第165話:腑抜けづらだった青年
ヘイズが去り、ベルントが事務手続きの書類を整えるために隅のテーブルへと移った後──店の中央には、リュカ、クラリス、そしてアシュレイの三人が残された。
「……だぁああっ! よかったぁ〜〜」
クラリスが、ようやく息を吐いた。
その瞬間、彼女の張り詰めていた背筋がふっと緩み、一つ近くの椅子に崩れるように腰を下ろした。
「クラリスさん、ありがとうございます。……私だけでは、どうしようかと」
「ほんとに、ぎりぎりだったわ。研究所の所長印が降りたのが、本当にさっきだったから。それから印章に回って、清書、複製、封蝋……『間に合わない』って何度も言われたのを、アシュレイが片っ端から脅して通してくれたのよ」
「『脅す』とは聞こえが悪い。『学術的優先度を主張した』と言ってくれ」
アシュレイは、服の埃を払いながら、近くの椅子の背に手をかけた。
「アシュレイさんもかなり無理を通してくださったようで……本当にありがとうございます」
その言葉を受けたアシュレイの顔から、表情が消えた。
頬が、燃えるように赤くなった。耳の先まで、まっすぐに赤くなっていく。眼鏡の奥の瞳が、忙しなく上下左右に泳ぎ、最終的に天井の梁の一点に固定された。彼の口は半開きのまま、声を出すことを忘れているようだった。
「アシュレイ? 大丈夫?」
クラリスが心配そうに覗き込む。
「だっ……だだだだだ大丈夫だ、こっ、これはあれだ、走ったからだろう」
「もう走り終わってどれくらい経ったと思ってんのよ」
リュカは、二人のやり取りをきょとんとした様子で見ていたが、やがて小さく、本当に小さく、くすりと笑った。
クラリスは深い溜息を一つ吐き、それからリュカに視線を戻した。
その目から、笑いが少しずつ消えていく。代わりに浮かんだのは──覚悟の色だった。
「よしっ、リュカ……私、これから春原のところへ行ってくるわ。決勝が、もう始まるだろうし……だから、伝えに行きたいの」
その言葉に、リュカの獣耳がぴくりと立ち上がった。
「はい。私は、ベルントさんと最後の手続きが残っていますので、どうかお願いします……それと少しだけ、待っていてくださいますか」
リュカは、隅のテーブルへと足を向けた。
ベルントに何かを伝えると、彼は短く頷き、傍らに置かれていた木箱から、革紐で封がされた小ぶりの陶器の瓶を一つ取り出した。瓶の腹には、リュカの筆跡で何かが書き込まれた札が貼られている。
リュカはそれを両手で受け取り、蓋をほんの少しだけ開ける。
獣耳が、ぴくりと前に向いた。鼻先が瓶口に近づき、深く、ゆっくりと息を吸う。何かを確かめるような、料理人としての所作。
やがて、リュカは小さく頷き、再び蓋を閉じて革紐を結び直した。
そして、瓶を両手に抱えたまま、クラリスのもとへ戻ってきた。
「クラリスさん。これを、春原さんに」
「……これは?」
リュカの瞳には、もう先ほどまでの陰りはなかった。ただ、静かな、けれど確かな炎のような光が宿っている。
「お渡しいただければ、春原さんなら、すぐに分かります。もしかすると必要になるかもしれませんので」
「……分かった。絶対に届けるわ」
クラリスは瓶を受け取ると、壊さないよう慎重に、肩から提げた革鞄の奥へと差し込んだ。
「じゃあ、行ってくるわね」
「はい。お気をつけて」
からん、と扉の鈴が背中で鳴った。その音を最後に、クラリスは『銀の厨房』の店先に一人で立っていた。
「……行くわよ」
誰に言うでもなく、クラリスは小さく呟き走り出した。
赤いリボンが、走るたびに頬の横で跳ねる。服の裾が風を孕んで広がる。普段、商談に向かう時の足取りとは比べものにならないほど、その走りは荒く、しかし、迷いがなかった。
大時計台の下を抜け、中央通りの人波を縫う。
日が高い。きっと決勝戦は、もう調理が始まった頃だろう。
石畳を蹴る靴音が、規則的に響く。息が、上がっていく。
胸の中で、いくつもの思考が、走るリズムに合わせて回り始めていた。
──誰かが、私たちを陥れようとした。
それは、もう疑いようがなかった。
仕出しを依頼してきた隼商会の失踪。そして廃業届出は晩餐会の翌日。聴聞会の日程が、決勝戦と完全に重なっていたこと。調理師協会の立会人として送り込まれてきたヘイズ・ヴァイスベルクの、最初から処分を決めていたかのような態度。
偶然の連鎖で説明するには、あまりにも、出来すぎている。
誰かが、銀の厨房を貶めようとした。誰かが、リュカの料理を、王都の中で「危険な店」として晒し続けようとした。
その「誰か」の輪郭は、まだ見えない。
ヘイズの背後に、調理師協会の中の誰かがいる。あるいは、もっと別の──何か、もっと大きな影が。
──けれど。
クラリスは、頭を一度だけ、強く振った。
今は、考えても仕方がない。自分にできることは、たった一つだ。
春原は、たった一人で、あの舞台に立っている。
無実が証明されたことも、まだ知らない。リュカの料理が守られたことも、銀の厨房が今日この日を越えられたことも──何も、知らない。
あの厨房が今もそこにあるということを、伝えなくては。
息が、喉を焼く。それでも、クラリスは速度を緩めなかった。
石畳の上を、赤いリボンが、ひたすらに飛んでいく。
走りながら、ふと、あの日のことが、脳裏をよぎった。
──初めて春原祐一に会った日のことを。
あれは、東区の市場での偶然の出会いだった。
あの時の彼は、本当に、頼りない青年だった。
顔色は青白く、目の下にはくっきりとした隈が浮かび、買い物袋を抱える腕には力がなかった。料理人ではない、給仕です──そう答えた声には、自分がこの店にどれほど必要とされているのかを、自分でも分かっていないような、ぼんやりとした影があった。
料理の話をしても、経営の話をしても、彼はどこか、自分は受け取る側ですという顔をしていた。
決して悪い人間ではない。むしろ、優しすぎるくらい優しい。
けれど、優しいだけの男だった。
──腑抜けづら。これが、彼と初めて会って抱いた印象だった。
自分は確か、酔いに任せてそんな言葉を投げつけたはずだ。本当に、失礼な言葉を選んでしまったものだと、思う。けれど、当時のクラリスから見た春原は、確かに、そう見えていた。
そんな彼が、変わり始めたのは、いつからだっただろう。
夜中。眠ろうとして寝床に入ると、階下の厨房から、規則的な音が聞こえてくるのだった。
トン──トン──トン。
包丁が、まな板を叩く音。
決して、上手な音ではなかった。リズムはぎこちなく、時々、刃が滑ったような鈍い音が混じる。そのたびに、小さな舌打ちのような声が、微かに聞こえてくる。
うるさい──そう、文句を言ったこともある。実際、厨房を歩く音、まな板を叩く音、調理器具同士がぶつかる音、子守唄になるほどに、毎晩、毎晩、続いた。
けれど。あの音は、本当に、毎晩、欠かさず続いていた。
春原は、ただ一人で、厨房に立っていた。誰が見ているわけでもない時間に、誰に褒められるわけでもないのに、ただ黙々と。
失敗するたびに、悔しそうな声を漏らしながら。それでも次の日も、その次の日も、止めることなく。
あの音を、自分は確かに、聞いていた。
──ああ、そうだ。
走りながら、クラリスはふと、息を呑んだ。
彼の包丁の音が、少しずつ正確になっていったこと。
仕込みの段取りを覚えて、リュカが何も言わなくても次の食材を出せるようになっていったこと。
調理師二級の試験に合格して帰ってきた日の、あの少しだけ自信のついた表情のこと。
王宮の饗宴で、居なくなったリュカの代わりに、厨房に立ったこと。
そして──あの日。
決勝戦への出場をリュカに託された時、彼は確かに、こう言った。
「僕が、行く。僕に任せて欲しい」と。
短い言葉だった。震えてもいなかった。
あの瞬間の春原は、初めて市場で会ったあの「腑抜けづら」の青年では、もう、いなかった。
◆◆◆◆◆◆
決勝会場が近づいてきた。
大通りの先に、円形の競技場の白い屋根が見える。普段は王都の各種競技や式典に使われる、市民にも親しまれた会場。
その周辺には、いつもの倍以上の人混みができている。決勝戦を観に来た客たちが、出店の前に列を作り、観戦中継の伝声管に耳を傾けている者もいる。
クラリスは速度を緩めず、人混みを縫って進み会場の通路に入る。
その瞬間──。
わぁ、というどよめきが、奥の方から響いてきた。しかし、それは、歓声ではなかった。
歓声というには、もっと、戸惑いが混じった音だった。
ざわ、ざわ、と、観客席のあちこちで、囁きが波のように広がっている。何か、上手くいっていないことがあるのだと、その音の質感だけで分かった。
クラリスの胸の奥が、嫌な予感にきしんだ。
通路を抜け、観客席の縁に出る。
円形の競技場の中央。そこに、四つの調理台が並んでいた。
一番手前から、三つ目まで。それぞれの台の前で、料理人たちが慣れた手つきで動いている。
そして、四つ目の調理台。そこに、一人の青年が、立っていた。
彼の目は、調理台の上の食材に向けられている。けれど、その視線は、食材を見ているようでいて、見ていないようでもあった。どこか、もっと遠い場所を、あるいは、自分自身の内側を、見つめているような──そんな目だった。
「えー……あ、あれ……? えーと、皆様……ご覧の通りなのですが……」
会場の中央上空、魔導具で拡声された声が、戸惑いを隠せずに響き渡る。
普段は朗らかに会場を盛り上げる司会の声に、明らかな当惑が滲んでいる。
「え、えーっと……『銀の厨房』春原選手……どうやら、何かお考え中、のようでして……」
会場のざわめきが、一段、大きくなった。
「他の三組の選手は、調理を順調に進めておられるのですが……うーん、これは、その、解説のアレクシスさん、こういう状況というのは、その、よくあるものなんでしょうか……?」
「……料理の世界では、考え込むことも、ときに必要です。ですが、決勝戦のこの時間配分でとなれば……」
解説者の言葉が、最後まで続けられないまま、観客のざわめきに飲まれていく。
囁きが、観客席のあちこちで弾けていた。
「どうしたんだ、あの選手」
「動いてないぞ」
「噂のあれだろう。例の、貴族の宴で──」
「ああ、銀の厨房の。あの店の料理は、危ないって……」
クラリスの足が、観客席の縁で止まった。
心臓が、鈍く音を立てている。遠く、舞台の上で、春原は動かない。
彼の表情は、ここからではよく見えない。けれど、その背中の、ほんの僅かな揺らぎが、クラリスには見えた。
迷っているのだと、わかった。あの日、リュカに「決勝を任せたい」と託された時の、あの覚悟が、今、彼の中で揺らいでいる。
無理もないのかもしれない、と思った。
彼は、急に料理人として完成したわけではない。試験に合格してから、まだ、たった数ヶ月。王宮饗宴での補佐は経験したが、たった一人で、舞台に立つことなど、今日が初めてだ。
料理人として見れば、まだまだ未熟なのだろう。他の出場者と比べれば、彼の技術は、明らかに、見劣りするはず。
審査員も、観客も、それを見抜くだろう。
──クラリスは、ぐっと、唇を噛んだ。
でも、自分が見てきたのは、技術の優劣ではなかった。
失敗を重ねながら、それでも、止まらなかった人間。誰に頼まれたわけでもなく、ただ、リュカの隣に立ちたいという理由だけで、ここまで歩いてきた人間。
あの、いちばん近くで見てきた人間が、いま、あの調理台の前にいる。
──だから、お願い。
胸の中で、声にならない言葉が、形を持ち始めていた。
──春原。
もし、リュカの代わりとして舞台に立とうとしているなら、それは、間違いだから。
──あんたは、リュカじゃない。
彼女の包丁は、彼女のものだ。彼女の感覚も、彼女の積み重ねてきた歳月も、春原が背負うものではない。
──彼が背負うのは、自身が積み重ねてきた、あの夜の音。
──リュカが彼を信じたのは、彼が「代わりが務まる料理人」だったからじゃない。
胸の中で、その言葉が、確かな形になった。
──彼が、『春原祐一』だったからだ。
毎日、隣で見てきた一人の料理人として、リュカは彼に、銀の厨房の名を預けた。
ならば、自分も同じだ。
自分が信じているのは、初めて市場で会った『腑抜けづらの青年』が、ここまで歩いてきた道のりだ。その道を、近くで見てきた人間として、自分は、いま、ここから祈るしかない。
観客席の縁を、両手でしっかりと握る。背筋を伸ばす。
舞台までの距離が、あまりにも遠い。
それでも、その遠さの先に、確かに彼はいる。
息を、吸い込んだ。
胸の奥から、声が、せり上がってくる。
届かないかもしれない、それでも、伝えたい。
声を出さずにはいられない、その衝動だった。




