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第156話:灰に埋もれた残火(2)


 窓の外で鳴った鐘の音が消えても、三人は動かなかった。

 最初に口を開いたのは、クラリスだった。


「……整理しましょう」


 その声は、いつもの鋭さを欠いていた。しかし、商人としての本能が、感情に溺れることを許さなかったのだろう。彼女はテーブルに両肘をつき、額の前で指を組んだ。


「隼商会が消えた。商会ギルドの登録も抹消済み。届出日は晩餐会の翌日。つまり──最初から、使い捨ての窓口だった」


 クラリスは一度、唇を噛んだ。

 そして、春原がクラリスの言葉を補足するように付け加える。


「そして……あの宴席に料理を納品した後で、誰かが魔素を混入させた」

「可能性としては、そうでしょうね。仕出し料理は運搬の過程で第三者の手に渡る。その間に細工する機会はいくらでもあった」


 クラリスの声は冷静だったが、その指先がわずかに震えていた。


「……ですが、私たちの料理にも絶対に問題がなかったという証拠もないので、証明ができません……」


 リュカが、静かに口を開いた。

 彼女の表情は静かだった。怒りも、嘆きも、表には出ていない。しかし、その静けさの奥にあるものを、春原は知っている。


 料理人にとって、「自分の料理が人を傷つけた」と疑われること。それは、ただの冤罪ではない。存在の根幹を揺さぶる痛みだ。たとえ冤罪だとわかっていても、「疑い」は料理人の心を蝕む毒だった。


「リュカさん……」


 春原が名前を呼んだ。リュカは春原を見て、ほんの少しだけ──ほんの少しだけ、唇の端を持ち上げた。


「大丈夫です……大丈夫、ですから」


 その微笑みが、春原の胸を刺した。

 彼女はいつもそうだ。「大丈夫です」と笑って、全部を自分の中に閉じ込めてしまう。


 三人は沈黙した。

 テーブルの上の書面が、午後の光の中で白く浮いている。窓の外からは荷馬車の音や子供の笑い声が聞こえてくる。いつもと変わらない東区の午後。この店の中だけが、世界から切り離されたように止まっている。


 クラリスが深く息を吐き、椅子の背にもたれかかった。赤いリボンが、力なく肩に垂れている。


「……私のせいよ。ごめんなさい」


 小さな声だった。


「私の目が、節穴だった。あの時、ちゃんと相手方の素性を調べた上で信頼すべきだった。そうすれば気づけたかもしれないから……」

「ちがうよ。これはクラリスのせいじゃないよ」


 春原が即座に否定した。


「違うのよ」


 クラリスの声が、低く震えた。


「貴族たちを相手取る個人商会なら、なおさら慎重に検討するべきだったのよ。その場で決断をしてしまった、私の落ち度よ……」


 彼女の拳が、膝の上で白くなるほど握りしめられた。しかし、すぐにその手から力が抜けていく。怒りですらない。ただ、自分への失望が、彼女を覆っていた。


 三人が、それぞれの傷を抱えて黙り込む。

 誰も、次の言葉を見つけられない。


 厨房の竈に、火はない。棚の一角には、香辛料の瓶が並んでいた場所に空白が残っている。温かさも、匂いも、音も──この店を「銀の厨房」たらしめていたすべてが、今はない。


 その沈黙を破ったのは、扉を叩く音だった。

 控えめな、しかし確かな力を込めた三度のノック。


 三人が同時に顔を上げた。


「……誰だろう」


 春原が椅子を引き、扉に向かう。「本日休業」の札がかかっている以上、客ではないはずだ。

 扉を開けた瞬間、見慣れた顔が目に入った。


「──少しええか?」


 短い挨拶。いつもの軽口はなかった。

 ルオット・ドグレイが、店の前に立っていた。


 明るい茶色の短髪はいつも通りだが、表情が違った。軽薄さを剥ぎ取ったような真剣な目。商会の上着をきちんと着込み、襟元まで正しく留めている。その佇まいに、春原は一瞬、別人かと思った。


「ルオットさん」


 クラリスの声には警戒はなかったが、困惑があった。なぜ今、ここに来たのか。

 ルオットはテーブルの前に立ち、三人の顔を順番に見渡した。リュカの力なく垂れた獣耳。春原の疲れたような顔。クラリスの掠れた声。


 すべてを見て、彼は椅子を引いた。そして、何も言わずに座った。

 数秒の沈黙。


「……噂は聞いとる。晩餐会での魔素中毒の疑惑。営業自粛勧告のことも」


 ルオットの声は低く、落ち着いていた。

 三人は黙ったままだった。ルオットは上着の内ポケットから封筒を取り出し、テーブルの上に置いた。


「その上で、大会の運営として今後について手短に」


 その声のトーンが、僅かに変わった。軽薄さの仮面を外した、商人としての声。


「こっちとしても『疑惑の段階で出場を止めることはない』と。法的にも規約上も、『銀の厨房』を運営側から除外する根拠はない」


 クラリスの目が、わずかに光った。


「──けど。世間にはもう噂が広がっとる。『銀の厨房が魔素中毒を出した』っちゅう話が、東区だけやなくて中央区にまで。出場しても、風当たりは相当きつくなる」


 ルオットは言葉を継いだ。その声が、苦い薬を飲み込むように重くなる。

 リュカの獣耳が、ほんの僅かに動いた。


「運営としては出場する料理店を守るっちゅう意味でも、今回は……」


 ルオットは一瞬、言葉を切った。テーブルの上に置いた自分の手を見つめ、そして顔を上げた。


「……自粛した方がええと、思っとる。ワイ個人としてもな」


 クラリスが最初に反応した。


「でも! うちではありえません。私たちは完璧に調理しました。魔素の残留なんて、絶対に──」


 彼女は身を乗り出した。赤いリボンが揺れる。


「……なあ、クラリスちゃん。ワイかて、あんたらが手を抜くような人間やないことくらい知っとる」


 ルオットは一度、視線をテーブルに落とした。


「けどな。世間は真実なんか求めてへん。『疑わしい』っちゅう空気があるだけで十分なんや。火のない所に煙は立たん──そう思うのが人の性分や……その中で『信じてくれ』は、悲しいけど通らんで」


 その言葉には、突き放すような冷たさはなかった。むしろ、嵐の中で無茶をしようとする相手の腕を掴んで引き止めるような、そんな切実さがあった。


 沈黙が数秒、落ちた。

 しかし──ルオットの言葉が突きつけた現実の冷たさが、逆に彼女の頭を冷やしていた。感情ではなく、事実で語らなければならない。


「……ルオットさん。一つ聞いてもいいですか?」


 声に、切れが戻っている。


「この大会への参加──うちは、『白鷲商会』からの名指しで招待されたんですよね。『協賛側からの強い要望』と」


 ルオットは黙っていた。表情に変化はないが、その目がわずかに鋭くなったのを、クラリスは。


「そして、ほぼ同じ時期に、隼商会を通じて貴族晩餐会への仕出し依頼が入った。五十人分という大口。短納期。高額の報酬。──こちらも、わざわざうちを名指しで」


 クラリスの視線が、ルオットを射貫いた。


「大会への名指し招待と、貴族への仕出し依頼。両方ともうちを指名して、ほぼ同じ時期に来ている。──これ、偶然だと思いますか?」

「これまでの『銀の厨房』の評判的に言えば、『たまたま』っちゅうのでも説明はつくんやない?」


 ルオットの声は軽かったが、目は笑っていなかった。


「……ですが、仕出しを依頼してきた隼商会が失踪していること。商会ギルドの住所がもぬけの殻だったこと。登録抹消の届出が晩餐会の翌日であること──偶然にしては、あまりにも出来すぎている。と思うんです」


 クラリスの声が、低く、硬く、研ぎ澄まされていく。


「つまり、この一連の流れの狙いは一つじゃないかと……『銀の厨房を決勝から排除する』こと。あるいは、『銀の厨房の信用を潰す』こと。──もしくは、その両方」


 店内の空気が、張り詰めた。

 ルオットは腕を組んだまま、目を閉じた。


 沈黙が長い。

 やがて、彼はゆっくりと口を開いた。


「……偶然でここまで揃うか言われたら……揃わんやろな」

「うちを名指しで招待したのは『白鷲商会』からの要望だった……ルオットさん、何か知ってませんか?」


 クラリスの目が、細くなった。問いかけではなく、ほとんど確信に近い声だった。


「んー、そやなぁ……」


 ルオットは自分の手の甲を見つめた。その人差し指が、テーブルの上を叩くリズムを刻んでいる。


「さっぱり分からん。ワイかてただのしたっぱやし、運営として商会の意向に沿って動いてるだけやで。ただ──」


 彼は顔を上げた。その目に、静かな、しかし確かな光があった。


「仕組まれた可能性は──ないとは言い切れへん」


 その一言が、店内の空気を変えた。

 ルオットは続けた。


「ただな。仕組まれたんやとしても──それを証明するのは難しいやろ。相手方の商会は消えてもうたし、噂はもう広まっとる。いずれにせよ状況だけ見たら、いま動くんは危ないが……」


 その声には、突き放すような冷たさはなかった。むしろ、正面から現実を見せようとする誠実さがあった。


「で、その上で──どうするつもりなん?」


 沈黙が落ちた。

 三人は、互いの顔を見なかった。それぞれが、自分の内側に向き合っている。


 最初に口を開いたのは、リュカだった。


「……私の料理が、誰かを傷つけたと疑われている。というのは……本当に、苦しいです」


 リュカの獣耳が、わずかに震えた。


「私にとって、自分の料理で誰かが傷ついたかもしれないと言われることは……自分の存在を否定されるような気持ちになります」


 リュカは顔を上げた。

 その瞳には、まだ痛みが残っていた。消えてはいない。消せるはずもない。けれどその奥に、別の何かが灯り始めていた。


「でも……ここで身を引いたら、それは『認めた』ことになります。私の料理が危険だったと。この店が、信用できないと。」


 声が、少しだけ強くなった。



「……お父さんが遺してくれたこの店を、そんな形で終わらせたくはないんです」



 その言葉に、春原が頷いた。


「僕も同じ気持ちだよ」


 春原の声は静かだったが、芯があった。


「誰かが僕たちを貶めようとしているなら──それに屈して引き下がることは、絶対にしたくない」


 クラリスが腕を組んだ。彼女の目に、先ほどまでの自責の色はもうなかった。代わりに、見慣れた鋭さが戻り始めている。


「当然よ。私たちは何も間違っていない。間違っていないのに黙って引っ込む道理なんて、どこにもないわ」


 ルオットは三人の顔を見回した。

 リュカの翡翠色の瞳。春原の据わった目。クラリスの鋭い眼差し。


 三人の間には、もう先ほどまでの空虚な沈黙はなかった。代わりに、静かに燃える何かがあった。まだ頼りない。風が吹けば消えてしまいそうなほど小さな炎。けれど、確かにそこにあった。


 ルオットは数秒間、じっと三人を見つめていた。

 そして──大きく息を吐いた。


「……ほんま、あんたらは」

 苦笑した。重苦しさを脱ぎ捨てるように。


「了解や。出る、っちゅうことやな。ワイもその判断は支持する──けどな」


 しかし、苦笑はすぐに消えた。ルオットの表情が、再び真剣さを帯びる。


「リュカちゃんは聴聞会に出なあかん。欠席したら営業許可が即刻取り消される可能性がある。それに、聴聞会は決勝と同じ日の、同じ時間帯や。……つまり」


 ルオットの目が、リュカに向けられた。


「リュカちゃん本人は、決勝の舞台には立てへん。出るって決めたところで、結局、大会には参加できひんのと違う?」


 重い沈黙が、再び降りた。


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