2話 日常と非日常
「なんであの日、出会っちゃったのかな……」
白い取調室に落ちた声は、ひどく掠れていた。
新藤の視線を無視するみたいに、晴はぼんやりとうつむく。
目の前の机も、壁も、むき出しの蛍光灯の光も、今はもう見えていないのかもしれない。
記憶だけが、ゆっくりと遡っていく。
六月。
あれは別に、特別でもなんでもない一日だった。
むしろいつも通りの、平凡な朝だった。
◇◆◇
「よお、晴!」
後ろから飛んできた声に、晴は振り返った。
高校へと向かう通学路の途中。駆け足で近づいてくるのは、幼馴染のガクトだった。
晴より十センチ背が低くて、ぽっちゃりとした体型。
右手に弁当袋、左手にも弁当袋。どちらもずしりと重そうにたわんでいる。
「お袋がまた作りすぎてさ。電車の中でつぶれるかと思った」
「それ全部食うの? ドン引きなんだけど」
「は? 母親の愛を粗末にするとか、お前のほうがどうかしてるわ」
「愛の話してないから」
カラカラと声を立てて、ガクトは笑った。
ガクトとは小学三年の時からの付き合いだ。転校してきた晴に最初に話しかけてきたのがガクトで、以来ずっとつるんでいる。
うるさくて食い意地が張っていて、思ったことをすぐ口にする。けど、そのわかりやすさが晴には気楽だった。
「そういえば今日って――」
ガクトが何か言いかけた時、前方から声がした。
「おはよう。なんか言い合いしてた?」
もう一人の幼馴染・松木陽葵が、少し先で立ち止まってこちらを見ていた。
「おはよう、陽葵」
「ガクトがまたなんか言った感じ?」
「母親の愛を粗末にできないから、弁当二個とも食うって」
「……なるほど。ガクトらしいな」
陽葵は苦笑しながら晴の隣に並ぶ。こいつとも、小学校からの腐れ縁だ。
ちなみに同じ幼馴染でもガクトと陽葵は対照的だ。
ガクトがぽっちゃり系なら、陽葵はすらりとしたイケメン。
明るい茶色の髪に、よく通る声。廊下を歩けば女子の視線を集めるくせに、本人は大して気にも留めていない。
「今日も陽葵は普通に顔がいいよな~。毎日どうなってんの、それ」
「ん? なんか言った?」
「ガクトが陽葵のことイケメンでうらやましいって」
「うらやましすぎて泣けるんだが? なあ晴、お前も思うよな?」
「まあ……否定はしない」
「お前ら、朝からやめてくれ」
陽葵が苦笑いで頭を掻く。晴もつられて笑った。
ガクトは特別ひねくれるでもなく、こんなふうに陽葵を茶化して笑っていられる。
そういうところが、晴には少しだけうらやましかった。
そして長く付き合ううち、毎朝こうして並んで歩くのが当たり前になっていた。
校門近くまで近づいた時、ふいに陽葵のスマホが鳴る。
「あ、今日の放課後、生徒会の会議あるわ」
「マジで? また?」
「また」
「生徒会長って大変だな。俺には無理だわ~」
「ガクトは一生なれないから安心しろ」
「晴、ちょっとひどくない? 陽葵もなんか言ってやってくれ~」
「ははっ」
晴は陽葵と視線を合わせ、軽く肩をすくめた。
「まあ俺が生徒会やってるのも、内申のためっていう打算があるからだし」
「お、黒いね」
「そんなわけで今日の放課後はパスな。じゃ、職員室寄る用あるから先行く」
陽葵は小走りで前に出た。通り過ぎる女子グループが、その背中をちらちらと目で追っている。これも毎朝のことだ。
さらにガクトも思い出したように、弁当袋を持つ両手をバタバタさせた。
「そういえば今日、進路調査用紙の提出日じゃね?」
「……そんなものもあったっけ」
「やば! まだ書いてねぇ! オレも先行くわ」
今度はボテボテと、ガクトが校舎へ駆け込んでいった。
一人取り残された晴は、無意識に空を見上げる。
(進路、か)
いつのまにか頭上には雲が広がっていた。白かった空が、少しずつ灰色に変わっていく。
ぽつぽつと降り始めた雨の中を歩いて、晴は教室に滑り込んだ。
席についた途端、近くにいたクラスメイトが声をかけてくる。
「おー、宮永。お前、進路調査用紙もう書いた?」
「まだ」
「そっか。お前んち、そういうのうるさそうだよな。議員の息子って大変そう」
軽い調子だった。悪意はない。ただの世間話だ。
晴は「そうかもな」と曖昧に返して、窓の外に視線を向けた。
宮永秀樹。晴の父は星追市議会議員だ。
地盤を受け継いだ世襲議員で、若手のホープともてはやされている。
近いうちに国政に乗り出すという噂も、晴の耳には届いていた。
けれどすごいのは父で、自分じゃない。
そんなことは、とっくにわかっていた。
クラスの中に埋もれて、誰かに特別扱いされるわけでもなく、されたいとも思わない。
自分は凡庸で、どこにでもいる人間のひとりにすぎないと早々に諦めてしまえば、それはそれで楽だった。
晴は進路調査用紙をカバンから取り出した。
そこには真っ白な空欄だけが広がっていた。
◇◆◇
放課後、雨はまだ降り続いていた。
進路調査用紙は、結局ほとんど白紙のままだった。
担任に「明日でもいいですか」と聞くと、露骨に嫌そうな顔をされたが、それ以上は何も言われなかった。
晴は用紙を鞄に押し込み、校舎を出る。
帰り道でも、雨はやまなかった。傘を打つ雨音を聞きながら歩いていると、胸の奥に重たい泥が沈んでいくみたいな感覚を覚えた。
帰りたくない、と思う。
けれど帰らないという発想もまた、晴の中にはなかった。
門をくぐる。
宮永家の屋敷は、この辺りではよく知られていた。古くからの地元名士らしい、無駄に大きな門構え。手入れの行き届いた庭。雨に濡れた植え込みまで、きちんと整いすぎていて息が詰まる。
外から見れば立派な家だ。けれど晴にとっては、ただ大きいだけの檻でしかなかった。
家の中は静かだった。
「……ただいま」
返事はない。
だが靴を脱いだ瞬間に気づく。
父の靴がある。
喉の奥が、ひゅっと狭くなった。
父――宮永秀樹は、めったに本宅へ戻ってこない。事務所代わりにしているマンションのほうで寝泊まりしていることのほうが多い。
だからこそ、帰ってきた日はわかる。
何かで腹を立てた日。
何かを外では飲み込んで、本宅で吐き出したくなった日。
そういう時だけ、父はここへ戻ってくる。
廊下の奥で、ドアが少しだけ開いた。
同居している叔母の茉莉だった。
「……」
「……」
ほんの一瞬だけ、目が合った。
茉莉は今年で40になる。
太った身体に、荒れた肌。ぼさついた髪。
いわゆる子供部屋おばさんの茉莉は、今日も晴の帰宅を確認するなり、すぐに扉の向こうへ引っ込んだ。
晴も何も言わない。
同じ家で暮らしていても、茉莉とはほとんど口をきかない。
向こうも晴と接触しないようにしているのがわかった。
その時、書斎の扉が開いた。
「晴」
父の声だった。
それだけで身体が強張る。
頭より先に、手足や肩や腹……全身が勝手に固くなる。
「入れ」
晴は無言でうなずき、書斎へ入った。
背後で、ぱたん、と扉が閉まる。
外では雨の音が静かに響いていた。
◇◆◇
床に、赤い染みが落ちている。
鼻からか、口の端からか、自分でもよくわからない。
とにかく血が垂れている。
晴は床に手をついたまま、しばらく動けずにいた。
平手打ちされた頬は赤く腫れ、腹の奥は鈍く痛む。腕も肩も脚も、どこをどう殴られたのか、もう判別がつかない。
服の下は、新しい傷、古い傷が重なり痣だらけだ。
父はネクタイを緩めながら、満足したみたいな顔で息を吐いた。
「まったく、お前を見ているだけで腹が立つ」
晴は返事をしない。
返事をしたところで何も変わらないと、もう知っている。
父は足元の晴を見下ろし、吐き捨てるように言った。
「恨むなら、お前そっくりな母親を恨め」
それだけ言って、書斎を出ていく。
扉が閉まる音がした。
静かになった部屋で、晴はしばらくそのままだった。
恨む。
その言葉が、妙に遠く感じる。
そんな感情、よくわからなかった。
父を憎んだことがないわけじゃない。
苦しいと思ったことがないわけでもない。
けれどそれは怒りや憎しみとして育つ前に、どこかで痩せて死んでしまった気がする。
自分は宮永という家に縛りつけられている。
逃げることも、逆らうこともなく、ただその中で弱って死んでいくだけのものだ。
鳥籠に閉じ込められた鳥は、空を見上げなくなる。
暴れれば出られるかもしれない、なんて考えもしない。
ただそこで静かに羽を傷め、弱っていく。
晴はゆっくり身体を起こした。
痛い、と思う。
自分の部屋へ戻り、机の引き出しを開ける。
鎮痛剤を探す。見慣れた箱を引っ張り出し、中を見た。
空だった。
晴はしばらく、そのまま見つめる。
ない。
その事実だけが、妙にはっきり頭の中に落ちてきた。
……取りに行かなきゃ。
宇崎医院に。
そう考えた途端、それだけが今日しなければならない唯一のことみたいに思えた。
晴はスマホだけを掴んだ。鞄はいらない。傘も、どうでもよかった。
部屋を出る。廊下は静まり返っていた。
父のいる書斎からは、紙をめくる音がかすかに聞こえる。何事もなかったみたいに。
玄関で靴を履く。指先がうまく動かず、紐を結ぶのに少し時間がかかった。
扉を開けると、外はまだ雨だった。
冷たい空気が頬に触れて、腫れた場所がひりつく。それでも家の中にいるよりは息がしやすかった。
門を出る。
雨が髪に、頬に、制服に落ちてくる。
どこへ行けばいいのか、もうよくわからない。
晴はふらつく足で、ゆっくりと歩き出した。




