表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
182/189

第168話:黄昏に灯し琥珀の誓い(3)


 そして──ルオットの隣で春原は、ゆっくりと、息を吸い込んだ。


 調理台の上に置かれた、小ぶりの陶器の瓶。革紐で封じられた、リュカからの託しもの。春原は、その瓶を、持ち上げた。


 中身は魔素を含んだ香辛料。

 扱い方を一歩でも誤れば、ただの毒に変わるもの。


 けれど──リュカは、これを春原に託した。

 春原は、新しく切り分けた金剛牛のシャトーブリアンに、向き直った。

 

 ──ここからが、本番だ。


 魔素香辛料は、このままだと「猛毒」のまま。中途半端な火入れでは、毒素は抜けず、肉に渋く重い不快な痺れだけを残す。これを完全に焼き切るためには、ほんの一瞬で、表面温度を爆発的に上げなければならない。


 ──けれど。春原の指先が、肉の表面に触れた。


 しっとりと、けれど決して脂の多くない、密に詰まった繊維。シャトーブリアンの最大の魅力でありながら、最大の弱点でもある、その「無垢な肉質」。


 これを魔素を焼き切る高温で焼けば、どうなるか。


 繊維が縮み、内部の水分は一瞬で絞り出される。柔らかさは消え失せ、口に入れた瞬間に、硬く、ぼそついた、ただの焼けた肉塊。まさに金剛へと変わってしまう。



 ──まさに最悪の組み合わせ。



 普通の料理人なら、ここで諦める。「魔素香辛料を、シャトーブリアンに使う」という選択肢そのものを、頭の中の引き出しから捨てる。それが、当たり前の判断だった。


 リュカであれば、獣耳と指先の感覚で、内部温度の変化を「聴き」ながら、繊細に火を操ることで、その不可能すら可能にしてしまうほどの才能と技量がある。


 春原には、それができない。

 だから、別の手で行く。


 ──肉そのものを、冷やしてしまう。


 春原は、調理台の下から金属のバットを取り出した。その中を氷水で満たす。そこに、塩を一つかみ。氷の融点を一気に下げ、温度を氷点下近くまで沈めていく。


 そのバットの上に、さらに薄い金属のバットを重ねた。


 氷水の冷気を吸い、瞬時に極低温の「氷の床」へと変貌したその金属板の上へ、シャトーブリアンをそっと寝かせた。


 肉が、極低温に晒される。


 そして肉の表面に、岩塩を、ほんの少しだけ。

 黒胡椒を荒く挽き、軽く擦り付ける。香りを立たせるためだけの、最小限の下味。今回はこの後で、もっと強い香りが肉を包む。下味は、その強い香りを邪魔しない程度の、控えめなものでいい。


 そして──春原は、リュカから託された瓶を、手に取った。


 蓋を開け、香りが立ち昇る。

 春原は、肉の表面に、その香辛料を、振りかけ始めた。


 ごくごく細かい、粉末状の結晶。光を受けると、不思議な煌めきを放つ。

 それを、肉の表面に、まんべんなく。


 多すぎても、少なすぎてもいけない。多ければ毒が肉を侵す。少なければ、肉の旨みに負けてしまう。リュカが店で何度も繰り返していた動き。その「ひとつまみ」の感覚を、春原は指先で再現していった。


 一度、二度、三度。

 香辛料が、肉の油分と微かに混ざり合い、表面に薄い膜を作っていく。

 春原は、その様子を見つめながら、深く、息を吸い込んだ。


 ──よし。


 春原は、すかさず、フライパンに火を入れた。

 強火。最初から、容赦のない火力。フライパンの底が、熱を孕んで煙が昇る。澄ましバターを、その熱の中に落とす。バターが、瞬時に弾けて、香りが立った。


 右手には、冷気を纏ったシャトーブリアン。


 息を、止める。


 ──三、まだ、その時じゃない。

 ──二、フライパンの熱が上がりきるその時まで。

 ──一、ここだ。


 春原は、肉をフライパンに置いた。


 じゅっ、と、これまでで一番大きな音が立った。冷えた肉と、熱されたフライパンの底が出会い、その温度差が一瞬で爆ぜる。


 瞬間──春原は、ルオットが樽から抜いたウイスキーを、フライパンの中へと、薄く撒いた。

 次の一秒で、調理台の竈の火を、肉の側へと跳ね上げた。


 炎が、立ち昇る。

 最初は鮮やかな青。アルコールが燃える、清廉な蒼い炎。けれど、その青は瞬時に揺らぎ、奥から別の色が滲み出してくる。


 黄。

 橙。

 そして──琥珀。


 わずかに茜色を帯びた『琥珀の炎』。

 立ち昇る炎の中で魔素の結晶が弾け、ゆらゆらと煌めいていた。


 会場が、息を呑んだ。

 観客席のざわめきが、ぴたり、と止まった。


 司会のフィオナの声も、解説のアレクシスの呼吸も、その瞬間、すべてが止まったように、春原には感じられた。


 琥珀の炎は、シャトーブリアンの表面を、優しく、けれど力強く煌めきと共に包み込んでいく。普通の炎のように荒々しく踊るのではなく、まるで生きているように、肉の表面を撫でるように、ゆっくりと、確かに、燃え盛っていた。


 その炎の色を見た瞬間──。

 春原の胸の奥で、何かが、ゆっくりと、ほどけていった。


 黄昏に灯るかのような琥珀の炎。

 それは、いつかどこかで見た色だった。


 召喚されて、半年。

 リュカとアレクシスが共に料理交流をしていた日。お互いを尊重し、認め合う、料理人同士の会話。そこに、自分が入る余地は、どこにもなかった。

 あの時、黄昏に染まる『銀の厨房』の片隅で、ただ無力な傍観者として、春原は立ち尽くすしかなかった。



 その時に、自分は、確かに誓ったのだ。

 『料理ができるようになりたい』と。



 あの夕暮れに灯った『誓い』は、消えていなかった。

 ただずっと、密かに自分の胸の奥底で、消えずに燃え続けていた。


 そして、いま──。

 その『誓い』が、ようやく目の前の炎となって、自分の前に姿を現した。


 炎の中で、シャトーブリアンの表面が、急速に変わっていく。魔素香辛料が、爆発的な熱で焼き切られ、毒素が芳醇な香気へと姿を変えていく。表面のメイラード反応が極限まで加速し、キャラメルにも似た深い甘さが、肉の旨味と絡み合って、立ち昇り始めた。


 香りが、会場全体に、静かに広がっていった。


 観客席のあちこちで、誰かが小さく息を漏らす。それは、感嘆の息だった。目の前の光景に、息を奪われた者が、思わずこぼしてしまう、そんな声。


 炎は、数秒、燃えた。

 長すぎず、短すぎず。冷気で守られた肉の内部が、ちょうど余熱でじわりと温まり始める、その絶妙な時間。


 春原は、フライパンを、ふっと動かした。

 その動きで、炎は、すっと消えていった。


 まるで、最初から燃えていなかったかのように。張り詰めていた会場の空気だけが、その琥珀色の余韻を、静かに、長く、抱きしめていた。



 息が、ようやく、戻ってきた。


 ──僕は、もう。

 彼の胸の奥で、声にならない声が、せり上がってきた。




 ──もう、無力なんかじゃない。




 誰に告げる言葉でもなかった。

 観客にも、審査員にも、アレクシスにも。


 ただ、自分自身に向けて、確かに、それを告げた。


 半年前の自分は、確かに何者でもなかった。流されて、流されて、ここまで来た青年。

 けれど、もう、そうじゃない。


 リュカの隣で、リュカに教えられて、リュカと一緒に積み上げてきた半年間。

 それは、誰かの真似ではなかった。誰かの代わりでもなかった。あれは確かに、春原祐一という一人の人間が、自分の手で、自分の意志で、選び取ってきた道だった。


 無力だと思っていた。

 無力だと自分を縛ることで、戦うことから、自分を逃がそうとしていただけだった。


 けれど、無力なまま、ここまで来たのではなかった。


 春原は、目を閉じた。


 心の中の、もう一人の自分が、まだそこにいた。

 けれど、その姿は、もう先ほどまでのように責めるような顔をしていなかった。同じ顔の自分は、ただ静かに、こちらを見ていた。




 「よかった……君は、もう、あの日の僕じゃないね」




 もう一人の自分が、そう言って、薄く、本当に薄く、寂しそうに微笑んだ。

 それきり、その姿は、ふわりと、空気に溶けるように、消えていった。


 春原は、目を開けた。


 視界が、はっきりとしていた。フライパンの上の余韻。会場の喧騒。ルオットの傍らで揺らめく燻製鍋の煙。すべてが、生々しい解像度で、戻ってきていた。


 炎が消えたフライパンの上には黒く焦げた塊ではなく──艶やかな、鳶色の光沢を持つ、完璧なシャトーブリアンが、横たわっていた。


 香辛料は焼き切られ、表面には、香ばしさと甘さの混じり合った、見事な焼き目だけが残っている。指先で表面に触れれば、しっかりと張り詰めた感触。けれど、その内側には──。


 春原には、見えなくても、わかった。


 内側には、まだ、生まれたての透明な肉汁が、確かに眠っている。冷気の鎧と、瞬時の高温調理。その時間差が、肉の内部を「完璧な状態」へと、今、静かに導いている。


 春原は、肉を、保温の効く鉄板の上へと、そっと移した。

 ここから先は、肉自身が、自分で仕上がっていく時間。余熱が、内部の温度をゆっくりと、五十四度へと運んでいく。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ