30話 事情聴取:川成明日香
宇崎礼一の事情聴取から、一夜が明けた。
翌朝、新藤と森田は再び署を出て、裏取り捜査へ向かっていた。
まず訪ねたのは、桜松丘にある宮永家の別邸だった。しかし宮永茉莉はあいにく留守だった。
「また空振りですか」
森田が肩を落とす。
「仕方ない。次に行く」
「次って?」
「川成明日香だ」
宮永晴の供述に何度も出てきた、星追高校三年の生徒会副会長。
松木陽葵と親しく、震災後には空野ことりへ怒りをぶつけた少女。
晴の周囲を知る人間の中で、いま話を聞ける数少ない関係者だった。
新藤たちが訪ねたのは、中ノ山地区にある老人ホームだった。
今は避難所として開放されており、ロビーには段ボールで仕切られた簡易スペースが並んでいる。川成明日香はそこで物資の仕分けを手伝っていた。
長めの髪をひとつに結び、腕まくりをして、段ボールの中身を手早く分類している。恋していた相手を亡くした少女には見えないほど、動きに無駄がなかった。
「川成明日香さんだな」
新藤が声をかけると、明日香は顔を上げた。一瞬警戒の色が瞳に浮かぶが、すぐに段ボールを閉じ、こちらへ歩いてきた。
「もしかして警察の方? 宮永くんのことでしょうか」
「話が早くて助かる」
「ここだと人が多いので、屋上でもいいですか」
明日香はそう告げ、階段へ向かった。
老人ホームの屋上には、洗濯物が何本ものロープに吊るされていた。白いタオルが風に揺れ、その向こうに、まだ瓦礫の残る街並みが見える。
空だけは妙に青く、吹く風もさわやかだ。
「お話って何でしょう?」
凛と、新藤たちに向き直る。話に聞いた通り、聡明そうな少女だ。
背筋は伸びている。言葉遣いも落ち着いている。
けれど目元には、眠れていない者特有の影があった。
「まず宮永晴とガクトについて聞きたい」
「……ガクト、ですか」
「ああ」
「どこまでお調べになったんですか」
「ガクトは実在しない。宮永晴が作り出したイマジナリーフレンドだった」
「……」
明日香は驚かなかった。
それは、つまり。
「君も、知っていたんだな」
「はい」
「いつからだ」
「私が知ったのは夏休み前です。松木くんに頼まれました」
松木くん。
その名前を口にした途端、明日香の顔がわずかに崩れた。
「宮永くんがガクトと話している時は……そこにいるように振る舞ってほしいって」
「松木陽葵も知っていたんだな。宮永晴の異常を」
「はい」
「いつからだと思う」
「最初から、だと思います」
「最初?」
明日香はゆっくり頷いた。
「キャンプの夜に、松木くんが話してくれました。『晴は俺の恩人なんだ』って」
新藤と森田は黙って続きを待った。
明日香は少しだけ遠くを見た。
屋上の向こうにあるのは、避難所の街ではない。
もう二度と戻らない夏の夜だった。
◇◆◇
「ねえ、松木くん」
みんなが寝静まったキャンプ場で、明日香はひとり丘に出ていた陽葵に声をかけた。陽葵はレジャーシートの端に腰を下ろし、空を見上げていた。
「川成先輩? 寝ないんですか」
「あなたこそ」
「俺はちょっと、星を見てました」
「思ったよりロマンチストなんだ」
「うわ、先輩に言われると、なんか恥ずかしいですね」
明日香は隣に座り、同じ空を見上げた。
星が多い。街中では見えないほど、細かな光が夜空に散っている。
「あのさ、聞きたいことがあるんだけど」
「はい」
「なんで松木くんは、そんなにまでして宮永くんを守ってるの?」
『どうか晴がイマジナリーフレンドと話している時は、そこに彼らがいるように話を合わせてやってほしい』
そんなとんでもないお願いをされた時は、本当に驚いた。
正直、なぜ自分がそんな茶番に付き合わなければならなのかとさえ思った。
「宮永くんのためを思っているのはわかる。でも見えていないものを見えていることにしてあげるのが、本当に正しいことなのかはわからない」
陽葵は黙ったまま、膝の上で両手を組んだ。
余計な口出しをするなと怒りだすかと思ったが、明日香の言葉はまっすぐに届いたようだ。
「実は俺も、わからないです」
「……」
「多分、正しくはないんだと思います」
そう答えてから、陽葵はおもむろに脇に置いていたスマホを明日香に差し出す。
画面には、小さな女の子の写真が映っていた。
色白で、くるくるの髪。フリルの多いワンピースを着て、大きなリボンをつけている。幼いながらも顔立ちは整っていて、まるで人形のようだった。
「あら、優愛ちゃん? かわいい」
「いや、俺です」
「えっ」
「笑っちゃうでしょ。うちの母親、かなり少女趣味で。どうやら本当は女の子が欲しかったらしくて、小学校低学年くらいまで俺は着せ替え人形でした」
そう笑う陽葵はどこかおどけて、どこか悲しげだった。
「しかも昔の俺、すごいチビで。顔も今よりずっと女の子っぽくて。男子からはナヨナヨしててキモいって言われて、女子からはなぜか睨まれて。子どもながらに、けっこうきつかったです」
「……そう」
「今だから笑って話せますけど。当時は学校行くのも嫌でした」
明日香は何も言えなかった。
陽葵のような少年にも、そんな過去があるなんて意外だった。
「でも小三の時、晴が転入してきたんです」
「宮永くんが?」
「はい。あいつもなぜかクラスで浮いてました。政治家の息子っていうのもあったと思うけど……それだけじゃなくて」
陽葵は一度言葉を飲み込み、それから遠い昔を懐かしむようにつぶやいた
「晴、その頃からガクトと話してたんです」
「……」
「もちろん周りには見えてない。だから気味悪がられてました。ひとりで何かぶつぶつ言ってる。変な奴だって」
それはそうだろうと、明日香は口に出さないまでも思う。
「でも俺には違ったんです。晴は俺の見た目をからかわなかった。女みたいだとも、気持ち悪いとも言わなかった。俺と、晴と、見えないガクトと。三人で給食の話をしたり、帰りにどこに寄り道するか相談したり、くだらないことで笑ったりして」
星明かりの下で、陽葵の横顔がやわらいだ。
「普通の友達みたいで、楽しかったんです」
「……」
「多分、晴も傷ついてたんだと思います。だから俺たち、似た者同士だったんでしょうね」
「俗にいうシンパシー、ってやつ?」
「多分、それです」
陽葵は照れたように笑った。
その笑顔でわかってしまった。
彼は本当に宮永晴が好きなのだ。
同情でも、義務感でもない。かつて救ってくれた友達を、今度は自分が守りたいと思っている。
「だから晴の隣にガクトがいるのは、俺にとってはもう当たり前で。俺が話を合わせれば、周りから晴がひとりで喋っているようには見えないでしょう?」
「そこまで気を遣ってるんだ」
「まあ、昔からの癖みたいなものです」
「でもそれって本当に宮永くんのためになる?」
「……」
明日香の冷静な問いに、陽葵は再び押し黙った。
彼は膝の上に置いたスマホを見つめたまま、少しだけ項垂れる。
「わかってます。いつかはちゃんと現実を見てもらわなきゃいけない」
「……」
「でもあと少しだけ待ってほしいんです」
「あと少し?」
「晴、最近やっと変わってきたんです。なんかすごく明るく笑うようになったっていうか、それがたとえ今だけだとしても――」
「……うん、わかった」
明日香はそこで陽葵の言葉を遮った。
陽葵に最後まで弁明させるのは、なんだかかわいそうだと思ったのだ。
「もう少しだけ、あの人たちが見えてるふりをすればいいんでしょ」
「なんか、共犯者にしちゃってすみません」
「ホント、いい迷惑」
明日香はそっぽを向いた。
わざと冷たい口調にしたのに、陽葵はなぜか嬉しそうに笑う。
「なんだかんだ言って、先輩優しいですよね」
「そんなことない」
「ありがとうございます。これからも俺の共犯者でいてほしいです」
不意に、陽葵の手が明日香の手に触れた。
逃げようと思えば逃げられた。
けれど指先は動かなかった。
陽葵の手は、思っていたより大きくて……熱かった。
「べ、別に、お礼を言われることじゃ――」
そう言い終える前に、突然唇に熱が触れた。
ほんの短い口づけ。
何が起きたのか理解するまで、明日香は数秒かかった。頭の中が真っ白になり、心臓だけがばくばくとうるさい。
夜空の端を、流れ星が落ちていく。
陽葵は照れくさそうに笑っていた。
「俺、先輩のこと好きです」
それからのことは、もうよく覚えていない。
怒った気もする。
何を勝手に、と責めた気もする。
けれどつないだ手は最後まで離さなかった。
それはもう今となっては星のように遠い――夏の夜の出来事だった。
◇◆◇
話し終えた明日香の頬を、一筋の涙が伝っていた。
彼女はすぐに袖で拭った。泣いたことさえなかったことにするような、乱暴な拭い方。
森田は隣で鼻をすすっている。
「すみません……思い出させちゃって」
「謝らないでください。こんなの、みんな同じですから。誰かを亡くしたのは私だけじゃありません」
目元は赤い。それでも明日香の背筋はまっすぐだった。
一方、新藤は眉根をきつく寄せ、深く考え込んでいる。
明日香の証言を聞くうちに、強烈な違和感を覚えたのだ。
「ちょっと待て、『彼ら』? 『あの人たち』?」
「え?」
「なぜ複数形で話す?」
「――」
今聞いたばかりの明日香の証言を、反芻する。
『どうか晴がイマジナリーフレンドと話している時は、そこに彼らがいるように話を合わせてやってほしい』
『もう少しだけ、あの人たちが見えてるふりをすればいいんでしょ』
松木陽葵は川成明日香に懇願した。
そして彼女はそれを快諾した。
けれど二人とも、晴の『イマジナリーフレンド』を複数形で呼んだ。
つまり、それは。
――ガクト以外にも、イマジナリーフレンドが別にいた……ということか?
明日香もまた、新藤の意図がわからない、という風に怪訝な表情を浮かべた。
今度は明日香のほうから、質問する。
「あの……刑事さんが言ってるのは、宮永くんがイマジナリーフレンドを心の支えにしてるって話ですよね?」
「そうだ。ガクトという名の……」
「あ、そうか。そういうことですか」
そこでようやく思い至った……という風に、明日香は視線を左右に彷徨わせた。
唇をもつれさせ、何から話したらいいかと言い惑う。
「私、本当にもう関わりたくないんです」
「ああ。だが、君は俺たちの知らない事実を知っている」
「……知っているというか、刑事さんたちも当然知っているものだと思っていました」
「え? え? どういうことですか?」
森田が二人を見比べ、頭の上に疑問符を浮かべている。
一方、新藤の脳内には、ある一つの仮説が浮かんでいた。つい昨日までの捜査を、根本からひっくり返すある一つの仮説が。
「詳しいことは、宮永くんの叔母さんとかいう人に聞いたほうがいいと思います」
「宮永茉莉だな」
「私は会ったことないですけど」
「え?」
森田が素っ頓狂な声を上げる。
いや、おかしい。明日香は夏休みの間、陽葵と一緒に宮永家に通っていたはずだ。茉莉のことをエンジニアの先生として慕っていたはずなのに。
だがそうしている間にも、明日香は自分のスマホを取り出し……迷いながら画像フォルダを選択する。
「私、『空野ことり』を恨んでるんです。もうこれっきりにしてください」
そうして明日香が差し出したのは――一枚の写真。
おそらくキャンプの最後の日に撮った記念写真だろう。
木々の緑を背に、幼い優愛が満面の笑みでダブルピースをしている。
陽葵はそんな妹を抱き上げ、少し得意げに笑っていた。
その隣に、自撮り棒を持った宮永晴がいる。
ぎこちないが、確かに笑っている。今の取調室で見せる虚ろな顔とはまるで違う、年相応の少年の顔だ。
少し離れた場所に、明日香も立っていた。
照れくさそうに視線を逸らしながらも、口元はわずかに緩んでいる。
幸せそうな写真だった。
そして新藤と森田.は、信じられないという顔で画面を凝視する。
優愛。
陽葵。
晴。
明日香。
何度見ても、そこに写っているのは四人だけ。
空野ことりの姿は、どこにもなかった。




