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5話 トモダチ デキタ



 サイレンが近づいてきた。

 その音に、晴ははっと顔を上げる。赤い光が、湿った路地の奥で明滅していた。



 ――死神とか、いるわけがない。



 胸の奥に浮かびかけた考えを、晴はすぐに打ち消した。


(なに毒されてんだ、俺)


 火事の場所を言い当てた。

 奥に取り残された犬のことも、知っていたみたいだった。

 けれどそんなものを本気で信じるなんてどうかしている。

 たまたまだ。偶然が続いただけ。

 そう思うことにした。



 ポメラニアンを抱き上げた飼い主が、何度も頭を下げながら去っていく。

 周囲には人も集まり、誰かが消防隊員に状況を説明している。もう自分達がここにいる理由はないはずだった。

 晴はようやく息をつき、ことりを見た。


「……救急車来るから、病院で診てもらえよ」


 ことりが振り向く。その目に、サッと警戒の色が走った。


「え、いいよ」

「よくない。手、真っ赤じゃん」

「本当にいいんだってば!」

「!」


 強い拒絶だった。

 さっきまで笑っていたのに、今は別人みたいな顔をしている。

 晴は少しだけたじろいだ。

 警察車両が路肩へ滑り込むように停まった瞬間、ことりは素早く踵を返した。


「あ、おい!」


 晴も反射的にその背を追う。

 人の隙間を縫うように走ることりは、火の中へ飛び込んだ直後とは思えない速さだった。


「待てって……!」


 追いつきかけたところで、空が低く唸る。

 ばしゃっと、滝みたいな雨が一気に落ちてきた。




「え、えええーーーーっっ!?」




 ほんの数秒で制服が肌に張りつく。アスファルトを叩く雨音が激しすぎて、周囲のざわめきまで洗い流されてしまいそうだった。

 ことりが足を止めかける。晴はその手首をとっさに掴んだ。


「こっち!」

「……っ!?」


 どこへ行くのか、自分でもわからなかった。

 けれど足は迷わない。

 病院も嫌。警察も嫌。

 だったらこの土砂降りの中へ放り出すのか。

 それはちょっと違う気がした。


 ばしゃばしゃと水たまりを蹴りながら、二人は夜の道を駆ける。

 息を切らして辿り着いた先で、ことりがぽかんと顔を上げる。



「……お城?」

「んなわけない」



 宮永家の門の前だった。

 高い塀。重たい門扉。広すぎる庭。

 雨に濡れた紫陽花が、闇の中で色を深めている。


 晴は門の隙間から、おそるおそる駐車スペースをのぞいた。

 よかった。父の車はない。

 どうやら今夜はマンションのほうへ戻ったらしい。


「……一晩だけだからな」

「ナイス!」


 ことりが親指を立て、にぱっと笑う。

 軽い返事を聞き流しながら、晴は玄関の扉を開ける。

 冷えた雨の匂いの向こうに、家の静けさが流れてきた。



     ◇◆◇



 リビングのテーブルには、救急箱が置かれていた。

 その前で、晴はあからさまに不満そうな顔をしている。


「ねぇ、これって立場……逆じゃないの?」


 ことりはソファの脇にしゃがみ込んだまま、当然みたいな顔で晴の頬を消毒していた。


「逆じゃないよ。わたしの火傷より、晴のほうがひどいじゃん」

「そんなことない」

「ある。口の端も切れてるし」


 ぺたりと絆創膏を貼られ、晴は「いて」と顔をしかめる。

 さらにことりは、じっと晴の上半身を見て眉根を寄せた。


「絶対、背中もひどいよね。さっきから、かばうみたいに動いてるし」」

「別にそんなこと……」

「見せて」

「ちょ、待て!」

「待たない」

「おい!」


 制服の裾に手がかかり、ぐいっと一気にたくし上げられた。

 背中に冷たい空気が触れる。さすがの晴も、思わず顔が赤くなった。



 その時だった。

 リビングの前を一つの影が通りかかった。

 ――茉莉だ。

 どうやら飲み物を取りに行く途中らしい叔母が、こちらを見て石のように固まっている。



「あ、おば……」

「ぎゃあああぁぁーーーーっ!!!」



 家中に大きな悲鳴が響いた。

 晴もことりも、声の大きさに驚いて金縛りになる。

 茉莉は真っ赤な顔で半裸の晴と、その背後にいる見知らぬ少女を交互に見比べた。


「あ、あ、あんた達……」

「あ、叔母さん、これは」

「ふ、不潔! 不潔だわっ!」


 茉莉は晴の言い訳を聞こうともせず、わなわな震えながら叫ぶと、そのまま自室へ駆け戻っていく。

 ばたん。

 二階のドアが勢いよく閉まった。

 しばしの沈黙。

 ことりがぽかんとしたまま、つぶやく。




「……なんか、個性的な叔母さんだね」

「ほっといてあげて」




 晴は深くため息をついた。

 ずきずきと、頭が痛かった。




    ◇◆◇




 ひと通り手当てを終える頃には、雨音も少し落ち着いていた。

 晴に続き、ことりの右手にも白いガーゼと包帯が巻かれた。ことりは自分の手をしげしげと見てから、相好を崩す。


「ありがと」

「別に」


 晴がそっけなく救急箱を閉じると、ことりが身を乗り出し、口元の絆創膏にそっと触れる。


「これ、明日誰かになんか言われない?」

「……家でコケたって言えば、誰も気づかないよ」

「そっか」


 家で転んだ。

 そんな雑な言い訳で済んでしまうくらい、晴の傷は見過ごされてきたのだろう。

 ことりは何か言いかけて、結局口を閉じた。他人が余計な口出しをする権利なんかない。わかっているから、ただうつむいた。


「よっと」


 そうしている間にも、晴が和室から来客用の布団を運んできた。ことりの目がキランと輝く。


「お布団!」

「ソファで我慢しろよ」

「やったー、ありがと!」


 晴がひょいと掛布団を放ると、ことりは嬉しそうに受け止め、そのままソファへダイブした。頬をぐりぐり押しつけるようにして、満足そうに目を細める。


「ふかふかだぁ。幸せ~♪」

「マジで今夜一晩だけだからな」

「うんうん」

「絶対聞いてないだろ」

「聞いてる聞いてる。おやすみなさーい」


 晴が呆れて電気を消す頃には、ことりはもう布団の中で芋虫みたいに丸くなっていた。

 布団ひとつで安心しきったみたいに、もう寝息を立てている。


(……こいつ、本当に家に帰りたくないんだな)


 布団一つで喜んでいることりを見て、晴はしみじみと思う。

 詳しい事情は分からない。知りたいとも思わない。

 けれど小さな野良犬に安心できる寝床を提供できたみたいで、ほんの少し心があたたかくなった。



    ◇◆◇



 翌朝。

 ことりはまだソファで、すうすう眠っていた。

 晴は台所で食パンを焼きながら、ちらりとリビングを見る。

 包帯を巻いた手を布団の外へ投げ出し、昨日のまま無防備に眠っている。


(……ま、俺が学校行ってる間に出ていくだろ)


 そう思って、晴は家を出た。

 通学路では、いつも通りガクトと陽葵に合流する。



「おっす、晴」

「昨日の雨ひどかったなー」

「なんだ、お前また家でコケたの」



 絆創膏に気づいたガクトが笑う。

 晴は曖昧に肩をすくめた。

 変わらない朝。

 昨日の夜の出来事なんて全部夢だったと思えるくらい、いつも通りだった。



    ◇◆◇



 昼過ぎになって、ことりはようやく目を覚ました。

 ぐう。

 腹の音が鳴って、まずは台所を探り始める。

 冷蔵庫を開け、棚をのぞき、最終的にカップラーメンを見つけた。ポットで湯を沸かし、カップに注ぐ。三分待つ間、ことりは鼻歌まじりに椅子へ座った。


 そこへ茉莉がやってくる。

 目が合った瞬間、二人とも動きを止めた。


「あ、オハヨーございまーす。……じゃなくて、もうおそようございます?」

「あ、あ、あんた……」


 茉莉が硬直する。

 ことりはまるで気にした様子もなく、湯気の立つカップラーメンを持ち上げた。


「あ、これ食べます?」

「ひっ」


 茉莉はばたばたと踵を返し、二階へ逃げていく。


「あ、ちょっと待って!」


 ことりも慌てて追いかける。目の前で、ばたん、と閉まるドア。


「うーん……」


 カップラーメンを片手に、ことりは少しだけ迷う。

 けれど次の瞬間には、けろっとした顔でドアノブへ手をかけていた。


「失礼しまーっす!」

「ぎゃあああーー!」


 またまた家中に悲鳴が響く。

 けれど次の瞬間、ことりはごくりと息を呑みこんだ。

 目の前には、今まで見たこともないような空間が広がっていた。



   ◇◆◇



 夕方。

 学校から帰った晴は、玄関で足を止めた。

 まだことりの靴があるのに気づき、天井を仰ぐ。


「おいおい……マジかよ」


 どうしよう。嫌な予感しかしない。

 うんざりしながら上がり込むと、二階から何やら騒がしい声が聞こえてきた。茉莉の部屋の方向だ。


「ことり……?」


 少しためらってから、めったに近寄らない叔母の部屋のドアをノックする。――と、すぐに中から弾んだ声が返ってくる。


「はーい、どうぞー!」


 晴は能天気な声に腹を立て、やや乱暴にドアを開けた。



「あのなぁ、お前……!」



 でもすぐに、言葉は詰まる。

 部屋の中は、想像とまるで違っていた。


 壁もカーテンも小物も、どぎついくらいのピンク。

 その真ん中に、いくつものパソコンとモニターが並んでいる。

 画面にはアニメ絵、動画編集ソフト、数字の並んだ管理画面がずらりと映し出されていた。

 その異様な空間の中心で、ことりと茉莉がゲームのコントローラーを握っていた。


「おかえりー! ね、ね、晴、マリリンってすごいね!」

「……はぁ?」


 晴がぽかんとすると、茉莉がびくっと肩を揺らし、どもりながら顔を上げた。


「あ、は、晴くん、おかえり……」

「あ、た、ただいまです……」


 叔母におかえりなんて言われたのは何年ぶりのことか。

 いや、もしかしたら初めてかもしれない。


「よぉし、マリリン、もうひと勝負!」

「いやいや、ちょっと待て」


 晴はことりの手からコントローラーを取り上げる。


「どういうこと?」

「見てわかんない? マリリンと友達になったんだけど」

「マリリンって、もしかしなくても叔母さんのこと?」

「うん!」


 晴が茉莉を見ると、茉莉は露骨に目をそらした。


「ゲ、ゲーム一緒にやってもらっただけ……」

「だけじゃないよ。マリリン、こういうので稼いでるんだって」


 ことりが部屋じゅうのモニターを指さす。


「AIで絵とか動画とか作って、いろいろ回してるの。すごいよねぇ」

「え、AI……?」


 晴は呆然と画面を見回した。

 ネットで聞いたことはある。けれどそんなものは一部のエンジニアしか触れない世界だと思っていた。

 茉莉が、もじもじと指先をいじる。


「そ、そんな大したことじゃないよ。ちゃんと考えてやれば、素人でも……できるし……」

「いや、すごいって」

「う、うん。叔母さんがこんなことできるなんて知らなかった……」


 その一言に、茉莉が少しだけ顔を上げる。

 戸惑ったような、でもどこか嬉しそうな顔だった。


「あ、あたしなんて宮永家の面汚しだし……」

「誰がそんなこと言ったの!」


 ことりが即座に立ち上がる。包帯を巻いた手をぶんぶん振って、鼻息荒く言い放つ。


「センスないね、そういうこと言う奴。わたしなら秒でブロックする」

「こ、ことりちゃん……」


 茉莉の頬が緩み、それからおずおずと晴を見る。



「ね、晴くん」

「あ、はい」

「ことりちゃん、しばらくあたしの部屋に泊まらせていい?」

「え!?」

「え!」



 晴とことりの声が重なる。

 茉莉はもじもじしながら、それでも最後まで言い切った。



「は、初めて出来た、ト、トモダチだから……」

「マリリン……」



 ことりが感動したみたいに胸の前で手を組む。

 晴は頭が痛くなった。

 まさか叔母がこんな簡単に懐柔されるなんて思わなかった。


「ありがと、マリリン! 晴もこれからしばらくよろしく!」

「お前なぁ……っ」


 抗議しようとして、でも最後まで続かなかった。

 ことりはもう当然みたいな顔で笑っているし、茉莉もそんなことりの隣で、少しだけ誇らしそうにしている。

 静かで、息の詰まるだけだった家に、理解不能な風が吹き込んできたみたいだった。

 それが悪いことなのかどうか、晴にはまだわからない。

 ただ一つだけ確かなのは――


 空野ことりは、見事にこの家に住みつくことに成功した、ということだった。



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