第166話:黄昏に灯し琥珀の誓い(1)
「君は、ずっと無力なんだよ。これからも」
その声は、春原祐一の耳の奥で、優しく反響していた。
自分の声だ。けれど、目を逸らし続けてきた、本当の自分が、ようやく姿を現したような、そんな声だった。
調理台の前に立ったまま、春原は動けずにいた。
目の前では、フライパンの上で肉が、じゅうじゅうと音を立てている。バターが焦げ始める甘い香り。鼻先をかすめるその匂いさえ、どこか遠い場所で起こっている出来事のように感じられた。
トングを握る指が、少しずつ、力を失っていく。
──そうだ。
春原は、目を伏せた。
その通りなのだ。自分は、ずっと無力だった。
料理人としての自分は、まだ赤子のようなものだ。包丁の握り方を、火の入れ方を、ソースの組み立てを、何一つ、本当の意味では掴めていない。それでも、ここまで来た。
──ここまで来られた。それで十分じゃないか。
あの『銀の厨房』の下で、リュカの隣に立つことができた。彼女が振り返れば、必ず自分がそこにいるという場所を、自分は手に入れた。給仕として最初に立った時、自分はリュカに何も渡せていなかった。けれど、今は違う。
包丁を、ほんの少しは握れる。
仕込みも、ある程度はできる。
リュカが何かを言いかけた時、その先を、ぼんやりとでも察することができる。
──それで、もう、いいじゃないか。
胸の奥で、何かが、ゆっくりと、降りていくのが分かった。
肩から力が抜けた。視界の端で、フライパンの中の肉が、いい色に焦げ始めている。このまま焼き上げて、ソースを絡めて、皿に盛り付ければ、それで一皿は完成する。無難な、合格点ぎりぎりの一皿。
結果は、伴わないかもしれない。
けれど、リュカさんは、きっと責めないだろう。
あの優しい翡翠色の瞳は、自分が皿を運んできた時、きっといつものように、少し首を傾げて、「お疲れ様でした」と微笑んでくれる。それから、「春原さんは、ここまで頑張ってくださったのですから」と、いつもの控えめな声で言ってくれる。
ここまで頑張ったのだから。
無力だった自分が、ここまで来られたのだから。
春原の手から、トングが、ゆっくりと、調理台の上に置かれた。
──かちん。
その小さな金属音が、なぜか妙に、はっきりと耳に届いた。
戦わなくていい。挑まなくていい。誰かに勝とうとしなくていい。自分は無力なのだから、無力なままで、できる範囲のことをすればいい。
その諦めは、不思議なほど、甘かった。
まるで、ずっと探していた居場所に、ようやく辿り着いたような──そんな、安らぎ。
「えー……あ、あれ……? えーと、皆様……ご覧の通りなのですが……」
会場の上空に、司会のフィオナの声が響いている。けれど、春原にはその声も、自分とは関係のない、遠い世界の音にしか聞こえなかった。
隣で、付け合わせの根菜を切っていたルオットが、ふと手を止めた。
「春原はん」
彼が名前を呼んだ。けれど、春原は反応しなかった。
「春原はん!」
もう一度。
今度は、少しだけ強い声だった。
春原は、ようやく顔を上げた。けれど、その瞳には、焦点が合っていなかった。
「……すみません、ルオットさん」
春原の口から漏れた声は、やけに穏やかだった。
「このまま、焼き上げてしまいます。ソースは、シンプルに……バターと赤ワインだけで」
「……そう、か。わかった、ソースの材料はここにあるからな。けど……」
ルオットは、何かを言いかけて、口を閉じた。彼は、春原の中で何かが折れたことを、確かに見抜いていた。けれど、彼にできるのは、隣で支えることだけだった。料理を作るのは、春原自身でなければならない。
その時だった。
「すのはらぁぁあああああああああああああああああっ!!!!」
空気を切り裂くような、叫びが響いた。
女性の声だった。
けれど、それは、淑女が出すような声ではなかった。腹の底から、喉の奥から、絞り出されるような──そんな、生々しい叫び。
会場が、一瞬で、静まり返った。
観客席のざわめきが、潮が引くように消えた。司会の声も、解説の声も、止まった。誰もが、声の出所を探して、首を巡らせていた。
春原は、ゆっくりと、顔を上げた。
その声を、自分は知っていた。聞き間違えるはずがなかった。
観客席の縁。最前列の柵の向こう側に、彼女はいた。
赤いリボンが、乱れていた。額には、汗が幾筋も流れている。普段は丁寧に整えられている髪は、走ってきたせいで、ほつれて頬にかかっていた。
クラリス・ブライト。
彼女は、観客席の縁から身を乗り出して、まっすぐに、春原を見ていた。その瞳は、潤んでいるように見えた。けれど、涙ではなかった。もっと、別の何かが、その奥で燃えていた。
春原と目が合った瞬間──。
クラリスは、片手を、ぐいっと前に突き出した。言葉は、何もない。ただ、親指を立てて、春原に向かって、にっと歯を見せて笑っただけだった。
それだけだった。
春原の中で、何かが、はじけた。
ああ、と、声にならない声が、喉の奥で漏れた。
──『銀の厨房』は、守られた。リュカさんは、戦い抜いた。クラリスが、その隣で、共に戦った。
誰も、その詳細を語ってくれてはいない。クラリスは、親指を立てただけ。けれど、それで十分だった。彼女のあの笑顔は、勝利の笑顔だった。誇り高い、笑顔だった。「わたしたちは負けなかった」と告げる、そんな笑顔だった。
春原の視界が、ゆっくりと、にじんでいった。
──ああ、胸の奥が、熱い。喉の奥が、痛い。
それは、安堵でもあり、同時に、もっと別の感情でもあった。
これは、恥ずかしさだった。
自分は、何を考えていたのだろう。
たった今、自分は何を諦めようとしていた? ここまで来られたから、もういいじゃないか──そう、自分に言い聞かせていた。それは、何のためだった?
戦わないための、言い訳だった。
自分一人が、舞台の上で、たった一人で背負っているような顔をしていた。リュカさんに託された、そう思っていた。けれど、それは思い上がりだった。
リュカさんも、戦っていた。
クラリスさんも、走り回っていた。
アシュレイも、助けてくれた。
ルオットさんも、隣で肩を並べてくれた。
みんなが、それぞれの戦場で『銀の厨房』のために、戦っていた。
自分だけが、舞台の上で立ち止まり、「無力だ」と項垂れていた。
なんて、傲慢だったのだろう。
春原は、唇を噛んだ。固く、強く、痛みが走るほどに。
観客席の縁で、クラリスは、なお、こちらを見ていた。
彼女は、立てた親指を、ゆっくりと下ろした。それから、人差し指を、自分の方へと曲げた。
ジェスチャーだった。それは、来い、という、はっきりとした合図だった。
「……ルオットさん! ちょっと、行ってきます!」
春原は、調理台の前を離れた。観客席の縁へと、向かって。
観客席の縁は、調理台のある競技場の床面より、少しだけ高い位置にあった。
手すりに当たる柵の高さが、ちょうど春原の頭の少し上くらい。クラリスが身を乗り出している位置と、春原の顔の高さは、手を伸ばせば触れ合えるほどに近かった。
春原は、その柵の真下まで歩み寄った。
観客席のざわめきが、上から降ってきた。誰もが、この奇妙な光景を見つめていた。決勝戦の最中に、選手が観客席の縁まで歩み寄り、女性と何かを交わそうとしている──そんな光景は、誰も見たことがなかった。
けれど、春原は、もう、観客の視線など気にしていなかった。
「春原っ!」
クラリスが、春原の名を呼んだ。
間近で見るクラリスは、本当に、走り抜いてきたのだとわかった。額の汗、頬の紅潮、乱れた赤いリボン。普段の彼女の、商人としての隙のない佇まいが、今は微塵もなかった。
ただ、必死に、ここまで走ってきた、一人の女性がいた。
「クラリス! お店は、リュカさんは大丈夫!?」
「今はいいから、これ! リュカからあんたに、って!」
彼女は、肩から提げた革鞄に手を入れ、慎重に、何かを取り出した。
そして、『それ』を春原に渡そうと手を伸ばした。
春原が受け取ったのは、小ぶりの陶器の瓶だった。革紐で封がされている。瓶の腹には、小さな札が貼られていて、そこには、見慣れた筆跡で、何かが書き込まれていた。
「これって……」
春原が瓶から目線を上げると、クラリスもまた、まっすぐに彼を見つめていた。
彼女は、息を整えてから、短く、たった一言だけ、告げた。
「ちゃんと託したからっ!」
その声は、震えていなかった。
走り抜いてきた疲労も、声にした時の感情の高ぶりも、すべて、その言葉の中に押し込められていた。けれど、最後に絞り出された言葉は、確かに、強かった。
春原は、瓶を握る手に、力を込めた。
「……わかった……ありがとう、クラリス!」
長く話している暇は、なかった。クラリスも、それは分かっていた。彼女は、もう一度、にっと笑って、手を振った。
「よし、行ってきなさい! 春原っ!」
春原は、踵を返した。
調理台へと向かう、その足取りは、先ほど観客席に向かった時とは、別人のようだった。背筋が伸びていた。瓶を抱える手に、しっかりとした力がこもっていた。
観客席のざわめきが、また、波のように寄せてきた。けれど、春原の耳に、その音は、もう、煩わしくはなかった。
調理台の前まで戻る。
ルオットが、春原を見た。その視線には、問いが含まれていた。けれど、口には出さなかった。
春原は、調理台の上に、瓶を、そっと置いた。
残り時間を示す時計が、視界の端に映った。
残り、十五分。
もう、半分以上の時間が、過ぎていた。普通に考えれば、新しい料理を一から作る時間など、ない。すでに焼き上がりつつある肉を仕上げて、無難な一皿として提出するのが、唯一の、現実的な選択肢だった。
春原は、焼き上がった金剛牛のシャトーブリアンを見た。
いい色に、焦げ目がついていた。これを皿に盛り付ければ、それで一皿は完成する。落第はしないだろう。けれど、勝てない一皿。『銀の厨房』の名前を、誇って差し出せる一皿でも、ない。
春原は、目を閉じた。
胸の奥で、自分の声を聞いた。先ほど、自分に「もういいじゃないか」と囁いた、あの声を。
──確かに。
自分は、無力なままなのかもしれない。これからも、ずっと、そうなのかもしれない。リュカさんのような、研ぎ澄まされた感覚も、何年もの修練に裏打ちされた技術も、自分にはない。何度練習しても、追いつけない場所があるのかもしれない。
目を、開けた。
調理台の上の、陶器の瓶を見た。リュカの筆跡で、札が貼られた、小さな瓶。
ようやく、わかった気がした。
リュカは「銀の厨房を託す」と言った。この言葉を本当の意味で理解できた気がした。あの瞬間、自分は確かに、頷いた。けれど、心のどこかで、ずっと勘違いしていた。
リュカさんが居なくなった穴を、自分が埋めなければならない──そう、思っていた。
でも、違ったのだ。
リュカは、穴を埋めてくれと言ったのではない。彼女と春原が、半年かけて二人で作ってきたあの店を、ここで、皿の上に出してほしいと言ったのだ。
それは、リュカ・ヴァレンの料理ではない。
春原祐一が一人で作る料理でも、ない。
毎朝、毎晩、積み上げてきた『銀の厨房』の料理。それを、いま、自分の手で形にする。
そのために、リュカは香辛料を寄越した。クラリスは、それを走って届けた。
二人は、信じてくれている。半人前の自分ではなく、二人で積み上げた半年間を。
ならば。
胸の奥で、何かが、燃え上がった。
声には、出さなかった。けれど、心の中で、その叫びは、確かに響いた。
──まだ、終わってなんかいない。
残り時間はあと僅か。けれど、諦めるにはまだ早い。
無力さを、認めた。
それでも、託されたものを、握りしめた。
「無力」という名の重荷がどれほど、心を圧し潰すものかを痛感した。
しかし、託された者の重みがそれ以上に重いことを、自分は知っている。
その瞬間、自分はもう、ただ無力なだけの自分ではなくなった。
それを、皿の上に、形にする。
それが、いま春原にできる、たった一つのことだった。




