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第163話:論理という名の処刑台(1)


 ──少し遡って、三人がそれぞれの「戦場」へと向かって店を出ていったあと。

 『銀の厨房』にはリュカ一人だけが残されていた。


 両手は調理台の縁を軽く握り、視線は手元に落ちている。獣耳は完全には立っていない。けれど、垂れているわけでもない。ちょうど中ほどの位置で、外の音を拾うように、微かに揺れていた。


「……大丈夫」


 誰に言うでもなく、リュカは小さく呟いた。

 その時だった。からん、と扉の鈴が鳴った。


 リュカは顔を上げ、扉の方へと体を向ける。獣耳がぴくりと動き、神経が一気に研ぎ澄まされていく。


「失礼する」


 扉から入ってきたのは、──王都調理衛生協会の査察官ベルント・ホフマン。先日と変わらぬ無感情な眼差し。


 その背後から、もう一人の人影が続いて入ってきた。

 年齢は四十代の半ばといったところだろうか。痩せ型で、銀縁の眼鏡をかけた男だった。髪は几帳面に後ろへ撫で付けられ、一筋の乱れもない。その口元には、薄い、けれど明確な微笑が浮かんでいた。


 その微笑がリュカには、何故か凍えるように冷たく感じられた。


「こちらは、調理師協会からの立会人。ヘイズ・ヴァイスベルク殿だ。本日の査察報告に関する協議に立ち会っていただく」


 ベルントが事務的に紹介した。


「……はじめまして、リュカ・ヴァレンと申します」


 リュカは丁寧に頭を下げた。


「お噂は、かねがね伺っております。王宮で腕を振るわれたという、若き才媛。このような場ですが貴女にお会いできたこと、光栄に存じます」


 言葉は丁寧だった。一分の隙もないほどに丁寧だった。

 ヘイズの視線は、リュカの獣耳を一瞥し、それから店内をゆっくりと見渡した。客席のテーブル、磨かれたカウンター、奥の厨房。その視線の動き方は、品定めをするようでも、値踏みをするようでもあった。


「では、本題に入ろう」


 ベルントが革鞄を抱えたまま、店の中央のテーブルに歩み寄った。三人がそれを囲むように腰掛ける。

 ベルントは記録簿を開き、書類を取り出した。


「先日の査察において採取した、貴店の魔素含有香辛料、調味料、ならびに厨房内の壁および周辺壁面からの試料について──協会指定の分析機関による分析の結果が出た」


 リュカの指先が、膝の上で微かに動いた。


「結論から申し上げる」


 ベルントは書類を一枚、テーブルの中央に置いた。


「貴店の保有する魔素含有食材から検出された魔素濃度は、すべて協会の規定範囲内。厨房環境からも、当該晩餐会で発生した魔素中毒症状を引き起こすに足る残留物は検出されなかった」


 リュカの獣耳が、ぴくりと立ち上がった。


「つまり、現時点の物的証拠においては、貴店の調理過程に起因する魔素残留の事実は確認できない、ということだ」


 ベルントの声は変わらず平坦だった。けれど、その言葉の意味は、リュカの胸の奥に、温かなものを灯した。


「したがって、本件に関する協会の処置としては──」


 ベルントは記録簿に視線を落とし、淡々と続けた。


「衛生責任者であるリュカ・ヴァレン殿に対し、口頭による衛生指導を行うこと。今後の魔素含有食材の取り扱いに関する記録の徹底を勧告すること。以上の二点をもって、本件は……」


 リュカは深く頭を下げようとしたとき。


「……待っていただけますでしょうか、ベルント査察官」

 硬い声が、間に滑り込んだ。


 ヘイズだった。

 彼は薄く微笑んだまま、銀縁の眼鏡を中指で軽く押し上げた。


「衛生協会の判断は、いささか──拙速ではありませんか?」


 ベルントが視線をヘイズへと向けた。


「拙速、とは」

「……本件において、王都の医療院に搬送された患者は十五名。うち二名は呼吸困難を伴う重症と伺っております。これは、調理師協会としても看過できぬ事態です。ましてや貴族の方々ともなれば、ことの大きさはご存知でしょう」


 ヘイズは書類の上に、白い指をそっと置いた。


「それは認識している」

「であれば『物的証拠が出なかったから』という消極的事実をもって、即座に終結とするのは、市民の安全を預かる衛生協会の姿勢として──いかがなものでしょうか?」


 ヘイズは淡々と言葉を続けていく。まるで用意されていた台本を語るかのように。


「物証が出なかったことは、潔白の証明ではありません。むしろ、それは『現在の検査では捕捉できなかった』というだけのこと……魔素は、その性質上、痕跡の調査が極めて難しい物質。これは、ベルント査察官もご存知のはず」


 ベルントは黙ってヘイズを見ていた。


「調理師協会としては、本件を重大事案と位置付けております。市民の信頼を揺るがしかねない事態である以上、より厳格な処置──すなわち、『一定期間の営業停止処分』を強く要請いたします」


 その言葉が、空気を凍らせた。

 営業停止。勧告ではない。確かな「処分」であった。


「ヘイズ殿、物的証拠なしに処分を下すことは、衛生協会の規定に反する」

「規定の運用には、裁量がございます」


 ヘイズは即座に切り返した。


「特に、複数の重症者が出ている事案において、『疑わしきは罰せず』を機械的に適用することは、市民の安全に対する重大な背信行為となり得る。そう考える者も、調理師協会内部には少なくないのですよ、ベルント査察官」


 言葉の奥に、何かがあった。規定でも、論理でもない。もっと別の場所から差し込まれている、見えない圧力のようなもの。

 ヘイズはその様子を満足げに眺めながら、再びリュカの方へ視線を向けた。


「リュカ・ヴァレン殿」


 その声には、いたわるような色が含まれていた。けれど、それは血の通っていない、計算された「いたわり」だった。


「もちろん、貴女を一方的に罰しようというのではありません。一定期間、店を閉じていただき、その間に調理師協会としても更なる調査を行う。それは、あなた自身の潔白を、より確実に証明するための措置でもあるのです」


 リュカの指先が、膝の上で握りしめられた。

 ──この人は、最初から決めている。


 胸の奥で、本能のような何かが警鐘を鳴らしていた。この男は、口頭指導で終わる結論を許さない。『銀の厨房』の名前を、王都の中で「営業停止を受けた店」として晒し続けようとする意図さえ感じさせる。

 たとえ後で潔白が証明されたとしても、その傷が癒えることはない。


「あの……」


 リュカが口を開きかけた、その時だった。

 からん──!

 扉の鈴が、これまでで一番激しく鳴った。



「間に合ったっ! ……かしら?」



 風と共に、その声が飛び込んできた。


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