第169話:黄昏に灯し琥珀の誓い(4)
燃え上がってから、ほんの数秒の出来事だった。
長く感じた。けれど、実際には、瞬きを数回するほどの時間しか流れていなかった。
会場が、静まり返っていた。
すべての音を奪うほどの、奇妙な空白が、会場を支配していた。
「あ……」
ようやく、フィオナの口から、小さな声が漏れた。
彼女は、はっとしたように、自分の手の中の魔導具を握り直した。
「えっ、ええっと……皆様、ご覧になられましたかっ! いま、いま、舞台の上で……『銀の厨房』春原選手の調理台から、煌めく炎が、立ち昇りました!」
声が、わずかに震えていた。それは演出のための震えではなく、本物の動揺だった。
「銀の厨房、銀の炎ではなく……また、別の炎を……あれって……」
言葉が、続かない。
フィオナは『銀の厨房』を黎明市で見たことがある。あの時の銀色の炎は、彼女の記憶の奥に、星屑のように瞬きながら残っていた。けれど、いま見たのは、あの炎ではなかった。深い茜を帯びた、黄昏に揺れるような琥珀の炎。
「あれは……」
フィオナは、頭の中で言葉を探しながら、審査員席を振り返った。すがるような視線が、解説席のアレクシスへと向けられる。
彼は、ゆっくりと顔を上げると、淡々とした声で、ただ一言だけ、告げた。
「魔素入りの香辛料を使ったようですね」
その声は、感想ではなかった。
ただ、目の前で起きた事象を、料理人として観察し、観察した結果を、そのまま音に変えただけ。それ以上でも、それ以下でもない、淡白な事実の宣告。
その一言が落ちた瞬間──。
会場の空気が、ぴしりと、亀裂を入れた。
ざわ、と。
観客席の一角で、誰かが息を呑む音がした。それが連鎖した。一人、また一人と、言葉がこぼれ始める。最初は囁きだった。けれど、その囁きは、波紋のように広がっていった。
「……魔素入り……?」
「待て、それは……魔素中毒の疑いが出てた、あの店じゃなかったか」
「魔素中毒の疑惑がかけられている店が、まさか……」
ざわめきは、瞬く間に、会場全体を呑み込んでいった。
先ほどまでの、あの琥珀色の余韻に呑まれた静寂は、もうどこにもなかった。代わりに広がっていくのは、警戒、戸惑い、そして──確かな、恐怖の色。
すべて、舞台の上の春原に集まっていた。
審査員席の何人かが、互いに何かを囁き合い始めている。
決勝の舞台で、最も繊細な食材であるシャトーブリアンに対して、よりによって、魔素を含む香辛料を堂々と用いた。それも、魔素中毒の疑惑をかけられているまさにその店が。
観客席の縁では、クラリスが両手を膝の上で握りしめていた。
「春原……」
彼女の唇が、声にならない声で、その名を呼んだ。
いま、舞台の上の春原に向けられているのは──これまで『銀の厨房』が積み重ねてきた信頼のすべてを、一瞬で覆すほどの、冷たい疑念だった。
春原は、その疑念の渦の中心に、立っていた。
春原は、調理台の縁に手を置いた。
──ここで、証明しなければならない。
ならば。
料理人の答えは、たった一つしかない。
春原の手が、切り分けられたシャトーブリアンへと伸び、自分の口へと運んだ。
ひと噛み、ふた噛み。歯の下で、肉の繊維が、ほろりと、しかし弾力をもって、ほどけていく。表面の香ばしさが舌の先で弾け、次にやってくる、内側のしっとりとした旨みが、口の中いっぱいに広がる。
琥珀の炎で焼き切られた魔素は、毒の痺れを、一片たりとも残してはいなかった。
あるのは、深く、芳醇な、まるで黄昏の終わりに灯された火を見つめているような、静かで、優しい味わい。舌の上を撫でていく、まろやかな脂の甘みと、その奥に確かに息づく、金剛牛の野性的な力強さ。
あるのは、ただ、料理として完成された、揺るぎない味の調和。
そして、フォークを、まな板の上に静かに置いた。
倒れもせず。苦しみもせず。
顔色一つ変わらず──ただ、静かに、観客席を見渡した。
会場が、しん、と、新たな種類の静寂に包まれた。
観客席の片隅で、誰かが、小さく息を吐いた。
その吐息が、伝染した。
「……大丈夫、なのか?」
「……問題はないようだが」
「中毒なら、もう、出てるはずだろう」
ざわめきが、もう一度、波のように広がっていく。
──その時だった。
「春原はん! こっちはええ感じやけど、もう時間ないで!」
すぐ隣の調理台から、低く、しかしはっきりと、声が飛んだ。
すかさず春原は残り時間を示す時計に目を移す。
残り、二分。
ルオットが、燻製鍋の蓋に指をかけた。鍋の縁から、白く、しかし力強い煙が、ふわりと立ち昇っている。ウイスキー樽のオーク材を焚き染めた、深い琥珀色の薫りが、調理台の周辺に満ちていた。
「それと、ソースも、もうほとんど煮詰まっとる。最後の調味頼んだで!」
彼の手元の小鍋では──深紫のブルーベリーが、すでに赤ワインと共に、ことことと煮詰められていた。
「……ありがとうございます!」
何もかもがぎりぎり、だった。けれど、もう、焦りはなかった。
ルオットが手際よく仕込んでくれていた『ブルーベリーソース』。あとは、最後の仕上げだけ。
春原は、ルオットから小鍋を受け取り、火を止めた。木べらで、軽く、ソースの様子を確かめる。深紫から鮮やかな赤紫へと変わった果汁が、絹のような線を引いて、ゆっくりと落ちていく。とろみは、ちょうどいい。
最後に、肉を焼いたフライパンに残っていた金剛牛の肉汁を、ソースに、つっ、と一筋。果実の甘酸っぱさと、肉の深い旨味が、最後の最後で、溶け合った。
残り、一分十秒。
切り分けた『琥珀の炎で焼いたシャトーブリアン』を、ふたたび手に取る。
それを、皿の中央左側に一切れ、すっと据えた。
残り、四十秒。
ルオットが、深く琥珀色に染まった『ウイスキーチップの燻製シャトーブリアン』の一切れを、慎重に取り上げ、春原に差し出した。
「頼んだで」
言葉は、それだけだった。けれど、その一往復に、半年も二人で並んできたかのような、確かな信頼があった。
二切れの肉が、一枚の皿に、寄り添うように並ぶ。
琥珀色の炎で焼いた一切れと、琥珀色の煙で薫らせた一切れ。
残り、二十五秒。
春原は、ルオットが添えてくれていた根菜のソテーを、皿の余白に、丁寧に配した。淡い黄金色に焼き上がった、彩りの一片。
残り、十秒。
最後に、ブルーベリーソース。
春原は、小鍋からスプーンでソースを掬い、肉の脇にソースを流した。
残り、四秒。
深紫のソースが、皿の白を背景に、艶やかな弧を描いて広がっていく。
残り、二秒。
最後の一滴が、皿の上に、落ちる。
残り、一秒──。
「終了ぅ────っ!!!」
時計と、寸分違わぬ瞬間に、フィオナの声が、会場の天井へと突き抜けた。
張り詰めていた空気が、その一声で、一気に解き放たれた。
春原の手の中で、一枚の皿が、完成していた。
会場が、爆発した。
地鳴りのような歓声が、会場の天井を、突き上げる。立ち上がる者。叫ぶ者。先ほどまでの疑念のざわめきは、もうどこにもなかった。代わりに広がっていったのは、純粋な、感嘆と興奮の渦。
春原は、一度、ゆっくりと、息を吐いた。
肩から、すべての力が、ふっと抜けていく。
料理人としての、半年間。
リュカと積み上げた、すべての朝。
クラリスが届けてくれた、走り抜けた想い。
ルオットが隣で肩を並べてくれた、その情。
すべてが、この一皿の上に、確かに乗っていた。




