、ぎゅっと。控え室で握られた時よりも、もっと近い距離。彼女の栗色の髪から、微かに甘い花の香りが立ち昇る。
「…………え」
春原の言葉が、止まった。
「今日、本当は『銀の厨房』の店主さんに会ってみたかったんだけど、それ以上の収穫があった。……祐一、君のことだよ」
エレナは、一拍だけ間を置いた。彼女の瞳が、春原から一瞬たりとも逸れない。
すると空気を切るような声が、横から飛んできた。
「──ちょっと、春原ぁ? これ、どういうこと?」
クラリスだった。
彼女は、両手を腰に当てて、ジトっとした目で、二人を見ていた。
「私たちが必死になってお店を守るために走り回ってた時に、あんたは女を引っ掛けてたってわけ? いいご身分じゃない」
「ち、違うよ、クラリス! こっ、こちらは『薔薇亭』の、エレナ・フォスターさん。調理師試験で、エレナさんの妹さんと一緒のチームになったことがあって、それで控え室で挨拶を──」
春原は、慌てて、エレナの手から自分の手を引き抜こうとした。けれど、エレナの両手は、しっかりと包んだまま、離れない。
「ふぅん? 挨拶ねぇ?」
クラリスの声が、ますます、低くなる。
「『挨拶』って言葉の意味が、私の知ってる意味と違うのかしら? 私の知ってる挨拶は、握手して名前を交換するくらいで終わるものだと思ってたんだけど」
「い、いやぁ……僕も、これがどういうわけか、わかってなくて……」
「ねぇねぇ? 祐一」
エレナは、クラリスの存在をまるで意に介さないかのように、再び春原の方を向いた。
「本当に、うちに来ない? 控え室の時は、半分冗談のつもりだったけど……今日、君の調理を見て、私、決めちゃった」
彼女の声は、明るかった。けれど、その奥に、料理人として確かな確信が滲んでいる。
「本気の誘い。待遇も、今のところより、もっといい条件で雇うから。給金も、休みも、ぜーんぶ。私、本気で、祐一が欲しいから」
「えっ、あ、いや、僕は──」
「はいはい! ちょっとまったぁ!」
ついに、クラリスが、声を張り上げた。
「あんた、何の権利があって、人の店の料理人を引き抜こうとしてるのよ!? うちの春原は、『銀の厨房』の人間なの! そういう話は、店主のリュカを通すか、せめて経理を担当している私に──!」
エレナが、ぱちり、と瞬いた。それから、口元にいたずらっぽい笑みが、ふわりと浮かんだ。
「あれ? あなたは、もしかして──祐一の彼女さん?」
その声が、ふと、甘く、伸びた。
「──はぁ? 違うわよ! 私は『銀の厨房』の、給仕担当! それと、経理担当! 春原とは、そういうのじゃないからっ!」
「給仕担当? じ ゃあ何で、私が祐一を引き抜こうとするのに、あなたを通さないといけないの?」
エレナは、にっこりと笑った。けれど、その笑顔は、先ほどまでの陽気さとは、温度の違う種類のものだった。
「そ、それは──」
「あっ! もしかして、あなた祐一のことが、好きなのかなぁ? だから止めようとしてる?」
エレナは、首を、ほんの少し、傾けた。
「だとしたら、悪いことしちゃったかな? ぜんぜん知らずに、目の前で口説いちゃったから、ごめんね」
エレナは、わざとらしく、片手を頬に当てた。──もう片方の手は、まだ、しっかりと、春原の手を握ったままだった。
「な、な、な──」
クラリスの顔が、夕暮れより、ずっと、赤い。リボンの色を凌駕する勢いで、彼女の頬が、燃え上がる。
「ふ、ふざけないでよ! 好きとか、好きじゃないとか、そういうのは関係なくて、私はただ、店の経理として、店の人材を勝手に引き抜こうとする無礼な料理人に物申してるだけで──! って、いい加減、春原から離れなさいっての!!」
クラリスが、二人の間に、身体ごと割り込んだ。両手を広げ、髪の赤いリボンを逆立てるようにして、エレナを正面から、睨みつける。
「あははっ! きゃー! こわーい!」
エレナは余裕の笑みを浮かべ、素直に一歩後ろへ下がる。
だが、彼女はまだ春原の手を離していなかった。繋がったままの手を道標にするようにして、エレナはすっと春原へ顔を寄せた。
驚きに目を見開く春原の耳元に、栗色の髪がさらりと触れる。
「『銀の厨房』が、いつか狭くなった時──私のところに、おいで。いつでも待ってるよ」
クラリスには聞こえないほどの小さな、けれど抗いようのない誘惑の響き。
「ちょっと! うちの春原から離れなさいってば!!」
ようやく手を離したエレナは、今度こそ楽しげに身を翻した。
「ふふっ、からかいすぎちゃったね。じゃ、また近いうちにね〜、祐一っ!」
エレナは、最後に春原に向かって、片目を閉じた。それから、彼女はひらり、と背を向けた。
「お、お姉ちゃん……すみません、姉が無礼を、本当にすみません……!」
エリナが、頭を下げる。何度も、何度も。
二人の背中が、会場の人波の中に、消えていった。
残されたのは、春原と、クラリス。そして、競技場の隅の、夕暮れの光だけだった。
二人は、しばらく、その場で、立ち尽くしていた。
誰も、何も、言わなかった。
やがて、二人は、ゆっくりと、顔を見合わせた。
「……ふっ」
春原の口から、息が、漏れた。
「……あははっ……」
クラリスも、続けて、笑い出した。
堰を切ったように、二人の笑いが、夕暮れの中に、こぼれていった。
二人は、しばらく、げらげらと笑った。
今日一日のすべての緊張が、その笑いの中でゆっくりと解けていく。
ようやく笑いが収まった頃、クラリスが、大きく息を吐いた。
「……お疲れ様、春原」
その声は、いつもの、優しい、彼女の声だった。
「うん。お疲れ様、クラリス」
春原も、頷いた。
「よし、早く帰りましょ。リュカ、待ってるわよ」
「うん」
二人は、肩を並べて、歩き出した。会場の出口へ、夕暮れの石畳の上を。
春原は、笑っていた。クラリスの軽口に、応えながら笑っていた。
──けれど、春原の胸の奥のどこかに、小さな、けれど確かな、違和感のようなものが、ぽつり、と落ちていた。
今、自分は、笑っている。やり切ったと、そう思っている。クラリスも、ルオットも、エレナさえも、皆、自分の戦いを、認めてくれた。
なのに。
結果が発表されてから、胸の奥のどこかに何かが宿っている気がした。それが何なのかは、わからない。けれど、それは確かにそこにあった。
春原は、その違和感に気づかぬふりをして、もう一歩、足を前に出した。
夕暮れの王都の空が、ゆっくりと暮れていく。
その先に、『銀の厨房』の灯りが待っていた。




