4話 たたかう少女
少年Aこと宮永晴の取り調べは、夜になってもまだ続いていた。
記録を取っていた森田が、顔をしかめてつい横から口をはさむ。
「常習的な父親による虐待――それって、ひどすぎませんか」
晴はうつむいたまま、何も言わない。
新藤は森田を一瞥し、それ以上は咎めなかった。
さらに一度立ち上がり、晴の隣に立つ。晴はびくりと体を強張らせた。
「悪い、確認だ」
静かにそう言って、晴の制服の腕を軽くまくり上げる。
そこには治りかけの痣の痕が、無数にあった。
殴られた跡。蹴られた跡。時期がばらばらで、古いものと新しいものが重なり合っている。長い時間をかけて、繰り返し刻まれてきた痕だ。
怒りが腹の奥から湧いてきたが、表には出さない。出したところで、目の前の少年の役に立つわけじゃない。
新藤は静かに袖を戻し、再び向かいの席に腰を下ろした。
「行方不明中の議員様には、こんな裏の顔があったわけだ」
「……」
晴は再びうつむく。
謝りもしない。言い訳もしない。それがかえって新藤の胸に刺さった。
この少年は自分が傷つけられることを、とっくに当たり前のものとして受け入れてしまっている。
新藤は気持ちを切り替えるように、一度だけ大きく息を吐いた。
「それと空野ことりは、お前がつけた名前だったんだな」
「……はい」
「彼女と出会ったのも、彼女の予知の力のおかげだった?」
晴は眉間にしわを寄せ、少しだけ考え込む。
「……よくわかりません。初めて出会った時も冗談みたいに言ってて……。本気なのか、からかっているのか、判断がつかなかったです」
新藤は腕組みしたまま、晴の供述を脳内で咀嚼した。
宮永晴の告白は聞いている分にはわかりやすく、今のところ大きな嘘をついているとは思えない。
だが肝心の被害者・空野ことり像が、まだいまいち見えてこない。
救世主。
家出少女。
死神を名乗る少女。
どれも輪郭が曖昧なままだ。
「で、それからどうした? 彼女とすぐそこで別れたわけじゃないんだろう?」
問いかけると、晴はコクリとうなずいた。
「はい、あの後すぐ、ファミレスに行きました」
◇◆◇
ファミレスのテーブルには、皿がいくつも並んでいた。
ハンバーグに山盛りのポテト、ドリア、スープ、サラダ。ドリンクバーのグラスまで二つある。
ことりは周りの目も気にせずガツガツと、それらを口の中に放り込んでいた。
「……そんなに腹減ってたのかよ」
向かいに座った晴が半ば呆れて言うと、ことりはポテトを頬張ったまま顔を上げる。
「命の恩人に対して失礼じゃない?」
「なんで俺が奢ってるんだ」
「お礼でしょ? ゴチっす!」
当然みたいに敬礼して、ことりはメロンソーダをひと口飲む。
それから何事もなかったみたいに、今度はドリアを食べ始めた。
店内は明るかった。
さっきまでいた岬が嘘みたいに、白い照明も、厨房の音も、遠くの席から聞こえる笑い声も、どれも平凡で暖かい。
その真ん中で、ことりだけが妙に堂々としている。まるで最初からここが自分の居場所だったみたいな顔で、次々と料理を口へ運んでいた。
晴はしばらく黙って向かいを見ていたが、やがてふと思いついたように口を開いた。
「……家、どこ?」
「ん? 火星」
「すごい遠くじゃん」
「ウソ、木星」
「さらに離れた」
ことりは動かしていたスプーンを止めて、くすくす笑う。
晴は聞く気をなくした。
本気で答えるつもりがない相手に問いかけ続けるなんて、時間の無駄だ。
「……もういい」
「諦めるの早くない?」
「どうせ言わないだろ」
「せいかーい。あ、こっちのサラダもおいしい」
本当に家出少女なのかもしれない。
そう思ったが、晴は追及しなかった。
どうせこの後、すぐ別れる。
深入りする理由なんて、一つもなかった。
ことりは最後のひと口まできっちり平らげると、満足そうに背もたれへ体を預けた。
「食った……食いまくったぜ……」
「死にかけたみたいな声出すなよ」
「むしろ生き返ったの。わたし今、ものすごく生を感じてる」
「大げさだな」
「大げさじゃないよ。ご飯は命だもん」
ことりはそう言って、グラスの底に残っていたメロンソーダを飲み干した。
そろそろ頃合いか。
晴はスマホの電子決済で食事代を支払い、「それじゃ俺はこれで」と席を立ち上がった。
――でもその時だった。
ことりが、不意に動きを止めた。
最初はもっと奢れと、ごねられるのかと思った。
けれど違った。ことりの目は晴でも店内でもなく、もっとずっと遠い何かを見ていた。
「……おい、どうした?」
「……」
声をかけても、返事がない。
ことりはゆっくり瞬きをした後、眉を寄せた。右手でこめかみを押さえる。
「痛っ……」
ことりの顔色が、急に悪くなった。ついさっきまで悪ふざけしていたのに、今は真剣な顔でじっと固まっている。
「ちょっと、待って」
「何が」
「……やばい。火事だ」
「え?」
「近くで火事が、起きる」
「――」
最初は、意味がわからなかった。
が、聞き返すより早く、ことりが椅子を引く。がたん、と派手な音が鳴った。
「行かなきゃ」
「え、おい!」
それだけ言って、ことりは店の出口へ駆け出した。
晴も反射的に立ち上がる。テーブルに置いた自分のスマホだけひったくるようにつかみ、後を追う。
ことりは迷いなく走っていた。
細い路地を抜け、雑居ビルの並ぶ通りへ出る。晴は遅れまいと後を追いながら、ようやく鼻の奥を刺す匂いに気づいた。
焦げ臭い。
視線を上げた先で、ことりが足を止めた。
古びた三階建ての雑居ビル。その脇のゴミ置き場のあたりから、灰色の煙が立ちのぼっている。
段ボールの端が赤く燃え、そこから黒ずんだ炎が壁際へ這うように広がっていた。まだ大きくはない。でもこのまま放っておけば一気に燃え移るのは目に見えていた。
うわ……と晴が息を呑む間に、もうことりは動いていた。ビル脇の壁に備えつけられていた消火器を手際よく取り出す。
「手伝って!」
「わ、わかった!」
白い消火剤が勢いよく噴き出し、炎へ叩きつけられる。ぱちぱち、と嫌な音がして、火が一瞬だけ暴れるように揺れた。
「あつっ!」
ぶわりと巻き上がった炎が、ことりの前方を一瞬覆った。見る見るうちに手の甲が真っ赤に腫れ上がる。
「ちょ、危ないから下がれって!」
「大丈夫!」
――全然大丈夫じゃないだろっ!
そう心の中で悪態をつきながら、晴もまたすぐに別の消火器を見つけて、消火に当たった。
騒ぎに気づいたのか、近くの店から人が何人か顔を出す。
帰宅途中の女性が立ち尽くし、二階の窓が開いて誰かが「火事!?」と叫んだ。
その声を合図に、人の気配が一気に増える。
別の誰かがバケツで水を持ってくる。
遠くからは消防車のサイレンも聞こえてきた。
晴はそこでようやく、全身の力を抜いた。
よかった。
火は目に見えて小さくなっている。周囲にも人が集まった。もうさっきみたいに、この場に自分達しかいないわけじゃない。
そう思って、晴は隣を見た。
けれどことりはなぜか、じっと建物の奥を見ている。
「……まだ、いる」
「え?」
「中。まだ終わってない」
次の瞬間、再びことりは走り出した。晴も慌てて後を追う。
「ちょっ、待てって!」
ことりが向かったのは、ビルの最奥にある裏口だった。扉を開けると、むっとした熱気と焦げ臭さが流れ出てきた。まだここは勢いよく燃えている。
しかしことりは躊躇しなかった。細い通路を真っすぐ進み、突き当たりのドアを押し開ける。
そこは小さな店のバックヤードのようだった。棚と段ボールが雑然と積まれ、隅に折りたたみ椅子や掃除道具が寄せてある。
その奥にケージが一つだけ置かれていた。
キューン、キューンというか細い鳴き声。
「……犬?」
晴は炎と煙の中で、目を凝らした。
白っぽい小型犬……ポメラニアンか。が、怯えきって、ケージの中で小さくうずくまっている。吠えもせず、ただ縮こまっているだけだから、外にいたら気づかなかったかもしれない。
ことりはケージの前まで走り、留め具を外そうとした。だが焦っているせいか、
「いたっ!」
右手がうまく動かない。さっき火傷したところが赤く腫れている。
「貸せ!」
横から手を伸ばし、力を込めて留め具をずらす。硬かったが、一発二発蹴りを入れて、ようやく外れた。
「わんちゃん、こっち!」
ことりがすぐに扉を開け、犬を抱き上げる。
「よし」
「よし、じゃない! さっさと出るぞ!」
晴はことりの腕をつかみ、そのまま炎のないほうへ引っ張った。
外へ出た途端、夜風が頬に当たる。
さっきまで肺の奥で蒸されていた空気が、一気に解放されたような気がした。
「ココ!」
その直後、コンビニ袋を片手にした三十代くらいの男が、血相を変えて人ごみの中から駆け寄ってきた。ことりの腕の中の犬を見るなり、
「うちの子……! よかった、よかった……!」
と、その場でへたり込みそうな勢いで何度も頭を下げた。
「ありがとうございます、本当に! 少しだけ外に出てて、すぐ戻るつもりで……」
「よかった。わんちゃん、もう一人にしちゃだめだよ」
ことりは笑顔で、ポメラニアンを飼い主の男性に返した。ご主人に抱っこされてやっと安心したのか、ポメラニアンは尻尾を振って、元気よくワン!と鳴く。
だけど晴のほうはと言えば、一歩も動けなかった。
『わたし、死神なの』
さっき出会った時のことりの言葉が、リフレインする。
ぼやを見つけただけじゃない。
その奥に取り残されていた犬の存在まで、ことりは最初から知っていたかのように。
火事は、偶然かもしれない。
でも、犬は――
ぱちぱちと火の粉が舞う中、晴はただ、ことりの横顔を見ていた。
今は犬の飼い主に向かって、何でもない顔で笑っている。
腫れ上がった右手のことも、さっきまで炎の中にいたことも、もう忘れたみたいに。
――何者なんだ、こいつは。
晴はただ茫然と、その場に立ち尽くすしかなかった。




