表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
183/189

第169話:黄昏に灯し琥珀の誓い(4)


 燃え上がってから、ほんの数秒の出来事だった。

 長く感じた。けれど、実際には、瞬きを数回するほどの時間しか流れていなかった。


 会場が、静まり返っていた。

 すべての音を奪うほどの、奇妙な空白が、会場を支配していた。


「あ……」


 ようやく、フィオナの口から、小さな声が漏れた。

 彼女は、はっとしたように、自分の手の中の魔導具を握り直した。


「えっ、ええっと……皆様、ご覧になられましたかっ! いま、いま、舞台の上で……『銀の厨房』春原選手の調理台から、煌めく炎が、立ち昇りました!」


 声が、わずかに震えていた。それは演出のための震えではなく、本物の動揺だった。


「銀の厨房、銀の炎ではなく……また、別の炎を……あれって……」


 言葉が、続かない。

 フィオナは『銀の厨房』を黎明市で見たことがある。あの時の銀色の炎は、彼女の記憶の奥に、星屑のように瞬きながら残っていた。けれど、いま見たのは、あの炎ではなかった。深い茜を帯びた、黄昏に揺れるような琥珀の炎。


「あれは……」


 フィオナは、頭の中で言葉を探しながら、審査員席を振り返った。すがるような視線が、解説席のアレクシスへと向けられる。

 彼は、ゆっくりと顔を上げると、淡々とした声で、ただ一言だけ、告げた。


「魔素入りの香辛料を使ったようですね」


 その声は、感想ではなかった。

 ただ、目の前で起きた事象を、料理人として観察し、観察した結果を、そのまま音に変えただけ。それ以上でも、それ以下でもない、淡白な事実の宣告。


 その一言が落ちた瞬間──。

 会場の空気が、ぴしりと、亀裂を入れた。


 ざわ、と。


 観客席の一角で、誰かが息を呑む音がした。それが連鎖した。一人、また一人と、言葉がこぼれ始める。最初は囁きだった。けれど、その囁きは、波紋のように広がっていった。


「……魔素入り……?」

「待て、それは……魔素中毒の疑いが出てた、あの店じゃなかったか」

「魔素中毒の疑惑がかけられている店が、まさか……」


 ざわめきは、瞬く間に、会場全体を呑み込んでいった。

 先ほどまでの、あの琥珀色の余韻に呑まれた静寂は、もうどこにもなかった。代わりに広がっていくのは、警戒、戸惑い、そして──確かな、恐怖の色。


 すべて、舞台の上の春原に集まっていた。

 審査員席の何人かが、互いに何かを囁き合い始めている。


 決勝の舞台で、最も繊細な食材であるシャトーブリアンに対して、よりによって、魔素を含む香辛料を堂々と用いた。それも、魔素中毒の疑惑をかけられているまさにその店が。


 観客席の縁では、クラリスが両手を膝の上で握りしめていた。


「春原……」


 彼女の唇が、声にならない声で、その名を呼んだ。

 いま、舞台の上の春原に向けられているのは──これまで『銀の厨房』が積み重ねてきた信頼のすべてを、一瞬で覆すほどの、冷たい疑念だった。


 春原は、その疑念の渦の中心に、立っていた。


 春原は、調理台の縁に手を置いた。

 ──ここで、証明しなければならない。


 ならば。

 料理人の答えは、たった一つしかない。

 春原の手が、切り分けられたシャトーブリアンへと伸び、自分の口へと運んだ。


 ひと噛み、ふた噛み。歯の下で、肉の繊維が、ほろりと、しかし弾力をもって、ほどけていく。表面の香ばしさが舌の先で弾け、次にやってくる、内側のしっとりとした旨みが、口の中いっぱいに広がる。


 琥珀の炎で焼き切られた魔素は、毒の痺れを、一片たりとも残してはいなかった。


 あるのは、深く、芳醇な、まるで黄昏の終わりに灯された火を見つめているような、静かで、優しい味わい。舌の上を撫でていく、まろやかな脂の甘みと、その奥に確かに息づく、金剛牛の野性的な力強さ。


 あるのは、ただ、料理として完成された、揺るぎない味の調和。

 そして、フォークを、まな板の上に静かに置いた。


 倒れもせず。苦しみもせず。

 顔色一つ変わらず──ただ、静かに、観客席を見渡した。

 会場が、しん、と、新たな種類の静寂に包まれた。





 観客席の片隅で、誰かが、小さく息を吐いた。

 その吐息が、伝染した。


「……大丈夫、なのか?」

「……問題はないようだが」

「中毒なら、もう、出てるはずだろう」


 ざわめきが、もう一度、波のように広がっていく。

 ──その時だった。


「春原はん! こっちはええ感じやけど、もう時間ないで!」


 すぐ隣の調理台から、低く、しかしはっきりと、声が飛んだ。

 すかさず春原は残り時間を示す時計に目を移す。


 残り、二分。

 ルオットが、燻製鍋の蓋に指をかけた。鍋の縁から、白く、しかし力強い煙が、ふわりと立ち昇っている。ウイスキー樽のオーク材を焚き染めた、深い琥珀色の薫りが、調理台の周辺に満ちていた。


「それと、ソースも、もうほとんど煮詰まっとる。最後の調味頼んだで!」


 彼の手元の小鍋では──深紫のブルーベリーが、すでに赤ワインと共に、ことことと煮詰められていた。


「……ありがとうございます!」


 何もかもがぎりぎり、だった。けれど、もう、焦りはなかった。

 ルオットが手際よく仕込んでくれていた『ブルーベリーソース』。あとは、最後の仕上げだけ。


 春原は、ルオットから小鍋を受け取り、火を止めた。木べらで、軽く、ソースの様子を確かめる。深紫から鮮やかな赤紫へと変わった果汁が、絹のような線を引いて、ゆっくりと落ちていく。とろみは、ちょうどいい。


 最後に、肉を焼いたフライパンに残っていた金剛牛の肉汁を、ソースに、つっ、と一筋。果実の甘酸っぱさと、肉の深い旨味が、最後の最後で、溶け合った。


 残り、一分十秒。

 切り分けた『琥珀の炎で焼いたシャトーブリアン』を、ふたたび手に取る。

 それを、皿の中央左側に一切れ、すっと据えた。


 残り、四十秒。

 ルオットが、深く琥珀色に染まった『ウイスキーチップの燻製シャトーブリアン』の一切れを、慎重に取り上げ、春原に差し出した。


「頼んだで」


 言葉は、それだけだった。けれど、その一往復に、半年も二人で並んできたかのような、確かな信頼があった。


 二切れの肉が、一枚の皿に、寄り添うように並ぶ。

 琥珀色の炎で焼いた一切れと、琥珀色の煙で薫らせた一切れ。


 残り、二十五秒。

 春原は、ルオットが添えてくれていた根菜のソテーを、皿の余白に、丁寧に配した。淡い黄金色に焼き上がった、彩りの一片。


 残り、十秒。

 最後に、ブルーベリーソース。

 春原は、小鍋からスプーンでソースを掬い、肉の脇にソースを流した。


 残り、四秒。

 深紫のソースが、皿の白を背景に、艶やかな弧を描いて広がっていく。


 残り、二秒。

 最後の一滴が、皿の上に、落ちる。


 残り、一秒──。


「終了ぅ────っ!!!」


 時計と、寸分違わぬ瞬間に、フィオナの声が、会場の天井へと突き抜けた。


 張り詰めていた空気が、その一声で、一気に解き放たれた。

 春原の手の中で、一枚の皿が、完成していた。


 会場が、爆発した。

 地鳴りのような歓声が、会場の天井を、突き上げる。立ち上がる者。叫ぶ者。先ほどまでの疑念のざわめきは、もうどこにもなかった。代わりに広がっていったのは、純粋な、感嘆と興奮の渦。


 春原は、一度、ゆっくりと、息を吐いた。

 肩から、すべての力が、ふっと抜けていく。


 料理人としての、半年間。

 リュカと積み上げた、すべての朝。

 クラリスが届けてくれた、走り抜けた想い。

 ルオットが隣で肩を並べてくれた、その情。 


 すべてが、この一皿の上に、確かに乗っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ