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第159話:決戦の舞台(2)


 二人が会話していると控え室の入り口から、再び聞き覚えのある声がした。


「あの……春原さん? ルドルフさん?」


 眼鏡をかけた、真面目そうな女性が立っていた。栗色の髪を後ろできちんとまとめ、清潔感のある白いシャツに、きっちりと整えられた調理服。その佇まいから滲み出る几帳面さは、春原の記憶の中のそれと寸分も変わっていない。


 エリナ・フォスター。

 調理師試験で三人一組のチームとして戦った、あの日の仲間だった。


「まさか、お二人がここにいらっしゃるとは……」


 驚きと喜びが入り混じった表情で、エリナが駆け寄ってくる。


「エリナさん! 久しぶりです!」

「おお、エリナちゃんやん! 元気しとった? ちなみにもうややこしいから、ルドルフやのうてルオットって呼んでな」


 春原が椅子から立ち上がった。ルオットも手を上げる。


「え? ああ……はい、ルオットさん。お二人ともお久しぶりです、調理師試験以来ですね」


 調理師試験の三人が、決勝の控え室で再結集した。あの日はランダムに組まれたチームだった。それが今日、偶然とはいえ同じ場所に集まっている。

 エリナの説明によると、姉のエレナが営む「薔薇亭」が決勝に進出しており、自分は姉の店の補助者として会場に来ているのだという。


「まさか、こんな形で再会するとは思いませんでしたけど」


 エリナは感慨深そうに呟いた。


「あの……ここにいるということは、決勝で参加されているんですよね? 春原さんとルドルフさんは、どちらのお店から?」


 春原は少し言葉を探してから、答えた。


「えっと……僕は『銀の厨房』として出場してて」

「銀の厨房……もしかして、噂の」


 春原の表情が硬くなった。やはり、この話は出場者の間にも広まっている。


「お店の方は、大丈夫ですか?……」


 エリナの声には、嫌悪や好奇ではなく、純粋な心配が滲んでいた。


「正直に話すと、まだ大丈夫とは言い切れないけど……今日、聴聞会が開かれていて──店主のリュカさんが、そっちに出席してるんだ。だから決勝は、僕とルオットさんの二人で出場することに」


「そうだったんですね。……私には、お店の事情は詳しくはわかりません。でも……春原さんが料理に対して不誠実な方ではないことは、あの日で十分にわかっています」


 ルオットが、にっと笑った。


「でも、あの時の三人組が偶然揃ったってのも、なんか不思議なもんやな」


 三人が和やかに話しているところに、控え室の扉がまた開いた。


 入ってきたのは、エリナより少し背の高い女性だった。


 明るい栗色の髪がゆるく巻かれ、肩の上で柔らかく揺れている。大きな琥珀色の瞳がきらきらと輝き、唇には自然な微笑みが浮かんでいた。エリナと似た面影がありつつも、纏う空気がまるで違う。エリナが精密な時計なら、この人は──陽だまりの中を吹き抜ける、少し眩しい風だった。


「あれ? エリナちゃんのお友達?」


 声も明るい。控え室の空気が、彼女が入ってきた瞬間にふわりと変わった。


「あ、お姉ちゃん。えっと、こちらは調理師試験の時にお世話になったお二人でして……『銀の厨房』の春原さんとルオットさんです」


 エリナが慌てて紹介した。ルオットがここぞとばかりに前に出る。上着の襟を正し、髪を一度かき上げ、最大限にスマートな笑顔を作った。


「んんっ! えーどうも、初めまして。エリナさんにこない綺麗なお姉さんがおるとは聞いてませんでしたわ。ワイはルオッ──」


 言い終わる前だった。


「ああ! 君が春原君かぁ〜!!」


 エレナがルオットの横を物理的にすり抜けて前に出た。ルオットが「おわっ」とよろめく。渾身の自己紹介が、哀れにも空中に消えた。


 エレナは春原の両手をがっしりと握り、顔を近づけた。琥珀色の瞳が至近距離で春原を捉える。温かい手だった。力強くて、けれどどこか包み込むような握り方だった。


「妹から話聞いてるよ〜! すっごい実力の持ち主なんだって? あの調理師試験で春原君のおかげで合格したって!」

「え、あ、はい……ありがとうございます……」


 春原は突然の距離の近さに面食らった。エレナの栗色の髪から、微かに甘い花の香りが漂ってくる。琥珀色の瞳の奥に、ただの好奇心とは違う何かが光っている。品定め──いや、それよりももっと真剣な、人の芯を見極めようとする眼差し。


「薔薇亭のオーナーしてる、エリナの姉のエレナ・フォスターね! よろしく!」


 握手したまま畳みかけるエレナの勢いに、春原は完全に押されていた。

 背後で、ルオットが仁王立ちしていた。


「……あの。ワイの自己紹介、途中で切られたんやけど」

「お姉ちゃん、落ち着いて……」


 エリナがたしなめるが、エレナは意に介さない。春原の手を握ったまま、じっとその目を見つめている。


「へぇ……」


 ふと、エレナの声のトーンが変わった。華やかな勢いはそのままに、けれどその奥に、別の層が現れる。


「いい手してるね。ちゃんと料理する人の手だ」


 春原が驚いた。エレナの指先が、春原の掌の硬くなった部分をそっと撫でた。包丁を握り続けてできた胼胝。火傷の跡。それを、一瞬で読み取っている。


「お姉ちゃん、だから落ち着いてってば……!」


 エリナの声が切迫したものになったが、エレナはようやく手を離し、にっこり笑った。

 ルオットが再び前に出ようとした。


「あ、あの、改めて。ワイも調理師試験で春原はんと──」

「ねぇねぇ春原君、決勝はどんな料理作る予定なの? 教えて教えて!」


 エレナが再び春原に向き直った。ルオットの言葉は、二度目の空振りに終わった。


「…………」

 ルオットの顔が、じわじわと曇っていく。


「あんな。ワイ、ここにおるんやけど。見えてる? 透明人間ちゃうよな?」

「あら、ごめんなさい。えっと……」


 エレナがようやくルオットの方を向いた。ルオットの顔が期待に輝く。


「ルオさん、だっけ?」

「ちゃう! ルオットや! やっと認識してもろたわ!」

「エリナの友達のルオットさんね。うんうん」


 エレナはそれだけ言うと、再び春原に視線を戻した。


「で、春原君さぁ──」

「切り替え早すぎるやろ!!」


 ルオットの叫びが控え室に響いた。周囲の出場者たちがぎょっとして振り返る。エリナが「す、すみません……」と赤面しながら周囲に頭を下げた。


 ふと、エレナの視線が春原の隣の空席に止まった。

 一瞬だけ、彼女の表情から陽気さが薄れた。空気を読む力のある人間だけが見せる、鋭い察知。


「『銀の厨房』ってことは、獣人の料理人は? 今日はいないの?」


 春原の表情が、一瞬だけ曇った。


「リュカさんは……別の場所にいまして、今日は僕が担当として出場してます」


 言葉を濁す春原。事情のすべてを話すわけにはいかない。けれど、「一人で来ている」という事実は隠しようがなかった。


 エレナの瞳が、ほんの一拍だけ細くなった。陽気さの奥に、何かを察する鋭さが覗く。春原が一人であること。隣の席が空いていること。そして、周囲から囁かれている「疑惑」のこと。それらを一瞬で繋いで、けれど口には出さない。


 すぐに明るさを取り戻して、エレナは言った。


「そっか、残念。状況が状況だもんね……会いたかったなぁ」


 それから、いたずらっぽく笑った。


「ねぇ、もし春原君が良ければ──うちに来ない?」


 その声は軽かった。冗談のような口調だった。

 けれど春原は、エレナの琥珀色の瞳がほんの一瞬だけ真剣な光を帯びたことに気づいていた。


「ちょうど厨房に空きがあるし、もし今のお店が居づらくなっても、ウチだったらいつでも雇うからさ! それに、妹も春原君のこと気になってるみたいだしねぇ〜」


 エリナが真っ赤になった。


「お、お姉ちゃん! 気になってなんかないって! 誤解させるようなこと言わないでよ!」

「あら、事実じゃない? あの試験の後、『春原さんは本当に素晴らしくて……』って、何度も言ってたのエリナちゃんでしょ?」

「言ってないって! ……そんなに、何度もは……」

「何度もじゃないだけで言ったんかい」


 ルオットがぼそっと突っ込んだ。今度はエリナに聞こえていたらしく、彼女はさらに赤くなって俯いた。

 春原は苦笑しつつ、しかし真剣な目でエレナを見返した。


「ありがとうございます。でも僕は、『銀の厨房』で──店主のリュカさんと一緒に作ってきた場所で、料理を作って行きたいので」


 エレナの琥珀色の瞳が、一瞬だけ鋭くなった。

 品定めの目。しかしそこにあるのは値踏みではなく、好意に裏打ちされた真剣さだった。料理人の目。人を見る目。そして──この青年の中にある「何か」を、たった今のやりとりで見つけた者の目。


「ふぅん……そっか! 振られちゃった」


 エレナの唇に、静かな笑みが浮かんだ。先ほどまでの華やかな笑顔とは少し違う。落ち着いた温度のもの。


「でも、いい心掛けしてるね、春原君。──じゃあ、決勝で見せてもらおうかな」


 その声には、もう冗談の響きはなかった。


「いやぁ……ワイの立場よ……」


 ルオットが天を仰いだ。友のために駆けつけた男が、目の前でその友が綺麗な姉妹に囲まれているのを見せつけられている。しかも自分は完全に空気と化している。


「ワイかて、それなりに料理できるし、ちょっとは面白い話もできるし、顔も……まあ、そこそこやと思うんやけど」


 ルオットが泣きそうな顔になっている横で、エレナとエリナが「薔薇亭」の控え室に戻っていく。

 去り際にエレナが振り返った。瞳が春原を捉え、片目をゆっくりと閉じる。ウインクというには少しだけ長かった。まるで、「覚えておくよ」と言っているような。


「じゃあね! 春原君、楽しみにしてる」


 それだけ言って、エレナは去っていった。栗色の巻き髪が、控え室の扉の向こうに消える。その背中は陽気で華やかで、けれどどこか──ただの明るいだけの人間には見えなかった。


 残された春原とルオット。

 ルオットが椅子にどさりと座り直し、少し真面目な顔になった。


「はぁ……春原はん。あの姉ちゃん、エレナ・フォスターはただの陽気で綺麗なお姉ちゃんやないで」

「……有名な方なんですか?」

「若干十八で西区に自分の店構えて、たった二年で王都の食通連中を唸らせとる料理人や。料理の人気もさることながら、あの容姿やろ。料理以外のファンも多いらしいで──しかも、女性として初めて王国料理協会の金章を受賞しとる実力派やで」


「金章……」

「そそ。王都の一流料理人でも、一生かかって届かん奴がおるくらいの代物。それをあの若さで取ったっちゅうんやから、どんだけの実力かわかるやろ」


 春原は思わず、先ほどエレナが去っていった扉の方を振り返った。


「あーあ……にしても、やる気無くしてもうたわ。困ってる春原はんの前に、颯爽と駆けつけて格好いい自分を演してたのに、なんで春原はんの方がモテとるんや。納得いかんわ」

「いや、モテてないですよ……」


「はぁ!? 綺麗なお姉さんに手を握られて、可愛い妹に頬を赤くされて、それで『モテてない』は通らんやろ! 喧嘩売っとるんかいな」

「す、すみません……」

「まあええわ。ワイの恋路はさておき」


 ルオットは立ち上がり、春原の肩をポンと叩いた。その手は軽かったが、込められた力は確かだった。


「ほな、ぼちぼち行こか。──リュカちゃんの分まで、やったろうや」


 春原が立ち上がる。控え室を出る瞬間、振り返った。

 後ろには誰も居ない。その空白が、リュカが、クラリスが今この瞬間、別の場所で別の戦いを戦っていることを、静かに物語っている。


 春原は前を向いた。決勝の舞台へと足を踏み出す。


 リュカがいない。でも、リュカが信じてくれた自分がいる。

 一人だけど、一人じゃない。



 春原は歩き出した。決勝の舞台が、その先に待っている。



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