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第164話:論理という名の処刑台(2)


 扉を勢いよく押し開けて入ってきたのは、クラリスだった。


 赤いリボンが乱れ、額には汗が幾筋も流れている。走ってきたのだろう、息が完全に切れていた。

 そして、その背後から、もう一人の人影が転がり込むように店内に入ってきた。


「ぜぇっ……はぁっ……は、早過ぎだ……私は研究者なんだぞ、こ、こんな……運動……は、はっ……」


 アシュレイだった。

 彼は店の入り口で両膝に手をつき、肩で息をしている。普段の冷然とした立ち姿は完全に消え失せ、ただの息切れした青年がそこにいた。


「はぁっ……ほ、本当に容赦がない……走ったほうが速いと……あれは、絶対に物理的におかしい──」

「はぁ……四の五の言わないでよ。間に合ったんだからいいじゃない」


 クラリスはぴしゃりと言い放ちながら、店内に踏み込んだ。そして、まずリュカの方を見た。一瞬だけ、その瞳に「ごめん、待たせた」とでも言いたげだった。

 続いて視線が、テーブルに残りの二人を捉える。ベルント。ヘイズ。一瞬で状況を読み取ったクラリスは、テーブルへと歩み寄った。


「んんっ……聴聞会の最中に失礼します」

 クラリスは堂々と頭を下げた。


「『銀の厨房』の経理を務めております、クラリス・ブライトと申します」


 クラリスは肩から提げていた革製の鞄から、一通の封書を取り出した。

 ヘイズの視線が、その封筒に吸い寄せられた。


 クラリスはテーブルの中央に、封書の中身──数枚に渡る、精緻な印章の押された書類──を、ばさりと広げた。


「こちら、私どもが依頼していた魔素中毒の解析報告書です」


 ヘイズの薄い微笑が、初めて完全に消えた。


「先日、ベルント査察官宛に、晩餐会の食べ残し試料の一部と、当店の魔素含有の香辛料の試料を、私たちが依頼した調査機関へ送るよう申し入れを行なっておりました」


 クラリスはベルントに視線を移した。ベルントは黙って頷いた。


「……お待ちなさい」


 ヘイズが、ようやく口を開いた。先ほどまでの声の硬さを、必死に取り繕おうとしている響きがそこにあった。


「渦中の店が独断で、第三者機関に依頼していた──というのですか? 検証手順の妥当性も担保されないまま?」


 彼は薄く、けれど明らかに不自然な微笑を口元に貼り付け直した。


「失礼ながら、そのような『私的に依頼された解析』に、公的な判断材料としての証拠能力が認められるとは、到底──」


「ふん、公的だと?」


 その時、入り口で息を整えていたアシュレイが、ようやく身体を起こした。

 乱れた髪を片手で強引に後ろへ撫で付け、服の裾を翻す。先ほどまで息を切らしていた人物とは思えない、研究者としての所作。


 その瞬間──空気が、明確に切り替わった。

 冷然とした、研究者としての空気に。


 そして、彼は店内に踏み入ると、リュカの方を見て──一瞬、固まった。

 獣耳。翡翠色の瞳。日の光に照らされ僅かに褐色を帯びた頬。

 アシュレイの頬に、瞬時に朱が走った。


「りゅ、リュカさん! ……きょ、今日はお、お日柄もよく……」

「アシュレイ、後にして」


 クラリスが冷ややかに釘を刺した。


「……失礼。改めて名乗らせていただこう」


 眼鏡の奥の青銀色の瞳が、ようやく研究者の冷たい光を取り戻した。


「私は王立魔導研究所主任研究官、アシュレイ・ノイマー。本件の解析を担当した者だ」

「王立魔導研究所、の……」


 その名乗りに、ヘイズの肩が、僅かに揺れた。

 王立魔導研究所──王国の魔導研究の最高峰。その肩書きは、調理師協会の立会人が安易に対峙できる相手ではない。


「先ほどの貴様の発言、『私的に依頼された解析に証拠能力は認められぬ』といったな。……興味深い見解だ。しかし、それは『解析の出所がどこか』を確認いただいてから判断してもらおう」


 アシュレイはテーブルに広げられた書類の一枚を、白い指でとんとんと叩いた。


「……主任研究間殿。お言葉ですが」


 ヘイズは銀縁の眼鏡を中指で押し上げ、抵抗を試みた。


「通常、こうした場で扱われる解析は、正式な手順を経て依頼したものに限られる……私的依頼で得られた結果を、そのまま公的判断材料として扱うことには──手続き上の難があると、申し上げているのです」


 彼は微笑んだ。冷えた、計算された微笑だった。


「──『手続き上の難』、ですか」


 今度は、クラリスが口を開いた。


「試料の分譲については、王都調理衛生協会へ正式な申請書を提出しております」


 ベルントが、無言で頷いた。


「そして、手続きの面において調理師協会が定める『規程』に照らしても、瑕疵はないかと存じますが──それとも、調理師協会の規程に、私の存じ上げない条項でも?」


 クラリスは手元の書類を示し、ヘイズの口元が僅かに引き攣った。


「……しかし、それは手続き上の話に過ぎません。公的な報告書として担保されていないものに、証拠能力があるとでも?」


 ヘイズは銀縁の眼鏡を中指で押し上げ、なおも食い下がった。

 その時──今度は、アシュレイが口を開いた。


「魔導研究所の調査結果に、何か疑義があるとでも?」


 眼鏡の奥の青銀色の瞳が、冷ややかにヘイズを射貫いた。


「王立魔導研究所が所長印をもって発行する報告書は、依頼経路の如何に関わらず、王国法上、公的機関の公式見解として扱われる。──まさか、調理師協会の立会人を務められるほどの御方が、ご存知ないとは言うまいな?」


「……いえ、滅相もない。ただ、私は調査結果を拝見しておりませんので」

 ヘイズは薄い微笑を口元に貼り付け直したが、その復旧は明らかに遅れていた。


「では、愚鈍な貴様らにでも理解できる言葉で教えてやろう……いや! もちろんリュカさんは別であるからして……」

「そういうのいいから、説明して!」


 クラリスが半眼で釘を刺した。


「……魔素には、その由来となる素材ごとに固有の波長が存在する。同じ『魔素』と一口に言っても、北方獣人族の山岳地帯で採れる香辛料の魔素と、南方の鉱脈から産出される結晶の魔素では、その波長は明確に異なる」


 そして、アシュレイは自身の研究領域の話になると、堰を切ったように饒舌に語り出した。


「この『波長の固有性』を数値化したものが、パーセプション指数だ。王立魔導研究所で私が開発した、最新の魔素分光器は、従来比でおよそ二百倍の精度を持っており、これにより従来は混合魔素として一括りにされていたマナの揺らぎを──」


「アシュレイごめん。巻きでおねがい! それで結論は」

「……まあいい、結論は明白だ」


 アシュレイは眼鏡を中指で押し上げ、ヘイズを見下ろした。


「晩餐会の食べ残しに含まれていた魔素と、『銀の厨房』が保有・使用する魔素含有食材の魔素とは──出自は、完全に別物だ」


 彼は書類を一枚、ヘイズの前へと滑らせた。

 店内が、しん、と静まり返った。


 ヘイズは書類に目を落としていた。眼鏡の奥の瞳が、書類の数字とグラフの上を、忙しなく往復している。

 その表情から、薄い微笑は完全に消え去っていた。


「……これが、王立魔導研究所の正式な見解、ということでよろしいか」


 ようやく絞り出された声は、これまでの硬さを僅かに失っていた。


「正式な印章が押してあるだろう。この調査結果を覆したくば、王立魔導研究所と同等以上の設備を持つ機関を、王国内で探してきていただきたい」


 アシュレイは冷ややかに答えた。


「存在しないと思うが、な」


 その「思うが」の余白の冷たさに、リュカの獣耳がぴくりと動いた。けれどそれと同時に、彼女の胸の奥にも、温かな何かが広がっていく。


「……失礼いたしました。王立魔導研究所の正式な調査結果である以上、調理師協会としても、これを尊重するほかございません」


 彼は深く一礼した。

 ベルントが書類を手に取り、もう一度それに目を通した。事務的に、けれど慎重に。やがて彼は記録簿を開き、新たな一行を書き加えた。


「では、本件の処置を再確定する」

 ベルントの平坦な声が、静かに響いた。


「『銀の厨房』に対し、口頭による衛生指導を実施。営業自粛勧告については、本日付をもって解除とする」


 リュカの獣耳が、ふわりと立ち上がった。


「……ありがとうございます」


 リュカは深く頭を下げた。獣耳の先が、ほんの少しだけ揺れる。その揺れ方は、悲しみのものではなかった。


「念のため、この後に最終確認の手続きが残っている。これについては、ヴァレン殿に立ち会っていただきたい」


 ベルントは事務的に付け加えた。


「承知いたしました」


 ──守られた。

 自分の料理が。養父の遺したこの店が。今まで積み上げてきた毎日が。


「では、本日の聴聞会はこれにて終了させていただく。調理師協会立会人、ヘイズ・ヴァイスベルク殿も相違ないな」

「……ええ」


 ぱたり、と記録簿が閉じられる音を最後に、店内に張り詰めていた糸がようやく緩んだ。



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