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第162話:決戦の舞台(5)


 肉が焼ける音だけが、虚ろに響いている。


 春原は、フライパンの中の肉から目を離せなかった。離した瞬間に、何かが崩れてしまいそうな気がしていた。けれど、視線をそこに固定すればするほど、別の何かが心の奥から滲み出してくる。


 額の汗が、こめかみを伝った。

 その瞬間──。


 フィオナの声も、エレナの調理台で上がる歓声も、アレクシスの解説も。フライパンの中で肉が焼ける音さえ、遠ざかっていく。観客席の魔導灯の光も、調理台の輪郭も、世界そのものが薄い霧に包まれたように、輪郭を失っていった。


 春原は、立ち尽くしていた。


 そして心の底から、聞き覚えのある声が浮かび上がった。

 誰の声でもない。誰の声でもないはずなのに、春原はその声を、誰よりもよく知っていた。


 それは、何者でもない自分の声だった。



「結局、君は、リュカさんがいないと何もできないんだね」



 声は、責めなかった。怒鳴らなかった。ただ、悲しげに、静かに、囁いた。


「……」

「料理人になりたいって、言ったんだろう? 毎朝包丁握って、リュカさんの隣で、ちゃんと努力して。立派だよ、本当に」


 もう一人の春原の声は、責めていなかった。皮肉ですらなかった。ただ、本当にそう思っているような、穏やかな称賛だった。


 だからこそ、その次の言葉が、刃になった。


「でもさ。それ、リュカさんがいない場所でも、同じこと言える?」


 春原の喉が、詰まった。


「結局彼女がいなければ、君は何もできないだろう?」


 もう一人の春原は、優しく笑っていた。


「いつもいつも、そうだったよね。彼女が隣にいる時だけ、君は『料理人らしい君』でいられた。彼女が見守ってくれている時だけ、包丁の重みに意味があった」


「……それは」

「違うって言える?」


 春原は反論しようとした。違う、自分はちゃんと努力してきた、料理人になるって決めたのは自分の意志だ──。けれど、もう一人の春原は、その反論が口から出る前に、また優しく微笑んだ。


「思い出してよ」


 その声は、本当に懐かしげだった。


「君は、ずっと、こうやって生きてきたじゃないか」


 春原の周りの空気が、ふわりと色を変えた気がした。


「何かを選んだことなんて、一度もなかったよね。流されて、流されて、流されて。それが楽だったから。それが、一番自分が傷つかずに済む方法だったから」

「それは……」


 春原は、答えられなかった。覚えていた。すべて、覚えていた。


「この世界に来る前。家を出た時のこと、覚えてる?」


 もう一人の春原の声が、ほんの少しだけ、低くなった。


「進学で実家を離れて、君は『これで母さんに苦労をかけないで済む』って思ったよね。一人暮らしを始めて、家族と距離を置いて、誰にも何も言われない生活が始まったって」


 胸の奥で、何かが、軋んだ。


「でも、本当はそうじゃなかったでしょ」


 もう一人の春原は、悲しげに笑った。


「逃げたかっただけなんだよ、君は」


 春原の指先が、震えた。


「母さんと向き合うのが面倒で。自分の将来を真剣に考えるのが怖くて。何かを背負うのが嫌で。だから『進学』って体のいい理由をつけて、家を出た。それだけ」

「……ちがう」


「いや、何も違わないよ」

 もう一人の春原は、優しく首を振った。


「だってその後、君は何をした? 誰とも深く関わらず。何にも本気で打ち込まず。ただ流されて、気づけばこっちの世界に呼ばれていた。違う?」


 違わない、という言葉が、喉の奥で詰まって、出てこなかった。


「こっちに来てからも、そうだった」

 もう一人の春原は、もう一歩、近づいた。


「『役立たず』って言われて、傷ついて、泣きそうになって。でも君を変えたのは、君自身じゃない。リュカさんに出会ったから。リュカさんが優しかったから。リュカさんが君を必要としてくれたから。だろう?」


 春原は、目を伏せた。

 伏せた視線の先に、自分のものではない靴の先端が見えた。同じ形の、同じ汚れ方の、自分の靴。


「『料理人になりたい』って言ったあの夜だってそうだよ」


 もう一人の春原は、容赦しなかった。けれど、声は最後まで優しかった。


「リュカさんという人に惹かれて、その隣にいるための『資格』が欲しかっただけ。だから今、彼女がいない場所では、こんなにも何もできない」


「……でも」

 春原は、ようやく、言葉を絞り出した。


「そうだね。確かに、努力した。半年間、ちゃんと、毎朝包丁を握って、料理を覚えて──」


 もう一人の春原は、優しく頷いた。

 その優しさが、最も残酷だった。


「でも、その努力は、誰のためだった? 料理そのものを愛してたから? 料理人として生きていきたいって、心の底から思ったから? ──違うよね」


 春原の視界が、揺らいだ。


「リュカさんに『役立たず』って思われたくなかったから。彼女の隣に立つ資格が欲しかったから。アレクシスに『おままごと』って言われた夜、悔しかったから。彼女に認めてほしかったから」


 ひとつひとつの言葉が、刃のように降ってきた。


「全部、誰かを気にしての努力だ。『料理人として生きていきたい』じゃなくて、『リュカさんの隣にいるための資格を取りたい』だった。違う?」


 違う、と言えなかった。

 毎朝の練習を思い出す。包丁を握りながら、頭の片隅でいつも考えていた。「これでリュカさんに認めてもらえる」「これでアレクシスに反論できる」「これで隣に立てる」──。


 料理そのものを、心の底から愛して握っていただろうか?

 わからない。今になって、わからなくなった。


「だから、彼女がいない場所では、君は『料理を作る理由』そのものを失ってしまう。今がそうでしょ?」


「……」

「ねえ」


 もう一人の春原が、すぐ目の前に立っていた。

 同じ身長。同じ視線の高さ。けれど、その目だけが、どこまでも穏やかで、どこまでも諦めきっていた。


「認めようよ」

 その言葉は、囁きに近かった。


「君は、ずっと、何者でもなかった」

 春原の視界が、滲んだ。


「何にもなろうとしなかった。何かに本気で向き合おうとしなかった。誰かと深く関わろうとしなかった。ただ、流されていれば、それで楽だったから」


 もう一人の春原は、最後にもう一度、薄く微笑んだ。

 その微笑みは、本当に、本当に、優しかった。


「春原祐一」


 名前を呼ばれた。

 自分の名前なのに、まるで他人の名前のように聞こえる、不思議な響きで。


「君は、アレクシスのいう通り、誰かに甘え続けているだけだよ」


 その一言が、春原の中の、何かを、完全に折った。

 もう一人の春原は、それだけ言うと、もう何も言わなかった。ただ、そこに立って、こちらを見ていた。憐れむでも、嘲るでもなく、ただ「事実を伝え終えた者」として、静かに。


 春原は、立ち尽くしていた。

 反論の言葉が、何一つ、出てこなかった。

 なぜなら──それが、すべて、本当のことだったから。


「君は、ずっと無力なんだよ。これからも」



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