3話 そらのことり
晴は傘も差さず、街を歩いていた。
頬が痛い。腹も、肩も、腕も痛い。
歩くたび、父に殴られた場所が鈍く疼く。
本当はかかりつけの宇崎医院へ行くつもりだった。
鎮痛剤をもらって、痛みをごまかして、また何もなかったみたいな顔で家へ戻る。
いつも通りに。
そのはずだったのに。
ふいに、白いものが視界の端をよぎった。
鳥だった。
雨に濡れたネオン街の上を、一羽の白い鳥がひらりと横切っていく。
こんな時間に、こんな場所に。
幻かと思ったが、確かに見えた。
鳥は一度だけ羽ばたいて、暗い空へ消える。
なぜかその後を追うように、晴は歩き出した。
曲がり角をいくつか抜けて、人気のない坂を上って、気づけば星追岬まで来ていた。
◇◆◇
いつの間にか、雨はやんでいた。
岬へ続く細い道は外灯が故障しているのか、ちかちかと頼りなく瞬いている。
辺りに人影はない。聞こえるのは、風にあおられた大波の音だけだった。
晴はふらりと崖のほうへ近づく。ただ自然と足がそちらへ向いた。
眼下には真っ黒な海が広がっている。波の形も見えない。底なんて、もちろん見えない。
(ここで死ぬ人って、どんな気持ちなんだろう?)
ふと、そんなことを思った。
別に自分は死にたいわけじゃない。
でも生きたいと思っているわけでもなかった。
その時、暗闇の中を数羽の鳥が横切った。
さっき街で見た白い鳥だろうか。
夜の崖の上を、自由に、おおらかに飛んでいる。風に逆らうどころか、上昇気流に乗るのを楽しんでいるみたいだった。
「いいな、おまえら」
晴は手を伸ばす。
届かない。
届かないとわかっていても、伸ばさずにはいられなかった。
ぐらり、と視界が傾いた。
足元をすくわれ、体が斜めになってバランスを崩す。
(やばい)
気づいた時にはもう遅い。
晴の体は崖の上からはみ出し、黒い海の底に吸い込まれようとしていた。
でも、次の瞬間。
視界の端に白いものが映った。
制服の袖。
長い髪。
きゃしゃな体が、風を切るみたいにこちらへ伸びてくる。
腕をつかまれた。
細いくせに、信じられないほど強い力だった。
「うわっ!」
悲鳴と同時に、ぐいっと身体が一気に崖側へと引き戻される。
肩が抜けそうなくらい痛い。
そのまま晴は地面に倒れ込み、次いでもう一つの身体が横でどさっと崩れ落ちた。
「あー! もう最悪なんだけどっ!」
荒い息まじりに飛んできた声で、晴はようやく顔を上げた。
そこにいたのは、同い年くらいの少女だった。長い髪を風に乱されながら、泥のついたスカートを見下ろしている。
助かった、より先に、なんだこいつ、と思った。
少女はぶつぶつ文句を言いながらスカートの裾を払うと、晴の前に右手を差し出した。
「ほい」
立たせてくれるのかと思って、晴は反射的にその手を握る。
しかしすぐにぱしっと振り払われた。
「ちーがーうー!」
「……え?」
「クリーニング代! あんたのせいで汚れたんだけど!」
「は?」
かなり気が強そうだった。
暗がりでもわかるくらい顔はかわいいのに、口を開くと台無しだ。
しかも青南高校の制服じゃない。
晴が固まっている間に、少女はするりと彼のポケットへ手を入れた。
「あっ、おい!」
「財布ないなら、スマホで払ってよ」
「ふざけんな」
取り返そうと身を乗り出した拍子に晴の指が画面に触れ、ロックが外れる。
「あ、開いた」
「返せって」
「へぇ。宮永晴。青南高校二年。……ふぅん」
指を滑らせながら、少女はニヤッと笑う。
「あの宮永議員の息子さんなんだ」
「勝手に見るなよ」
「いいじゃん、命の恩人なんだから」
「恩人は人のスマホ漁らない」
晴が奪い返そうとすると、少女はひょいと身をかわした。
右に動けば右へ、左へ伸ばせば左へ。崖から落ちかけた直後だというのに、しばらく情けない取り合いになる。
ようやくスマホを取り返した時には、少しだけ息が上がっていた。
少女はそんな晴を見て、ふんっと鼻を鳴らした。
「感謝してよ。あんた、本当はここで死ぬはずだったんだから」
「……え?」
「転落死。明日には『議員の息子が星追岬で自殺か?』って大騒ぎ。ネットニュースにもなるし、ワイドショーも面白がって食いつくね」
少女は楽しそうに指を折っていく。
「で、遺体が痣だらけだから、当然虐待も疑われる。宮永議員は『崖から落ちた時の傷です』って否定するんだけど、世間はそんなの信じない。結果、大炎上。議員生命はジ・エンド」
晴は目を見開いた。
制服の下の痣は見えないはずだ。この暗がりなら、なおさら。
けれどそれ以上に少女の話す内容は妙に痛快だった。
父が失脚する。
あの横暴な男が世間に叩かれて、全部失う。
想像しただけで、胸の奥が少し軽くなる。
「……ははっ」
気づけば笑いが漏れていた。
今度は少女のほうが驚いた顔になる。
「なんで笑ってんの」
「なんか……おかしくて」
「死ぬ気だったんじゃないの?」
「そういうわけじゃ、なかったと思う」
「思う?」
「……よくわかんない」
それが一番近かった。
晴はまだ立ち上がれずにいた。
足にうまく力が入らない。さっき崖の外へ傾いた感覚だけが、遅れて身体の奥に広がってくる。
そこへまた雨が落ちてきた。ぽつ、ぽつ、と頬に冷たいものが当たる。
「うわ、最悪。ほら、行くよ!」
「え?」
少女は返事も待たず、晴の手首をつかんで走り出した。
連れていかれたのは灯台のそばにある小さな東屋だった。灯台そのものは閉鎖されていて入れないが、そこなら雨をしのげる。
二人はベンチの端と端に座った。
雨音だけが、しばらくラジオからの放送みたいに延々流れていた。
少女は濡れた前髪をうっとうしそうに払う。
晴は自分の腕を見下ろした。
「……なんで、わかった?」
「何が?」
晴は袖を少しまくって、肘のあたりに残る痣を見せる。
「これ。服の下、見えないだろ」
「あー……まあ、それはなんとなく」
「なんとなく?」
少女はベンチから立ち上がる。
腰に手を当てポーズをとり、少し得意げに笑った。
「わたし、死神なの」
「はぁ?」
「人の死が見えるの」
晴は眉をひそめた。どう考えても作り話だ。
「……馬鹿にしてんの?」
晴がむっとすると、少女はいたずらっぽく笑った。
「信じる信じないは勝手。でもわたし、あなたがここで死ぬの見えたから、来た」
「……」
「助けたら、お礼もらえるかなーって」
けらけらと笑う。晴は一気に脱力した。
「金目当てかよ」
「悪い?」
「別に……」
「で?」
「で?」
「お金払えないなら、代わりに泊めてくれない?」
「は?」
「帰る家がないんだよねー、実は」
「……家出少女、とか?」
「ご名答!」
少女は悪びれもせず、にこっと笑った。
「あ、今ピーンときた! どうやら宮永晴くんは、かわいそうで可愛いわたしに同情して、一晩宿を提供してくれるみたいです!」
「そんなこと一言も言ってない」
「あ、けどセックスはなしで」
「人の話、聞いてる?」
「聞いてませーん」
あまりにも身勝手な言い分だった。なのに不思議と嫌じゃない。
雨脚は少しずつ弱まっていた。
少女は外を見て、「よし」とつぶやくと、また晴の手首をつかむ。
「さ、行こ」
「ちょ、待って」
「待たなーい」
引っ張られるまま東屋を出る。
ついさっきまで崖の縁に立っていたのが嘘みたいだった。
灯台から離れながら、晴はふと思い出したように口を開く。
「……名前」
「ん?」
「君の名前、なんていうの?」
少女は少しだけ首を傾げた。それから、どうでもよさそうに肩をすくめる。
「好きに呼べばいいよ。どうせ一夜限りの関係だし。晴が考えて」
出会ったばかりで、もう呼び捨てかよ。
晴は半ば呆れながら空を見上げた。
雲の切れ間から、月明かりが少しだけ射している。
あの白い鳥たちが、まだ遠くを飛んでいた。
広い空だった。
手を伸ばしても届かない、自由な場所。
「……ことり」
「え?」
晴は空を指さす。
「空のことり。……空野ことり、とか」
少女はきょとんとした後、ぱっと明るく笑った。
「うん、可愛いじゃん!」
上機嫌になった少女――ことりは、晴の手を離さないまま先へ進んでいく。
その背中を見ながら、晴はまだ少しだけ呆然としていた。
ついさっきまで、自分は崖から落ちかけていたはずなのに、今は得体の知れない少女に振り回されながら、夜道を歩いている。
けれど足取りはさっきより軽かった。
それが、二人の出会いだった。




