第167話:黄昏に灯し琥珀の誓い(2)
2026/05/03:誤字を修正。
「ルオットさん」
春原は、隣に立つ男に、はっきりと告げた。
「もう一度、新しく焼き直します」
ルオットの動きが、止まった。
眉が、ぴくりと跳ねた。次の瞬間には、彼の目が、これ以上ないほどに見開かれていた。
「は……はあぁっ!?」
思わず、調理用のハサミを取り落としそうになる。慌てて握り直したルオットは、まじまじと春原を見つめた。
「春原はん、自分、何言うとるん!? あと十五分やで!? 今からもう一枚焼き直すって、そんな──」
「大丈夫です。いままで焼いたシャトーブリアンも使いますので」
春原は、迷いのない声で、それを遮った。
「それにルオットさん、忘れたんですか? 僕たち四十分で五十皿、作ったじゃないですか」
ルオットの口が、半開きになったまま、止まった。そして喉から、ぐっ、と、空気の塊のような笑いが漏れた。
「……はははっ!! あー、そうやったな! 確かに、その通りや」
「あの時に比べれば、十五分で一皿は、十分です」
「言うたな、春原はん」
ルオットは、袖をもう一度まくり直した。腰を落とし、調理台に向き直る。その身体に、新たな緊張ではなく、確かな歓びが満ちていた。
「ほな! やったろうやないか! 春原料理長、指示、頼んだで!」
春原は、周囲を見渡した。周りの調理台では、佳境に差し掛かった三組の料理人たちが忙しなく動き続けている。──そして、食材達が置かれている棚のある一点で目が止まる。
それから、ルオットに身体を寄せ、声を潜めた。
短く、低く。観客にも、他の調理台にも、聞こえない声で、いくつかの言葉を、ルオットの耳元に流し込む。
言い終えるのに、十秒もかからなかった。
けれど、その十秒の間に──。ルオットの顔から、徐々に、表情が抜け落ちていった。
「…………ルオットさん?」
「…………はぁあああ!?」
彼の声が、控えめに、けれど確かに、裏返った。
「えっ、それほんまにワイがやるん? 春原はん、それ、ワイがやるん!? あかん、びっくりしすぎてもうて、二回おんなじこと言うてもうた」
「はい。お願いします」
春原は、頷いた。淡々と、けれど目は笑っていない。
「僕は、新しく焼くシャトーブリアンの調理を行います。だから、お願いします」
「あぁ、まじかいな……」
ルオットは自分の頭を、両手でぐしゃぐしゃと撫で回した。それから、左右を見回した。観客席。審査員席。他の三組の調理台。注がれている、無数の視線。
「ワイ、こんな大衆の前で、そないなことせんとあかんのか……」
その声は、本当に、嫌そうだった。
「ああ……ああ、わかった! もうええわ! 腹括るしかないな!」
ルオットは、両頬を、自分でぱしんと叩いた。気合を入れる音だった。
「春原はん! 絶対、後で美味い飯、奢ってもらうで!」
「はい、何でも」
春原は、わずかに笑って、答えた。そして、二人の手が、同時に動き始めた。
──春原は、新しい金剛牛のシャトーブリアンに、向き合う。
包丁を握り直す。先ほどとは、違う握り方だった。指先に、確信があった。深い紅色の肉塊に、刃を当てる。
滑らかな手応え。シャトーブリアンの繊維が、刃の前で、抵抗もなく開いていく。
──ルオットは、調理台を離れ、会場の壁際へと向かった。
そこには、出場者が自由に使える食材棚が、ずらりと並んでいた。各種の調味料、香辛料、油、酒。決勝戦に相応しい、王都でも一級品ばかりが揃えられた、料理人にとっての宝の山。
ルオットの足は、その棚の一角で、止まった。
壁に沿って据え付けられた、大ぶりの木製の樽。容量にして、四十リットルはあろうかという代物。胴の表面には、深く刻まれた焼き印。茶色く焦がれた木肌。
ルオットは、その樽の側面に、両手を当てた。腰を落とし、ぐっと力を込めて、台の上に載せられたその樽を、ゆっくりと転がし始めた。
ごろり、ごろりと、木の樽が、床の上を転がる重い音が、会場に響いた。
観客席のあちこちで、ざわめきが起こった。司会のフィオナの声が、戸惑いを隠せずに響く。
「えっ、ええっ!? 食材棚から……あ、あれは、『ウイスキー樽』です! 会場備え付けの、本格的な樽を、まるごと運んでいます!」
ルオットは、樽を載せた台車を、調理台の傍まで運んできた。樽の重みで、台車の車輪が、ぎしぎしと鳴いた。彼の額には、すでに汗が浮かんでいた。
「えー、ええっと、ウイスキーをフランベにお使いになるのでしょうか!? 強いお酒の風味を肉に纏わせる、という意図なのでしょうかっ!! でも、あの量を使う? ど、どういうこと? はい、解説のアレクシスさん──!」
審査員席のアレクシスは、まだ何も言わなかった。彼は、薄く目を細めて、ルオットの動きを観察していた。
そして、ウイスキー樽の栓を抜く。中から琥珀色のウイスキーを、用意した鍋に丁寧に注ぎ移す。
そこまでは、よかった。
ルオットは、栓を抜いたままの樽を横目に、すたすたと、会場の隅へと歩き出した。
そこには、会場の備品が並べられた一角があった。脚立、設営のために使われたであろう工具──そして、ルオットは迷いなく、『一つの工具』に手を掛けた。
「ちょ──ちょ、ちょっと! ルオットさん!? そんなもの、どうするつもりですか!?」
慌てた声が飛んできた。会場の備品担当者だった。腕に「運営」の腕章を巻いた、若い男。
「ええやん、ちょっとだけ貸してや! 減るもんやないし!」
「ちょっとだけって……! そもそも、あんた、補助者でもないのに出場してカーク当主カンカンに怒ってますよ! これ以上何かやらかすとヤバいですって!」
「え? ほんま? ちょっと、それは……ああ、ちゃうちゃう! そんなのは後でどうにでもなるから、備品なんやから使ってもええやろ」
「備品ですけど! 用途が違──」
「終わったら、ちゃーんと返すから! な? な?」
ルオットは、にっこりと笑った。ねっとりと押し付けるような笑顔だった。
「い、いや、ですから……」
「ほなな! 借りたで!」
ルオットは、もう返事を待たずに、踵を返した。工具を片手に、調理台の方へと、すたすたと歩き出す。
「ちょ、ちょっと、ルオットさん! 待ってください! えっ、これって、止めなくて大丈夫なんですか!? 誰か、誰かぁっ!」
備品担当者の悲痛な声が、その背中を追いかけたが、ルオットは振り返らなかった。
「すまんな、後でな、後で、奢るからな! ええ酒、奢るから! 春原はんが!」
今度は、笑いの混じったざわめきだった。決勝戦という張り詰めた空気の中で、突然繰り広げられた、補助者と備品担当者の漫才のような攻防に、観客たちの緊張が、ふっと緩んでいた。
「えー、えええっと、ルオット選手、会場の備品を……えー、半ば強引に借り受けたようでして……えー、あの、こ、これ、運営的には、許される行為なのでしょうか……?」
司会のフィオナが、困ったような声で、進行を続けた。
備品担当者は、両手で頭を抱えながら、その場に立ち尽くしていた。
ルオットは、栓を抜いたままの樽の前に戻り、ふう、と一つ、息を吐いた。
そして、譲り受けた備品工具──『ハンマー』を取り出した。
「…………え?」
司会のフィオナの声が、止まった。
ルオットは、ハンマーを構えた。床に据えた樽の上部、栓の抜かれたあたりに向かって、振りかぶる。
ガコォン──!
硬く、乾いた音が、会場に響き渡った。
樽の上蓋部分が、割れた。中に閉じ込められていたウイスキーの香り高い芳香が、会場全体に立ち昇る。
「えっ!? えええっ!? ル、ルオット選手、何故、樽を壊し始めたのでしょうか!?」
フィオナが、絶叫した。
観客席のあちこちから、笑い声のような、戸惑いの声が、湧き上がっていた。
「な、何を始めたんだ、あの男……」
「樽を壊しているぞ……あの店はついに狂ったか」
「もったいない、まだ酒が残っているじゃないか!」
ルオットは、もう一度、ハンマーを振りかぶった。
ガコォン──!
もう一片、樽の側面が、剥がれ落ちた。樽の側面の、ウイスキーが染み込んだ深い茶色の木肌が、剥き出しになる。ルオットの額に、汗が浮かんでいた。けれど、それは作業の汗ではなかった。羞恥の汗だった。
その時──。
「あははっ! ちょっと、なにあれ!!」
明るい笑い声が、隣の調理台から弾けた。
三番調理台。『薔薇亭』のエレナ・フォスターが、自分の調理の手を止めて、お腹を抱えて笑っていた。栗色の髪を揺らし、瞳を細めて、心底おかしそうに、肩を震わせている。
「お姉ちゃん、ちょっと……っ! あ、相手の調理台を笑うのは……!」
隣で、妹のエリナが、慌てて姉の袖を引いた。眼鏡の奥の瞳が、必死に周囲を窺っている。
「だってだって、見てよエリナちゃん! 決勝戦のど真ん中で、樽を壊し始めたよ!? 樽を、ハンマーで! ぶっ壊してる!」
エレナは、笑いを堪えきれずに、調理台に手をついた。
「もう、ほんっと、面白すぎるんだけど……! 決勝でこんなの見せられたら、笑うしかないじゃない!」
「お、お姉ちゃん、声、声大きいって……!」
「あはははっ! いやぁ、春原君って本当に面白いね!? 知らなかった〜!」
エレナは、涙が滲むほどに笑っていた。それは、嘲笑ではなかった。観客と同じ、けれど誰よりも素直な、純粋な楽しさの笑いだった。料理人として、これほど予想外の手を打ってきた相手に対する、ある種の感嘆さえ、その笑いには混じっていた。
彼女は、ようやく笑いを収めると、目尻に浮かんだ涙を、指先でぬぐった。それから、ちらり、と春原の調理台に視線を投げた。
「……でも、面白いだけじゃないわよ、ね。樽を壊して、何をする気かなぁ」
「お姉ちゃん……?」
エレナは、もう一度、ふふっ、と短く笑った。先ほどの大笑いとは、温度の違う笑みだった。
「楽しみになってきちゃった」
調理台のルオットが、その笑い声に気づいて、ちらりとエレナの方を見た。彼の顔が、いっそう赤くなった。
「……やっぱワイ、めっちゃ変な目で見られとるやん……」
彼は、低く、呟いた。観客席の誰にも聞こえない、本当に小さな呟きだった。
「春原はん、これ後でめっちゃ覚悟しといてや。美味い飯に、ええ酒奢ってもらわんと割にあわんで……」
もう一度、ハンマーを振り下ろす。
ガコォン──!
樽の側板が、ついに完全に外れ落ちた。床に転がる、長年ウイスキーを蓄え続けたオークの側板。ルオットは、剥がれた木片を、慎重に拾い上げ始めた。木材の断面の、焦げ茶色の色合いを、注意深く確かめている。
「はははっ!!」
会場の片隅で、笑い声が、上がった。
全員の視線が、その方向へと向いた。
審査員席のアレクシスが、立ち上がっていた。
彼は、口元を片手で覆いながら、肩を震わせていた。普段、決して感情を表に出すことのない、あの冷然とした料理人が──声を上げて、笑っていた。
「そうか、そういうことか……この土壇場で、これか」
彼の声には、まだ笑いの余韻が残っていた。
アレクシスは、ふっ、と息を吐いてから、顔を上げた。蒼い瞳が、ルオットに向けられた。
「ルオット──君はやはり、いい道化だよ」
「ど、道化……? アレクシスさん、それは、つまり──」
司会のフィオナが、混乱したように繰り返した。
「フィオナ嬢。彼らは、ウイスキーではなく、樽を使おうとしているんですよ」
フィオナが、ぱちくりと、目を瞬かせた。それから、無垢な瞳を、まっすぐにアレクシスに向けた。
「えっと……ウイスキー樽って、食べられるんですか?」
「…………」
アレクシスの口元が、ぴくり、と動いた。彼は、額に指を当てて、軽く目を伏せた。普段、決して感情を表に出さない男が、ほんの一瞬、何かに耐えるような顔をした。
「……いえ、フィオナ嬢。樽そのものを、食材として用いるわけではありません」
「ち、違うんですか!? てっきり、こう、削って、お肉に振りかけるのかと──」
「いえ。彼らはおそらく──『燻製』にするために、樽を使おうとしているのでしょう」
「く、燻製……! あの、お肉を煙でいぶす、あれですよね!?」
「ええ、そうです」
アレクシスは、頷いた。
「長年ウイスキーが染み込んだオークの木材は、燻製用のスモークチップとして、最上の素材となります。樽の中で何年もウイスキーが熟成される間に、木材の繊維の奥深くまで、芳香が染み込んでいる。それを薄く削り出し、火にかけることで、ウイスキーの甘い香気と、木の深い香ばしさが、一体となって食材に纏わりつく」
「えっ、なるほど──! いやー、すみません、私ったら、樽をそのまま食べるのかと──」
「フィオナ嬢、それはさすがに無理があります」
「で、ですよねぇ……!」
会場のあちこちから、くすくすと笑い声が漏れた。観客たちの緊張が、また一段、緩んでいく。
ルオットが、自分の髪を、ぐしゃりと撫でた。それから、苦笑いを浮かべた。
「……ま、悪い気はせんわ」
彼は、剥がした木材を、鋭利な小刃で、薄く削り出していった。スモークチップとなる、ウイスキー樽のオーク材。樽の中で長年眠り続けたウイスキーの、深い芳香が、その木材から、ふわりと立ち昇っていた。
ルオットの手は、それからは、迷いがなかった。
調理台の下から、底の深い、密閉用の燻製鍋を取り出す。先ほどまで春原が焼いていた、シャトーブリアンを、その鍋の中へと、慎重に並べていく。
その下に、削り出したウイスキー樽のオーク材を、敷き詰める。
ルオットは、燻製鍋の蓋を閉じ、鍋に火にかける。
鍋の隙間から、わずかに、煙が、立ち昇り始めていた。木とウイスキーの、芳醇な香りを纏った煙が。
観客席が、再びざわめいた。
けれど、それは、もう、戸惑いのざわめきではなかった。




