第161話:決戦の舞台(4)
鐘の音が、まだ天井に余韻を残していた。
その余韻が消えきらぬうちに、四つの調理台から一斉に音が立ち上がった。包丁がまな板を叩く軽快な音。鉄鍋が竈に置かれる重い金属音。野菜が水を浴びる涼やかな響き。それぞれ異なる音色が会場に折り重なり、たちまち厨房特有の喧騒へと変わっていく。
春原は、ゆっくりと息を吐いた。
肺の奥から、ほんの少しの震えと共に空気が抜けていく。緊張は、まだそこにある。けれど、その緊張を押し殺そうとはしない。それは、料理に向き合うために必要な体温のようなものだ、と。
春原は、目の前の金剛牛のシャトーブリアンに向き合っていた。
春原は包丁を抜き、肉の側面に刃を当てる。
ストン、と。手応えがほとんどない、滑らかな入り方。
均一な円柱形に整えられたシャトーブリアン。改めて見ると、見事な形だった。深い紅色の側面が、魔導灯の光を吸い込むように艶めいている。
「……よし」
自分に言い聞かせるように、小さく呟いた。
春原は、塩を取り出した。
岩塩の粒を指先で軽く崩しながら、肉の表面に均等に振っていく。塩の量は指の感覚で覚えた「ひとつまみ」を、肉の質量に合わせて加減する。そして黒胡椒を、これも挽きたてのものを。香りが立ち上り、春原の鼻先をくすぐった。
下味を振り終えた肉を、しばらく休ませる。
その間に、フィオナの声が会場に響いていた。
「各組、それぞれの調理に入っておりますね! もちろん、今回も解説役として、アレクシスさんをお呼びしております! もう紹介はいいよね? ってことで、アレクシスさん早速今回も解説をお願いします!」
「『薔薇亭』はハーブクラストの仕込みを行なっているようですね」
よく通る、低く落ち着いた声が答えた。
春原の指先が、一瞬だけ止まった。
アレクシス。審査員席に座っている、あの男の声。会場全体に届けられる、その声だけが──春原の手元にも届く。
「ハーブクラスト? とは?」
「ハーブクラストとは、刻んだハーブとパン粉、バターなどを混ぜ合わせ、肉の表面に纏わせて焼く手法です。香草の香りと、表面の香ばしさ、内部の柔らかさ。三層の対比を一皿に同居させるための古典的な技法ですね」
「なるほど〜! 一方『銀の厨房』は予選で素晴らしい一皿を披露していただきましたが、今回も奇抜な策を持っているのでしょうかっ!」
春原のいる調理台に向けられたアレクシスの瞳には、批評の色も、賞賛の色もない。
けれど春原には、その平らさの奥に何かがあるように感じられた。観察されている、という感覚。それは、過去に向けられた「断罪する目」とは少しだけ違っていた。
春原は、フライパンを火にかける。
澄ましバター。乳清と固形分を取り除いた、純粋な乳脂肪だけのバター。これなら高温でも煙を出さずに、肉の表面に均一な焼き色を作れる。リュカが教えてくれた、その通りに。
息を、止める。
バターが溶けたフライパンの底に、肉を置く。
心地よい音が、周囲の喧騒を一瞬だけ押しのけて立ち上がった。バターと肉の水分が出会い、絡み合い、瞬時に蒸発していく音。
頬の奥が、じんと熱くなる。
いい音だ。いい香りだ。今のところは、いい。
指先と、視覚と、香りと、音。すべての感覚を総動員して、焼き色のつき具合を見極めていく。リュカのように獣耳で内部の音を「聴く」ことはできない。けれど、表面だけならば──目で、鼻で、追える。
じゅう、と肉が鳴る。
香りが、刻一刻と変わっていく。生肉特有の鉄っぽい匂いが、徐々に焦げの香ばしさに混ざり、やがて肉そのものの旨味の香りが立ち上ってくる。
春原は、肉を慎重に持ち上げた。
底面──きれいな、鳶色の焼き色。むらがなく、ぎらつかず、絹のように艶のある均一な茶。
その時──会場のどこかから、どっ、と大きなどよめきが湧いた。
「『薔薇亭』の見事な連携、素晴らしいですね!」
フィオナの声が、興奮を抑えきれずに弾んだ。
春原の手が、わずかに止まった。
ちらり、と視線だけ三番調理台に向ける。エレナとエリナ。姉が指示を出さずとも妹が動き、妹が言葉を発さずとも姉が応える。栗色の巻き髪と、後ろで結われた栗色の髪。二人の動きが、まるで一人の人間が二つの体を持っているかのように噛み合っていた。
その隣の二番台でも、料理人と補助者が短い言葉だけを交わしながら、流れるように作業を進めている。一番台の宮廷料理出身の組も、無駄のない、職人的な連携で動いている。
どの調理台にも、二人がいる。二人で、一つの料理を作り上げている。
春原は、視線を手元に戻した。
戻したが、何かが胸の奥に沈み込んだ。冷たい、小さな石のようなものが。
ルオットは黙々と野菜を処理してくれている。彼の手は速く、確かだ。何も問題はない。けれど、春原とルオットの間に交わされる言葉は、どうしても他の組よりも多くなる。──一つ一つの工程ごとに必要になる。
それは当然のことだった。ルオットは料理人ではない。今日初めて、補助者として春原の隣に立った。毎日同じ厨房に立ってきたわけではない。それを思えば、ここまで彼が動けていること自体が驚異的だ。
わかっている。わかっているのに──。
春原の視界の片隅で、エレナの調理台から立ち上る、ハーブとバターの芳醇な香りが見えた気がした。観客席がどよめいている。彼女の調理台の周囲だけ、まるで光が集まっているように華やかだ。
対して自分の調理台は。
正確に、丁寧に、間違いなく進んでいる。下処理も完璧。最初の焼き色も、リュカに見せても合格点をもらえる仕上がりのはずだ。
けれど──それだけ、だった。
観客を沸かせる「見せ場」がない。「店ならではの一手」がない。心を震わせる、何かが、ここにはない。
今、自分が作っているこの料理は──何だろう。
「シャトーブリアンの調理は、正確な火入れがすべての前提です」
アレクシスの声が、不意に耳に飛び込んできた。
春原の肩が、僅かに強張る。
「しかし──料理人として求められるのは、『正確さ』だけではありません」
フライパンの中で、肉がじゅう、と鳴った。
「料理人の個性。その人にしか作れない一皿。それがなければ、合格点の料理にはなっても、審査員の心には届きません」
その言葉は、誰に向けられたものでもなかったはずだ。一般論として、決勝の舞台に立つすべての料理人に向けた解説。
けれど春原には、それが──自分一人に向けられた言葉のように聞こえた。
心臓が、嫌な打ち方をした。
「春原はん」
ルオットの声が、低く呼びかけた。
顔を上げる。ルオットがこちらを見ていた。冗談めいた表情はそこにない。心配そうな、けれど踏み込みすぎない、絶妙な距離感の眼差しだった。
「……大丈夫か」
「……大丈夫、です」
春原の声は、自分でも驚くほど乾いていた。
大丈夫。その言葉が、誰かを安心させるためのものだということに、口に出してから気づいた。リュカがいつもそう言っていた。「大丈夫です」と笑って、全部を自分の中に閉じ込めて。
今、自分も同じ言葉を使っている。
「……そか、気張りすぎんでな」
短い言葉だった。けれどその短さの中に、ルオットなりの気遣いが滲んでいた。何か言いたい言葉を呑み込んで、それでも自分の役割に戻る、その潔さ。
「はい」
春原は答え、再び肉に向き直った。
すべては順調だ。何一つ間違えていない。
なのに、どうして。
胸の奥に沈んだ小さな石が、じわりと重さを増していく。
──焦るな。
自分に言い聞かせる。焦りによる判断のブレは、致命的な失敗に直結する。今は、目の前の一面を、一面だけを、丁寧に焼くことに集中するんだ。
集中しろ。集中、しろ。
ふと、『薔薇亭』の調理台のほうから、ひときわ大きな歓声が上がった。
エレナの調理台の中央に据えられた大型の魔導具——天蓋を持つ円筒形の鍋が、淡い光を放ち始めていた。エレナの指先が魔石の上を撫でるたび、装置の温度を示す光の輪が微細に揺らぎ、彼女の意のままに調整されていく。
彼女は、ハーブクラストを纏わせた金剛牛のシャトーブリアンを、その装置の中へと滑り込ませた。蓋が閉じる音とともに、光が一段と強くなる。普通の調理器具では調整の難しい温度管理を完璧に行う魔導具。
その手つきには、迷いがなかった。料理人としての確信。
「素晴らしいですね! 西区『薔薇亭』、最新型の魔導装置を使った絶妙な火入れ!」
フィオナの声が高く弾む。
二番調理台の『ラ・メゾン・ドール』レオン、そして一番調理台の元宮廷料理人ハインリヒも負けていなかった。レオンの瑞々しい革新と、ハインリヒの揺るぎない王道。それぞれが手にした魔導具を、まるで自身の指先の延長のように扱っている。派手さこそ薔薇亭に譲るものの、その完成度は観客席の通の客たちを静かに唸らせていた。
「いずれの調理台からも、それぞれの店の『色』がはっきりと立ち上がっていますね」
アレクシスの声が、淡々と、けれど確かな温度をもって響いた。
「魔導具の使いこなし、伝統技法の研鑽、そして食材との対話。決勝の舞台に相応しい、見事な戦いです」
周りから上がる歓声。観客席のどよめき。フィオナの興奮した声。アレクシスの淡々とした解説。そして──自分の調理台の、静けさ。
春原の額に、汗が滲んだ。
トングを握る指先が、わずかに白い。
肉は焼けている。順調だ。順調なはずだ。なのに、何かが足りない。何かが、決定的に足りない。それが何なのかは、わかっている。わかっているのに──その「何か」を、今の自分の手元から生み出す方法が、わからない。
じゃあ、どうすればいい。
自分にしかできない方法を、見つけなければならない。
その「気づき」だけが、ぼんやりと胸の中に芽生えている。けれど、その先がわからない。自分にしかできないこと──それが具体的に何なのか、今の春原には、まだ見えない。
肉が焼ける音だけが、虚ろに響いている。
ふと──審査員席のアレクシスと、目が合った気がした。
彼は春原の調理台のほうを見ていた。その瞳に何が映っているのか、距離があってわからない。批判か、観察か、それとも──。
春原は視線を逸らし、肉に意識を戻した。
戻したけれど、心臓は早鐘のように鳴っていた。




