第158話:決戦の舞台(1)
──料理大会決勝と聴聞会が重なる日の朝。
『銀の厨房』の扉の前に、三人が並んで立った。
「本日休業」の札が、まだかかっている。朝の光が、東区の石畳を薄い金色に染め始めていた。
「じゃ、そろそろ私は行くわね」
最初に口を開いたのはクラリスだった。書類の束を抱え直し、赤いリボンの位置を確かめるように指先で触れる。
「できることは全部やった。だから、私もこっちが片付いたらすぐに戻るから。それまでリュカと春原は、それぞれ任せたわね」
クラリスはリュカを見て、小さく頷いた。リュカも頷き返す。
「はい。クラリスさんが戻られるまでの間、聴聞会は私の方で対応しておきます。──春原さん」
それからリュカが、春原に向き直った。
「どうかお願いします」
「うん。料理大会は任せて、必ずやり遂げて見せるから」
そして三人が、足は別の方角へと歩き出した。
リュカは、銀の厨房へ戻り。クラリスは中央区へ。
春原は、北区の決勝会場に向かって。
誰も振り返らなかった。
それは信頼を確かめ合った三人だからこその所作だった。振り返る必要がない。背中を預けられる相手が、それぞれの戦場へ向かっていることを、三人とも知っているから。
朝の光の中を、春原の背中が一つ、遠ざかっていく。
本当ならリュカが隣にいた道を、今日は一人で歩く。足音が石畳に響くたび、その孤独の重さが一歩ごとに積もっていく。
──「今の『銀の厨房』の料理は、もう、私一人のものじゃありません」
あの言葉が、胸の奥で鳴っている。
リュカは春原を、料理人として認めてくれた。共に一皿を作り上げる、対等な料理人として。だからこそ、この決勝を託した。
それだけが、今の春原のすべてだった。──それだけで、前に進むことができる。
◆◆◆◆◆◆
決勝会場は、予選の時とは比べものにならない格式を纏っていた。
北区の一等地に建つ大催事場。正面の石柱には王都新星料理大会の横断幕が掲げられ、入口の両脇には生花が飾られている。出入りする人々の身なりもより華やかだった。
その華やぎの中を、春原は一人で歩いていた。
控え室に入ると、すでに決勝進出の店が集まっていた。どの組も料理人と補助者がセットで入り、打ち合わせや道具の確認を進めている。低い声で戦略を練る者、軽口を叩いて緊張をほぐす者──それぞれの流儀で、決勝に向けた準備が進んでいた。
春原は、控え室の隅に用意された席に座った。
隣の椅子は、空いている。しかし今日、その席には誰もいない。
周囲を見渡す。
どの調理台の前にも、二人組が揃っている。
料理人が包丁を研いでいれば、補助者が食材の状態を確かめる。一方が声を上げれば、もう一方が即座に反応する。そのやりとりの端々に、何年もの積み重ねが透けて見えた。互いの呼吸を知り尽くした者同士の、言葉なき連携。
本来であれば、自分もそうであるはずだった。
けれど今日は──ここにいるのは、自分一人だ。
ふと、黎明市の日のことが脳裏を過ぎる。
あの日、リュカは一人で実演舞台に立った。獣人への偏見と嘲笑の中、たった一人で包丁を握り、銀の炎を纏って観客を圧倒した。
あの時の自分は、舞台の外から見ていることしかできなかった。彼女の背中を見つめながら、無力さを噛み締めていた。彼女がどれほどの恐怖と孤独の中であの舞台に立っていたか──それを、今になってようやく理解する。
一人で、あの場所に立つということ。一人で、すべてを背負うということ。
それがどれほど怖いことか、今の自分は身をもって知っている。
──リュカさんは、あの時もこんな気持ちだったのか。
春原は拳を握り、目を閉じた。
怖い。
一人で舞台に立つことが、怖い。リュカの隣にいた時とは、何もかもが違う。あの時は彼女がいてくれたから、自分は自分の役割に集中できた。けれど今日は、すべてを一人でやらなければならない。
失敗したら。料理が成立しなかったら。リュカの信頼を裏切ることになったら。
その恐怖が、冷たい水のように足元から這い上がってくる。
その時、座ってる春原の前に人影ができた。
「春原はん、一人の時はいっつもそんな顔しとんな」
聞き覚えのある、声だった。
春原が顔を上げる。
明るい茶色の短髪。人懐っこい笑顔。飾り気のない、けれど不思議と安心する声。
その姿を認めた瞬間、春原の脳裏に、一つの朝が蘇った。──あの日も、こうだった。
「また、処刑台に向かうみたいな顔しとるで」
再び、軽い声が降ってきた。料理人としての一歩を踏み出すきっかけをくれた一人の男の声。
「ルド……ルオットさん?」
声が掠れた。
彼は、あの日と同じ笑顔で、春原を見下ろしていた。けれどルドルフではなく、ルオット・ドグレイとして。
「どうして、ここに……」
「ははは……せや、ルオットな。まあ、もう隠しててもしゃあないと思ってな」
春原の頭の中で、二つの顔が重なった。調理師試験の会場で出会った「ルドルフ」と、ソラリス商会の「ルオット」。あの時はまだ確信が持てなかった。弟だと言われ、曖昧に頷いた。けれど今、こうして目の前に立たれると──声も、仕草も、あの軽い笑い方も、何もかもが同じだった。
ルオットは観念したように頭を掻いた。
「ほんまは、もっと早よう言わなあかんかったんやけどな。タイミングがなくて、ズルズルと」
春原は驚きよりも、腑に落ちる感覚の方が大きかった。ずっとどこかで感じていた違和感が、ようやく一つの形になった。あの日、試験会場で自分を導いてくれた人と、その後も「銀の厨房」を気にかけてくれていた人が、同じ一人の人間だったということ。
「……やっぱり、そうだったんですね」
春原の声は、責めるような色を帯びていなかった。
「すまんな。嘘ついとって」
「いえ……事情があったんでしょうし。それに、ルドルフさんが──ルオットさんがあの時声をかけてくれなかったら、僕は試験を乗り越えられなかったと思います」
ルオットの表情が、ほんの一瞬だけ揺れた。けれど、すぐにいつもの軽さを纏い直す。
「はは! 大袈裟やって、あれは春原はんの実力やって。まあ……ほんで──今日はな」
ルオットは控え室の入口を親指で指した。
「『銀の厨房』の補助者として来たんや。運営に融通きかせてもろてな」
「補助者って……でも、どうして」
春原の言葉が途切れた。その意味が、すぐには飲み込めなかった。
ルオットは軽く肩をすくめた。いつもの調子だった。けれど、すぐにその仕草が止まる。
「……まあ、正直に言うたるわ」
声の色が変わった。軽薄さの層が、一枚、音もなく剥がれる。
「この大会を企画したんはソラリス商会や。そんでもって、『銀の厨房』を大会に引っ張り込んだんも、元を辿ればワイらの側の都合や。協賛の白鷲商会に名指しされて、断れん状況を作った」
春原が息を呑んだ。
「聴聞会と決勝が同じ日に重なったんも、偶然やないと──少なくとも、ワイはそう思っとる」
ルオットの声には、いつもの軽い笑いが混じらなかった。情報部で培った嗅覚が、その裏にある意図を嗅ぎ取っている。リュカが会場に来られない状況。春原が一人で立たされる状況。それが誰かの思惑の上に成り立っているかもしれないという可能性を、この男は見抜いていた。
「せやから、筋を通さなあかんと思うた。巻き込んだ側の人間として、ここに来るんは当然やと思ってな」
そこまで言って、ルオットは一度言葉を切った。
「……けどな。それだけやのうてな。あの日、試験が終わった後で聞いたやろ。『なんで料理人になりたいんや?』って」
春原の息が、止まった。
「春原はん、あの時こう言うたやないか。──『隣に立ちたい人がいるから』って」
ルオットの声に、おどけた調子はもうなかった。調理師試験以来ずっと、この男は春原を見てきた。「処刑台に向かうみたいな顔」をしていた青年が、包丁を握り、リュカの隣で腕を磨き、予選を勝ち上がってきた。その過程を、ルオットは知っている。
「……ワイはな、嘘つきでな」
唐突だった。
春原が顔を上げる。ルオットの表情は、見たことのないものだった。笑ってもいない。おどけてもいない。ただ──何かを噛み締めるように、遠い目をしている。
「ほんまは……」
ルオットの視線が、春原の手元──リュカから託された包丁に、一瞬だけ落ちた。
「ワイも、料理がしたかった。包丁を握って、誰かに食わせて、美味いって言われるのが好きやった。──けど、色々あってな。そっちの道には行けんかった。行かんかった、が正しいんかもしれんけど」
春原が息を呑んだ。
ルオットはすぐに視線を戻し、苦笑いのような、けれどどこか透明な表情を浮かべた。
「自分の心に嘘ついて、別の道を選んで、それでも器用にやってこれた。そういう生き方もあるんやと思うとった……いや、そう思い込むことで、自分の気持ちに蓋をしてたんやろな」
一拍の間。
「せやけどな。あの日、春原はんの言葉を聞いた時、ちょっとだけ参ったわ」
ルオットの声が、かすかに震えた。ほんの一瞬、彼自身にも制御しきれない揺れだった。
「春原はんは、技術も経験も足りてないと、それを自分が一番わかっとるって顔してた。──でも、それでも『隣に立ちたい』って、恥も何もかも捨てて言い切った。ワイには、それができへん。できへんかった」
控え室の空気が、静かに凪いでいた。
「真っ直ぐな奴やなと思うた。──同時に、ちょっとだけ妬ましかった」
その言葉は、ルオットの唇からこぼれ落ちるように出た。自分でも意外だったのか、彼は一瞬だけ目を伏せ、それからすぐに顔を上げた。
「ワイみたいな嘘つきには、あんな目はできへん。けどな──」
ルオットの瞳が、真っ直ぐに春原を捉えた。
「そうやって、自分の気持ちに素直で料理に向き合ってる人間を、助けたい思った自分の気持ちには嘘をつきたくないと思ったんや」
短く、まっすぐな声だった。
「──せやから、春原はんの手伝いをさせてほしくて、ここに立たせてもらってる。補助者としてやれることは限られとるし、力不足かもしれへんけどけど……」
それは義理でも、仕事でもなかった。
仮面の男が、仮面を外せない自分のまま、それでも差し出した手だった。
春原は言葉が出なかった。
喉の奥が、熱くなっていた。目の奥が、じわりと滲む。
「……ありがとうございます」
春原の声は、小さく震えていた。




