エピローグ
桜がもうすぐ散りきる、暖かな午後だった。
少年Aこと宮永晴は、半年を過ごした療養施設を退院した。
玄関ロビーは静かだった。職員が数人、形式的な見送りをしてくれたものの、晴を迎えに来る家族はいない。海外にいる祖父母とは何度か連絡を取ったが、今日は来られないと聞いていた。
それ自体は構わない。ただガラス張りの自動扉の向こうに見える景色が問題だった。
門の外には、カメラを構えた記者らしき影がいくつもある。道路の反対側にも、スマホを手にした野次馬が集まっていた。裏口のほうにも人がいると、さっき職員が困った顔で教えてくれた。
そしてその場で立ち止まった晴の肩を、誰かが軽く叩いた。
「よう、久しぶり」
振り返った先には、新藤衛が立っている。
晴は目を見張った。
◇◆◇
業者専用の通路を抜け、地下駐車場へ出る。そこに停めてあったミニバンへ乗り込むと、新藤は迷いなくハンドルを切った。
車は療養施設を離れ、春の光の中へ流れ出ていく。
震災から七か月近くが経っていた。
星追市は少しずつ日常を取り戻している。駅前のコンビニには灯りが戻り、仮設商店街には昼時になると列ができる。制服姿の学生も、買い物袋を提げた老人も、以前よりゆっくりではあるが、それぞれの生活へ戻ろうとしていた。
けれど海沿いへ向かう道路には、まだ立入禁止のフェンスが残っている。
更地になった住宅街の隅には、色褪せた花束が置かれていた。剥き出しの地面に、誰かが手を合わせている。
街は生きていた。
けれど失ったものを、忘れたわけではなかった。
「しばらくは、まだ注目されるだろうな」
新藤が前を向いたまま口を開く。
後部座席に座る晴は、膝の上で手を握った。
「……すいません」
「何せお前は世間を騒がせた大戦犯だからな。難儀なこった」
「新藤さん、今日はどうして……」
「たまたま非番だった」
それだけ告げると、新藤は再びハンドルを切り、急に脇道へ入った。後ろからついてきていた車を撒くように、大きく回り道をする。
空野ことり殺害事件の真相は、日本中に衝撃を与えた。
殺人の実行犯とされた少年Aは、解離性同一性障害を患っていた。空野ことりは少年が作り出した別人格であり、実在の少女ではなかったと発表された。
ただし未来予知については違う。
公式には少年AがAIで作った予測プログラムが、災害情報、地殻変動、気象データ、ネット上の微細な兆候を偶然組み合わせ、天文学的な確率で的中したという扱いになった。
星追署だけではない。もっと上の、そのさらに上の上からの指示だったらしい。
これ以上、未来予知などという不確かなものに国民を振り回させない。
それが政府の判断だった。
そして晴自身もこの半年、療養施設で一度も未来を見なかった。
頭痛も、耳鳴りも、幻覚も、以前よりずっと少なくなった。
宇崎礼一から処方されていた薬を断ち、専門医の治療を受け、晴の世界は少しずつ静かになっていった。
「薬を飲まなくなったおかげだろう。もう悪夢に悩まされずに済む」
新藤の口ぶりは、どこか他人事のようだった。
晴は自分の手のひらをじっと見る。
「そう……ですね。多分、あの震災の時に全部使い切ったんだと思います」
「ん?」
「俺が持っていたもの、全部」
信号が赤に変わる。
車が停まり、新藤はルームミラー越しに晴を見た。
退院は許された。けれど特別な監視が完全になくなったわけではない。
少年Aという記号は、これからも晴について回ることになるだろう。
「祖父と祖母が、海外に来ないかって言ってくれてます」
「行くのか」
「多分。日本にいるよりは、ましでしょうから」
青信号に変わり、車が再び走り出した。
ほとぼりが冷めるまで、晴は普通に街を歩くことも難しい。誰かに指をさされ、スマホを向けられ、ネットでも噂される。
それが罰だというのなら、受け入れるしかない。
しばらくして、車は星追岬に近い道で停まった。
津波の被害を受けた沿岸部は、瓦礫こそかなり片づいているものの、まだ更地が多い。岬へ続く道も一部は封鎖され、人の気配は少なかった。
「じゃあな」
「ありがとうございました」
晴は車を降り、深く頭を下げた。
新藤は窓を閉めかけて、ふと手を止める。
「宮永」
「……はい」
「お前はよくやった」
「え?」
晴が反射的に顔を上げる。
新藤は視線を合わせず、前を向いたままだった。
「よく騙しきった」
その瞬間、晴の呼吸が止まった。
それまで静かだったはずの脈拍が一気に急上昇する。
ぎこちなく視線を動かせば、ルームミラーにぶら下がるものが目に入る。
それは――
メロンメロンちゃんのキーホルダー。
新藤にはあまりに似つかわしくない、子ども向けキャラクターの小さな飾りだった。
「し、新藤さ……」
「もう会うこともないだろう」
短く言い残し、新藤は車を出した。
逆に晴は驚愕の表情のまま、その場に立ち尽くす。
遠ざかっていく車体がゆっくりと、輪郭をぼやけさせながら春の光に溶けていく。
不意にじん、と目元が熱くなり、晴は震える息を押し殺した。
ただただ遠ざかる車に向かって、深く頭を下げ続けた。
◇◆◇
川成明日香は震災の二か月後、母方の実家がある北海道へ引っ越した。
受験生には厳しい環境の変化だったが、彼女は見事国立大学に合格した。
今は女子大生として、慣れないキャンパスを歩いている。
その日、明日香は人の流れから外れ、噴水前広場のベンチに腰を下ろしていた。
スマホを開く。
今日は宮永晴の退院日だと、ある人物から事前に知らされていた。
画面には、たった五文字のメッセージが届いている。
『ありがとう』
明日香はそれを確認し、すぐにメッセージを消した。
送り主のアドレスも消去する。
まっすぐ顔を上げ、春の青空を仰いだ。
目の奥が熱くなる。けれど泣かなかった。
泣いてしまえば、隣にいるはずの人が困ったように笑うだろうから。
「約束、守ったよ」
明日香は背筋を伸ばし、スマホを鞄にしまった。
そして再び、人の流れに向かって歩き出した。
◇◆◇
仮設商店街の一角に、小さな弁当屋ができていた。
昼時になると、作業着姿の男たちや役所帰りの職員が列を作る。
湯気の立つ味噌汁。揚げたての唐揚げ。炊きたてのご飯の匂い。
宮永茉莉は店の奥で白い三角巾をかぶり、ぎこちない手つきで弁当を袋に詰めていた。
「あ、ありがとうございました……!」
声はまだ小さい。客と目が合う度に心臓がばくばくするし、釣り銭を渡す指は震え、混雑するとすぐに顔が真っ赤になる。
それでも茉莉は逃げなかった。
二十五年以上、家の中に閉じこもっていた彼女は、ようやく自分の足で社会とつながろうとしていた。
「宮永さん、今日は上がりでいいわよ」
「あ、はい。お疲れさまでした……!」
制服を脱ぎ、帰り支度を始める。
スマホを確認すると、立ち上げたばかりのAIチャンネルの通知が目に入った。
『みんな、今日は星追市の復興がどこまで進んでいるかリポートするよ!』
画面の中では、茉莉に少し似た丸っこいアバターが元気よく手を振っている。
登録者はまだ少ない。コメントも片手で数えられるほどしかない。
それでも誰かの役に立つこと。
誰かとつながること。
その意味を、茉莉は誰よりも知っていた。
帰り際、茉莉は店の奥へ顔を出す。
「あの、余ったお弁当……買っていってもいいですか」
「いつも通り二つ?」
店長が慣れた様子で弁当を取り出す。
茉莉は少しだけ迷って、それから嬉しそうに笑った。
「今日は三人前でお願いします!」
◇◆◇
晴を星追岬の近くで降ろした後、新藤は県外のショッピングモールへ向かった。
妻の恵梨香と、息子の健太が待っていた。
三人でフードコートの端に座り、久しぶりにゆっくり食事を取る。
震災直後の張り詰めた日々が、ずいぶん遠く感じられた。
「ボク、お父さんみたいな刑事になりたい!」
ミートソースで口元を赤くした健太が、目を輝かせる。
新藤はフォークを止め、軽く肩を竦めた。
「やめとけ。お母さんもそう思うだろ」
「あら、私は別に構わないわよ」
恵梨香がおどけたように笑う。
「あなたが私たちを本当に大事にしてくれてるってわかったから」
「おいおい……」
新藤は照れくさそうに頭を掻き、恵梨香から目を逸らした。
七か月前、こんなふうに三人で食事をする日が来るとは思っていなかった。
崩壊寸前だった家族はあの震災を境に、ぎこちないながらに再生の道を歩き出している。
「やっぱりお父さんみたいになるのはおすすめしない」
新藤はナプキンを取り、息子の口元を拭いてやる。
「どうして?」
「お父さんは刑事失格だからな」
困ったように笑いながら、健太の頭を軽く撫でた。
宮永晴が療養施設へ送られて少し経った頃、新藤は何度も捜査報告書を読み返していた。
全ての謎は解けた。
そう結論づけたはずだった。
森田には考えすぎだと笑われたが、それでも小さな棘が刺さったような――妙な引っ掛かりを覚えていた。
きっかけは、鑑識の記録だった。
川成明日香が提供したキャンプの記念写真。そこにわずかな加工痕があると記されていた。
ただし内容は晴の瞳の赤目修正。通常なら問題にもならない。
しかし過去の事件で瞳に反射した景色から、被害者の住所が特定された事例がある。
もしも隠したかったのが赤目ではなく、瞳に映った何かだったとしたら?
そしてその『何か』が、実在しないはずの少女の姿だったとしたなら――
記憶を辿る内に、もう一つの違和感が浮かび上がる。
宮永茉莉を聴取する時に訪れた、桜松丘の別邸。
中はひどい有様だった。
ごみ袋と空き缶に埋もれたリビング。
そのテーブルの上に置かれた、買ってきたばかりのコンビニ袋。
あの中に入っていた弁当は、本当に一人分だったか。
いや、二つ。
確かあの時、二つあった。
そう気づいてしまえば、もうじっとしていられなかった。
新藤は独断で、空野ことりが実在した証拠を探し始めた。
けれど宮永家本宅は津波で流されてしまっている。
物証は何も残っていない。
そもそも本名すら不確かな家出少女だ。
捜査はすぐに行き詰まる。
唯一残っていたのは、花火大会の日の商店街の防犯カメラ映像だった。
屋台が並び、たくさんの見物客が行き交う夜。映像は奇跡的に、商店街が管理するクラウド上に保存されていた。
新藤は商店街の会長に頼み込み、有休を取ってまで画面を確認し続けた。
何万人もの人混みの中から、たった二人を見つける。
到底無理だと、最初は思った。
けれど四日目。
新藤は、見つけた。
射的の屋台の前に立つ、―――――を。
「お父さん、ぼーっとしてどうしたの?」
健太の声に、新藤ははっと現実へ戻った。
軽く頭を振り、すぐに笑顔を浮かべる。
「なんでもない。ちょっと考え事してただけだ」
新藤は息子の頭をもう一度撫でる。今、手のひらから感じるぬくもりは、本当なら七ヶ月前に失われていたはずかもしれない命。
新藤が息子を守れたのは、ことりの未来予知があったから。
たとえそれが、自分の信条に反することだとしても。
(これが俺にできる、せいいっぱいの礼だ)
ショッピングモールの外では、桜の花びらが風に乗ってゆるやかに散っていた。
◇◆◇
星追市の海岸沿いは、暖かな日差しに包まれていた。
その遊歩道を、フードを深く被った少女が歩いている。
髪はばっさり短く切られ、サングラスのせいで顔立ちはよく見えない。スポーティーなショートパンツにスニーカー。腰のベルトループには、小さなキーホルダーが揺れていた。
人々が散歩する中、白いポメラニアンを連れた男性が、すれ違いざまに足を止める。
「あ、こんにちは」
「こんにちは」
少女も立ち止まった。
白いポメラニアンが足元で尻尾を振る。
少女はしゃがみこみ、その頭をよしよしと撫でた。
「元気だった?」
犬は答える代わりに、さらに激しく尻尾を振った。
男性は何も尋ねない。
少女も何も語らない。
「それじゃ、また」
「はい。また」
二人と一匹は、何事もなかったように別れた。
海の向こうでは、飛行機雲がまっすぐ空を横切っていた。
◇◆◇
星追岬の先に、晴は一人で立っていた。
全てが始まった場所。
全てが終わった場所。
潮風が頬を撫でる。あの日とは違う、やわらかな春の風だった。
晴は大きく息を吸った。
震災で失ったものはあまりにも大きい。
父を亡くし。親友を亡くし。自分を支えていた幻影を失くし。
悲しみは癒えるどころか、日を経るごとに増し。
心の傷跡は一向に塞がらず、今もなお真っ赤な血が流れ続けている。
それでも、生きる。
もう救世主はいない。
誰かに救ってもらう夢は終わった。
これからは自分の足で歩かなければならない。
その時、背後で砂利のこすれる音がした。
晴はゆっくり振り向く。
そこに誰かが立っていた。
晴の口元に、柔らかな笑みが浮かぶ。
そして――
【了】
これにて「救世主の恋人」は完結です!
お付き合いくださった皆様、ありがとうございました!
お気に召しましたら、ブクマ・評価などをお願い致します!




