32話 そうしてすべての謎は解ける
六月の雨が降った、あの日。
いつものように父親から暴力を受けた宮永晴が、人生に絶望したのは間違いない。
雨の中、家を飛び出したことも。
星追岬へ向かったことも。
そこで足を滑らせ、死にかけたことも。
おそらくすべて事実なのだろう。
しかし本当に死にかけた時、死に対する恐怖と、生への無意識の執着が、晴の中で別の人物として姿を現したのだとしたら。
空野ことり。
死を予知し、自分を見つけ、自分を救ってくれる少女。
そんな救世主を、誰よりも求めていたのは……。
他でもない、宮永晴自身だったのかもしれない。
◇◆◇
「宮永茉莉さん。あなたは、兄の秀樹さんが息子の晴くんを長年虐待していたことに気づいていましたか」
新藤の茉莉に対する尋問は、まだ続いていた。
乱雑なリビングに沈黙が落ちる。
茉莉は膝を抱えるように身を縮め、唇を震わせていた。さっきまでヒステリーを起こしていた勢いは、もうどこにもない。
「気づいてたって……どうにもならないことはあるじゃないです、か」
テーブルの上に置かれたレジ袋が、隙間風でかさりと鳴った。
「あたしのせいじゃない。あたしは何も知らないですっ。お兄ちゃんが怖かったんです。晴だって、何も言わなかったし……!」
新藤は返事をしなかった。
宇崎礼一と同じだ。
この女もまた、晴の虐待を見て見ぬふりをしていた大人の一人だった。
晴の供述では、茉莉はことりと出会ったことで少しずつ変わっていったはずだ。
ことりに部屋を与え、AIアバターを作り、晴とことりの居場所を守ろうとした。
だがそのことりが存在しないのだとすれば、茉莉の変化や成長も全部幻だったということだ。
「晴くんは、きっと助けてほしかったんでしょうね」
ぽつりと森田がこぼした。
結局、目の前の女は晴が最初に語っていたような、頼れる叔母ではなかった。
同じ屋根の下にいながら、晴の苦しみに手を伸ばさなかっただけの他人。
だからこそ晴は、理想の叔母を必要としたのかもしれない。
空野ことりがいて。
宮永茉莉がそれを受け入れて。
三人で食卓を囲み、ゲームをして、くだらないことで笑う。
あの楽しかった日々は、晴がどうしようもなく欲しかった平凡な生活だった。
そしてこの四か月間、晴にとっては確かに現実だった。
そう考えると、胸の奥が苦しくなる。
「でも空野ことりもイマジナリーフレンドだったと仮定すると、未来予知は誰がしていたんでしょう?」
それは最後に残った、大きな謎だった。
新藤と森田は再び情報を整理する。
「宮永晴の話では、ことりの母方は古い巫女の家系だったって言ってましたよね」
「ああ、曾祖母も人の死を見る力に苦しんでいたとかいう話だった。だが空野ことりが存在しないなら、それも晴が作り上げた妄想だろう」
「え、巫女って……」
だがその話に反応したのは茉莉だった。
「巫女の家系って、それ、うちのおばあちゃんの話ですよ」
「宮永家の?」
「うちは代々、この辺りの大地主だったから……昔、妾か何かに、そういう女の人がいたって聞いたことあります。災いを前もって言い当てるとか、天に向かって祈祷するとか。よくある昔話みたいなものだと思ってましたけど……」
「じゃあ未来予知していたのは空野ことりじゃなく……」
「宮永晴本人が?」
三人は顔を見合わせた。
沈黙と戸惑いが、また部屋の空気をどんよりと満たしていく。
けれど今度の沈黙は、重さが違っていた。
そう考えれば、晴が度々訴えていた片頭痛にも辻褄が合う。
未来予知の前後に起きる激しい頭痛。
晴はそれをことりの症状として語っていたが、実際には晴自身の頭痛だったのではないか。
「宇崎が処方していた薬は、確か脳が強制的にブーストされたような、異常に活動的な状態になる可能性があると言っていたな」
「はい。体質によっては、覚醒作用が強く出ることもあると」
「それをことりに出会ってから晴が短期間で大量に服用するようになっていたとしたら――」
また全ての線が一つに繋がる。
あまりにも綺麗に。
これはもう、ただのイマジナリーフレンドでは片づけられない。
宮永晴の解離性疾患が、本格的に悪化していたと見るべきだろう。
星追岬で死にかけた夜、晴の中に空野ことりが現れた。
同時に宮永家の血と薬の影響で、晴自身の未来予知能力も芽吹き始めた。
けれど晴は、それを自分のものとして受け止められなかった。
だから未来予知という役割を、ことりに与えた。
死を見る少女。
誰かを救うために現れた、救世主。
晴は自分のAI技術を使い、未来予知チャンネルを立ち上げた。ことりという仮面をかぶせ、世界へ発信した。
その幻想を、松木陽葵や川成明日香が守っていた。
存在しないガクトに合わせていたように、存在しない空野ことりにも合わせていた。
そして皮肉にも、空野ことりという虚像は独り歩きした。
日本中が奇跡を追い求めた。
救世主を崇めた。
救われなかった者たちは、救世主を憎んだ。
その祈りも、怨嗟も、すべて晴に流れ込んでいたのだとしたら。
耐えられるはずがない。
晴は未来予知を持ったもう一人の自分――空野ことりを殺すしかなかった。
世界を壊さなければ、自分自身が壊れてしまうから。
全ての謎は解けた。
空野ことりは殺されていない。
なぜなら彼女は、もう一人の宮永晴だったのだから。
◇◆◇
捜査本部へ戻った新藤は、ここまでの結果を上司に報告した。
聞き終わった課長も、同僚たちも、誰一人としてすぐには口を開かなかった。
ホワイトボードには、空野ことりの写真が貼られている。だが今となっては、その少女の顔さえ、ひどく不確かなものに見えた。
「正式に宮永晴を精神鑑定にかける必要があるでしょう。ただおそらく、いくら探しても空野ことりの遺体は上がらないと思います」
「マジか……。日本のビリー・ミリガンかよ」
課長が渋い顔のまま、頭を抱える。
その時、森田が鑑識から戻ってきた。手には宮永家の別邸から押収したノートパソコンがある。
「解析結果が出ました。このノートパソコンは、やはり宮永晴本人のものと見て間違いありません」
森田がパソコンを開く。画面が立ち上がり、問題のチャンネルが表示された。
『ことりのみらい★監視局』。見慣れたAIアバターが、画面の中で明るく笑っていた。あまりにも無邪気なその笑顔。
「チャンネルの管理、AIアバターの生成、配信システムの構築。すべて晴くんが一人でやっていた痕跡が残っています」
「茉莉じゃなく、晴が?」
「はい。今のところ管理者は宮永晴一人だけです」
いまだ宮永晴・空野ことり同一人物説に納得できずにいる課長が、顔をしかめた。
「あの崖から突き落とされる動画は?」
「案の定、フェイクでした。鑑識のお墨付きです。映像の人物、背景、影の動きに加工痕が出ています」
「……」
「それと四か月前、月森町で起きた雑居ビルのボヤ騒ぎ」
「お、それだそれ。確か空野ことりが、ボヤを予知したんだったな」
課長が最後の期待を込めて尋ねるが、森田は首を横に振った。
「その際犬を助けてもらった男性にも確認を取りました。『あの時助けてくれたのは高校生の男の子だった』――と」
「そっちもダメかぁ~!」
課長は今度こそお手上げだという風に、天井を仰いだ。
世間を騒がせている一大事件。
日本中が怒り、悲しみ、祈り、憎んでいる救世主殺害事件。
それが実は、解離性の精神疾患を抱えた少年の壮大な自作自演だった。
しかも未来予知だけは本物かもしれない。
たちが悪いにもほどがある。
「これ、どうすんだよ。今回の事件は県警よりもっと上が動いてるんだぞ。世間も黙ってねえ」
課長が机に伏せながら、情けなくぼやく。
「どうにもこうにも宮永晴を療養施設に送るしかないでしょうね。彼はまだ未成年です」
「世間がそれで納得するか?」
「難しいでしょうね」
新藤は、どこか他人事のように嘯いた。
実際、世間への説明だの上層部への報告だの政治的な後始末だのは、新藤の仕事ではない。面倒なことは上に任せればいい。
新藤には、新藤にしかできない仕事が残っていた。
取調室にいる宮永晴。
あの少年に、これから現実を突きつけなければならない。
空野ことりは実在しなかった。
君が殺した少女など、どこにもいなかった。
そう告げることが救いになるのか、さらなる絶望になるのか、新藤にはわからない。
だが事実から目を逸らしたままでは、あの少年はどこにも進めない。
それだけは、確かだった。




