33話 もう救世主はいない
取調室の窓から差し込む午後の光が、机の上で細かく反射していた。
狭い部屋だった。
壁も、机も、椅子も、全てが現実から切り離され、小さな箱庭となってそこにある。
宮永晴は、椅子に座ったまま動かなかった。
背筋はわずかに丸まり、視線は机の傷に落ちている。
生気の抜けた横顔は、泣き疲れた子どもにも、すべてを諦めた老人にも見えた。
新藤は向かいの椅子を引いた。森田も背後の席に座る。
二人ともいつもよりずっと表情が硬い。森田は記録用の端末を開いたものの、指先はすぐには動かなかった。
新藤は大きく息を吸う。煙草の代わりに肺へ押し込んだ空気は、やけに乾いていた。
「宮永」
晴は反応しない。まるで電池が切れた人形のよう。
「お前が殺したと供述している空野ことりについてだが」
「……」
「落ち着いて聞け。空野ことりは実在しない。お前が作り上げたイマジナリーフレンドである可能性が高い。今の捜査状況では、そういう結論に傾いている」
その言葉は緩やかな波紋となって広がっていく。
数秒の空白の後、晴がゆっくり顔を上げた。
「……え? イマジナリー……フレンド?」
何を告げられたのか、まったく理解できていない顔。
「なんですか、それ」
「今から説明する。もちろん空野ことりが実在していた可能性を完全に捨てたわけじゃない。遺体の捜索も続ける。だが――」
「待ってください」
「同時に、お前の精神鑑定も始まるだろう」
「待ってください!」
晴が勢いよく立ち上がった。
椅子の脚が床を引っかき、取調室に耳障りな音が響く。
さっきまで血の気を失っていた頬に、見る見るうちに赤みが差していく。絶望の底に沈んでいた目が、今度は怒りと恐怖で揺れていた。
「ことりがいなかったって、どういうことですか」
「宮永、座れ」
「そんなことあるわけないでしょう? あいつは星追岬で俺を助けてくれて、それからずっと一緒に暮らして、叔母さんとも仲良くなって、陽葵たちとも……っ」
そこまで口にしたところで、晴の言葉が途切れた。
瞳の焦点が急に合わなくなり、全身が震える。
「一緒に……暮らして……」
晴は何かを探すように、宙を見た。
空野ことり。
人の死を見る、どこか不遜で、どこか寂しそうな少女。
晴に名前をもらい、宮永家に転がり込み、温かい食卓を作ってくれた。
ではどんな顔だった。
彼女はどんな声で笑っていた。
自分をからかう時、どんな仕草だった。
泣く時、唇はどう震えていた。
晴の頬にキスをした時、彼女の髪はどんな匂いがした。
思い出せない。
覚えているはずなのに。
命より大切だったはずなのに。
輪郭をつかもうとすればするほど、ことりの姿は霧の向こうへ遠ざかっていく。
ガクトの時と同じだった。そこにいたはずの存在が、記憶の中でぼやけていく。名前だけが残り、顔も声も、手の温度さえこぼれ落ちる。
「ぅ……っ」
晴はこめかみを押さえ、机に片手をついた。
頭の奥で、ちりちりと火花のような痛みが走る。
考えるな。
見るな。
そこに触れるな。
頭の奥から、誰かが必死に警告しているようだった。
そしてそんな晴を、新藤は目を逸らさず見つめていた。
「まず宇崎礼一の証言だ。お前は七年ほど前から解離性の精神疾患を患っていた。原因は父親からの暴力だ」
「……違う」
「その結果、お前の中にガクトというイマジナリーフレンドが生まれた。ガクトはお前にとって理想の子どもだった」
「違う……」
「星追高校の名簿にガクトはいない。住所も、苗字も、家族も、記録もない。川成明日香も、松木陽葵も、ガクトが実在しないことに気づいていた」
友人の名を出され、晴の喉が引きつった。
森田は唇を噛み、端末に視線を落とす。タイプするはずの指は動いていなかった。
「そして四か月前。星追岬で死にかけた夜、お前の中にもう一人現れた。――空野ことりだ」
晴は何も言い返せない。
防衛本能なのかとっさに両耳を手で押さえるが、新藤の声は遠慮なく鼓膜の奥まで飛び込んで来た。
「宇崎礼一、川成明日香、宮永茉莉。三人の証言を突き合わせた。宮永家に空野ことりという少女がいた痕跡はない。叔母の宮永茉莉はことりを知らないと証言している。彼女がAIアバターチャンネルを作ったという話も違う。押収したパソコンを解析した結果、チャンネルを管理し、AIアバターを生成し、配信システムを組んでいたのはお前だとわかった」
「……嘘だ」
「崖から突き落とす動画にも加工痕が出た。月森町のボヤ騒ぎの被害者も、犬を助けてくれたのは高校生の男の子だったと証言している」
「嘘だ……!」
「空野ことりの母方が巫女の家系だったという話も、おそらくお前が宮永家に伝わる昔話を作り替えたものだ。未来予知をしていたのは、空野ことりじゃない」
晴の唇が青ざめる。
新藤は、逃げ道を塞ぐように告げた。
「宮永晴。未来を見ていたのは、お前自身だ」
「――」
それからまた、長い沈黙が落ちた。
窓から差し込む光は、いつの間にか弱くなっていた。机の上の粒子は色を変え、淡い橙に染まり始めている。
晴はふらふらとなりながら、椅子へ座り込んだ。
「じゃあ……何ですか。陽葵は……俺の異常に気づいていながら、ずっと合わせてくれてたってことですか」
晴が最初に確かめたのは、自分の罪でもことりの存在でもなかった。
亡くなった親友の優しさだった。
新藤の表情が、ほんの少しだけ動く。刑事ではなく一人の人間として感情が、ふっと目元ににじむ。
「お前のことを、守りたかったんだろうな」
「……っ」
「松木陽葵の死を、心から残念に思う」
晴はぎゅっと下唇を噛んだ。強く噛みすぎて、赤い血がにじむほどに。
新藤の話を、すぐに信じたわけではない。
信じられるはずがない。
けれど記憶の中の陽葵をたどると、いくつもの場面が別の意味を持って立ち上がってくる。
ガクトがどれほど無茶なことを言っても、陽葵は笑って流していた。
誰もいない場所へ向かって晴が話しかけても、陽葵は驚かなかった。
ガクトの分まで自然に話題をつなぎ、明日香が怪訝な顔をした時には、さりげなく晴の前に立っていた。
全部、わかっていたのだ。
晴を傷つけないように。
晴の世界を壊さないように。
それでいて、晴が孤独にならないように。
『宮永くん、松木くんに感謝しなさいよ』
地震が起きる直前、明日香が残した言葉の意味が、ようやく腑に落ちた。
陽葵も、明日香も。
晴の弱さを知った上で、黙ってそばにいてくれていたのだ。
「ひな、た……」
刹那、喉の奥から熱いものがせり上がる。
「陽葵……っ!」
晴は机の上で腕を組み、顔を伏せた。押し殺した嗚咽が肩を揺らす。
陽葵が死んだ。
その事実を知っていたはずなのに、今になってようやく本当の重さを持って襲いかかってきた。
けれど晴の心は、まだ折れきれなかった。
折れたら自分という形が消えてしまう。
だからしゃくりを上げながらも、必死に顔を上げた。
「でも……ことりの素顔はどうなるんです。あの地震の時、ことりは配信で自分の姿を出した。日本中の人が見たんですよ。あれまで俺だって言うんですか」
涙に濡れた目で、目の前の刑事をにらむ。しかし新藤は、全くぶれなかった。
「宮永晴。お前はあの日の同じ時刻、父親と一緒に市民を高台に誘導していたな」
「はい。でも、みんな全然逃げてくれなくて……」
「お前は考えたはずだ。どうすれば、もっと多くの人に声が届くのか」
「それ、は……」
「被災地域の人々を避難させるためには、空野ことりを動かす必要があった。AIアバターでは足りない。本物の少女が顔を出して訴えれば、信じる人間が増える。とっさにそう考えたお前は避難誘導の合間にスマホを使って、空野ことりの姿をAIで作成した」
「覚えてません」
「だろうな。お前は都合の悪いことを、全部空想で補ってしまう」
「人を変人みたいに言わないでください!」
晴が再び声を荒げた。
今にも新藤に殴りかかりそうな勢いで、机に両手を叩きつける。
「じゃあ何ですか。俺は空想の友達だけじゃなく、空想の恋人まで作った変態ですか」
「宮永」
「刑事さんが言ってるのは、そういうことでしょう? 俺は理想の女の子を作って、その子に恋をして、一人で舞い上がってた。誰もいないのに、勝手に救われた気になって、勝手に愛された気になってた」
晴の顔が歪む。
「そんなの、ただの道化じゃないですか!」
「ああ、そうだ。お前は日本一の道化だよ!」
「新藤さん!」
新藤も立ち上がり、晴と真っ向から対峙する。森田が慌てて二人の間に入った。
だがそれでも新藤は言葉を止めない。
むしろ晴の傷をわざと抉るかのように畳みかける。
「お前はとんでもなく弱くて、とんでもない卑怯者だ。自分の中にある痛みも、能力も、罪悪感も、全部空野ことり一人に背負わせた。そして最後には、彼女の存在ごと消し去った」
「……っ」
「それがお前の罪だ。これから背負っていかなきゃならない十字架だ」
わなわなと、晴の拳が震える。
怒りなのか、悲しみなのか、もう本人にもわからないようだった。
「俺は前に言ったよな。もう二度とこんなことが起こらないように、意地でも踏ん張ってみせろって」
「それ、は……」
「みっともなくて情けない自分から目を逸らすな。辛くても現実を見ろ。お前はずっと一人だった。心無い大人たちは誰もお前を助けなかった。けどな」
ポタリ。
晴の頬から顎を伝って、一粒、また涙が零れ落ちる。
「松木陽葵がいた。お前の世界が歪んでいると知っても、否定せずに隣を歩いた奴がいた。川成明日香も、多分同じだ。お前を笑いものにするんじゃなく、傷つけないように、そっと見守っていた人間がいた」
「……」
「諦めさえしなければ、必ずまたそういう人間に出会える」
取調室の中で、晴の呼吸だけが不規則に響いていた。
新藤は最後の一言を、叩き込むように告げる。
「生きろ」
「――」
「もう救世主はどこにもいない。今度はお前自身が、お前を救うんだ」
それはまさに世界が180度ひっくり返った瞬間。
がくり、と、晴は膝から一気に崩れ落ちる。
額を何度も机の端にぶつけながら、喉の奥から声を絞り出した。
「ぅ、あ……あああ……っ!!」
嗚咽はやがて号泣に変わり、取調室という狭い箱庭の中で響き続けた。
まるで子どもだった頃に泣けなかった分を、今この時に全部取り戻すかのように。
「ことり……ガクト……陽葵……っ!」
呼ぶ名前は、もうどこにも届かない。
失ったものを。
自分が作り出したものを。
本当にそばにいてくれたものを。
晴はようやく自覚した。
全部抱えて、全部失って、ようやく現実の底に膝をついた。
窓の外では、夕日が沈みかけている。
取調室に射す光は、決して優しくはない。
けれど絶望でもなかった。
それは宮永晴が幻想の世界から、無理やり引きずり出された日。
救世主のいない世界で、初めて自分の足で歩き始めた日でもあった。




