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第155話:灰に埋もれた残火(1)


 昼を過ぎても、『銀の厨房』の竈には火が入っていなかった。


 普段であれば、この時間帯には厨房の窓から湯気が立ち上り、煮込まれるソースの芳香が東区の路地にまで漂っている──それが、この半年で当たり前になった『銀の厨房』の昼下がりの光景だった。


 しかし今日、その扉は固く閉ざされている。

 「本日休業」の札が、風に揺れることもなく静かにかかっていた。


 店内は薄暗い。窓から差し込む陽光だけが、テーブルや椅子の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている。磨き上げられた調理器具は棚の中で沈黙し、いつもなら食材の彩りで賑わう調理台の上には、何も載っていなかった。


 匂いがない。それが、何よりも異常だった。

 客席のテーブルの一つに、リュカと春原が向かい合って座っていた。


 リュカの獣耳は力なく横に倒れ、瞳は自分の手元をただ見つめていた。膝の上で組まれた両手は微かに震えていたが、それを隠すように指先を握りしめている。唇は薄く結ばれ、何かを堪えるような、あるいは何も感じまいとするような──そんな表情をしていた。


 春原は、リュカの向かいで拳を握っていた。


 テーブルの上に置かれた拳は、白くなるほど力が込められている。何か言葉を探しているのか、何度か唇が動きかけては、そのたびに閉じられる。彼はただ黙って座り続けていた。


 二人の間には、一枚の紙が置かれていた。

 王都調理衛生協会の印章が押された、公式な文書。その文面に並ぶ冷たい文字列が、二人から言葉を奪っている。


 どれほどの時間が過ぎただろう。

 不意に、店の扉が勢いよく開かれた。


「──だめだった」


 息を切らしたクラリスが、扉を押し開けて入ってきた。


 赤いリボンが乱れ、額には汗が滲んでいる。走り回っていたのだろう、靴の先には泥がついていた。彼女はいつもの冷静さをかなぐり捨てたような、切迫した表情をしていた。

 クラリスは荒い呼吸を整えながら、二人の前のテーブルまで歩み寄る。そして椅子に崩れるように座ると、悔しさを滲ませた声で言った。


「隼商会のガターとは連絡が取れない……商会ギルドに登録されている住所にも行ったけど、もぬけの殻だった」


 春原の瞳が、鋭くなった。


「もぬけの殻って──」


「看板も下ろされてた。帳場の中は空っぽ。家財の類いも一切残っていない。引き払ったんじゃなくて、最初からそこに何もなかったみたいに……きれいさっぱり消えてた」


 クラリスは拳をテーブルに落とした。硬い音が、静まった店内に響く。


「商会ギルドの窓口にも確認したわ。隼商会の登録情報はすでに抹消されてるって。理由は『届出による自主廃業』。届出日は……三日前よ」


 三日前。貴族晩餐会が催された翌日だ。

 リュカの指先が、膝の上で小さく震えた。その震えは全身に広がることなく、ただ指先だけに留まっている。けれどその小さな震えの中に、彼女が必死に堪えているものの大きさが透けて見えた。


「つまり、宴会の仕出しを仲介した隼商会そのものが、消えたってこと……」


 春原の声は低く、乾いていた。


「そういうことみたい……証拠を辿る手がかりは、完全に断たれた」


 沈黙が落ちる。


 三人の間に、言葉にならない重さが横たわっている。疑念、怒り、無力感──それぞれが胸の内に抱えるものは異なっていたが、その行き場のなさだけは共通していた。


 リュカは俯いたまま、唇を噛んだ。


 ──どうして。


 その問いだけが、三人の胸の中で繰り返されていた。

 数日前のこと。あの日、『銀の厨房』の扉を叩いたのは、見慣れない顔の男だった。



── ── ──



 ──貴族晩餐会から二日後の朝。


 開店の準備を終え、最初の客が来るのを待っていた頃。からん、と扉の鈴が鳴り、一人の男が店に入ってきた。


 痩身で、灰色の上着を隙なく着こなした中年の男。胸元には銀の徽章が光っている。王都調理衛生協会の紋章──調理鍋と天秤を組み合わせた意匠だ。

 男の目は冷静で、感情の色がない。職務に忠実な人間特有の、乾いた眼差しだった。


「『銀の厨房』店主、リュカ・ヴァレン殿でよろしいか」


 声も同様だった。淡々として、無駄がない。


「はい。私がリュカ・ヴァレンです」


 リュカは調理場から出て、丁寧に頭を下げた。獣耳がわずかに緊張で傾く。


「王都調理衛生協会の査察官、ベルント・ホフマン。本日は緊急の衛生査察のため、伺った次第だ」


 緊急の衛生査察。その言葉に、春原とクラリスの表情が強張った。通常の定期査察であれば事前に通知があるはずだ。「緊急」というのは、何らかの事案が発生したことを意味する。


「先日、とある公爵邸にて催された貴族晩餐会の後、出席者十五名が体調不良を訴え、王都の医療院に搬送された」


 リュカの獣耳が、ぴくりと震えた。


「症状は、いずれも魔素中毒に酷似したもの。嘔気、頭痛、発熱、そして二名は軽度の呼吸困難を」


 魔素中毒。その言葉が、店内の空気を一変させた。

 クラリスが思わず一歩前に出る。


「お待ちください。うちの料理が原因だとおっしゃるんですか?」

「原因の断定は、まだしていない」


 ベルントは平坦な声で答えた。


「しかし、搬送された患者たちの共通点は、当日の晩餐会で提供された料理を喫食したこと。そして、その料理の調理を担当したのが、『銀の厨房』であると、宴会の主催者側から報告を受けている」


 リュカの顔から、血の気が引いていった。


「そんな……宴会の料理は、確かに私が調理しておりました。魔素の残留がないことを、二人体制での確認工程を経てから提供を行なった……はずです」


 ベルントは表情を変えなかった。


「話は理解した。しかし、当協会としては証拠に基づいて判断する必要がある」


 彼は革鞄から、布に包まれた小さな容器を取り出した。


「これは、宴会場に残されていた食べ残し。主催者側が保管していたものを、協会が回収している」


 容器の蓋が開けられる。中には、赤褐色のソースがかかった料理の一部が入っていた。見覚えのある色合い。しかし、リュカの鼻が微かに動いた。


 ──何か、違う。


 それは直感だった。匂いの奥に、自分の料理とは異なる何かが混じっている気がした。けれど、それを言葉にできるほど明確ではない。数日が経過した食べ残しの匂いなど、変質していて当然だという理屈が、その直感を押し戻す。


「待ってください!」


 春原が前に出た。


「僕は人間です。魔素に対する耐性がないから、ほんのわずかでも残留があれば、必ず中毒反応が出ます。あの日、すべての料理を試食して、何も異常はなかった。身体に一切の変調もなかったんです!」


 春原の声には、必死さが滲んでいた。


 ベルントは春原を見つめ、そして静かに首を振った。


「私は犯人探しをしたいのではない。原因を突き止め、適切な処置、指導を行うのが責務だ。詳しい弁明については、後ほど機会を設ける」


 ベルントは春原の言葉を遮るように──しかし声を荒らげることなく、事務的に言った。


「まず、現場の確認を行う。厨房を拝見する」


 それは依頼ではなく、通告だった。リュカは一瞬だけ唇を噛んだが、すぐに小さく頷いた。


「……どうぞ」


 ベルントは革鞄から査察用の記録簿を取り出し、厨房へと足を踏み入れた。


 三人は黙って、その後に続く。

 厨房は、いつも通りに整然としていた。


 朝の仕込みを終えたばかりの調理台は拭き清められ、棚に並ぶ鍋や調理器具は磨き上げられている。食材は種別ごとに整理され、保存用の木箱には中身と日付が記された札がついていた。


 ベルントは無言で厨房を見回した。その目が、棚の一角で止まる。

 小さな木箱が並んでいた。蓋には手書きの文字が記されている。「魔素含有」と書かれた札が、その一つ一つに貼られていた。


 北方の獣人族に伝わる香辛料。リュカが『銀の炎』を生み出す際に使う、特別な調味料たち。魔素を含む食材であるがゆえに、徹底した温度管理と加熱処理が必要とされるものだ。


「これらが、魔素を含む香辛料か」

「はい。すべて私が管理しています」


 リュカは静かに答えた。


 彼は革鞄から布袋と小さな硝子容器をいくつか取り出した。そして、木箱の中から香辛料の瓶を一つ手に取り、蓋を開けた。


「証拠保全のため、魔素含有食材を採取する。該当する香辛料、調味料のすべてだ」


 リュカの獣耳が、ぴくりと動いた。


「……すべて、ですか」

「すべてだ。聴聞会までの間、成分分析を実施する。分析結果は、聴聞会の場で開示される」


 ベルントは一つ一つの瓶から少量を硝子容器に移し取り、残りは布袋に収めていった。その手つきは慣れたもので、淡々と、しかし正確だった。


 リュカは、自分の香辛料が一つずつ袋に消えていくのを、じっと見つめていた。

 春原は、リュカの横顔を見た。表情には何も浮かんでいない。けれど、彼女の両手が体の脇でわずかに震えているのが見えた。


 ベルントは記録簿に採取品目を書き留めながら、淡々と作業を続けた。竈の内壁を布で拭い、木炭の燃え残りを少量採取し、厨房の近くの壁面からも試料を取った。


 その手は止まらない。この厨房にある「証拠」を、一つ残らず回収していくかのように。

 やがて、ベルントは採取を終えた。記録簿を閉じ、革鞄に仕舞う。


「次に、事務的な通達を行う」


 リュカの前に立ったベルントは、革鞄から一通の封書を取り出した。王都調理衛生協会の正式な印章が押された、厚い紙の封筒。


「本件に関して、食品衛生法第十七条に基づき、『銀の厨房』に対して営業の自粛を勧告する」


 空気が凍った。


「営業……自粛」


 リュカの声は、掠れていた。


「あなた方が原因と決まったわけではないため、正式な営業停止命令ではない。特に食中毒と違い、魔素による中毒症状は特定が困難であるため、原因が特定できるまでの勧告だ」


 ベルントの声は変わらず平坦だった。しかし、次の言葉には明確な警告が含まれていた。


「ただし、勧告を無視して営業を継続した場合、後の処分が加重される。最悪の場合──」


 彼は一拍、間を置いた。その沈黙が、言葉以上に重い。



「──調理師免許の永久剥奪もあり得る」



 永久剥奪。

 その四文字が、リュカの胸に突き刺さった。


 料理人としての資格を、永遠に失うということ。『銀の厨房』を営むことも、誰かのために料理を作ることも、二度とできなくなるということ。


 養父エルベルトから受け継いだこの店。この厨房。この包丁。それらすべてが意味を失う未来が、たった四文字の中に凝縮されていた。


 クラリスが両手をテーブルにつき、前のめりになった。


「自粛勧告だけですか? こちらの言い分を聞いていただける場は」

「もちろん、設ける……正式な聴聞会を開催する。当日は『銀の厨房』の衛生管理体制について説明していただく。食品衛生責任者であるリュカ・ヴァレン殿には、必ず出席いただきたい」


 聴聞会。そこでリュカは、自分たちの調理行程や、魔素含有食材の管理方法を説明できる。それは弁明の場であると同時に、自分たちの正しさを証明する唯一の機会でもあった。


「……日程を、確認させてください」


 クラリスが書面を受け取り、目を走らせた。そして、彼女の顔色が変わった。

 彼女はゆっくりと、その書面をリュカと春原に見せる。

 聴聞会の開催日時──それは、王都新星料理大会の決勝戦と、同じ日だった。


 しかも、決勝戦の開始時刻と、完全に重なっている。


「……そんな」


 春原の声が漏れた。

 リュカの獣耳が、ゆっくりと下がっていく。まるで、見えない重みに押しつぶされるように。


 聴聞会に出席すれば、決勝戦には出られない。決勝戦を選べば、聴聞会を欠席することになる。そうなれば、営業許可は即刻取り消される。『銀の厨房』は、終わる。


 選ぶ余地すら残らない、二択であった。


「聴聞会を欠席された場合、営業許可を即刻取り消す手続きに入る」


 ベルントは革鞄を閉じ、立ち上がった。


「被害の拡大を予防することが、協会の責務だ。納得がいかないのであれば、聴聞会の場で異議を申し立ててほしい。それが、正式な手続きだ」


 正論だった。職務としては、一分の隙もない正論だった。感情を排し、規定に従い、手続きを踏む。査察官として、何一つ間違ったことはしていない。


「では、失礼する」


 ベルントは深く一礼し、採取品の入った鞄を手に、『銀の厨房』の扉を開けた。外から差し込む午後の陽光が一瞬だけ店内を照らし、そして扉が閉まると共に再び薄暗さが戻る。


 三人は、立ち尽くしていた。

 足元から、冷たいものがじわりと這い上がってくるような感覚。それが恐怖なのか、絶望なのか、怒りなのか──誰にもわからなかった。ただ、その冷たさだけが確かにそこにあった。


 リュカの獣耳は完全に後ろに倒れ、翡翠色の瞳は虚空を見つめていた。

 春原は拳を握りしめたまま、開くことができなかった。

 クラリスは書面を握る手が白くなるほど力を込めていたが、やがてその手からも力が抜けていく。


 厨房の竈には、火が入っていない。

 いつもならこの時間に漂う、温かな料理の香りがない。

 その「不在」だけが、静かに、しかし確かに──三人を追い詰めていた。



── ── ──



 ──そして、今。


 クラリスが走り回って掴んだのは、隼商会が跡形もなく消えたという事実だけだった。


 三人はテーブルを囲んだまま、沈黙の中にいる。

 魔素中毒。消えた隼商会。聴聞会と決勝が重なる日程。一つ一つは偶然で済ませられるかもしれない。


 けれど、これが「偶然」であると、三人の中の誰一人として信じてはいなかった。


 窓の外で、鐘が鳴る。王都の大時計台が刻む、午後の刻を告げる鐘の音。いつもと変わらない、規則正しい響き。


 火の消えた厨房で、ただ時間だけが静かに過ぎていく。

 次に三人が言葉を交わす時、そこにどんな答えがあるのか。それは、まだ誰にもわからなかった。


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