表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
171/194

第157話:灰に埋もれた残火(3)


「──それは、大丈夫です」


 リュカの声が、沈黙を裂いた。静かだった。けれど、確かな声。

 三人が同時にリュカを見た。


 リュカの獣耳は、もう垂れてはいなかった。完全に立ち上がってはいない。けれど、先ほどまでの力なさは消えている。翡翠色の瞳が、テーブルの上の書面ではなく、まっすぐ前を向いていた。


「え?」


 春原が声を漏らした。


「大丈夫って……どういうこと?」


 クラリスも眉を寄せた。ルオットは腕を組んだまま、リュカの次の言葉を待っている。

 リュカは一度、静かに息を吸った。


 そして──春原に、体を向けた。

 ゆっくりと。向かい合いの席から、春原の正面に。翡翠色の瞳が、真っ直ぐに春原を捉える。


「春原さん」


 リュカの声は柔らかかった。けれど、その柔らかさの芯には、鋼のような静かな強さが通っている。




「──決勝への出場を、お願いできますか?」




 春原の目が、見開かれた。


「え……?」


 言葉の意味が、すぐには理解できなかった。いや、頭では理解していた。けれど、心がそれを受け止めることを拒んでいる。


「僕が……?」


 声が、掠れた。決勝の舞台に、一人で立つ。その重さが、春原の肩に一気にのしかかった。



「リュカさん……僕は、まだ──」


 春原の言葉が止まった。リュカの瞳が、揺らいでいなかったからだ。

 彼女は春原の目を見つめたまま、静かに言葉を続けた。


「春原さん。ご自身のことを『まだ足りない』と思っているかもしれません……そう思っていることに、苦しんでいることも」


 春原の心臓が、跳ねた。

 なぜ──リュカがそれを知っているのだろう。口にしたことは、一度もなかったはずなのに。


「でも……春原さん」


 リュカは一度、言葉を切った。唇が小さく動いて、けれど音にならなくて。もう一度、息を吸い直す。

 それは──彼女がこの半年間、胸の奥にしまい込んでいたものを、初めて言葉にしようとしている姿だった。


「……覚えて、いますか。お客さんが増え始めた頃、私、一人で全部回そうとして、倒れたことがありましたよね」


 春原は頷いた。忘れるはずがなかった。


「あの時、春原さんがこう言ってくれましたよね……『休んでください。僕が何とかするから』って」


 リュカの翡翠色の瞳が、まっすぐに春原を見つめた。


「その時の私は……正直に言えば、春原さんはお料理はできないって、思っていました。確かに、あの頃はそうでした。……でも、あれから『料理人になりたいと』告白してくださった時から……」


 リュカの獣耳が、わずかに震えた。


「あの日から……この店は、変わったんです」

 その声には、小さな、けれど確かな震えがあった。


「私一人で回していた厨房が、二人の厨房になりました。私が火を見ている間に、春原さんが次の食材を用意してくれる。私が盛り付けを始めると、春原さんが皿を並べてくれる。言葉を交わさなくても──次に何が必要か、もうわかっている」


 リュカの言葉は、ただの励ましではなかった。抽象的な褒め言葉でもなかった。この半年間、二人が一緒に厨房で過ごしてきた時間の──一つ一つの場面を、彼女は正確に覚えていた。


「お父さんが遺してくれたこの店で、お父さんの味を守りながら、私は料理を作り続けてきました。でも……この半年間で生まれたものは、お父さんの味だけじゃないんです」


 リュカの声が、ほんの少し高くなった。抑えようとしても抑えきれない何かが、言葉の端からにじみ出している。


「春原さんが教えてくれたことで、新しい料理が生まれました。春原さんが『この組み合わせはどうですか』って提案してくれたことから、メニューが広がりました。春原さんが教えてくれたから……私は料理をする理由を見つけることができました」


 リュカは、一度だけ目を伏せた。

 そしてもう一度、春原を真っ直ぐに見つめた。


「……今の『銀の厨房』の料理は、もう、私一人のものじゃありません」


 その一言が、春原の胸の奥に、深く、深く沈んだ。


「春原さんと一緒に作ってきたものです。毎朝の仕込みも。メニューの試作も。お客さんに出す一皿一皿も。全部……二人で、積み上げてきたものです」


 リュカは微笑んだ。

 その笑顔は、いつもの「大丈夫です」の笑顔とは違った。誰かを安心させるための笑顔ではなく、心の底からの信頼が──半年という時間の中で、一日一日、積み重ねてきた確信が、滲む笑顔だった。


「だから──お願いします」


 リュカの声は、もう震えてはいなかった。

 静かで、透き通っていて、けれどその奥に、この店を守ってきたすべての日々が込められていた。





「この『銀の厨房』を──決勝の舞台を、春原さんに託させてください」





 店内が、静まり返った。

 クラリスは息を呑んでいた。ルオットは腕を組んだまま、目を細めてリュカを見ている。


 春原は──動けなかった。

 リュカの翡翠色の瞳が、真っ直ぐに自分を見ている。そこにあるのは、同情でも、甘やかしでもなかった。


 一人の料理人が、別の料理人に厨房を託す。

 対等な信頼。


 その瞳の中に、春原は自分が映っているのを見た。リュカの目に映る自分は、かつてアレクシスが断じた「おままごと」の延長にいる人間ではなかった。料理に向き合い、成長し、ここまで歩いてきた一人の料理人だった。


 不意に──アレクシスの声が、春原の胸の奥で蘇る。



 ──「君は彼女の優しさに甘え続けているだけだ」



 あの夜の言葉が、冷たい刃のように心を抉る。

 いつもなら、その声に怯んでいた。その言葉の正しさを認め、自分の無力さを噛み締め、ただ耐えるしかなかった。


 けれど今──リュカの瞳を見つめながら、春原は気づいた。

 あの言葉に縛られていたのは、自分自身だった。


 アレクシスの言葉が正しいか間違っているかではない。あの言葉を基準にして、自分は「証明すること」だけに固執していた。「まだ甘えている」と言われないために。「足手まといではない」と認めさせるために。そうやってアレクシスの物差しで自分を測り続けることで、本当に大切なものを見落としていた。


 しかし──リュカは、彼女は、そう思っていなかった。


 自分の料理が人を傷つけたと疑われ、営業を止められ、決勝に立つことすらできなくなった。それでも彼女は「出る」と決め、そして今、自分の代わりに舞台に立つ人間として──春原を選んだ。


 これは、「証明」の先にある答えだった。

 これは、彼女の優しさではない。


 胸の奥で何かが決壊するような、温かくて苦しい衝動だった。


 ──あの屋上で、星空の下で、僕は誓ったはずだ。

 ──リュカさんの隣に、本当の意味で並ぶために。


 あの夜の約束が、ここに繋がっている。

 料理人になると決めた夜。毎朝、包丁を握って練習した日々。


 すべてが──今、この一点に集まっている。


 春原は、顔を上げた。

 リュカの翡翠色の瞳を、真っ直ぐに見返した。


「……わかった」


 声は静かだった。震えてもいなかった。


「僕が、行く……僕に任せて欲しい」


 短い言葉だった。飾り気のない、言葉。

 けれどその声には、星空の下で語った決意と同じ質量があった。守られるだけの存在から、共に戦う者へ。受け取るだけの側から、託される側へ。


 その転換が、たった三つの言葉の中に凝縮されていた。

 リュカの獣耳が、ぴくりと震えた。


 そして──翡翠色の瞳の縁が、ほんの僅かに潤んだ。彼女はそれを隠すように、小さく頷いた。



「はい。春原さん、お願いいたします」



 その声は、安堵でも、喜びでもない。もっと深い場所から湧き上がる、名前のつけられない感情。自分が信じたものが、ちゃんとそこにあったという──ただ、それだけの確認。


 クラリスが、椅子から身を乗り出した。


「──なら、私は聴聞会よ。聴聞会でリュカと一緒に戦う。証拠集めと弁護は私の領分よ」


 その声に、先ほどまでの自責の色はもうなかった。赤いリボンを片手で直しながら、クラリスの目に見慣れた鋭さが完全に戻っている。


 クラリスはテーブルに両手をつき、宣言するように言った。


「査察官が持っていった香辛料の成分分析。隼商会の実態調査。聴聞会までに集められる証拠は、全部集める。リュカの料理に問題がなかったことを、論理と証拠で証明してみせるわ」


 クラリスの目が、リュカに向けられた。


「あの時、隼商会の素性を見抜けなかったのは私のミスよ。だからこそ、今度は私が取り返す」


 リュカは、クラリスを見つめた。彼女の翡翠色の瞳に、温かな光が灯る。


「……クラリスさん」

「何よ、その顔。泣かないでよ、こっちまで崩れるから」


 先ほどまでの空虚な沈黙は、もうどこにもなかった。三人の間に灯った火は小さい。けれど、それぞれが自分の持ち場を見つけたことで、その炎は確かに安定し始めていた。


 ルオットは大きく息を吐いた。


「……ほんまに、見てるこっちの胃が痛くなるわ」


 苦笑だった。けれどその苦笑の奥に、別の何かが滲んでいる。


「よし!! ほな、運営としてできることはやっとく。出場辞退の届けは出さんとくで。こっちもできる限り、最後まで運営として支援させてもらうで」


 ルオットは立ち上がり、上着の襟元を正した。


「……『春原はん』、覚悟はあるか?」


 彼の目が、一瞬だけ真剣な光を帯びた。春原は、真っ直ぐにルオットの目を見返した。


「……正直に言えば、怖いです」


 偽りのない言葉だった。虚勢でも、強がりでもない。


「リュカさんの代わりが務まるか……一人で全部こなせるかも……わかりません」


 春原は一度、息を吸った。



「でも──リュカさんが僕を信じてくれた。その信頼に、応えたい。それだけです」



 その言葉に、ルオットは数秒間、春原を見つめていた。

 やがて──口の端に、かすかな笑みが浮かんだ。


「……そか」


 ルオットは踵を返し、扉に向かった。そして扉に手をかけたところで、一度だけ振り返った。


「決勝、楽しみにしとるで。じゃあ、ほな!」


 扉が開き、外の陽光が一瞬だけ店内に差し込んだ。そして扉が閉まり、ルオットの姿が消える。

 三人が残された。


 店内は相変わらず薄暗く、竈には火が入っていない。香辛料の棚には空白があり、営業自粛の札は扉にかかったまま。


 何一つ、状況は変わっていない。三人の間に流れる空気は、もう先ほどまでのものとは違っていた。

 灰の中に、確かに残火があった。小さく、頼りなく、しかし消えることなく。その火を三つに分けて、三人はそれぞれの戦場へと歩み出そうとしていた。


 クラリスが椅子から立ち上がった。


「春原」


 クラリスが春原に向き直った。


「あんたは決勝の準備に集中しなさい。聴聞会のことは私とリュカに任せて。余計なことは考えないこと。いいわね? こっちは聴聞会までに証拠を集めないといけないし……」



 その時だった。


「ぬおおおおおおおぉぉぉぉぉぉ!! なぜだあああぁぁぁぁぁぁ!!!」



 店の扉の前から、ただならぬ絶叫が聞こえてきた。

 火の消えた厨房に、予想もしなかった方角から、一筋の光が差し込もうとしていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ