第157話:灰に埋もれた残火(3)
「──それは、大丈夫です」
リュカの声が、沈黙を裂いた。静かだった。けれど、確かな声。
三人が同時にリュカを見た。
リュカの獣耳は、もう垂れてはいなかった。完全に立ち上がってはいない。けれど、先ほどまでの力なさは消えている。翡翠色の瞳が、テーブルの上の書面ではなく、まっすぐ前を向いていた。
「え?」
春原が声を漏らした。
「大丈夫って……どういうこと?」
クラリスも眉を寄せた。ルオットは腕を組んだまま、リュカの次の言葉を待っている。
リュカは一度、静かに息を吸った。
そして──春原に、体を向けた。
ゆっくりと。向かい合いの席から、春原の正面に。翡翠色の瞳が、真っ直ぐに春原を捉える。
「春原さん」
リュカの声は柔らかかった。けれど、その柔らかさの芯には、鋼のような静かな強さが通っている。
「──決勝への出場を、お願いできますか?」
春原の目が、見開かれた。
「え……?」
言葉の意味が、すぐには理解できなかった。いや、頭では理解していた。けれど、心がそれを受け止めることを拒んでいる。
「僕が……?」
声が、掠れた。決勝の舞台に、一人で立つ。その重さが、春原の肩に一気にのしかかった。
「リュカさん……僕は、まだ──」
春原の言葉が止まった。リュカの瞳が、揺らいでいなかったからだ。
彼女は春原の目を見つめたまま、静かに言葉を続けた。
「春原さん。ご自身のことを『まだ足りない』と思っているかもしれません……そう思っていることに、苦しんでいることも」
春原の心臓が、跳ねた。
なぜ──リュカがそれを知っているのだろう。口にしたことは、一度もなかったはずなのに。
「でも……春原さん」
リュカは一度、言葉を切った。唇が小さく動いて、けれど音にならなくて。もう一度、息を吸い直す。
それは──彼女がこの半年間、胸の奥にしまい込んでいたものを、初めて言葉にしようとしている姿だった。
「……覚えて、いますか。お客さんが増え始めた頃、私、一人で全部回そうとして、倒れたことがありましたよね」
春原は頷いた。忘れるはずがなかった。
「あの時、春原さんがこう言ってくれましたよね……『休んでください。僕が何とかするから』って」
リュカの翡翠色の瞳が、まっすぐに春原を見つめた。
「その時の私は……正直に言えば、春原さんはお料理はできないって、思っていました。確かに、あの頃はそうでした。……でも、あれから『料理人になりたいと』告白してくださった時から……」
リュカの獣耳が、わずかに震えた。
「あの日から……この店は、変わったんです」
その声には、小さな、けれど確かな震えがあった。
「私一人で回していた厨房が、二人の厨房になりました。私が火を見ている間に、春原さんが次の食材を用意してくれる。私が盛り付けを始めると、春原さんが皿を並べてくれる。言葉を交わさなくても──次に何が必要か、もうわかっている」
リュカの言葉は、ただの励ましではなかった。抽象的な褒め言葉でもなかった。この半年間、二人が一緒に厨房で過ごしてきた時間の──一つ一つの場面を、彼女は正確に覚えていた。
「お父さんが遺してくれたこの店で、お父さんの味を守りながら、私は料理を作り続けてきました。でも……この半年間で生まれたものは、お父さんの味だけじゃないんです」
リュカの声が、ほんの少し高くなった。抑えようとしても抑えきれない何かが、言葉の端からにじみ出している。
「春原さんが教えてくれたことで、新しい料理が生まれました。春原さんが『この組み合わせはどうですか』って提案してくれたことから、メニューが広がりました。春原さんが教えてくれたから……私は料理をする理由を見つけることができました」
リュカは、一度だけ目を伏せた。
そしてもう一度、春原を真っ直ぐに見つめた。
「……今の『銀の厨房』の料理は、もう、私一人のものじゃありません」
その一言が、春原の胸の奥に、深く、深く沈んだ。
「春原さんと一緒に作ってきたものです。毎朝の仕込みも。メニューの試作も。お客さんに出す一皿一皿も。全部……二人で、積み上げてきたものです」
リュカは微笑んだ。
その笑顔は、いつもの「大丈夫です」の笑顔とは違った。誰かを安心させるための笑顔ではなく、心の底からの信頼が──半年という時間の中で、一日一日、積み重ねてきた確信が、滲む笑顔だった。
「だから──お願いします」
リュカの声は、もう震えてはいなかった。
静かで、透き通っていて、けれどその奥に、この店を守ってきたすべての日々が込められていた。
「この『銀の厨房』を──決勝の舞台を、春原さんに託させてください」
店内が、静まり返った。
クラリスは息を呑んでいた。ルオットは腕を組んだまま、目を細めてリュカを見ている。
春原は──動けなかった。
リュカの翡翠色の瞳が、真っ直ぐに自分を見ている。そこにあるのは、同情でも、甘やかしでもなかった。
一人の料理人が、別の料理人に厨房を託す。
対等な信頼。
その瞳の中に、春原は自分が映っているのを見た。リュカの目に映る自分は、かつてアレクシスが断じた「おままごと」の延長にいる人間ではなかった。料理に向き合い、成長し、ここまで歩いてきた一人の料理人だった。
不意に──アレクシスの声が、春原の胸の奥で蘇る。
──「君は彼女の優しさに甘え続けているだけだ」
あの夜の言葉が、冷たい刃のように心を抉る。
いつもなら、その声に怯んでいた。その言葉の正しさを認め、自分の無力さを噛み締め、ただ耐えるしかなかった。
けれど今──リュカの瞳を見つめながら、春原は気づいた。
あの言葉に縛られていたのは、自分自身だった。
アレクシスの言葉が正しいか間違っているかではない。あの言葉を基準にして、自分は「証明すること」だけに固執していた。「まだ甘えている」と言われないために。「足手まといではない」と認めさせるために。そうやってアレクシスの物差しで自分を測り続けることで、本当に大切なものを見落としていた。
しかし──リュカは、彼女は、そう思っていなかった。
自分の料理が人を傷つけたと疑われ、営業を止められ、決勝に立つことすらできなくなった。それでも彼女は「出る」と決め、そして今、自分の代わりに舞台に立つ人間として──春原を選んだ。
これは、「証明」の先にある答えだった。
これは、彼女の優しさではない。
胸の奥で何かが決壊するような、温かくて苦しい衝動だった。
──あの屋上で、星空の下で、僕は誓ったはずだ。
──リュカさんの隣に、本当の意味で並ぶために。
あの夜の約束が、ここに繋がっている。
料理人になると決めた夜。毎朝、包丁を握って練習した日々。
すべてが──今、この一点に集まっている。
春原は、顔を上げた。
リュカの翡翠色の瞳を、真っ直ぐに見返した。
「……わかった」
声は静かだった。震えてもいなかった。
「僕が、行く……僕に任せて欲しい」
短い言葉だった。飾り気のない、言葉。
けれどその声には、星空の下で語った決意と同じ質量があった。守られるだけの存在から、共に戦う者へ。受け取るだけの側から、託される側へ。
その転換が、たった三つの言葉の中に凝縮されていた。
リュカの獣耳が、ぴくりと震えた。
そして──翡翠色の瞳の縁が、ほんの僅かに潤んだ。彼女はそれを隠すように、小さく頷いた。
「はい。春原さん、お願いいたします」
その声は、安堵でも、喜びでもない。もっと深い場所から湧き上がる、名前のつけられない感情。自分が信じたものが、ちゃんとそこにあったという──ただ、それだけの確認。
クラリスが、椅子から身を乗り出した。
「──なら、私は聴聞会よ。聴聞会でリュカと一緒に戦う。証拠集めと弁護は私の領分よ」
その声に、先ほどまでの自責の色はもうなかった。赤いリボンを片手で直しながら、クラリスの目に見慣れた鋭さが完全に戻っている。
クラリスはテーブルに両手をつき、宣言するように言った。
「査察官が持っていった香辛料の成分分析。隼商会の実態調査。聴聞会までに集められる証拠は、全部集める。リュカの料理に問題がなかったことを、論理と証拠で証明してみせるわ」
クラリスの目が、リュカに向けられた。
「あの時、隼商会の素性を見抜けなかったのは私のミスよ。だからこそ、今度は私が取り返す」
リュカは、クラリスを見つめた。彼女の翡翠色の瞳に、温かな光が灯る。
「……クラリスさん」
「何よ、その顔。泣かないでよ、こっちまで崩れるから」
先ほどまでの空虚な沈黙は、もうどこにもなかった。三人の間に灯った火は小さい。けれど、それぞれが自分の持ち場を見つけたことで、その炎は確かに安定し始めていた。
ルオットは大きく息を吐いた。
「……ほんまに、見てるこっちの胃が痛くなるわ」
苦笑だった。けれどその苦笑の奥に、別の何かが滲んでいる。
「よし!! ほな、運営としてできることはやっとく。出場辞退の届けは出さんとくで。こっちもできる限り、最後まで運営として支援させてもらうで」
ルオットは立ち上がり、上着の襟元を正した。
「……『春原はん』、覚悟はあるか?」
彼の目が、一瞬だけ真剣な光を帯びた。春原は、真っ直ぐにルオットの目を見返した。
「……正直に言えば、怖いです」
偽りのない言葉だった。虚勢でも、強がりでもない。
「リュカさんの代わりが務まるか……一人で全部こなせるかも……わかりません」
春原は一度、息を吸った。
「でも──リュカさんが僕を信じてくれた。その信頼に、応えたい。それだけです」
その言葉に、ルオットは数秒間、春原を見つめていた。
やがて──口の端に、かすかな笑みが浮かんだ。
「……そか」
ルオットは踵を返し、扉に向かった。そして扉に手をかけたところで、一度だけ振り返った。
「決勝、楽しみにしとるで。じゃあ、ほな!」
扉が開き、外の陽光が一瞬だけ店内に差し込んだ。そして扉が閉まり、ルオットの姿が消える。
三人が残された。
店内は相変わらず薄暗く、竈には火が入っていない。香辛料の棚には空白があり、営業自粛の札は扉にかかったまま。
何一つ、状況は変わっていない。三人の間に流れる空気は、もう先ほどまでのものとは違っていた。
灰の中に、確かに残火があった。小さく、頼りなく、しかし消えることなく。その火を三つに分けて、三人はそれぞれの戦場へと歩み出そうとしていた。
クラリスが椅子から立ち上がった。
「春原」
クラリスが春原に向き直った。
「あんたは決勝の準備に集中しなさい。聴聞会のことは私とリュカに任せて。余計なことは考えないこと。いいわね? こっちは聴聞会までに証拠を集めないといけないし……」
その時だった。
「ぬおおおおおおおぉぉぉぉぉぉ!! なぜだあああぁぁぁぁぁぁ!!!」
店の扉の前から、ただならぬ絶叫が聞こえてきた。
火の消えた厨房に、予想もしなかった方角から、一筋の光が差し込もうとしていた。




