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第170話:勝者の背中、敗者の足跡(1)


 ◆◆◆◆◆◆

 

 審査員たちの評価がはじまり、調理台の前で春原はその光景を見つめていた。


 審査員たちが、ひと口、またひと口と、皿の上の料理を口に運んでいく。低い声で何かを交わし、ナイフを置き、また別の皿へ。──その時間が、長いのか短いのか、春原にはもう、わからなかった。


 隣の調理台では、エレナが姉妹で何かを囁き合い、ハインリヒは腕を組んだまま審査員席を見据え、レオンは静かに目を伏せている。皆、それぞれの場所で、自分の一皿を見送っていた。



 やがて。

 全組の審査が、終了した。


 フィオナが舞台の中央に進み出る。

 いつもの弾けるような笑顔の中に、ほんの少しだけ、緊張の色が混じっていた。


「お待たせいたしましたっ! 審査員の皆様による、最終的なご判断が下りましたっ! それでは──第一回王都新星料理大会、優勝者の発表でございますっ!」


 観客席が、しん、と静まりかえる。

 春原は、舞台の上で、両手を脇に下ろしたまま、ただ前を見ていた。隣のルオットも、いつもの軽口を引っ込めて、口元を引き結んでいる。



「優勝はっ──!」

 フィオナが、白い封筒を開く。



「西区『薔薇亭』、エレナ・フォスター様ですっ!!」



 会場が、爆発した。

 歓声と拍手の渦の中で、エレナが、ゆっくりと審査員席の前に歩み出た。栗色の髪が、魔導灯の光を受けて、柔らかく揺れる。彼女は、深く頭を下げ、それから顔を上げて、満面の笑みを観客に向けた。


「ありがとうございますっ!」


 明るい声が、会場の天井まで突き抜けた。

 その後、二位、三位の発表が続いた。二位は『ラ・メゾン・ドール』のレオン、三位は『ラシェット・ブルー』のハインリヒ。


 そして──。


「四位は、東区『銀の厨房』、春原祐一様ですっ!」


 春原は、頭を下げた。

 四位。決勝四組のうちの、最下位。


 覚悟していなかった結果ではない。この決勝戦に立った三組が、それぞれ途方もない実力者だったのだ。彼らと同じ舞台に立ち戦ったことそのものが、すでに望外の僥倖だった。


 それでも──。


 胸の奥で、何かが、ずん、と重く沈んだ。

 その重さの正体を、春原は、まだ、知らなかった。



 ◆◆◆◆◆◆



 表彰式は、淡々と進んだ。


 舞台袖を降りた春原は、賑わう会場の端へと、ルオットと並んで立っていた。

 観客たちは三々五々、出店の方へ流れていき、撤収を始めた事務局の係たちが、長卓の上の皿を片付け始めている。大会が終わった会場の余韻を、夕暮れの光が、淡く包んでいた。


「……なんかこう、あっちゅう間に終わったな」

 ルオットが、ぽつりと言った。


「はい、本当にあっという間でしたね。四位でしたけど」

 春原も、淡々と答えた。


「……なんや、結果に納得いってないん?」

「……いえ、納得はできてはいるんです。ただ……」


 春原は、視線を、床に落とした。


「全部出し切れた、と思うんです。──自分の手の中にあるものを、最後の一滴まで、絞り出せました。それは、自分でも、わかります」


 言葉を、ひとつひとつ、選びながら続ける。


「でも、それでも四位なんですよね──ぜんぶ出して、あの三人の背中には届かなかった」


 夕暮れの光が、春原の頬を、淡く染めていた。


「……」

「自分は、まだまだだったんだな、って」


 ルオットは、しばらく黙って、彼の横顔を見ていた。

 その目には、責めも、慰めもなかった。ただ、年下の青年の言葉を、まっすぐに、受け止めていた。


「『まだまだ』か、上には上がおるんはワイもいやっちゅうほど経験して来たから、痛いほどわかるわ。……けどな」


 ルオットは、自分の頭を、ぐしゃりと撫でた。


「今まで料理して来た中で、あんな面白い四十分、初めてやったで」


 春原は、ルオットの横顔を見つめた。


「『樽、ぶっ壊してください』言われた時は、本気でビビったで。『何、言うとんねんこいつ』思うた。決勝のど真ん中でハンマー振り回せって、そんなアホな指示があるかいな、って」


 ルオットは、笑いを堪えるように、肩を揺らした。


「せやけどな──やってみたら、悪い気は、ぜんぜんせんかったわ」

 その声が、ふと、低くなった。



「……楽しかったで」



 ルオットが、呟いた。


「料理って、楽しいもんやな」


 その声には、彼が若い頃に置いてきた何かが、確かに灯っていた。


「……はい」


 春原は、頷いた。

 その時、軽い足音がこちらに向かって、駆けてきた。


「春原っ!」


 顔を上げると、赤いリボンを揺らしながら、クラリスが走ってくるところだった。


「クラリス!」


 春原が応えると、クラリスは、最後の数歩を、勢いよく駆け寄ってきた。そして、そのまま、ぐいっと、春原の腕に手を伸ばす。叩く、というよりは、確かめるように、彼の腕を二回、ぱしぱしと叩いた。


「あんた、ほんっと──」


 言葉が、続かなかった。

 クラリスは、顔を伏せた。赤いリボンが、ふわりと前に揺れた。


「ほんっと……よくやったわよ」


 声が、ほんの少しだけ、震えていた。


「観客席で、ちゃんと見てたから。あんたが、調理台の前で止まっちゃった時から、樽が割れた時、炎が立ち昇った時──ちゃんと全部、見てたからっ」


 ようやく顔を上げた彼女の瞳には、走った時の汗とは違うものが、薄く、滲んでいた。


「お店のことも、もう大丈夫だから。リュカも、ちゃんと頑張ってくれたから。だから、今日のあんたが舞台の上でやったこと、ぜんぶ無駄になんてなってない」


 春原は、何も、言えなかった。

 胸の奥が、じんと、熱くなった。


「……ありがとう、クラリス」

 ようやく、それだけを、絞り出した。


「……ところで、ルオットさん」

「ん? なんや、クラリスちゃん」


「なんで決勝の舞台で、補助者として出てたんですか? というか、ソラリス商会の人間が、出場店の補助者やってよかったんですか?」


「……っ」


 ルオットが、わずかに息を呑んだ。


「ま、まあ、これにはな深い、深ぁい理由があってやな……ちゃんと、運営に話はしとる──」


 ルオットの目が、忙しなく左右に泳いだ。

 その時。


「ル、ルオットさーん! どこにいますか!! あっ、いた!!」


 会場の中央の方から、慌てた声が飛んできた。

 運営の腕章を巻いた、若い男だった。彼は、人波を縫って、必死に駆け寄ってきている。樽の件で、ルオットに食ってかかってきた、あの備品担当者だった。


「お、おーぅ、ここやー、ここおるで……」


 ルオットの声が、急に、明らかに、弱くなった。


「あー、見つかってよかった。ルオットさん、カーク当主が今回のことについて説明するようお呼びです」

「…………あー、わかった、わかった」


 ルオットの顔から、すうっ、と、血の気が引いた。


「……はぁ、ちょっと、怒られに行ってくるわ。ほなな……春原はん。──もし、ワイがしばらく現れんかったら、ええ酒を、ワイの墓前に供えてくれ」

「ル、ルオットさん……」


 ルオットは足取りはふらふらと、運営の男に連れられて、人混みの方へと消えていった。


 二人は、顔を見合わせて、小さく笑った。

 その時──。


「春原くーん!」


 明るい声が、こちらに向かって、弾けた。




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