↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
35/35

エピローグ



 桜がもうすぐ散りきる、暖かな午後だった。

 少年Aこと宮永晴は、半年を過ごした療養施設を退院した。

 玄関ロビーは静かだった。職員が数人、形式的な見送りをしてくれたものの、晴を迎えに来る家族はいない。海外にいる祖父母とは何度か連絡を取ったが、今日は来られないと聞いていた。

 それ自体は構わない。ただガラス張りの自動扉の向こうに見える景色が問題だった。

 門の外には、カメラを構えた記者らしき影がいくつもある。道路の反対側にも、スマホを手にした野次馬が集まっていた。裏口のほうにも人がいると、さっき職員が困った顔で教えてくれた。

 そしてその場で立ち止まった晴の肩を、誰かが軽く叩いた。



「よう、久しぶり」



 振り返った先には、新藤衛が立っている。

 晴は目を見張った。




     ◇◆◇




 業者専用の通路を抜け、地下駐車場へ出る。そこに停めてあったミニバンへ乗り込むと、新藤は迷いなくハンドルを切った。

 車は療養施設を離れ、春の光の中へ流れ出ていく。



 震災から七か月近くが経っていた。

 星追市は少しずつ日常を取り戻している。駅前のコンビニには灯りが戻り、仮設商店街には昼時になると列ができる。制服姿の学生も、買い物袋を提げた老人も、以前よりゆっくりではあるが、それぞれの生活へ戻ろうとしていた。

 けれど海沿いへ向かう道路には、まだ立入禁止のフェンスが残っている。

 更地になった住宅街の隅には、色褪せた花束が置かれていた。剥き出しの地面に、誰かが手を合わせている。

 街は生きていた。

 けれど失ったものを、忘れたわけではなかった。







「しばらくは、まだ注目されるだろうな」


 新藤が前を向いたまま口を開く。

 後部座席に座る晴は、膝の上で手を握った。


「……すいません」

「何せお前は世間を騒がせた大戦犯だからな。難儀なこった」

「新藤さん、今日はどうして……」

「たまたま非番だった」


 それだけ告げると、新藤は再びハンドルを切り、急に脇道へ入った。後ろからついてきていた車を撒くように、大きく回り道をする。







 空野ことり殺害事件の真相は、日本中に衝撃を与えた。

 殺人の実行犯とされた少年Aは、解離性同一性障害を患っていた。空野ことりは少年が作り出した別人格であり、実在の少女ではなかったと発表された。

 ただし未来予知については違う。

 公式には少年AがAIで作った予測プログラムが、災害情報、地殻変動、気象データ、ネット上の微細な兆候を偶然組み合わせ、天文学的な確率で的中したという扱いになった。

 星追署だけではない。もっと上の、そのさらに上の上からの指示だったらしい。

 これ以上、未来予知などという不確かなものに国民を振り回させない。

 それが政府の判断だった。


 そして晴自身もこの半年、療養施設で一度も未来を見なかった。

 頭痛も、耳鳴りも、幻覚も、以前よりずっと少なくなった。

 宇崎礼一から処方されていた薬を断ち、専門医の治療を受け、晴の世界は少しずつ静かになっていった。


「薬を飲まなくなったおかげだろう。もう悪夢に悩まされずに済む」


 新藤の口ぶりは、どこか他人事のようだった。

 晴は自分の手のひらをじっと見る。


「そう……ですね。多分、あの震災の時に全部使い切ったんだと思います」

「ん?」

「俺が持っていたもの、全部」


 信号が赤に変わる。

 車が停まり、新藤はルームミラー越しに晴を見た。

 退院は許された。けれど特別な監視が完全になくなったわけではない。

 少年Aという記号は、これからも晴について回ることになるだろう。


「祖父と祖母が、海外に来ないかって言ってくれてます」

「行くのか」

「多分。日本にいるよりは、ましでしょうから」


 青信号に変わり、車が再び走り出した。

 ほとぼりが冷めるまで、晴は普通に街を歩くことも難しい。誰かに指をさされ、スマホを向けられ、ネットでも噂される。

 それが罰だというのなら、受け入れるしかない。




 しばらくして、車は星追岬に近い道で停まった。

 津波の被害を受けた沿岸部は、瓦礫こそかなり片づいているものの、まだ更地が多い。岬へ続く道も一部は封鎖され、人の気配は少なかった。


「じゃあな」

「ありがとうございました」


 晴は車を降り、深く頭を下げた。

 新藤は窓を閉めかけて、ふと手を止める。



「宮永」

「……はい」

「お前はよくやった」

「え?」



 晴が反射的に顔を上げる。

 新藤は視線を合わせず、前を向いたままだった。





「よく騙しきった」





 その瞬間、晴の呼吸が止まった。

 それまで静かだったはずの脈拍が一気に急上昇する。

 ぎこちなく視線を動かせば、ルームミラーにぶら下がるものが目に入る。

 それは――




 メロンメロンちゃんのキーホルダー。




 新藤にはあまりに似つかわしくない、子ども向けキャラクターの小さな飾りだった。


「し、新藤さ……」

「もう会うこともないだろう」


 短く言い残し、新藤は車を出した。

 逆に晴は驚愕の表情のまま、その場に立ち尽くす。

 遠ざかっていく車体がゆっくりと、輪郭をぼやけさせながら春の光に溶けていく。

 不意にじん、と目元が熱くなり、晴は震える息を押し殺した。

 ただただ遠ざかる車に向かって、深く頭を下げ続けた。




      ◇◆◇




 川成明日香は震災の二か月後、母方の実家がある北海道へ引っ越した。

 受験生には厳しい環境の変化だったが、彼女は見事国立大学に合格した。

 今は女子大生として、慣れないキャンパスを歩いている。


 その日、明日香は人の流れから外れ、噴水前広場のベンチに腰を下ろしていた。

 スマホを開く。

 今日は宮永晴の退院日だと、ある人物から事前に知らされていた。

 画面には、たった五文字のメッセージが届いている。



『ありがとう』



 明日香はそれを確認し、すぐにメッセージを消した。

 送り主のアドレスも消去する。

 まっすぐ顔を上げ、春の青空を仰いだ。

 目の奥が熱くなる。けれど泣かなかった。

 泣いてしまえば、隣にいるはずの人が困ったように笑うだろうから。



「約束、守ったよ」



 明日香は背筋を伸ばし、スマホを鞄にしまった。

 そして再び、人の流れに向かって歩き出した。




     ◇◆◇




 仮設商店街の一角に、小さな弁当屋ができていた。

 昼時になると、作業着姿の男たちや役所帰りの職員が列を作る。

 湯気の立つ味噌汁。揚げたての唐揚げ。炊きたてのご飯の匂い。

 宮永茉莉は店の奥で白い三角巾をかぶり、ぎこちない手つきで弁当を袋に詰めていた。



「あ、ありがとうございました……!」



 声はまだ小さい。客と目が合う度に心臓がばくばくするし、釣り銭を渡す指は震え、混雑するとすぐに顔が真っ赤になる。

 それでも茉莉は逃げなかった。

 二十五年以上、家の中に閉じこもっていた彼女は、ようやく自分の足で社会とつながろうとしていた。


「宮永さん、今日は上がりでいいわよ」

「あ、はい。お疲れさまでした……!」


 制服を脱ぎ、帰り支度を始める。

 スマホを確認すると、立ち上げたばかりのAIチャンネルの通知が目に入った。



『みんな、今日は星追市の復興がどこまで進んでいるかリポートするよ!』



 画面の中では、茉莉に少し似た丸っこいアバターが元気よく手を振っている。

 登録者はまだ少ない。コメントも片手で数えられるほどしかない。

 それでも誰かの役に立つこと。

 誰かとつながること。

 その意味を、茉莉は誰よりも知っていた。

 帰り際、茉莉は店の奥へ顔を出す。


「あの、余ったお弁当……買っていってもいいですか」

「いつも通り二つ?」


 店長が慣れた様子で弁当を取り出す。

 茉莉は少しだけ迷って、それから嬉しそうに笑った。



「今日は三人前でお願いします!」




    ◇◆◇




 晴を星追岬の近くで降ろした後、新藤は県外のショッピングモールへ向かった。

 妻の恵梨香と、息子の健太が待っていた。

 三人でフードコートの端に座り、久しぶりにゆっくり食事を取る。

 震災直後の張り詰めた日々が、ずいぶん遠く感じられた。


「ボク、お父さんみたいな刑事になりたい!」


 ミートソースで口元を赤くした健太が、目を輝かせる。

 新藤はフォークを止め、軽く肩を竦めた。


「やめとけ。お母さんもそう思うだろ」

「あら、私は別に構わないわよ」


 恵梨香がおどけたように笑う。


「あなたが私たちを本当に大事にしてくれてるってわかったから」

「おいおい……」


 新藤は照れくさそうに頭を掻き、恵梨香から目を逸らした。

 七か月前、こんなふうに三人で食事をする日が来るとは思っていなかった。

 崩壊寸前だった家族はあの震災を境に、ぎこちないながらに再生の道を歩き出している。


「やっぱりお父さんみたいになるのはおすすめしない」 


 新藤はナプキンを取り、息子の口元を拭いてやる。


「どうして?」

「お父さんは刑事失格だからな」


 困ったように笑いながら、健太の頭を軽く撫でた。











 宮永晴が療養施設へ送られて少し経った頃、新藤は何度も捜査報告書を読み返していた。


 全ての謎は解けた。

 そう結論づけたはずだった。

 森田には考えすぎだと笑われたが、それでも小さな棘が刺さったような――妙な引っ掛かりを覚えていた。



 きっかけは、鑑識の記録だった。

 川成明日香が提供したキャンプの記念写真。そこにわずかな加工痕があると記されていた。

 ただし内容は晴の瞳の赤目修正。通常なら問題にもならない。

 しかし過去の事件で瞳に反射した景色から、被害者の住所が特定された事例がある。

 もしも隠したかったのが赤目ではなく、瞳に映った何かだったとしたら?

 そしてその『何か』が、実在しないはずの少女の姿だったとしたなら――




 記憶を辿る内に、もう一つの違和感が浮かび上がる。




 宮永茉莉を聴取する時に訪れた、桜松丘の別邸。

 中はひどい有様だった。

 ごみ袋と空き缶に埋もれたリビング。

 そのテーブルの上に置かれた、買ってきたばかりのコンビニ袋。

 あの中に入っていた弁当は、本当に一人分だったか。

 いや、二つ。

 確かあの時、二つあった。





 そう気づいてしまえば、もうじっとしていられなかった。





 新藤は独断で、空野ことりが実在した証拠を探し始めた。

 けれど宮永家本宅は津波で流されてしまっている。

 物証は何も残っていない。

 そもそも本名すら不確かな家出少女だ。

 捜査はすぐに行き詰まる。




 唯一残っていたのは、花火大会の日の商店街の防犯カメラ映像だった。

 屋台が並び、たくさんの見物客が行き交う夜。映像は奇跡的に、商店街が管理するクラウド上に保存されていた。

 新藤は商店街の会長に頼み込み、有休を取ってまで画面を確認し続けた。

 何万人もの人混みの中から、たった二人を見つける。

 到底無理だと、最初は思った。



 けれど四日目。

 新藤は、見つけた。

 射的の屋台の前に立つ、―――――を。










「お父さん、ぼーっとしてどうしたの?」


 健太の声に、新藤ははっと現実へ戻った。

 軽く頭を振り、すぐに笑顔を浮かべる。


「なんでもない。ちょっと考え事してただけだ」


 新藤は息子の頭をもう一度撫でる。今、手のひらから感じるぬくもりは、本当なら七ヶ月前に失われていたはずかもしれない命。

 新藤が息子を守れたのは、ことりの未来予知があったから。

 たとえそれが、自分の信条に反することだとしても。



(これが俺にできる、せいいっぱいの礼だ)



 ショッピングモールの外では、桜の花びらが風に乗ってゆるやかに散っていた。




    ◇◆◇



 星追市の海岸沿いは、暖かな日差しに包まれていた。

 その遊歩道を、フードを深く被った少女が歩いている。

 髪はばっさり短く切られ、サングラスのせいで顔立ちはよく見えない。スポーティーなショートパンツにスニーカー。腰のベルトループには、小さなキーホルダーが揺れていた。

 人々が散歩する中、白いポメラニアンを連れた男性が、すれ違いざまに足を止める。


「あ、こんにちは」

「こんにちは」


 少女も立ち止まった。

 白いポメラニアンが足元で尻尾を振る。

 少女はしゃがみこみ、その頭をよしよしと撫でた。



「元気だった?」



 犬は答える代わりに、さらに激しく尻尾を振った。

 男性は何も尋ねない。

 少女も何も語らない。


「それじゃ、また」

「はい。また」


 二人と一匹は、何事もなかったように別れた。

 海の向こうでは、飛行機雲がまっすぐ空を横切っていた。




    ◇◆◇




 星追岬の先に、晴は一人で立っていた。

 全てが始まった場所。

 全てが終わった場所。

 潮風が頬を撫でる。あの日とは違う、やわらかな春の風だった。



 晴は大きく息を吸った。

 震災で失ったものはあまりにも大きい。

 父を亡くし。親友を亡くし。自分を支えていた幻影を失くし。

 悲しみは癒えるどころか、日を経るごとに増し。

 心の傷跡は一向に塞がらず、今もなお真っ赤な血が流れ続けている。



 それでも、生きる。

 もう救世主はいない。

 誰かに救ってもらう夢は終わった。

 これからは自分の足で歩かなければならない。



 その時、背後で砂利のこすれる音がした。

 晴はゆっくり振り向く。

 そこに誰かが立っていた。

 晴の口元に、柔らかな笑みが浮かぶ。




 そして――





【了】






これにて「救世主の恋人」は完結です!

お付き合いくださった皆様、ありがとうございました!

お気に召しましたら、ブクマ・評価などをお願い致します!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。